12号とN電
〜昭和29年夏、名鉄鳴海工場〜

白井 昭

 かつて、名鉄鳴海工場で12号蒸機とN電が並んだ日があった。1954(昭和29)年はじめ、同工場のタクト作業化(車両の検修を流れ作業で行う)のため、台車洗浄用のソーダバスの熱源として12号を据置ボイラとし、また作業員の仮詰所として90号などN電3輌を充てることになったのである。

■12号蒸気機関車の軌跡

 名鉄12号蒸気機関車は1911(明治44)年に国から尾西鉄道(現・名鉄尾西線)へ譲渡されたもので、もとは1874(明治7)年に輸入された英シャープ・スチュアート製鉄道作業局23号(後の165号)である。
 太平洋戦争前、すでに小牧線を除く西部線(名古屋本線名岐間および接続する各線を指す)は砂利採り線まで電化されていたため、12号は工事用となっていた。しかし、戦争の激化と共に再び出番が増えることになる。1942(昭和17)年頃より蒲郡線の混合列車に709号(1895年英バルカン・ファンドリー製、元鉄道省700形)とともに使われたのである。
 戦後、1947(昭和22)年に蒲郡線は電化された。一方、1948(昭和23)年の名岐間1500V昇圧に伴い、未昇圧の尾西線との接続駅となる新一宮駅での貨車入れ換えに蒸機が必要となった。このため12号が新一宮に配置されることとなった。この時、12号は蒲郡線西浦車庫から名古屋本線を単機自力回送されたが、速きこと風の如く、さすが名機と驚いた。
 新一宮での仕業は1952(昭和27)年の尾西線昇圧で終了、12号は再び失業し、1954(昭和29)年初めより鳴海工場の据置ボイラとして、オンレールのまま給炭台を設けて使用された。同年末には本物のボイラが完成、12号は構内試運転のうえ、1955(昭和30)年2月2日、今度はELの牽引で犬山線岩倉に回送された。12号は速度は速かったものの、当時まだ蒸機の出番が残っていた東名港の重負荷の仕業には不適で、また尾西線森上から伸びていた製紙工場の専用線には立山重工製のC351号が入線しており、やはり12号の出番はなかった。
 この後、私ども鉄道友の会名古屋支部の文化的保存活動により、12号は保存と文化行事の活用を経て、1960(昭和35)年頃より始まった明治村構想に組み入れられることになる。その後、淡路交通から譲り受けたバッファー取付、動態復元を経て1974(昭和49)年から村内での運転を開始、現在に至っている。

■“名古屋のN電”の軌跡

 戦時中の1944(昭和19)年、京都市電から15輌のN電が名古屋市電に来ることになり、4月に西町工場で8輌が組み立てられ、浄心、高辻の両車庫に配置された。小さいのと遅いのとですぐにダンゴ運転化して困ったが、とにかくぶら下がって乗るしかなかった。
 このうち5輌(N90〜N104、空番あり)が戦後すぐに名鉄岡崎市内線へ行き、のちに90〜94に改番、最後までオリジナルのGE800モーターのままで走った。しかし、1954(昭和29)年1月初め廃車と同時に挙母線経由で鳴海へ回送され、ブリル21台車を外して詰所となった。この時、12号と顔を合わせたわけである。
 この後、京都でN電が最後まで残っていた10系統北野線が1961(昭和36)年に廃止され、再び2輌のN電が明治村での保存のため名鉄にやってくることになった。

 このようにして12号蒸気機関車とN電は工場内で約1年間同居していたが、今のように関心を持つファンは少なく、私自身の興味も東海道のEF58あたりに飛んでいた。
 本稿作成にあたり御世話になった名鉄車両OB会の倉知満孝氏にお礼申し上げます。


詰所となったN電。京都から名古屋を経て岡崎市内線に入線、90号となったものである。岡崎では前灯を屋根上に付けていたため、窓下には車号標記のみが見える。
1954年夏 鳴海工場

(RailMagazine 2007年4月号掲載)


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