帰らざる帰還者といわれたタイメン鉄道のC56形SLが日本へ帰国し、大井川線に蘇ってから十周年を迎える。
このSLが日本で走り始めると間もなく、イギリスより2人の元将校が大井川鉄道へ駆けつけ、C56形SLとの対面を申し入れた。
その一人、G.アダムス中尉の一代記はC56の身の上と同様に興味深いものであった。
彼は若くして名誉ある王室空軍へ採用されれば、将来の生活保持間違いなしと見込んで、難関を突破して就職に成功した。そのときの得意たるや、前途洋々たるものに見えた。
訓練ののち、昭和16年には夢と希望を抱いて、若い将校として東洋の防衛に派遣されることになるが、インド洋を航海中に日米、日英の開戦となり、シンガポール上陸直後イギリス東洋艦隊は全滅、日本軍の同地占領、たちまち名誉ある捕虜となってしまい、やがて運命のタイ−ビルマ鉄道(タイメン鉄道)の建設に酷使されることとなった。
鉄道工事は奥地へと進み、熱病、食糧不足、雨期とあらゆる苦難が襲いかかり、多くの労働者、捕虜が死亡していったが、彼は幸運(強運?)にも生き延びた。
昭和18年、突貫工事によりタイメン鉄道は完成するが、この頃より日本軍の形勢は日増しに悪化−−空襲が続いて、その復旧に追われるようになり、さらには英軍のマレー等への逆上陸も考えられるに及び、日本軍はイギリス、オランダ軍勢等の捕虜を日本へ移送し、労働力として活用しようとした。しかしこれも束の間で、米軍の本土上陸が迫り、さらに満州(現中国東北)へと移送される。
この頃、シンガポール〜日本〜中国大陸の航路は危険千万なものだったが、彼らは幸運にも何とか奉天(瀋陽)へたどり着き、そこで終戦を迎える。
日本が敗戦するであろうことは、既に隠し持ったラジオでは聞いてはいたが、アメリカ空軍機より食料などの投下を受けたときは、これで生命が助かったと本当に感無量であったという。
客船でアメリカ西岸へ、SL列車でアメリカ大陸を横断し、夢に見た母国イギリスへ着いたときの気持ちはどんなものであったろうか。
彼はその後軍人、そして民間人として暮らすことになり、看護婦だった夫人と結婚したが、戦争中の無理のため絶えず病気がちであった。
もちろん日本軍、日本人は聞くのもいやであったが、老境に入りその一生を思うとき、青春の5年間はまさに戦時であり、最大の重いではタイ−ビルマ鉄道であった。
その思い出のC56形SLが日本に帰ると聞いて戦友2名で大井川鉄道へ駆けつけたのであった。
彼らからは、大戦中タイメン鉄道線を行くトヨタのモーターカーの写真(彼らはこれを竹やぶのロールスロイスとニックネームをつけていた)、また木製トレッスル上を行くC56の列車の写真など、貴重な写真を入手することができた。
思うに激動の大戦の中で彼らが生き残り得たことを分析すると、第一に運が良かったこと、それとともにある時は日本人に従い、ある時はごまかし、空襲などで逃げるときはあらゆる知恵を働かせ、機敏に逃げ隠れしている。
すなわち多くの戦友を失っても最後まで自己の生の望みを捨てず、生き残るためのあらゆる努力をしていることである。
一方、SL(C5644)の方は、日本の地方開発の主役としてこれまた夢を抱いて昭和11年より国鉄線で活躍、昭和16年軍用としてインドシナへ渡り、終戦後は連合軍に接収後、タイ国鉄へ払い下げにより、その735号機として30年余り走り続けたのち、日本へ帰国するという数奇な運命を辿っている。
帰国後のC56は煙管などの全取り替えをはじめ、ほとんど新品同様に整備され、今日もますます元気で大井川本線を走っているが、最近ではイギリス人たちとの連絡も絶え、高齢であることから彼らの健康が思いやられるこの頃である。
なお、大井川鉄道ではC56帰国十周年を記念して帰国記念テレカを発行したほか、夏休み中に千頭SL資料館でC56形機には帰国十周年を祝うヘッドサインを取り付けて運転、7月23日にはC56形機を先頭に記念のSL三重連運転を行う予定である。
(交通新聞1989年5月28日掲載)
【写真4の説明】
C56形は、性能が優れ、タイ国において使いやすいSLとして好評を受け、46両が各線で活躍してきたが、ディーゼル化の波により昭和52年をもって、全機が通常業務から去った。
大井川鉄道では昭和53年、タイ国鉄に対しC5644の解体中止を申し入れ、帰国の実現を図った。
C5644は南タイのチュムポン機関区に保管されていた。写真はタイでの最後の有火の姿である。
(C56形SL帰国記念乗車券より 大井川鉄道1979年8月15日発行より)