村落の消防組織の社会・歴史的意味を問う

    1995年1月17日におそった阪神・淡路大震災は未曾有の被害をもたらし、災害と
   いう緊急時における対応はもとより、ボランティア活動に見られるような新しい社会組織
   のありかたが国民に問われたのであった。それらのなかで、地域防災組織の枠組みをいか
   にするかということが緊急の課題として提示され、さまざまな議論が行われてきたことは
   いまさら言うまでもないことである。
    その議論の過程で、地域の伝統的な防災組織である消防団組織についても採りあげられ
   たものの、消防団組織をいかにすべきかという議論よりは、消防団員個々の活動実態の報
   告が中心であり、地域防災組織のありかたとの議論に発展するものではなかった。
    現在の消防団員数は発足時の半分とはいえ、およそ百万人を数える地域最大の防災組織
   であり、消火をはじめとして、水難、海難、遭難者の捜索等、その役割はきわめて多方面
   にわたり、しかも、その組織、運営面においても、地域社会とのかかわりはきわめて強い。
    その意味においては、明治時代以来の村落の消防組織と相通じる面が少なくないように
   思われる。戦後、消防団が発足してからすでに半世紀が経過しているが、それを取り巻く
   社会状況は大きく変化しており、しかも制度的疲労も少なくないように思われる。本稿は、
   現在の消防団の原型ともいうべき村落の消防組織について、その特異性や歴史的経緯を明
   らかにすることを主な目的とする(1)。

                      1.はじめに
   村落生活における消防体制
    火災は、自然的災害というよりは人為的災害という性格が強く、村落の対応においては、
   両者間にはかなりの違いが見られた。そのため、火災防止のためには予防体制の徹底が図
   られており、火災が発生した際には「講員中天災地変ノタメ家屋焼失流亡ノ除ハ持弁当ニ
   テ手伝スルモノトス、家屋新築ニ付テハ縄百尋宛寄贈ヲナスコト、手伝ハ本人ヨリ通知ニ
   随テナスコト」(2)からもうかがえるように、一戸一人の出役が原則であった。それに加
   えて、個々人のレベルはもとより、隣組の連帯責任体制が取られている所も少なくなかっ
   た(3)。また、成文化されたきまり以外にも、それぞれの村落には長い間の火災予防の関
   する「言い伝え」(4)も数多く残されており、不文律の慣習として遵守しなければならな
   かった。
    ところで、村落の消防活動において中核的な役割を果たしたのは、若者集団、とりわけ
   若者契約であった。そのため、若者契約の規約には火災にかかわる規定が細部にわたって
   定められていた。(5)しかも、戸主集団である契約講とは火事の予防、鎮火後の後始末、
   さらには喞筒の購入の際の資金の調達方法、火難防止の伝統的な行事のもち方などについ
   ても協議されることが多かった。
    さらに、消火活動に直接従事するというものではないが、「火難除け」のために講組織
   が結成されていることもあった。全国的に広く分布していたものとしては、愛宕講や古峰
   原講、秋葉講等があり、その講のメンバーは家単位の加入を原則とするものの、「トッショ
   リ(隠居層)」が多かった。まわり宿で縁日に飲食を共にしながら火難防止を祈願したり、
   出火元や類焼した家に対して、経済的援助を行うこともあった。明治初期と思われる岩手
   県胆沢郡若柳村の秋葉講中の規約は次のようであった。
    一、議員に火災発生した時は議員から玄米二斗五升づつ出して援助する
    一、議員一同持弁当で三日間手伝う
    一、火災発生した時には最高清酒壱斗を講中預金より払戻し提供すること
    以上のように、火災に対しては村落全体の取り組み体制、すなわち一戸一人の出役と相
   互扶助の原則が貫かれていた。それらに違反した者に対しては、厳しい罰則が課されるの
   が一般的であった。
    (2)「村落の消防組織」研究の現状と課題
    これまでは村落の消防組織の実態解明、とりわけ消防組織と村落とのかかわり、その歴
   史的経緯については、農村社会学をはじめとして隣接諸学問領域においても十分な研究は
   行われてはこなかった。それは村落研究における消防組織の位置づけと密接に関係してい
   る。これまでの採りあげ方としては、村落の消防機能の主たる担い手が「若者」であるこ
   とからして、それらが組織する諸集団、とりわけ若者契約の分析過程において採りあげら
   れており、大別すると次の二つの方向があるように考えられる。
   村落構造分析において採りあげる。
    その際、村落類型論が中心的な命題であるために、若者契約については村落の年序階梯
   制を精緻化する過程において採り上げられ、村落の自治機構の中心である戸主集団とのか
   かわりかた方に比重がおかれてきた。そのため、若者契約の消防機能については、村落の
   警防機能の一つという指摘は行われたものの、その歴史的経過については「明治27年 
   (明治27・2・9)に消防組規則(勅令第15号)が発布され、若者組が伝統的に担っ
   ていた警防的機能も少なくとも公的には喪失せしめられる」(6)という理解に止まるもの
   であった。それは、これまでの若者契約の研究における機能分析の不十分さを反映するも
   のであった。
   社会教育政策史において採りあげる。
    「若者組研究の最大の課題は、若者組の解体過程とそのありかたをあきらかにすること
   である。」(7)ということからもうかがえるように、若者契約は青年集団の原型として把握
   され、大正4年以降の内務省や文部省を中心とした一連の青年組織に対する本格的な官製
   化政策の展開過程を論ずるなかで採りあげられてきた。基本的には、明治26年の実業補
   習学校規程の公布をはじめとするさまざまな制度的改革によって、若者契約の諸機能はし
   だいに公的機関に移行されていったと解されたのであった。消防機能についてもその延長
   線上で把握されることが多かった(8)。
    このいずれにあっても、村落の消防機能についてはあくまでも副次的な取り扱いにすぎ
   ず、若者契約と村落の消防組織との関係が十分に解明されないままに把握されたことは否
   定できない。とりわけ、村落の消防組織については明治27年の消防組規則の制定以降の
   動きについては看過されてきたように考えられる。一方、行政村レベルの消防組織の動向
   は、消防組員数、消防予算(予算項目としては「警防費」として取り扱われていることが
   -2-多い)、表彰状況等が採り上げられているにすぎなかった(9)。その他に、民俗学や文化
   人類学などにおいては、各地で行われている「火伏せの虎舞い」「水かぶり」などの火伏
   せの祈願として諸行事、あるいは火難防止を目的として組織された講組織の研究なども行
   われているものの、村落の消防組織の解明という点においてはやや距離があるように思わ
   れる。
    ところで、村落生活上、火災は最も恐れられた災害の一つであり、しかも人為的災害の
   傾向が強いため、その取り決め事項の遵守と相互監視体制は徹底されていた。しかも、村
   落内の火事にかかわる全ての行動は、村落自らの主体的な対応を要請し、しかも日常生活
   に深く根差したものであった。そのことからして、中心的役割を果たす村落の消防組織は、
   早くから特異な位置を占めていたと考えられる。そのような村落の消防組織が原則的に否
   定された明治27年の「消防組規則」制定以降においても、村落にいかなる位座を占め、
   かつ消防行政にいかに対応したかということを明らかにすることは、村落の消防組織の実
   態解明においては避けて通ることのできない課題である。

                2.村落の消防組織の基本的枠組
    村落の日常生活にとっては、消防機能は必要不可欠な要素であるため、自然発生的に成
   立したものであるが、歴史的経過とともに、しだいに定型化されてくることは当然の成り
   行きであった。
   メンバー構成
    村落において消防機能を担っていたなは若者集団であり、その加入条件が問題である。
    そのメンバーが、長男層のみから成り立っている場合と、長男・次男に関係なく一定の
   年齢に達した者はすべて加入するという場合、とに大別することができる。その際、加入
   年齢については、数え年15〜17歳が比較的多く、脱退年齢としては35〜50歳とか
   なり年齢幅はあった。
    内部構造としては、年齢によって受け持つ役割分担は異なっており、序列・階層制が徹
   底されており(10)、いわゆるピラミッド型を形成していた。それは若者集団が元来的にもっ
   ている教育的機能と密接に関連するものであった。
   主な役員
    主な役職としては組頭、小頭(複数の場合が多い)、会計等があったが、その名称につ
   いてはかなりまちまちであった。その選出方法としては、メンバー自らが選出したり、と
   ころによっては戸主集団からの推薦によることもあった。明治10年代には、行政サイド
   からの指示事項が多くなるにつれ、しだいに統一的名称が用いられるようになった。宮城
   県では、明治17年宮城県警察部長より各警察署長あてに次のような通達が出され、役職
   名の統一が図られている(11)。
         一、組 頭   従来頭取又は幹事等ト称シ来リタル類
         一、組頭副   同副頭取等ト称シ来リタル類
         一、小 頭   同伍長等ト称シ来リタル類
    名称の統一は消防組織が多少なりとも画一的な形式を採り始めてきたことの表れであり、
   このころから正月の出初式も複数の消防組織の合同で開催されるようになっていった。
   運営費の捻出方法と村出役
    消防活動にはつねに飲食が伴い(慰労の性格が強い)、しかも幕末から明治初期にかけ
   ては喞筒(ポンプ)のはしりともいうべき「竜吐水」も導入されるようになると、これま
   で以上に係る費用は増加した。それらの費用の捻出にあたっては、村落によってさまざま
   な方策が採られたものの、主なものを列記すると次のようなものがある。
    イ)村落共有地からの収益
    ロ)各戸からの寄付
    ハ)経済的富裕層からの篤志寄付
   とロ)は、村落全戸が対象であり、しかも共有地耕作のための村出役や寄付には強
   制力を伴い、違反した者に対する罰則規定も定められているのが一般的であった。なお、
   については、表面上は任意とはいえ「見立て割」的性格が強かった。
   日常活動と警察の一体化
    消防活動の中心は、突発性への対応であり、最も重要視されたのが出火予防であった。
   それは日常活動が基本であり、全国的に広範囲に行われていたのが廻番制度であった。
   村出役や巡回の方法については様々であったが、原則的には全戸出役であった。とはい
   え、若者集団を中心として行われた所も少なくなく、その際は戸主集団から一定の資金援
   助が行われた。廻番は早くから防火に限らず、防犯も併せもっており、明治以降は警察と
   一体化して行動することが多くなり、その日数は増加する傾向が見られ、恒常化するとこ
   ろもあった。そのため、喞筒置場や詰所(廻番の当番が常置しているところ)と警察の派
   出所は隣接していることが多く、警察派出所の移転に伴い、喞筒置場も変更されるという
   例も少なくなかった(12)。
   さらに、消防組織の年次総会や役員会、さらには予防演習の際にはつねに警察官による
   訓示も行われ、消防組員の精神的教化策として大きな意味をもった。
    (5)罰則規定
   若者契約においては、村出役にかかる違反に関するものが圧倒的であり、「火事纏番は
   三人限り外は手提灯にて急可來若不参有之は過料一人前百文づつ定候事」(13)からしても、
   「過料」を課せられるケースが多かったが、その他に「入寺」(火事の程度によってその
   日数は異なる)、「押し込め」等の慣行もあった。一方、享保年間以降、多くの藩におい
   ては、農民への失火を戒めるための通達(14)も再三にわたって出されており、その内容は
   失火元の処罰はもとより、村方三役の責任を問うものもあった。

                3. 消防組織への行政施策の展開
   明治政府は新しい中央集権国家体制づくりの一環として、村落の諸改革を次々と断行し
   ていったが、消防組織については「政治・社会の大きな変革が行われようとする過渡期に
   あっては、消防のごときは一時まったく顧みられなかったことは想像に難くない」(15)と
   指摘されるように、明治初期には藩政時代以来の形態がそのまま容認されたのであった。
   その後、明治6年9月には、近代警察、さらには消防組織のありかたに大きな影響を与
   えた当時司法省警保助兼大警視の川路利良の警察制度に関する「建議草案」(16)の第六項
   において、消防制度については次のような提案が行われている。
    一 人民ノ損害火災ヨリ大ナルナシ故ニ消防ハ警保ノ要務願クハ各国ノ例二遵ヒ
      消防事務ヲ警保寮ニ委任セハ府庁ニ於テ別ニ消防掛ヲ置クニ及ハス是亦府費
      ヲ省クノ一ナリ
    このことから次の二点を確認することができる。
    第一は、消防にかかわるすべての事項は警察の管轄下において取り扱われるということ。
    第二は、行政サイドにあっては、消防に係る費用はできるだけ少なくするために、独立
          の係は設置しない方向で対応するということ。
    これらを具体化したものが、翌明治7年1月28日に警視庁によって定められた「消防
   章程」であった。「第一章消防規則」「第二章消防組役割」「第三章ポンプ組役割」「第
   四章消防組頭以下心得」と「消防組賞典定則」「消防組死傷扶助定則」「消防組罰則」か
   ら成り立っており、その後の消防組織に関する法規範の基になったものである。とりわけ、
   「第一章消防規則」の10ヵ条全てにわたって、消防行為が警察の指示、命令に基づくこ
   とが明記された。
    これにならって、多くの府県では明治10年ころまでに消防章程が定められていった。
    この消防章程はあくまでも府県レベルの消防組織のありかたを例示したものであり、既
   存の村落の消防組織に影響を与えるものではなかった。その後、村落の消防組織について
   は、全国的に高揚しつつあった自由民権運動の母体となることも少なくなかったために、
   警察が実態を把握するということから、同14年から17年ころにかけて、各府県レベル
   において相次いで消防組設置届(17)の布達が行われ、従来までほとんど規制が加えられ
   ることのなかった村落の消防組織について「届出制」が採用されることになった。そして、
   明治22年の市・町村制の施行に伴い、新たに定められたのが「消防組設置規則」であっ
   た。府県レベルにおいて多小の違いはあるがその骨子としては次の四点に要約できるであ
   ろう。
    第一は、市町村レベルの公立消防組の設置の推進を図ること。
    第二は、公立消防組の費用は市町村の負担とすること。
    第三は、村落レベルの消防組織の存在を認めること。
    第四は、全ての消防組織の行動は一切警察の指示に従うこと。
    行政町村の成立に伴い、公立消防組織の設置の促進が企図されてはいるものの、村落レ
   ベルの消防組織が「私立消防組」として認められていることに注目しなければならない。
   すなわち、新たに成立した行政村にとっては、当面する行政課題が多いために(18)、消防
   組織については既存の実態を容認することを意味するものであり、その対応の仕方には明
   治初期のそれと共通する点が多かった。事実、行政市町村レベルには公立消防組織はそれ
   ほど成立しなかったために、行政村内の消防組織の形態としては、村落の消防組織の連合
   体という性格が強かった。
    しかし、村落の消防組織が政治的に利用されたり、あるいは小作争議の中心母胎となる
   ことも少なくなく、さらには当時、清国との政治的緊張の高まり等もあり、国民、とりわ
   け若者の結集を図る意味において、消防組織に一定の法的規制を加えるということから、
   明治27年2月9日に勅令第15号により、全文19ヵ条からなる「消防組規則」が制定
   された。
   この消防組規則は、「勅令」として発布されたこと、さらには趣旨の徹底を図るために
   「消防組規則制定要旨」(全文十二項からなる、以下「要旨」という)が作成されている
   ことからして、きわめて重要な位置づけがなされていることがうかがえる。
   その内容から次の四点を指摘したい。
   第一は、消防組織に名をかりて集会、運動は厳禁とすること。
   第二は、村落レベルの消防組織(私立消防組)は原則としては認めず、市町村レベル
   の公立消防組のみとすること。
   第三は、消防組織は警察の補助機関であること。
   第四は、消防組織に係る費用は市町村の負担とすること。
   これらについて、多少説明を加えておきたい。
   第一については、「消防組ハ水火災警防ノ為メニアラサレハ集会若クハ運動スルコトヲ
   得ス」( 消防組規則第八条 )、「 消防組ノ挙動治安ニ妨害アリト認ムルトキハ府県知事之
   ヲ解クコトヲ得」(同規則第十条)の二つの条文に示されるように、これまでの村落の消
   防組織の行動が、 明治政府にとってはきわめてマイナスな存在であったということは明ら
   かである。 それゆえ、村落の消防組織を非政治的な存在として位置づけるねらいを観取で
   きるのである。
   第二については、「其ノ他ノ私設消防組ハ官ノ許可ヲ得タルモノナル否トヲ問ハス、又
   均シク、廃止セラレタル上ハ、将来ニ於テハ消防組規則ニ依ッテ知事ノ設置シタルモノニ
   非サレハ成立ヲ許サゝルナリ」(要旨第三項)とされ、村落レベルの消防組は認められて
   はいない。これも、第一の指摘と連動するものである。
    第三については、火災現場においては「消防組ハ警察官ノ指揮ニ従ヒ進退スヘシ」(消
   防組規則第六条)ということに加えて、「平素ニ於テモ厳重なる警察官の監督に服セシメ
   ント欲ス」(要旨第七項)と規定されており、日常生活においても警察の指揮監督下にあ
   ることが明確化された。さらには、「組頭」、「小頭」は各府県の警部長か所轄の警察署
   長、消防手は所轄の警察署長がそれぞれの命免権をもつことにより、警察の消防組織に対
   する支配権が拡充されたのであった。
    第四については、その細部については要旨第十項、同第十一項、同第十二項の「三項」
   において指摘されているが、消防組織に係る一切の費用は市町村の負担となった。しかも、
   「大字」の範囲に組織された場合は、その範域の人々に対して、「特別税」あるいは「付
   加税」を課すことも認められたのであった。すなわち、行政サイドからの財政的支出とい
   うよりは、地域住民自らの負担の原則が強く求められたのである。
    行政町村が不要公課村の旗印を掲げて発足したものの、数年も経過するとその理念と現
   実のギャップがしだいに大きくなり、行政村への期待がしだいに低下する状況下にあって
   は、たとえ公立消防組の設立は進展したとしても、それはきわめて形式的なものにならざ
   るを得ないことは容易に想像することができた。
   明治27年2月10日に内務省令第一号の「消防組施行概則」にもとづいて、各府県で
   は、消防組規則を制定し、「公布以来、3ヵ月を経た5月には大半の府県が細則の制定公
   布を終わり」(19)、一応は市町村レベルの公立消防組の設立は、順次増加する傾向にはあっ
   た。しかし、村落レベルの消防組織は公立消防組の下部組織として位置づけられたり、あ
   るいは行政村レベルに公立消防組織ができずに従来とほとんど変わらない状態で存続され
   た所も少なくなかったのである。すなわち、公立消防組と私立消防組の並存という状況が
   見られたのであった。
    その後、明治36年には大日本消防協会の設立(20)、大正時代に入ってからは全ての府
   県において公立消防組々頭会議が開催され、消防組織や組員に対する旌表制度や共済制度
   の拡充が図られていった。
    消防組規則の制定以降、国家の消防政策は、警察の補助機関としての性格の強まりと地
   域住民の負担原則の徹底、一方においては旌表制度に見られるような消防組員の士気を鼓
   舞するという、いわゆる二律背反ともいうべき内容をもって展開されていったのであった。
    村落の消防組織においてもその動きと連動することは言うまでもないが、むしろその動
   きは行政村レベルよりもシビアであったように考えられる。

                4.村落の消防組織の歴史的推移
    幕末から戦前までの村落の消防組織の歴史的経緯について、その展開過程を4期に分け
   て、宮城県内の動きを中心として概括的な素描を試みたい。
    1) 第一期(幕末〜明治21年)
    明治時代になってもしばらくの間、村落の消防機能は、藩政時代からの形式や内容をそ
   のまま引き継いでおり、村落の自治機構の中核である契約講や若者契約講のなかに位置づ
   けられていた。
    「万一火難等相候ハバ屹度助合可申候事」(宮城県桃生郡赤井村赤井裏新田契約講定―
     寛政九年二月)
    「当村ハ申ニ及ハス近所隣村タリ共火盗狼藉等至急ノ難事之レ有ル節ハ□□驅ヶ付事大
    変ニ及ハザル様警固致可キ事」(宮城県伊具郡丸森村筆甫契約講定―明治五年九月)
    このような出火時の行動に加えて、多くの村落においては予防のためにかなり一般的に
   行なわれていたのが廻番である。
    「夜廻之儀一夜(四人ツツヲ以)旧三月廿六日ヲ以テ午後九時従前五時迄、表裏無滞相
    勤可事、其ノ場処ハ上下西ヘ設立シ順番ハ町頭従町尻迄勤可ス、但番屋之儀仕捨人足以
    支弁スヘス、右用財ハ村内ヨリ貸ヘキ事」(宮城県刈田郡関村関教会定―明治十七年三
    月)
    これらの消防活動において中心的な役割を果たしたのは「當村中拾七歳より三拾五歳迄
   若居者居壹夜二五人宛相揃火之用心自信番宵より朝迄無滞相勤若居者役儀として精出して
   可申事」(21)からも明らかなように「若者」であった。藩政時代には「若者集団の呼称は
   三十余りにおよび」(22)ということからしても、多くの村落に若者集団の存在を確認する
   ことはできるが、「消防組」という名称の若者集団はほとんど存在しない。すなわち、こ
   の時期には、消防機能は、あくまでも若者集団の一機能として位置づけられていたことを
   観取できる。
    しかし、明治政府は、明治5年2月8日に各県令宛に「新任地方官ヲ戒メテ、諸県廃県
   ノ旨趣ヲ体シ、旧習ヲ革除セシム」(23)という通達を出し、若者の伝統的な慣習を改めさ
   せたり、あるいは若者契約に対しては「徒党を組む不逞の輩」(24)として、県によっては
   その活動の禁止を求める通達を出すところもあった。しかし、若者契約が解散するという
   ことはほとんどなく、「農業社」「協同社」あるいは「消防組」といった名称の変更に止
   まるものであった。たしかに、この通達を契機として、全国的にも、「消防組」と呼称さ
   れるものは多くなったが、それは、従来までの若者集団が消防組織として機能集団化した
   ことを意味するのではなく、あくまでも、行政施策に対する対応の域を出るものでなかっ
   た。ところで、明治の初めころまでには、村落の消防組織は、これまでの破壊消防という
   性格から脱して、喞筒のはしりでもあった龍吐水を中心とした消火消防へと変化する傾向
   が見られた。その際、竜吐水の購入に係る費用を捻出するために、村落ではさまざまな工
   夫をこらさねばならなかった。最も広く行われたのは全戸拠出を原則する「寄付行為」で
   あり、その拠出にあたっては見立割によることが多かった。そのため、地主層や自作農層
   といった上層農と小作人層間では、その金額の差はかなりのものとなり、その結果、寄付
   そのものが、上層農の下層農に対する授恩的性格をもつようになっていった。
    一方、明治政府においては、明治4年、消防関係の事務の一切を司法省警保寮において
   取り扱うこととし、独立した消防課は置かれなかった。明治7年にそれが内務省に移管さ
   れ、その当初は安寧課の消防掛に属した。翌8年12月に初めて消防課が新設されたもの
   の、明治10年1月には、再度消防掛と改められたのである。行政組織上、「消防」を取
   り扱う部門は一時期を除いては独立した「課」として取り扱われなかったことは、その独
   自性が強まることによって権限が肥大化することを抑制するというねらいがあったものと
   考えられる。
    2)第二期(明治22年〜明治35年)
    明治22年の町村制施行に際して、多くの県では、行政村レベルの消防の組織化を促す
   ために「消防組設置規則」を定めた。宮城県においては、同年9月9日県令六十号により
   「宮城県消防組設置規則」が定められた。しかし、行政村レベルの消防組織の組織化は進
   まず、宮城県では、翌23年には「消防組の組織は市町村条例の定むるところに依り編成
   さるべきものなり」と、これまでの県知事の許認可権を市町村長の裁量に委ねることにし
   た。その後、明治政府は明治27年2月9日、勅令十五号により、第19条からなる「消
   防組規則」を発布し、翌日には、内務省令第一号として「消防組施行概則」(25)が施行さ
   れた。これにより、消防組織については、はじめて全国統一的な基準が定められ、かつ警
   察の補助機関としての法的な地位が与えられることになったのである。だが、全国的には
   その対応にばらつきがあり、しかも市町村レベルの公立消防組の設立時期にも大きな違い
   が見られたのであった。
    宮城県では明治27年5月22日には県令第二十号により1市21町14ヵ村に、同年
   9月19日には県令第37号により1町33ヵ村に公立消防組が成立し、この一年間で県
   下全体のおよそ45%にも達し、大正末までにはおよそ83%にも達したのであった。し
   かし、公立消防組の成立経緯、及びその実態をみる限り、政府が意図する内容を伴ってい
   たわけではなかった。すなわち、多くの行政村では既存の特定の村落の消防組織をそのま
   ま公立消防組とするところも少なくなかった。しかも、村落レベルのほとんどの私立消防
   組は旧態同然に在しており、ところによっては、消防組規則制定以降にも、私立消防組が
   新たに組織化されることさえもあった(26)。そのため、公立消防組と私立消防組の並存は
   ほとんどの行政村において見られた。それは、村当局はもちろんのこと、それを管轄する
   警察署においても容認されたものであった。このことは、当時の行政村の財政的貧弱さと
   いうことはいうまでもないが、公立消防組の喞筒設備の技術レベルが低いために消防活動
   の可能な範囲の限定、さらには、消防組織が単なる機能集団ではなく、より包括的な機能
   を持つ集団であったために村落の生活上必要な存在であったということが考えられる。消
   防組規則によって、原則的に否定された村落の消防組織が残存したことによって、村落の
   消防組織はしだいに公立消防組の村落レベルの下部組織としての性格をもつようになり、
   村落の消防組織も公的存在としての意味を強めていったのであった。そのために、村落の
   消防組織を運営上必要である寄付行為や村人足はこれまで以上に公共性を帯び、村人に強
   い強制力をもつようになっていった。さらには、公立消防組は順次増加の傾向にはあった
   ものの、公立消防組とはいえ、市町村財政からの支出は、被服費と喞筒修理費を賄うのが
   せいぜいであった。そのため、新規の喞筒購入に際しては、その全額を村民の寄付に委ね
   ざるをえなかった。それゆえ、市町村の公立消防組々頭には寄付額の多い地主階級を中心
   とした上層農が就任することが多くなり、公立消防組々頭は町村長、小学校長と並ぶ地方
   名望家として町村政に大きな影響力をもつようになった。
   第3期(明治36年〜大正10年)
    明治38年、宮城県は大凶作に見舞われ、県下各地で小作争議が頻発する状況が生まれ
   た。そのため、県農会が中心となり地主―小作協調主義政策が打ち出された(27)。また、
   地主自らも、村内を中心とした近隣小作人との協調を図るために、契約講や若者契約講な
   どに対する資金提供、物的供与、また小学校建築資金の提供(二宮尊徳像の寄贈も多い)
   などをこれまで以上に行なうことが多くなった。
    さらには、地主が中心となって私人的消防組織を組織化する例も見られた(28)。第一期、
   第二期でも述べたように、地主はこれまでも既存の消防組織に対して多額の寄付を行ない、
   しかも、自ら組頭に就任する例も見られたが、それはあくまでも公的に定められた一定の
   ルールにもとづくものであった。
    それに比して、地主中心の私人的消防組織は、メンバーの選択権を地主が持ち、かつ活
   動資金は地主の負担、および喞筒をはじめとする消防施設は全て地主の私有であるという
   ところに特徴がある。とりわけ、活動資金については、地主が提供した土地を耕作するこ
   とによって捻出されることが多かった。それに関わる日数は年間トータルとしてはかなり
   ものであり、地主との日常的接触を通じて両者の情緒的関係強化が図られていったのであ
   る。
    私人的消防組織の規約には、「一致協力」、「村民融和」という文言が多く見られ、組
   頭である地主と組員の間には、擬制的親子に近い人間関係が生まれていった。また、地主
   にとっては単に小作争議の抑止作用を果たすだけではなく、小作地の拡大に伴い増加する
   小作米の収納倉庫の警備が保障されるという側面もあったことも看過してはならない。
    ところで、大正元年11月には、宮城県消防組頭協議会が結成され(29)、その後、2年
   毎に開催された。会則をみる限りにおいては、公立消防組の組織化の促進、消防組員の待
   遇問題、表彰問題が主たる審議内容ではあったが、結成にあたっては、知事や県警本部か
   らの強い要請もあり、しかも組頭の階層構成や日露戦後の社会状況からして、ある一定の
   政治的役割をもっていたことは疑いのないことであった。
    そして、大正9年の第五回消防組頭協議会以後には、それまでの連絡協議機関から指導
   機関へと位置づけられた(30)。すなわち、大正4年の青年団体に関するいわゆる「第一次
   訓令」によって青年団体の官製化が強く求められたが、その一層の推進を図るためにも
   「組員たる者は総て其の市町村の中堅者となり青年の指導風紀の改善其他地方の改良上躬
   ら範を示すを要す」(31)としてその役割が消防組員に課せられたのである。この第三期は、
   日露戦後の地方改良運動の展開 そして第一次世界大戦後の大正デモクラシー運動の高ま
   りのなかで、これまでの地主体制が大きく動揺した時期でもあった。そのような状況下に
   成立した地主中心の私人的消防組織は村落の情緒的人間関係を最大に活かした組織体であ
   り、地主制危機に対する弥縫的対応の感は強いものの、村落内の地主―小作の協調政策の
   一つとして一定の意味をもったのである。
    さらに、日露戦争後に全国的に展開される勤倹節約運動の時期には、多くの消防組織に
   おいては、喞筒が従来の竜吐水から雲龍水への移行期にあたっていた。時勢柄、その費用
   の捻出に際しては、村落がまとまって土木事業を積極的に請け負ったり、あるいは徹底し
   た内部経費の節減(総会当日に白米の持参など)を図って充当することが多かった。しか
   も、雲龍水の購入金額はかなり額であったために、従来以上に義務出役の日数は多くなる
   傾向が見られた。
   4)第四期(大正11年〜昭和20年)
    大正11年頃から、東京を中心として警察の協力機関として組織化されたのが「自警団」
   であり、宮城県においては大正11年11月頃に、県下各市町村に設置され、その後、村
   落レベルに分団という形で組織化された。自警団は既存の青年団体、在郷軍人会、消防組
   などを中心とした組織化されたものであり、大正12年の関東大震災における治安対策上、
   その力を発揮し、政府はそれを契機として全国的に拡充していった。そのため、組織内容
   や規約に関しては、政府から一定のモデルが提示されており、「犯罪豫防ニ関する事項」
   「災害防止並ニ其救護ニ関スル事項」「衛生、交通思想ノ普及向上ニ関スル事項」「悪習
   陋習ノ排除ニ関スル事項」等を中心としてほぼ画一的な内容をもっていた。
    その具体的な実践のために、それまでは村落の自治機構として位置づけられていた区会
   や部落会、さらには契約講などの既存の村落内の組織を、治安維持の強化のために再編し
   ていったのである。
    そのなかで中心的な役割を果たしたのは消防組織であった。そのため、消防組織はこれ
   まで以上に警防に力を入れるようになり、村落内の巡回、小作争議の調停のために動員さ
   れることも少なくなかった。そして、自らの組織内の行動や思想統制のために、町村長、
   小学校長、警察署長、自警団長による講演会の開催、あるいは組員による弁論大会が開催
   されることも度々あった。
    昭和に入ると、消防組織は在郷軍人会とともに銃後活動の中心となり、徴兵家族に対す
   る農作業の手伝い、兵役入隊者の歓送迎会などを積極的に行なうようになっていった。ま
   た、これまでは村落の消防組織のメンバーは、アトトリ層が中心であったが、徴兵による
   若者の減少に伴い、二・三男層においても一定の年齢に達した者はすべてそのメンバーと
   する傾向が強くなった。
    ところで、大正15年9月には第一回の全国消防組頭大会が開催され、これまでの「大
   日本消防協会」の全面的な改組が決議された。それを受けて、昭和2年2月には消防組員
   の救済と顕彰制度をより充実させた内容をもつ「大日本消防協会」が新たに誕生した。そ
   して、その趣旨の徹底を図るために大々的なキャンペーンが展開され、全国のあらゆる公・
   私立消防組織から多額の寄付が集められた。多くの消防組織においては、それを捻出する
   ために、土木工事や山林の下刈りなどを請け負うこともあった。
    宮城県では大正12年に「消防表彰規定」が作られ、表彰対象、賞状の体裁と徽章につ
   いて細かな規定が設けられた。そして表彰された団体や個人については、町村長、警察署
   長、小学校長などが参加し、表彰伝達式が行なわれた。このことは、村報や旬報などを通
   じて美談として大きく報じられた。さらに、昭和6年6月には宮城県消防協会が財団法人
   として認可されたことを記して、殉死した16名の消防組員の霊を祀るために仙台市西公
   園地内に「殉職組員招魂碑」が建設された。
    当時はいずれの消防組の会議においても、はじめに「国民精神作興に関する詔書」の全
   文が読みあげられ、最後には「天皇陛下万歳」が唱和されるのがつねであった。さらに大
   正11年の県下第一回の中堅幹部講習会の講師として、当時の第二師団参謀長が招かれた
   ことは銃後活動への積極的な参加を通じて国家的団体へと変化していく大きな節目として
   注目しなければならない。そして戦時下体制が強まるなかで、昭和14年1月24日には
   勅令第20号により警防団令が公布され、すべての消防組織は警防団に編入された。
    以上のことからして、幕末以降、村落の消防組織は、消防組→自警団→警防団→消防団
   という歴史的経緯をたどる。別な見方をすれば、自然発生的段階から国家統制的段階とい
   うことになる。とはいえ、村落の消防組織と村落との関係に大きな変化は生まれなかった。

                5.おわりに−小括として
    小稿を締めくくるにあたって、村落の消防組織のもつ特異性ということを中心に、これ
   までの論述をふまえて多少整理しておきたい。
    村落の消防組織は、村落の生活にとっては必要不可欠なものであった。そのため、生活
   の防衛のために消防活動全般にわたって、村人自らが主体的にかかわる、いわゆる「自助
   性」という考え方が早くから貫徹されており、村落においてはそれを具現化するシステム
   化がなされていた。そのことからして、村落にあっては、消防機能の元来的にもつ「公共
   性」は、「自助性」とそれと密接に関連する「共同性」によって支えられていたのであっ
   た。一方、消防組規則の制定によって、村落の消防組織は否定されたものの、行政村の財
   政的事情ということに加えて、消防機能のもつこれらの性質は、村落を統治する上ではき
   わめて有効に作用するものであり、行政村はもとより国家の消防政策においても、村落の
    消防組織に対して、その治安安定装置としての役割がしだいに課せられていった。その意
   味においては、村落の消防組織はむしろ温存されたと考えることが穏当である。その結果、
   村落の消防組織は早くから、行政村から容認された存在となり、時間の経過とともにより
   一層公的存在としての意味合いを強めていったと観ることができる。さらにまた、日露戦
   争後の新たな国家づくりの一環として展開された若者の教化対策として「神官・僧侶・小
   学教員・町村会議員・消防手等を招集して詔書捧読会をとりおこなっている」(32)という
   ことにも見られるように、消防組員はあるべき国民像としてのみならず、国民の指導者層
   の一翼として重要視されていった。そのためにも、村落の消防組織を非政治的存在と位置
   づけ、より修養団体としての性格を強めていく方策が展開されるのは予測されたことであっ
   た。
    ところで、昭和22年4月30日、それまでの警防団令に代わって、勅令185号によ
   り新たに「消防団令」(33)が公布された。その主たるねらいは、警察行政から消防行政を
   分離することにあったが、その第一条に次のように記されている。
    消防団は、郷土愛護の精神を以て社会の災禍を防止することを目的とし、水火災の予防、
   警戒及び防圧、水火災の際の救護並びにその他の非常災害の場合における警戒及び救護に
   従事するものとす。
    消防団組織を支えるものは「郷土への愛護精神」であるということに注目したい。すな
   わち、「自分の住む地域の消防問題は、自分たち自らの努力によって解決していこう」と
   いうことである。これこそ、これまでの村落の消防組織に流れる精神そのものに他ならず、
   今日の消防団組織もその延長線上にあると考えて間違いなかろう。
    だが、戦後50年の消防団を取り巻く社会状況の変化は予測をはるかに超えるものであ
   り、小手先の対応では処しきれない状況が生まれてきている。それゆえ、いままさに「郷
   土への愛護精神」を新たな視点から把らえ直すことが求められているのである。そのため
   にも消防団組織を地域防災の中にいかに位置づけ、かつ地域社会とのかかわり方はどうあ
   るべきかということを本格的に議論する時期にきているように思う。

   (1)消防団組織のありかたについては、かなりの地方自治体で議論はされてはいるが、
      その多くは団員の減少やその待遇の改善をいかにするかという当面する課題が主た
      るものである。消防団組織の根本的見直しという議論には至っていない。
   (2)離森契約講(宮城県登米郡錦織村発行『錦織村史』252頁)
   (3)藩政時代には多くの藩で、「五人組掟」、「五人組帳」などに出火予防や相互協力
      について細部わたって規定されていることが多かった(魚谷増男『消防の歴史四百
      年』113〜116頁)。なお、明治2年の岩手県胆沢郡若柳村の「講中用心組定
      並人数元帳」の第二項には、隣組の相互扶助のありかたについて、次のように記さ
      れている。
     「用心組中の内え、万一出火等これあり候節は申すに及ばず一統朔付け消し留候様致
      すべき由申合せ候。尤も火の元落差申さず共扁宅致し間敷き由に申し合せ候こと。
      附、右様大変節は組中一統にて何様の諸懸りに罷りなり候共、たて五間、横二間半
      の廐を相立て屋根壁共に仕揚くれる様にと申合せ候事」(胆沢町史刊行会『胆沢町
      史・民俗編』436頁)
   (4)具体的な例としては次のようなものがあげられる。
      ・夜烏が泣くと火が出る(村山貞之助編著『宮城県中新田町史』1964)
      ・ねずみが急にいなくなると火事になる(同上)
      ・家の棟木に“水”の一字を書いておくと火除になる(『青森県脇野沢村消防団
       『消防の記録』1977)
       このような、「言い伝え」の状況を見聞した者は、村中に伝える義務を負っていた。
       火事予防については村落全体での対応がいかに徹底していたかということをうかが
       い知ることができる。
   (5)『大日本青年団史』(昭和11年発行)の269〜273頁において、静岡県加茂
      郡三濱村を中心として、「若者役としての消防組に関する規定」、「其他夜警、消
      防に関する規定」、「不参の場合の過料に関する規定」などに分類され、かなりの
      事例が報告されている。
   (6)江守五夫『日本村落社会の構造』(弘文堂 1976 353頁)
   (7)福田アジオ『日本村落社会の民俗的構造』弘文堂 1982 134頁
   (8)「消防組規則の発布(明治27年)は若者組の消防・夜警の伝統的な役割を脱落さ
      せた」(佐藤守『近代日本青年集団史研究』御茶の水書房 1970)、また「勅
      令によって消防組規則が制定された明治27年(1894)ごろともなると、ほぼ
      全国的に消防組が組織化され、従来若者組に付随することの多かった消防機能が明
      確に分離していった」(平山和彦「年齢と性の秩序」 『日本民俗文化大系・8』
      小学館1984)などにうかがえる。
   (9)多くの自治体や消防団などで発行されている市町村史(誌)や消防誌においては、
      消防団長をはじめとして、消防組や消防団員の顕彰に関してはかなり記述されてい
      る。しかも、それらは、偉人伝的内容として取り扱われていることが多い。そのよ
      うななかで、『七ヶ宿町史・生活編』(宮城県七ヶ宿町史編纂委員会 1982)の
      第三章「社会生活」の項においては、各村落の消防組織の実態が、契約講の動きと
      関連づけながら詳しく分析されていることに注目したい。
   (10)若者組の内部的階層構成について、静岡県南伊豆三浜によると、走り使い(17〜
      19歳)−使い上り(20〜24歳)−小中老(25〜26歳)−中老(27〜2
      9)−頭脇(30〜31歳)−親方(32〜34歳)−宿老(35〜39)−中宿
      老(40〜49歳)−大宿老(50〜59)−年寄衆(60歳以上)というように
      細かに年齢区分されおり、消防組における役割もそれにほぼ準じていた(竹内利美
      『ムラと年齢集団』名著出版↓1991 11頁)。
   (11)明治17年7月23日付けをもって、当時の宮城県古川警察署長は宮城県警察本部
      警部に対して、その名称の統一を求める上申書を提出し、それを受けて出された通
      達の内容である(『仙台消防誌』仙台消防団 1935)
   (12)このことについては、拙稿「明治・大正期における消防組織の展開過程と村落−宮
      城県亘理町旧逢隈村を中心に−」『村落社会研究・28』 村落社会研究会、19
      92年を参照されたい。
   (13)前掲『大日本青年団史』272頁
   (14)仙台藩における1684年から1800年の諸格式・諸條目などを集録した『四冊
      留』の「三出火之部目録」には22項目が取り上げられている。
   (15)大霞会編『内務省史・第2巻』原書房 1981 655頁
   (16)近代消防の父と称される川路利良が明治5年9月から同6年9月にかけて、当時の
      イギリス、イタリア、ドイツの三ヵ国の警察制度を視察した結果をふまえて、明治
      政府に提出したものである。内容的には、前文と十項目から成り立っている。
   (17)明治17年6月27日付けの宮城県消防組設置規則の第一条によると、届け出項目
      としては次のようなものがあった
      ・費用支出方法(区町村費又ハ有志醵金等ノ別)
      ・消防夫族藉氏名年齢
      ・役員ノ名稱
      ・火防器具ノ種類
      ・組合ノ徽號服章
   (18)明治23年5月31日付けで、合併直後の行政事務の多さのために、当時の仙台市
      長が宮城県知事に対して、その事務分担を当分の間、これまでどおり警察当局でし
      てもらいたい旨の許可申請を行った。それに対して、同年7月18日付けで、宮城
      県警部長は次のような許可を与えてる。
      仙臺市長ヨリ消防ニ關スル雑務ハ従前ノ通仙臺警察署ヘ委嘱置度旨上申ノ處右ハ當
      分ノ中聞届相成候條諸事從来ノ振合ニ取扱フ儀ト心得ヘシ
      仙台においてもこのような状況であることからして、他町村においても推して知る
      べしであった。
   (19)財団法人日本消防協会『日本消防百年史・第1巻』1982 258頁
   (20)明治37年4月に定められた会則第三条には「本会ハ消防固有ノ性質ヲ明ニシ消防
      制度ノ発達進歩ヲ図リ消防事業ニ従事スル者ハ技術学術ヲ奨励シ其徳性ヲ涵養シ且
      消防士偉績功労アル者ノ名誉ヲ新表シ併セテ職務上ノ病傷者及死亡者ノ遺族ヲ慰籍
      共済スルヲ以テ目的トス」とある。日本消防協会の設立にあたって、名誉会員とし
      て侯爵伊藤博文をはじめとして伯爵、男爵、子爵、そして全国全ての府県知事及び警
      察部長が名を連ねていた(前掲『日本消防百年史・第1巻』367頁)
   (21)前掲『大日本青年団史』1934 269頁
   (22)天野武『若者の民俗』ペリカン社 1980 11頁
   (23)内海貞太郎『宮城県青年団史』宮城県青年団研究所 1987 45頁
   (24)江守五夫「明治国家体制の人類学的考察」『岡正雄教授古稀記念論文集』河出書
      房 1970年 141頁)
   (25)消防組施行概則の第四条によれば「消防手ハ満18年以上ノ男子ニシテ平素行為粗
      暴ニ渉ラス身躰強壮ナル者ヲ選フヘシ」とあり、さらに第六条には、「公権剥奪若
      クハ停止中ノ者」「禁治産中ノ者」「公費ヲ以テ救助中ノ者」「懲戒處分ニ依リ消
      防手ノ職務ヲ免セラレ満三年ヲ経過セサル者」については、消防手になることが禁
      止されている。
   (26)拙稿「明治・大正期における消防組織の展開過程と村落−宮城県亘理町旧逢隈村を
      中心に−」(村落社会研究会『村落社会研究・28』農山漁村文化協会 1992)
   (27)菅野正『近代日本における農民支配の史的構造』御茶の水書房1978年 103
      頁。
   (28)拙稿「地主制の展開過程における消防組織と村落−宮城県遠田郡北浦村の事例」
      (日本村落研究学会『村落社会研究・1』農山漁村文化協会 1994)
   (29)その時に定められた会則の第三条によれば、「本會事務所ヲ警察部保安課ニ置ク」
      となっている。会長には県知事、副会長には県警察部長が就任している。
   (30)佐藤亀齢『宮城県消防発達誌』1929 11〜12頁
   (31)前掲『宮城県消防発達誌』110頁
   (32)宮地正人『日露戦後政治史の研究』東大出版会 1982 25頁
   (33)昭和22年4月30日に、警防団令に代わって勅令第185号により消防団令が公
      布され、翌5月1日から施行された。しかし、同年12月に消防組織法が成立した
      ことに伴い、昭和23年3月24日政令第59号で消防団令が公布されたのである。
      (消防行政研究会『現代行政全集・24』ぎょうせい1983 31頁参照)