北海道を十一国に分けた分岐の峠、北海道の峠の歴史や峠の名の由来などを峠の雑学としてご紹介

北海道を十一国に分けた分岐の峠、北海道の峠の歴史や峠の名の由来などを峠の雑学としてご紹介


旭川個人 奥山タクシー
旭川観光タクシー

北海道を十一国に分けた分岐の峠、北海道の峠の歴史や峠の名の由来などを峠の雑学としてご紹介

峠物語(北海道の峠)

峠物語(北海道の峠)は、北海道を十一国に分けた分岐の峠、北海道の峠の歴史や峠の名の由来などを峠の雑学としてご紹介。



(峠物語の概略)
松浦武四郎によって地名の原案、日高見・北加伊・海北・海東・東北・千島と六案出され明治二年に蝦夷から北海道に地名が改名された、その時に北海道を十一国八十六郡に分けた。その時に国・郡の分岐となったのが峠である。その分岐となった北海道の峠の歴史や名の由来などを峠の雑学としてご紹介。



北海道の峠

日本では、二番目に大きな島である北海道。その北海道の各都市を繋ぐ道路には、峠があります。その中の幾つかの峠の名の由来や歴史などを雑学として紹介。

狩勝峠(国道38号)

道東と道央を結ぶ狩勝峠は、松浦武四郎が名付けた石狩国の「狩」と十勝国の「勝」から一字づつとて付けられた峠名です。この道路は、和人が入ってくる以前から石狩アイヌと十勝アイヌとの交流路であったのが始まりです。現在の道路は、昭和42年に完成し、この峠から見る十勝平野の大パノラマは、見た者に感動を与えてくれる峠となっています。
 


石北峠(国道39号) 

石北峠
(石北峠) 

昭和32年に完成した石北峠は、石狩国と北見国を結ぶルートとして産業開発と観光を目的として開削された道路です。この道路が造られるきっかけは、昔から武華越えの道が欲しく昭和11年から工事を開始したが戦争により中断した。その後、昭和29年の台風15号(通称 洞爺丸台風)により大量の風倒木が発生したことからその処理の為に再開した。この時、北海道で初めて大型重機ブルトーザーが投入された。
 


塩狩峠(国道40号) 

三浦綾子塩狩峠記念館
(三浦綾子塩狩峠記念館) 

  石狩国と天塩国の境界に位置する塩狩峠は、明治29年に北へに道路として開削したのが始まりです。この峠を一躍有名にしたのは、明治42年に起きた鉄道の事故を題材にした三浦綾子の小説「塩狩峠」です。当時の道路は、「七曲がり」と言われるほどカーブが急で交通の難所でもありました。今は、北への大動脈として観光や物流道路として利用されています。


霧立・士別峠(国道239号) 
 
留萌管内の苫前と宗谷管内の幌加内の境界に位置する「霧立峠」は、名の通り気流の関係で深い谷間から霧がわきあがりたちどころに深山幽谷の風情をただよわせる峠です。この「霧立峠」と「士別峠」は、日本海沿岸と内陸を結ぶ道路です。


釧北峠(国道240号) 

夕刻の阿寒湖
(夕刻の阿寒湖) 

津別と阿寒の境に位置する釧北峠は、現在では、ルート変更によりなんの変哲もない峠ですが歴史的に見ると文化4年には、峠道が開削された道路です。この峠から前田一歩が眼下に広がる阿寒の森を見てこの自然を残す為に尽力を尽くした所でもあります。この峠は、作家渡辺淳一の小説「阿寒に果つ」で主人公が死をもって幕を閉じさせた場所として登場しています。
 


永山峠(国道241号) 

この永山峠は、地図にも載っていない峠で阿寒と弟子屈を結ぶ「阿寒横断道路」にあり、双岳台付近を一般に呼んでいます。この峠の名の由来は、この道路開削に情熱を傾けた当時の釧路土木事務所長の永山在兼がこの難道の開削にタコ(タコ部屋労働)を使い自ら監督して開通させたことからこの名が付いたと言われています。現在でも、この道路は急カーブが連続する北海道の道路では難所で別名「北海道の箱根」と呼ばれています。
 


 美幌峠(国道243号)

美幌峠からの眺望
(美幌峠からの眺望) 

美幌と弟子屈の境界に位置する美幌峠は、眼下に日本最大のカルデラ湖である屈斜路湖や摩周岳が一望出来る峠です。この道路が開削されるまでは、美幌アイヌの酋長の息子とクッチャロアイヌの娘の逢瀬を重ねた場所として語り伝えられているだけでした。この峠を一躍有名にしたのは「忘却とは忘れ去ることなり」の名セリフで、男女のすれ違いの恋を描いた「君の名は」でした。
現在でも美幌峠から見る風景は、北海道の雄大さや自然の素晴らしさを教えてくれる場所の一つでもあります。
 


 三国峠(国道273号)

三国峠
(三国峠) 

石狩国と北見国と十勝国に跨る裏大雪の三国山を通る三国峠は、北海道で最も標高の高い峠です。この峠の名の由来は、三国山を貫く峠の説と三国にまたがる峠との二説があります。
 


 日勝峠(国道274号)

 日高と十勝を結ぶ日勝道路の歴史は古く寛政12年に陸路建設の為にアイヌの道案内で踏査したのが始まりで日高山脈を踏破する難道であった。この道路が整備されたのは、昭和29年の台風15号により風倒木の処理が急がれた事がこの峠を開削し、長年の夢だった十勝と日高が結ばれました。


北見峠(国道333号) 

石狩国上川と北見国白滝を結ぶ北見峠は、北海道で最も過酷な労働によって造られた道路です。この道路の開削には、多くの囚人が使役され多くの囚人が命をおとした道路でもあります。峠付近には、鎖塚がありこの道路が多くの犠牲により造られた道路であることが実感出来ると思います。
 


知床峠(国道334号) 

知床峠 (知床峠)

この道路は、明治18年に軍が北海道防衛の為に山越えの道路を造ったのが始まりです。この知床が一躍有名になったのは、森繁久弥主演の「地の涯に生きるもの」でブームが起き、羅臼の名を上げたのは「知床旅情」であります。一般的に森繁久弥の「知床旅情」は、羅臼側を歌い加藤登紀子が歌う「知床旅情」は、ウトロ側を歌ったものと言われています。
 


野上峠(国道391号) 

北見国小清水と釧路国弟子屈を結ぶ野上峠は、北辺防衛を意識して太平洋側とオホーツク側を結ぶ幹線で明治24年に開通した道路です。この道路の開削にも多くの囚人が使役され多くの犠牲者を出した道路です。
 


 稲穂峠(国道5号)

サクランボと羊蹄山
(サクランボと羊蹄山) 

札幌と函館を結ぶ国道5号にかつて交通の難所「稲穂峠」があります。アイヌ民族がこの峠を越えるとき、いつも天候が急変したことから峠の神に、「イナウ」を捧げて道中の安全を祈願したのが峠の名の由来と言われています。この道路の開削の始まりは、文化3年(1806)幕府直轄時代、北方警備と行政に関する問題により、視察、調査した幕府目付遠山金四郎らの道路開削の必要性を復命したことに始まります。現在の道路は、昭和37年に完成しそれまでの九十九折りの難道はなくなりなした。
 


張碓峠(はりうすとうげ)(国道5号) 

小樽運河
(小樽運河)
 

地図にも載ってない幻の峠「張碓峠」は、松本清張の小説「黄色い風土」の中でも描かれている峠です。峠の名の由来は、アイヌ語の「ハル・ウシ・イ」で「食物の多い所」の意です。この道路は、通称「軍事道路」と呼ばれた道路が始まりで小樽の発展とともに次第に高速化して、現在では、札樽道とともに札幌〜小樽を結ぶ重要な道路となっています。
 


 礼文華峠(れぶんげどうげ)(国道37号)

蝦夷地三大難所の一つの礼文華峠は、幕吏遠山金四郎景普が驚嘆した峠でもあります。峠の名の由来は、アイヌ語の「レブンケップ」で「沖へ流れ出るところ」の意です。この道路は、幕府が寛政11年幕府直轄支配地としたとき様似山道と黄金道路の前身の猿留山道とともに開削された道路です。現在では、礼文華峠と隣りの静狩峠とがトンネルでつながり峠らしくなくなってしまいました。一般的には、この付近一帯を総称して「静狩峠」と呼んでいます。
 


中山峠(国道230号) 

洞爺湖
(洞爺湖) 

札幌市と喜茂別との境界に位置する中山峠は、北海道特有のエゾマツ・トドマツ・白樺などの原生林の中を通る峠です。この峠を最初に越えたのは江戸時代の木材商と言われ、明治に入ると東本願寺の手によって開削された道路でもあります。現在の道路は、昭和44年に完成した道路で、それまでの道路は、峠を含むわずか8キロメートル区間にカーブが128を数える魔の道路と呼ばれていました。
 


濃昼峠(ごきびるとうげ)(国道231号)  

日本海沿岸
 (日本海沿岸)
 
ニシン漁で賑わった日本海沿岸の厚田と浜益との間に点在する番屋への補給路の一部として開かれた濃昼峠は、蝦夷地でも難所として知られ多くの通行人が渓谷に転落したり、凍死した山道です。明治43年には、旭川の第七師団がこの難道に挑んだが険しい山道に通る事が出来ず途中で断念しています。現在の道路は、昭和46年に完成し雄冬海岸へ向かう道路として利用されています。


雄冬峠(国道231号) 

雄冬峠
(雄冬峠) 

浜益と増毛の境界に位置する雄冬岬は、断崖絶壁で蝦夷地の三嶮岬(茂津多岬・神威岬・雄冬岬)の一つで昔から海上交通の難所として有名であった事から山道を開削したのが雄冬峠の始まりです。この峠は、地図にも載っていない峠で本道随一の難所でもありました。現在の道路は、昭和56年にトンネルが開通して北への交通路として利用されています。
 


 中山峠(国道227号)
 
松浦武四郎が名付けた渡島国と檜山国の国境に位置する中山峠は、幕府がロシアの南下に備える為に造られた峠です。この峠は、明治元年に起きた箱館戦争の時、榎本軍が官軍(新政府軍)を迎え撃つ為に砲台を造った五稜台場があった峠でもあります。


雷電峠(国道229号) 

雷電岬・刀掛岩
(雷電岬・刀掛岩) 

この一帯は、雄大な自然が創った奇岩・奇石が多く見られる岬で奥地の漁業発達の為に造れれた峠が雷電峠です。この峠は、明治3年に東本願寺法主現如上人一行が岩内に向けてこの山道を越えて通行したと言われています。現在の道路は、昭和38年に完成しました。この一帯は、源義経の伝説や文豪有島武郎の「生れ出づる悩み」などの名場面の一節を刻んでいる場所でもあります。
 


オロフレ峠(道道洞爺湖登別線) 

オロフレ峠からの眺望
(オロフレ峠からの眺望) 

洞爺湖と登別温泉を結ぶオロフレ峠は、北海道でも有数の景観を誇る峠で付近一帯は、約70種類に及ぶ高山植物が群生し、周囲には神秘的は天然林が見られます。この道路の誕生は、陳情から始まり昭和10年に一応の開通を見たが翌年水害で不通になり昭和38年に定期バスが運行、以後この道路が観光道路として訪れる多くの者に美観を見せています。
 


 川汲峠(道道函館南茅部線)

 南茅部と函館の境界に位置する川汲峠は、眺めの雄大さから「道南の十国峠」と言われています。この峠は、明治元年に鷲の木に上陸した榎本軍直属軍の新撰組元副長土方歳三の率いる部隊がこの峠を越えて五稜郭に入城した峠でもあります。








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