福井工業高等専門学校数々の思い出
- 武生(仮校舎)で最後、鯖江(新校舎)で最初
教職員宿舎が未完成のため
昭和41年3月31日 武生の仮校舎の宿直室に泊まる(最後の人)
昭和41年4月1日 鯖江市の新校舎の学寮の宿直室に泊まる(最初の人)
当時の電子計算機は、同時に多数の人が、使用できない、時間を予約し、譲り合って使用した
- 電気工学科棟の設計に関わる
赴任した時(まだ20代の若者)、電気工学科の教員は、4名、議論しながら建設予定の電気工学棟を設計を担当した
文部省から出向された校舎敷地内に常駐されていた工事事務所の方と日々、打ち合わせ会議しました
笑い話ですが、電気のコンセントとガスのコンセントの記号を間違えて、図面に書き込んだため、変なところにガスのコンセントが出現したりしました。
- バスケットボール班の顧問
全くのバスケット音痴でした、赴任早々、引き受けることになりました。
練習するために近隣の小中学校の体育館を利用した
バスケットのみならず、いろいろな能力を持った若者が集まったので、高校駅伝の主力メンバーになり活躍したり、高専祭では、演劇にも挑戦しました。
- 京都大学工学部坂井利之研究室へ内地留学留学(大阪万博開催の年)
工学部でも最も優秀な学生が集まるという研究室(坂井利之教授)に、情報音痴、コンピュータ音痴が、放り込まれました。
現在の高度情報化を支える基礎「音声認識」「パターン認識」、「画像入力・出力」、「機械翻訳」、「オートマトン」、「コンピュータハードウェア」等々の当時の最先端研究が
行われていました。私は、「グラフィックディスプレイ」に関わる研究をしました
これが、後の教育分野の利用に関するシステム開発などに繋がりました。
工学部の電気系研究室対抗の野球大会、夏の若狭湾での合宿など、研究室の一員として多くのことを学びました。
助教授で、フランスに一時赴任されておられた長尾真(後に、京都大学総長、国会図書館長などを歴任され、文化勲章も授与された)先生の教えが、私の教育研究に対する原点となりました。
- 高等専門学校情報処理研究胃委員会
東海北陸地区の委員として、参加の機会を得て、全国の情報処理教育に携わる教員と交流をさせてもらった
高専の劣悪な学内ネットワークの更新の予算獲得にも一役買った
高等学校に情報基礎科目として、新しく科目「情報」が儲かられることになり、
インターネットを活用し、高専のカリキュラムの中での情報基礎教育のあり方を議論し、
教育内容の枠組みを決め、新しい教科書を作成・出版し、工学教育協会から「著作賞」を授与された。
後に、学習支援するために、演習問題集も出版した。
年には、福井工業高等専門学校主管で、高等専門学校情報処理研究発表会を開催した。
特別講演講師には、長尾真先生をお迎えし「未来の電子図書館」のお話をしていただいた。
- 地域情報化
高度情報化の波が、地方にも押し寄せ、「地域情報化」の推進が叫ばれた。
この時期、武生市(今の越前市)、鯖江市、今立町、朝日町などの各地域の「地域情報化」のお手伝いをしました。
「地元にケーブルテレビを!」という大きな流れもあり、「丹南CATV」の創設にも少し関わりました。
地域コミュティ放送への期待も高まり、創設された「丹南夢レディオ」(コミュティFM)の番組審議会の委員長もさせていただきました。
これら「地域情報化」の取り組みに対して、「北陸テレコム懇談会会長賞」を授与されました。
- 中世考古学の総合的研究
情報技術の進展が、いろいろな学問分野でも大きく貢献できるようになり、
福井工業高等専門学校も「中世考古学」の分野で、考古学資料の電子化とその活用による研究を分担しました
この研究には、文系の考古学専門家に加えて、の医学、農学、生物学、化学、情報工学、数学など多彩な日本のトップクラスの研究者が参加した
いろいろな専門分野の研究者との交流は、学問の世界の広さや奥深さを知ることとなり、ものの見方など大きなインパクトを受けました