研究のすすめ
白井 昭
電鉄技術史の幅広い研究の仲間になりませんか?
アメリカには多くの「電鉄技術歴史協会」があり、かなりの成果を上げているが、日本もこれに近づきたいところです。
例えば、ドラム付きABFやKMC付きのMCMコントローラーなどは制御器として1つの芸術品の観さえあり、面白いです。
■今の私の立場とお願い
私の高齢から考えると、たとえ間違いや欠落が多くても、まずは問題を発掘してより多くの人々や次代の人々に投げかけてゆく(テーマの発掘)の義務があると思っています。
将来は国際的調査がより容易に、深くできるようになるでしょう。従って、現在はテーマはアトランダムでも良いし、詳細より全体の流れを、巧遅より拙速を要する段階と考えられます。
このため、今回のような情報をお送りして、その中の不明点や間違い、参考になる情報のご教示をお願いして、情報の補完を図ってゆきたい。皆様もぜひニューヨークなどで資料や保存品を見てきて、情報を補強して頂くようお願いします。
ニューヨーク地下鉄の本(Jhons Hopkis University
Press)より
白井 昭
- ニューヨークでは1908〜1915年までHV CARとLV
CARが新造された。ハイボルテージとローボルテージで、説明からHV
CARはウエスチングハウス(以下、WH)のHL車、LV
CARはAB車と思われる。
両者はずっと併存して、IRT線ではHL車が1950年代まで使われた。
1908年というと、HLの最初期で、WHからニューヨークへ売り込まれた?
各電鉄とも、HV CARのような特別な呼称を使うことが多いので、便利な一面、それらを知っておくことが必要である。
- これとは別に、一般論としてHLはマスコンの電流が大きいので、600VオールM、10連は無理と思う。MKは5〜6連までか?
一方、バッテリー(32Vなど)のABF、PCはオールMの10〜11連が汎用されていた。M(自動)コントロールは6〜7連の実績あり。
- ME-23、ME-30ブレーキ弁で日本のように100Vなら10連もOKだが、アメリカ式に32Vなどではアーク消しが必要。同じME-23でも日本ではアーク消しが不要。
- NYの最初の全鋼製車は1903年、IRTの電動車とあるが?
- 初期のNYのEMUはSLの客車改造も多く、初めは2扉、転換シートが多かったが、すぐに3扉、セミクロスが主力になった。
初の20m車は1914年のBMT車。片モーターとはいえ、40t弱で軽い。
本格的4扉車の量産は1930のR1形、18m車から。
- NYの10両編成は1913年から。U弁の出現が1913年で、AMUブレーキの宣伝(実地試験の写真入り)にNYの3000系の10連が使われている。
- ME-30ブレーキ弁は1925年に初めて使用とある。よって、セルフラップM-33は1928年頃、ワンマン用M-28は1918年頃などと類推される。
- NYの初期、1900年頃のEMUの制御はMコントロールから、1904年に初めてABに切り替えたとある。これはABが開発されるとすぐにMからABに切り替えたことになる。以後、1904年にPCが出るまでAB(WH)を主力にしたようだが、この間の詳細不明。
- 1914年以降はPCとABFが半々で、線区によりABF重点の線(BMT)もあるが、1930年以降はいつも半々に。
- 1904年のAB以前の情報はスプレーグの電動ドラムの有無についてを含め欠けている。
- アメリカの資料には「N/A」のものが多いが、それ以上に断り無く欠落していることが多いことが問題である。
- NYにおけるGEのコントローラーは、1930年頃までPC10、以後PC15となり、1936年にはPCMを試用している。PCMより前にOCCも試用したが、その後PCMに切り替えたのは貴重な教訓で、戦後量産にはPCMとして好成績を得た。1936年のNY7000系は電制常用となり、ここでKMCが現れたか?と思うがその資料なし。
- 1940年頃のWH社はPCMに対抗する持ち駒が無く、NYの試作競争にはPCCのアクセレーターを使っているが、所詮無理であった。しかしこのことは戦後の量産にABSを開発するための貴重な経験となったと思われる。
- 1934年から始まったNY地下鉄の近代化試作は戦後の新性能車量産のために、GE、WH、NY地下鉄の何れにとっても有用であった。
- その前の1925年の6000形3連接車、1934年には5連接のアルミカー(WH)とステンレスカー(GE)、以後色々作ったが、6000を除き低圧、高速モーター、電制常用、WNやPCCドライブを常用している。
1925年の6000系は釣掛モーター、AMUEブレーキ、PC又はABFコントロールなど全く旧式で、連接化しても重量は重く、3車体×21ユニット作られたが不評であった。
- ワンハンドル(シネストン)は1938年より使用、早い方だが結局NYは戦後もずっと1970年頃まで2本ハンドル(ME-42、43ブレーキ弁)を続け、シカゴやボストンがシネストン又は類型のワンハンドルを多用した。
シカゴは6000系、700両がシネストンであった。
日本のワンハンドルかは1970年代から。NY並に遅かった。
- アメリカの電鉄新技術は、1925年位以降、低圧、高速モーターとWNドライブ、ウオームドライブ、PCMコントロール、PCCコントロール、HSCブレーキなどが使われてきたが、PCCを除き量産とならず、特にNYは6000両以上の大輸送のため安定第一で、日本の電車並みに保守的で、1940年の量産車も釣掛モーター、PC
or ABFコントロール、AMUE自動空気ブレーキと1920年代と大差無かった。これは省電モハ60が実質的に20年前の木造モハ10と大差無いのと似ている。
- 日本でも戦前は国私鉄とも遅れていて、WNドライブ無し、セルフラップ無し、停止用電制常用は大阪市のみ、僅かに阪神のPM、西鉄のPA、名鉄のPB、日立のMMC、阪神ALMなどコントロールのみ進歩が見られたが、全体としては遅れたものであった。
- 戦後は1945年から1954年ころまでアメリカのWN、高速モーターに対し日本は釣掛式低速モーターを用い、電空併用SMEEに対し、日本は電制なしのAREブレーキなど遅れたままであったが、1954年頃から追いついていった。
- NYは長らくSMEEブレーキを使い続け、電気指令にするのは1971年のR44形300両のRT-5ブレーキからである。
ブレーキ弁は20年以上ME-42、ME-43を使い続けたが、これは丸の内線がME-42を、銀座線がME-24で長らく統一していたのに似ている。
以上、NY地下鉄の車両技術史を見て、促成栽培の総括を試みたが、ご意見を賜れば幸いです。
付図:シネストン・コントローラ(加減速度制御)
since1938?
2002年11月20日
白井 昭:
大井川鐵道株式会社顧問,産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
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