|
 |
| TOP > 研究成果 > 死者のエリア(赤い砂漠) |

|

|
|

|
サハラは石英の粒と、多彩な礫の砂漠。
死者のエリアとされる本当の理由は不明ですが、歴代の王の墳墓やピラミッドが全てナイル河西岸にあるからとされています。
しかしこれはあくまでも今日確認できる根拠でしかありません。イナル西岸の砂漠地帯には4箇所以上のオアシスが認められ、先史時代の遺物も幾つか見つかっていることから、エジプト古王朝以前に何らかの文明的性格のものがあった可能性は否定できません。古気候学から、紀元前1万年前後のサハラは湿潤な気候と判明しています。後に、当地は紀元前5000年に向けて乾燥化し、再び灌木が繁茂したとされています。この間の気候変動が緩慢であったか、急激であったか、気候変動の原因も不確かです。
下記の写真はサハラ砂漠で最大の突出になるホガール山地ですが、何故この地域に花崗岩や結晶片岩が露出しているのかは謎です。この山地の東にサハラ砂漠をはさんでナイル河があります。つまり死者の地域です。

SARIでは"死者の地域"と呼ばれる由縁と、サハラ砂漠の謎について幾つかのカギを手にしていると捉えています。
第一に、2万人が消滅した事件がありますが、この出来事は"死者の地域"の原因を予見される出来事にほかなりません。その事件とは、紀元前522年の頃にペルシャ軍兵士2万人(一説には3万人)全てがサハラ砂漠で、忽然と消息を絶ったものです。
この情報はヘロドトスの【歴史】に記録されています。
1982年にこのヘロドトスの記述に基づいてアメリカ・イタリアの合同調査隊により大々的な探査が行われ、この情報はAP電を通じて世界の多くの新聞社が取り上げ掲載しています。
この新聞掲載を読んだ某日本人青年は、単独でサハラ砂漠に到達し、独自に埋もれた2万人の探索をおこないました。残念なことに青年は、サハラ砂漠に消えています。
更に後年、この青年の消息を求めて神奈川在住の2名の青年が行動を起こしましたが結局、消息を絶った日本人青年も、2万人のペルシャ軍兵士も探し出すことは出来ませんでした。
この消滅したペルシャ軍については、ヴェネチアの考古学者
|
リガブェ氏を始め日本人地質学者の金子史郎氏が言及し、関連する書籍を執筆しています。
我々は上記の人物の2名と面識がありますが、前述の調査団を含めて彼らは幾つかの誤解をしている可能性があります。
ヘロドトスが述べている内容は大筋で正しいと捉えてよいのですが、砂漠で5万人が行進する場合のその兵士が占める総面積です。当時のペルシャ軍の行軍構成から推察すると、隊列は数百キロになると推察されます。
近代の"2万人消滅事件"の解釈は、サハラ砂漠に発生するハムシン(秒速50メートル/最大観測:理科年表より)に襲われたと言うものです。また、ハムシンが発生すると気温は22%近くほぼ瞬時に上昇し、湿度は10%以下に低下。この激烈な環境の変化は、SF映画のように人間を生きたままミイラに仕上げるほどの脅威と思われます。
 

アメリカ・イタリアの合同調査隊はハムシン犯人説を抱いていたようです。その為か、この調査隊も砂に埋もれたことを大前提にしています。結局、それ以外に提示できる原因が見あたらない…。つまり減点法的な絞り込みです。彼らの減点法のスタートラインにちょっとした間違いがあります。歴史的に隠蔽された事実が含まれていないことです。我々は全く異なる視点に立つことで、2万人消滅の地域を予測しています。
一見無関係と思われる異なる記録を探る必要があり、同時に、最も重要な視点は、常識と定説の裏を調べることです。この視点で我々SARIは、幾つかの発見に成功する実績があります。
"消滅した2万人"の所在…、それは何処か。現段階、我々もその回答を手に入れていません。南米人類学研究所がこの事件に関心をもっているのは、死者のエリア(ナイル河西岸)での僅少な出来事であるからです。
ハムシンが過ぎ去った後、ペルシャ軍兵士は生きながらえていた可能性を検討しています。彼らは2度と現れていませんが、しばらくの間、彼らの大半は生存していたと思われます。
現段階では、関わる幾つかの研究から、所在の推定を進めています。絞り込めても公表はいたしません。何故なら、SARIが発見する必要があるからです。
|
 |
 |