名鉄アーカイブスを発掘するB

2005年6月10日

白井 昭(中部産業遺産研究会・名古屋レールアーカイブス)

捕虜輸送電車

 昭和17年より毎日,豊橋線の有松裏(現在の有松)−神宮前に描虜(POW)の電車が走った。1060形の単行で車号も決まっていた。
 収容所は有松の日車の寮にあり,帰国の時にはオハ35系の客車が有松裏の側線に入り、熱田から省線に直通した(当時の新聞に写真掲載された)。

殿橋貨物駅

 昭和初年より戦後まで岡崎市電の殿橋東南に貨物駅があり、強力なデワ10がヤネ車(ワ、ワム)を引いて省線岡崎と直結していた。三竜社など繊維会社の貨物が多く、貨物取はいつも貨車(すべてヤネ)で埋まり名鉄東岡崎の貨物に匹敵した。
 昭和20年7月の空襲で全焼後も復旧し、戦後の繊維景気で荷車が集まったが、三鉄が名鉄に合併されたこともあり、昭和27年に貨物は東岡崎に集約され殿橋貨物駅は廃止となり、以後デワ10の活躍も戸崎の側線など半減以下となった。
 写真は殿橋の北行デワで,貨物駅はずっと右にあって電車は駅の前のクロッシングをガタガタと渡ったが配線は不明である。
 駅名は社史でも不祥で,戦中に師客の殿橋停留所が「岡崎殿橋」に変わり、貨物駅を「殿橋」とした可能性もあるが、皆は「殿橋の貨物駅」と呼んでいた。

殿橋上を行くデワ 殿橋貨物駅(全くの推定)

人脈発掘

 今まで分からなかった以上のことが私の生存中に分かり、ひと安心した。私は工学系のため召集を免れでいたが、今80才以上の人は当時応召、野戦にあったため名鉄のことは分からない。しかし要は人脈であり親分子分で、名鉄車両OB会を含め多くの名鉄OB会を頼る必要がある。今回は元鳴海乗務区長の浅井才治氏(82才)に格別のお世話になった。
 しかしオーラルストーリーは誤りも多いので今後の補遺訂正に期待したい。
 戦中は今では想像できない珍事が沢山実在したが,戦争と食う事に一杯でこの種の情報は局地的な一部の人に限られていた。今はその発掘の最後の時(私の命も含めて)と思う.


白井 昭:
名古屋レールアーカイブス会員、産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.


[ 白井昭電子博物館トップへ | 中部産業遺産研究会ホームページ | メールでのご意見・お問い合わせ ]

Copyright 2005 SHIRAI Akira, All rights reserved.