2005年6月10日
白井 昭(中部産業遺産研究会・名古屋レールアーカイブス)
稲沢の6250形SLは戦争中、西部線と西尾線の貨物列車を引いていた。
西部線では甚目寺飛行場建設のためSLの引く貨物列車をほぼ毎日運転していた。
この列車は東海道線(発地不明)一宮より名岐線に入り、西枇杷島で機回りして甚目寺へ直行した。甚目寺駅の北側は拡張されたが(後にキハの基地等)引込線はなかった。運転期間は短く昭和19年中に飛行場は完成、月光(夜戦)が配置された。
昭和19年に米津から約2kmに明治飛行場が作られることになり、西尾線のSL貨物列車で引込線建設用を含む土砂、資材の毎日輸送が行われた。
発駅の東幡豆では幡豆石材軌道の立体交点まで側線を敷き、給炭水を設けた。津島と同じくSLと要員は省線より、名鉄側は西尾乗務区が担当した。
道床も完成、米津にレール(旧西尾線?)なども到着した所で終戦となった。
この情報は西尾乗務区OBの加藤好夫氏(79才,当時20才)とその仲間による。
当時の蒲郡線は13、709のSLがキハや貨車を引いたが、その機関庫は西浦で6250とは別であった。キハ6400形2両の計画もあったが実現しなかった。
優等列車用の6250 |
稲沢機関庫の出来た昭和初年より、6250が集中配置され、名港、白鳥、熱田、大曽根など入替は皆6250で、毎日飽かず眺めて馴染み深いSLだった。
その美しい形態と車輪カバーに輝く金筋は、かつての栄光を伝えていた。
戦後の豊橋機関区や、渥美線のイモ列車を引いたりしたが、名門の6250は私鉄に行かず歯医者となった。同形の過熱管のない5500は三岐や名鉄で使われた。
あつたなどの6250の入替は、昭和23年頃からC50、さらにC58に変わった。
白井 昭:
名古屋レールアーカイブス会員、産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
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