「挙母線」(ころもせん)は昭和48年(1973) 3月で廃止になった名鉄の一支線で、岡崎市内線
(路面電車)の北の終点大樹寺(だいじゅうじ)から北上して豊田(とよた)市内に至り、名鉄三河線の 上挙母(うわごろも)駅に接続していました。豊田市中心部はかつて挙母(ころも)といったことから「挙 母線」と称されたもので、市名変更後も線名はそのままでした。全長 11 km の単線でした。
筆者自身、通学・通勤のため、この線には長らくお世話になったものです。
この線の途中、豊田寄りに トヨタ自動車の本社および本社工場があり、かつては岡崎・豊田
両方面から通勤客が多数利用していました。しかし、モータリゼーションの進行や、工場の分散 とともに利用者が減っていきました。
挙母線の岡崎側に接続していた名鉄岡崎市内線・福岡線(路面電車)はこの線が廃止され
る 11年前の 昭和37年(1962) 6月で廃止されており、これも当線の閑散化につながりました。
他方、東海道本線岡崎から豊田・瀬戸を経て岐阜県多治見(たじみ)に至る国鉄「岡多線」が建
設されることになり、挙母線の存続は岡崎―豊田間がダブルトラッキング(同一区間に 2本の 鉄道が走ること)になること、その途中計画線が短区間ではあるが当線と重なる部分があり、 新線工事の本格化を前に敷地を明け渡さなければならないという事情もありました。
挙母線の前身は、東海道線岡崎駅前から北上して岡崎中心部を通りさらに北方へ線
路を延ばしていた「岡崎電気軌道」で、岡崎駅前から井田(いだ)までは“軌道線”、井田以北は 専用軌道の“鉄道線”(郡部線と呼んだ)として建設され、線路は門立(もだち)に達していて、さら に北部の足助(あすけ)への延長を目論んでいました。
当初は路面電車が通して走っていたが、のちに井田から1駅だけ鉄道線に入った大樹寺で路
面電車から郊外線の電車にに乗り換えるようになりました。
岡崎電軌が三河鉄道に吸収合併された後、郡部線の途中の三河岩脇(みかわいわわき)から分
岐して三河鉄道三河線の上挙母(うわごろも)に結ぶ新線が開通しました。
完成した 大樹寺−上挙母間は三河鉄道「岡崎線」と称しましたが、三河鉄道がさらに名鉄に
合併されたのち「挙母線」と改められました。
元の岩脇以遠は門立支線となりましたが、盲腸線のため追って廃止になりました。
名鉄本線、同三河線、および同挙母線が、岡崎・知立・豊田を結んで三角形をなしていたわけ
です。
大樹寺駅構内の架線電圧は全面的に路面電車用の 600 V となっていました。接続している
挙母線(1500 V)の電車や電気機関車は複電圧車ではなかったので構内では正規の出力が 出ず、あまつさえ車内灯・前照灯とも直列点灯式だったので、構内では灯りがすべてボーッとし ていました。のろのろと発車して構内を出たところで架線絶縁部があるため一瞬灯りが消え、次 の瞬間に正規の明るさになり、ノッチオンとともに勢いよく走り出すのでした。
挙母線の跡はかなりの部分が生活道路または農道として残っており、はっきり跡をたど
ることができます。熔断された架線柱の根元や、散らばったバラスト(砕石)も各所で認められま す。
廃線跡を南からたどりますと:―
△大樹寺駅の駅舎跡と駅前広場は名鉄バスの待合所およびバスの回転場となっており、他
方、線路敷は一般駐車場となっています。現「ホテル・レクワールド岡崎」の裏手にあたります。
バス乗り場と駐車場との間に見られる 1 m ほどの段差は、駅舎に接していた片面プラットホ
ームの跡です。
△大樹寺−岩津間に、かつて「百々」(どうど)という駅がありました。
△青木川を渡る鉄橋は、現・県道39号「青木橋」の西側 約 30 m の位置に平行して架かって
いましたが、今は跡形もありません。橋の南側の線路跡は工場などが建ち、消えてしまいまし たが、橋の北側は県道39号と平行する 電柱が立ち並んだ路地として残っています。
△岩津(いわづ)駅は、現・岩津郵便局の北に、玄関が東を向いて建っていました。近くにある岩
津天神の参詣駅だったため、寺院建築を模した優美な玄関屋根が特徴でした。
△挙母線全体としては比較的線形がよかったのですが、岩津−三河岩脇(みかわいわわき)間にか
ぎっては山裾に沿ってくねくねとカーブしていました。
岩津−三河岩脇間に、かつて「八ッ木」(やつぎ)という駅がありました。
△三河岩脇駅跡は最近まで広く残っていて、草むらの中にプラットホームも一部見えていまし
たが、今は建物が立ってしまって跡形もありません。
△線路はこの先、盛土となって北進し、現・県道39号を跨ぐガーダー橋がありました。その橋台
の石積みが北側だけ最近まで残っていましたが、平成13年から14年にかけて、その先の盛土 や小鉄橋とともに崩されてしまいました。
△細川(ほそかわ)駅の跡は、片面プラットホームの痕跡をとどめています。この駅はかつて「上市
場」(かみいちば)といいましたが、門立支線が廃止されたあと同線にあった細川駅の名をもらって 改称されたもののようです。
△その先、長い鉄橋で矢作川の中流部を渡っていました。川の両側が丘陵地のため、高い橋
脚をもってしてもなお、橋が線路のボトムでした。
橋は取り壊されましたが、南側橋台は残っており、河中には橋脚の跡も見られます。
川の北側に並行する明治用水を渡る橋の橋台も残っています。
△渡刈(とがり)駅前後の一帯は「挙母線跡緑道」として整備されています。土塁になっていた渡
刈駅跡はプラットホームがきれいに再築されて、その上に散策者のための休憩所が待合室風 に作られました。線路跡の舗装は、色違いのタイルを用いて線路を模してあるのはご愛嬌で す。しかし、それがホームの前後で妙に屈曲しているのが鉄道ファンにの目には不自然に見え ます。
△次のトヨタ自動車前駅との間にかつて鴛鴨(おしかも)という小駅がありましたが、早期に廃止さ
れました。路盤跡がやや広くなっているので、あった場所が分かります。
△トヨタ自動車前駅は トヨタ自動車本社および本社工場ができてから開設された駅で、かつて
は通勤客でたいへん賑わいました。かつては「三河豊田」(みかわとよた)と称しました。
駅から工場内への引込み線があり、電気機関車に牽かれた貨車が資材や機械設備を運ん
できました。
この駅跡を含めて前後 500 m の線路敷は、国鉄岡多線(現・愛環鉄道)に転用されました
が、新しい線は複線路盤なので、以前よりも西側に広がっており、かつ高架化・盛土化により以 前よりも数メートル高くなっています。
下の写真は駅の南東のほぼ同じ位置からの今昔比較です。挙母線時代の駅舎は東側にあ
りましたが、岡多線になってからは西側に変わったため駅舎は写っていません。
△上挙母(うわごろも)駅に近づくと右カーブし、三河線と並行して南側から場内に進入していまし た。 現在の愛環鉄道線が三河豊田から北へしばらく進むと線路が緩やかに左に曲がりますが、 その曲がるところまでは挙母線の跡です。高架下から曲がらずに北へ伸びる小道があります が、これが挙母線の跡で、その先、右カーブして上挙母駅構内に消えています。 下の写真が上挙母駅直前で右カーブしていた部分で、手前に 架線柱の基礎が写っていま す。向こうに見える赤い電車は三河線の列車です。写真では見えませんが、この先に駅につな がる線路の一部が今も残っており、保線用車両の留置線になっています。 のうち東寄りのホームに着きました。 ここを発着駅とする挙母線列車はごくまれで、大部分は三河線の豊田市まで、一部はさらに 先の猿投(さなげ)または終点の西中金(にしなかがね)に直通していました。また一部は上挙母でスイ ッチバックして知立(ちりゅう)方面へ直通していました。
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