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鬱陶しいほどに月が眩しい夜だった。 漆黒が支配する屯所内の地下座敷牢に、土方は半ば強引に妙を押し込んだ。 抗う妙の腕を激しく掴み突き放すように牢に入れると、じゃりっと重く鈍い音を立てて錠が落とされた。 喩え何が聞こえても聞こえない振りをしろ。 喩え誰がやってきても知らない振りをしろ。 喩え何を感じても感じなかったことにしろ。 ――だから、絶対にここからは出るな――。 唯それだけを妙の心に深く刻ませ、土方はまるで何かを振り切るかのように妙に背を向けたとき、背中越しに妙の叫びにも似た言葉が聞こえた。 傍に駆け寄って、何か心を静めさすような言葉でも掛けてやりたい衝動に駆られた。 けれど土方は聞こえない振りをした。妙をまるで世界から切り離すように牢に閉じ込めた時、何が聞こえても聞こえない振りをしろと言い聞かせたのは紛れも無い自分なのだ。そんな人間がこのような有様では、妙は到底理解してはくれないだろう。 土方はただ前だけを見据えていた。 地上に上がって初めて視界に這入ったのは、天高く昇る美しい満月。 嫌悪感すら覚えるその美しさは、まるで太陽から背負わされた罪のようにも思えた。 刀身は見えなかった。 もはやその刀が血を浴びた血刀と化しているのか、そもそも刀身が本当に存在しているのかも怪しかった。 高速、と言う言い方では陳腐すぎる――だがこの速さを形容するために相応しい言葉など存在するのか。超高速?或いは神速?土方は己のボキャブラリィの乏しさを嘆いた。 恐らく奴は目の前に居る隊士の一の太刀を流した後、切り下ろすのではなく突き上げるようにして斬撃を見舞わせた。恐らくは突き上げる際に峰側に片手を沿え、力を付加させることにより一層の痛手と確実な“死”を与えたのであろう。 幾多の戦場を駆け抜けた土方でさえ、そういった分析が出来たのも肉を断つ音が微弱ながらも変化したことを見抜けたからであって(恐らくは力を付加させたことに由来する)、五感に長けていない、一般の市民やゴロツキ程度の剣客では其の剣が振り下ろされたものなのか突き上げられたものなのかも解らないだろう。 土方の目の前で隊士が一人また一人と自らの血の海に溺れていった。 最後の隊士の断末魔が響き渡る。月にも届きそうな其の哀れなまでの絶叫に目を逸らして土方は空を仰いだ。煌々と照り輝く月は先程よりも若干高くなっただろうか――しかし相変わらず残酷に輝いては土方を、そして、もうひとりの“奴”を見下ろしている。 「好い夜だねェ、土方くん」 革靴がコツコツと音を立てて土方に近づいてくる。土方は進みも退きもしなかった。ただ、前だけを見て――“奴”の無白色とも見える銀髪が反射する光を見つめていた。 その光は月の美しさともまた異なる美しさで、美麗ではないが見る者の視線を、そして心を捉えて離さない――そんな、妖艶さにも似た怪しさが其処にあった。 まるで罪のようなその美しさ。 いや、こいつは罪人なのだ。その長身痩躯の身体に数多の罪と死体を背負った人斬り。同時に深い私怨を重ね持つ男。一切の同情の余地も無い、罪人。 「…坂田、銀時…」 土方には奴の名を紡ぐことが精一杯だった。目には見えぬ、銀時の気迫にも似た何かが土方の思考を掻き乱し、動きを遮断する。 「どーも、万事屋でーす」 その声は呆れるほどに軽やかで、此処が血の舞う戦場ではなくまるで団子屋や定食屋であるかのような錯覚を抱く。が勿論それが錯覚であることは解っていた。土方の目の前に突き出されるように転がった肉は豚肉のカツなどではなく、先刻まで血の通っていた人間の生肉だ。 罪悪感でも感じたのだろうか。銀時は申し訳ない、とでも言うようにポリポリと銀色の頭を掻いた。 「悪りぃ。どーにも久々なもんで手加減忘れちまったわ」 「やりすぎたとでも思うのなら、せいぜい念仏でも唱えてやれ」 「あぁ?何でだよ。人間死んじまったら唯のタンパク質の塊だろうが。糖分の代用にもなりゃしねェ。ただの廃棄物だコノヤロー」 「…それがテメーの本音か」 一層低くなる土方の声を銀時は嘲笑一つで消し去った。しかしその目は微笑だにしていない。土方を、いや恐らくは土方の奥にある人間の姿をただ、睨んでいた。 5年前までは何一つ変わらない日常だった。土方にとっても、銀時にとっても。 土方は朝から晩までマヨネーズと煙草の値段の高騰に悩み、沖田の日常的な暗殺計画に悩み、山崎始め部下の怠慢に悩み、松平始め上司の傍若無人振りに悩み、そして近藤のストーカーに悩んでいた。 銀時はたまに仕事をし、たまに家賃の取立てに追われ、たまに糖分欠如にキレかけ、たまに新八のツッコミに駄目だしをし、毎回のように健康診断にひっかかるという、どちらも他愛もない日常を送っていたはずだった。 全く生きる世界が違うはずのふたり。ただ、愛した女だけは同じだった。 土方は妙を想い、銀時も妙を想う。そして妙は銀時を想った。 土方は別段其のことに不満も何も抱くことはなかった。好いた女には既に好いた男が居た、ただそれだけのことだ。妙が銀時との日々の中で垣間見せる、少女のような屈託のない笑みを見ているだけで良かった。妙が幸せであることに幸せを感じていた。それで十分だった。 しかし時代がそれを許しはしなかった。 佐幕派と倒幕派との抗争は激しさを増し、ついには大規模な志士狩りと地方征伐が行われ始めた。またこれに多大な不満を覚えた維新志士らが各地で反乱を起こし、ついには日本全土、そして各星を巻き込んでの大規模な争いが始まった――後世に言う、第二次攘夷戦争の勃発である。 佐幕派、並びに幕府預かりとして真選組は攘夷志士らと真っ向から対立することとなった。そして銀時はといえば過去の所業を捨て去りきれるはずもなく、かつての仲間と共に維新志士として戦う道を選んだ。 ――そして、妙の前から姿を消した。 妙はその背中を見送ることすらも出来なかった。 同時に天人狩りも激しさを増し、新八と妙は神楽を星に返すことにした。土方がその際沖田を護衛と称して共に行かせたのは、銀時と妙の別離に土方なりに思うところが在った所為かもしれない。近藤はといえば松平の命で西へ北へと日本中の戦場を駆けずり回った。土方もそれを支えた、が戦火が江戸まで及ぶと近藤は土方を江戸へと返した。 “江戸を、お妙さんを護ってくれ” 近藤はそう土方に約束させた。現在の近藤はと言えば、京で負傷した傷が癒えず、未だ大阪や長崎で医者を探しては療養中の身だ。 土方始め隊士の活躍により、江戸での被害は極小のものとなった。とはいえ全体を通してみれば佐幕派、倒幕派ともに被害は甚大であり、結局のところ第二次攘夷戦争は双方痛み分けという形で終末の一途を辿り始めた。 それから1年が経ち、2年が経った。しかし一向に銀時が帰ってくる気配は無い。傍目にも解るほど妙の身体は弱り、精神は衰弱していった。何処に居るかも解らない、まして生きているかどうかも解らない男を待ちわびるのは果てなく孤独な旅も同然だ。 土方は己の無力を悔いた。これでは近藤との約束が守れていない――! 「俺はテメーのことなど何一つ知りたくは無かったが、否が応にも知っちまったことがある。その中で俺が抱いてきたお前という人間はそんなことを口走る人間じゃなかった筈だ。違うか?」 土方の問いに、銀時はくっと笑った。始めて見るこの男の表情だった。全く掴みどころの無い表情。そしてその内に、確かなる狂気が潜んでいることを土方は感じ取っていた。 「笑わせんなチンピラ警察24時。そっくりそのままその台詞返してやるよ。何イイ子ぶってんだ、女にいい所見せたがる発情期の高校生ですか?」 冷酷とも受け取れる其の声。土方は何処かで冷静にそんな銀時を見つめていた。 「…変わったな、お前。否、狂ったのか。人間を極限状態にまで追い込むあの戦争は、お前をそこまで変えたのか」 その言葉にはいささか語弊があるとは思った。確かにこの男は狂ったのだと思う。しかし、それでいてどこか正常、且つ冷静なのだ。それが一層の狂気を生み出し、そして闇に影を落とす。 「そうだな、俺は狂った。そして今も狂っている。けれど狂ったのは俺だけじゃない。そして俺を狂わせたのは戦場じゃない」 何時の間にか月は闇色の雲に覆われていた。しかし闇の中でもなお常軌を逸脱した輝きを持つ銀時の赤い瞳と紡がれる言葉に、土方は小さな混乱を覚えていた。 銀時の正常な部分が、ゆっくりと言葉を続ける。 「お妙だよ。お妙が俺を狂わせたんだ。そしてお前も」 或る日、土方はある覚悟を抱いて志村家に向かった。新八の話では、最近妙はますます弱まり、起き上がるのも困難という状態らしい。土方は焦っていた。手遅れになる前に、何とか――。 土方の来訪に、妙はなんとか上半身を起こして迎えた。頬は痩せこけ、髪にも艶が感じられない。いい天気ですね、ええそうですね、などと当たり障りの無い会話をした後で、土方は意を決して妙に言った。 “俺と一緒に屯所に、来てくれないか” と。 局長不在、隊長不在、参謀含む隊長格以下が多数死亡し、真選組は最早原形を留めていなかった。唯でさえまだ混乱の渦の絶えない江戸では連日隊士が借り出され、劣悪な環境下で虐げられている。しかも以前のような幕府預かりの形態ではないから、きちんとした食事も寝床も得られない。肉体的、精神的にも疲労困憊の隊士らはやがて日常的に屯所内外を問わず騒動を起こすようになり、そのことによってますます信用と安寧を失っていた。 銀時の口癖ではないが、今の真選組に「チンピラ警察24時」というほど相応しい言葉は無いように思う。 副長の土方は真選組の再起を妙に賭け、また妙の再起をも賭けた。 “…始めは屯所に来て、部屋や庭の掃除をしたり、布団を洗濯してくれるだけでいい。もし余裕があるのなら簡単な料理なんかも作ってくれるのなら、ありがたい。唯それだけでいいんだ。それだけといっても、仕事は沢山あるんだが…” “…” “もしだんだん慣れてきたら、隊士連中と少し話をしてやって欲しい。普段、そういった日常会話とかにも慣れてないんだ、あいつら。アンタが話しかけてくれるだけで、随分休まることだと思う。母親の面影も重ねるかもしれない。隊士の中にはもしかしたら不埒なことを考える奴も出てくるかもしれないが――そう言う奴は俺が斬る。だから…” 土方の誠意ある言葉に、妙はゆっくりと口を開いた。 “私の料理の腕前――知っているのでしょう?” “…や、それは…” “ふふ。…自信はありませんが、私に出来ることでしたら。それが江戸のためになるのなら…喜んで” 妙は穏やかな声で快諾した。 有難い…と土方は心底胸を撫で下ろした。同時に、これから始まったばかりの二つの賭けの成功を祈り、柄にも無く天に祈った。 土方の賭けは当たった。 始めは慣れぬ屯所暮らしに困惑していた妙であったが、仕事に忙殺されるようになるとまるで息を吹き返した魚のように生き生きと働き出した。むさくるしい男所帯、掃除も洗濯もキリがない。仕事は山のようにある。妙の生来の働き者の血が騒ぐのだ。休んではいられない、余計なことを考えられない――。妙はよく食べ、よく眠り、よく働くようになった。そして、その表情に笑顔が戻り始めたのだ。 真選組も変わった。隊士は清潔で穏やかな衣住の安寧(流石に食は受け入れられなかったそうな)を得られ、そして妙という太陽にも似た存在を得ることによって精神的な落ち着きを得るようになった。或る者は妙に母親を見いだし、或る者は将来の妻の姿を見いだし、或る者は護るべき者の姿を見た。 妙によってもたらされた安らぎは仕事の面において大きく発揮された。隊士同士の争いが無くなったことや犯罪の低下、そして不逞浪人の取り締まりに大いに反映されるようになった。幕府からの信頼も再び得られるようになり、真選組は嘗ての、戦争以前のような尊厳と地位を得ることに成功した。 土方は賭けに勝ったのだ。 妙が屯所で生活を共にするようになってから、一年と半年が過ぎていた。そう、あの日も今日のように月が美しい夜だったように思う。 土方は、自覚したのだ。己が最早妙に対し、抑えることのできない獣のような衝動を抱いているということに。 始めはただ見ているだけでよかった。銀時の隣にいて、幸せそうに微笑む妙をただ見ているだけで幸せになれた。だが、今は違う。銀時はもういない。妙に残されたのは絶望と悲しみのみだった。しかし、自分が与えた好機によって再構築され、妙は新たに生まれ変わった――自分はいつも何よりも誰よりも傍に居た。もう、ただ見ているだけじゃない。自分はこの女を離したくはない、自分のものにしてしまいたい――!! 明らかに銀時を受け入れた形跡を持つその身体を、土方はその掌で愛撫し、そして己のものにした。妙は何も言わなかった。 妙の身体を貫きながら、己の一部分が妙によって侵食されていく気分に侵されていた。誰にも渡したくないという独占欲。ただ見ているだけで良かった、それだけで良かったあの頃の思いは、愛という名の狂気の前に散り散りになってあっけなく消え去った。妙は何も言わず、穏やかに微笑んだ。その笑みに土方は、妙が心の奥底から自分の存在を認め、そして愛してくれているのだと――銀時のことは忘れることが出来たのだと、そう受け取っていた。 それが今から半年ほど前のことだ。 土方と妙は正式ではないながらも祝言を挙げ、相変わらず仕事に忙殺されながら、それでも生きていた。妙は隊士らの見せる穏やかな笑顔に安息を覚え、土方は手を伸ばせば届く距離に妙がいることに安心を覚えた。たまに姉に会いにきた新八も、生き生きと汗水垂らして働く姉の姿に胸を撫で下ろしたものだった。 全てが順調に過ぎていくのだと思っていた。 だが銀時は戻ってきた。生きて妙の元へ還ってきたのだ。 まるで何事も無かったかのように突然に。かつてのように締まりの無い笑みでかつてのように軽口を叩き――かつてのように愛したのだろうか。其処は土方の知るところではない。 そして今は自分とは違う男の伴侶となった妙に言った。 “お前を、護りたい” 5年前と変わらない瞳で自分を見つめてくる銀時に、妙は心の奥に潜めておいた自分の思いをさらけ出した。 ずっと逢いたかった、銀時のことを忘れた日など一度も無かった、思いは変わらない。 愛しているのは銀時だけだ―――と。 しかし真選組副長の妻となり、微力ながらも組の統率を切り盛りし江戸の平和を護る義務を得てしまった今となっては、このまま銀時と共に行く訳には行かなかった。その白い細腕には自分以外の人間の命がかかっている。女として、真選組の人間としての狭間で妙は揺れた。女の本能はただただ銀時を求めるが、真選組としての理性がそれを否定する。 土方に対し、初めて憎悪にも似た感情が生まれた。 そして土方はそれに気付いてしまった。そして察した。銀時が生きており、妙を取り戻さんと目論んでいることを――。 何かに焦るように土方は妙を組み敷き、人形のように姦して無理やり口を割らせた。妙は困憊した口調で、しかしながら淡々と告げた。 “次の満月の夜、銀時が自分を取り戻しに来る” ただ返してくださいと茶菓子でも持ってやってくる訳が無い。銀時は自分の刀で、妙を奪いに来るつもりなのだ。 5年前の自分であるならば、妙を銀時の元へと還してやっていたかもしれない。しかし今の土方には妙を傍から離すことなど考えられなかった。妙の意思などどうでもいい。誰にも渡しはしない。その目も髪も唇も声も耳も身体も何もかも自分のものだ。 妙という甘い毒に犯されて、土方は何もかもが、そう――狂い始めていた。 「俺も同じだよ。俺の傍にお妙が居ない世界なんて俺にとっては何の価値も無い。心だけじゃなく身体も離れないように繋がって俺だけを見ていて欲しい。そうさせたのは紛れも無くお妙だ」 銀時の唇が淡々と言葉を紡ぎだす。その表情は闇に隠れてよく見えなかったが、恐らくは土方の知りえぬ貌をしているのだろう、と思った。 狂った部分が言葉を続けた。 「手前もそうなんだろう?土方」 銀時の声ではなかった。 闇の中でも解る、銀時の赤い瞳が鈍い光を放つ。土方の瞳孔がそれを捕らえる。二人とも愛した女が妙でなければ、このように最悪の形で向かい合うことも無かったのかもしれない。 あの夜から7日が過ぎ、今日が満月の晩。土方は隊士の中でも精鋭揃いを配置させ、厳重な警備を行った筈であった。だが白夜叉の前にそれは容易に打ち砕かれた。土方は妙を無理矢理地下牢に押し込め、一切の動きをとれぬようにした。妙は最後まで抗っていたが、一方で何処か理解しているようであった、と今になれば思う。あの抵抗も土方に対しての抵抗ではなく、自分自身の中にうごめく本能と理性に抗っていたのかもしれない。 「答えろ、万事屋」 土方の声は一層低くなり、銀時を牽制した。尤も銀時の耳にはそう受け取られては居ないようであったが。 「お前は妙が本当に思っているのは誰かを知っているはずだ。だったら…そう愛した男が他人の骸を踏みつけてまで自分を迎えに来ることなど、望んではいないことも知っているはずだろう?なのにお前は」 「何度も笑わせんな。その答えはテメーの胸に聞いてみろや。俺はお妙が俺のものだと思ってるし、俺はお妙のものだと思っている。今迄もこれからもな。邪魔はさせねぇ。俺だけをお妙に見せてやる」 ―まるで鏡を見ているようだった。土方は思った。中身はどちらも狂った獣。一人の女に人間の理性までを奪われた、白と黒のケダモノ。 今の妙の状況というものは碁やオセロのそれに似ているのかも知れない。その一色に取り囲まれれば相手のものに成らざるを得なくなるもの。そして相手に挟まれればその色に染まらねば成らなくなるもの。グレーという選択肢は存在しない。 其の時ふと雲が晴れ、差し込んできた月明かりに銀時の貌が照らし出された。妖艶にも似た銀髪の輝きの下の顔は、土方の知る銀時そのものであった。ああ、5年前と何も変わらない。其処にいるのは夜叉ではなく、確かに銀時であった。 ――ずっと決着はつけたいとは思っていた、できればこういう形ではなく。けれどもう、遅い。互いに罪を背負ってしまった。愛してはならぬ女を愛したこと、愛しすぎた故に無意味な骸を積み上げてしまったこと。 罪には罰で償わなければならない。 「そんじゃ、やるとしますか」 銀時のしまりの無い口がそう告げた。 この刹那の時にどちらかに死という罰が下されるのだ。それは必然であり、解りきっていたこと。今更逃げることも無い。 「…妙への遺言でも決めておくんだな」 「んなもんねぇよ。今更どうこう言わなきゃわかんねー女じゃねぇ」 斬り合いの前とは思えぬほど穏やかな、銀時の声音だった。 対して自分は、酷く切羽詰っているように思う。 月明かりの下、穏やかな風が吹いた。 そうだ、今日は鬱陶しいくらいに月が美しい夜だったんだ。 「…来いよ」 銀色の髪が揺れた。 ぞっとするような感覚が、土方の周りを縦横無尽に走る。 隊服の上からでも嫌というほど感じる、肌をひりつかすような剣気。 速い。 速い。 とてつもなく速い。 そして、重い。 腕の力だけではなく、体重と遠心力も使った独特の剣技。余程の筋力がなければ、自らの体重で自滅しかねない動きである。基本も減った暮れも無い、真剣の剣技。それは土方の前に圧倒的な力を見せ付けた。 流星のような神速で追い詰めてくる、二つの光。 そしてこちらを真直ぐに射抜く、静かに燃える赤い瞳。 銀色と刀の光の旋律はあまりに流麗で、避けるのがやっとであった。 ――これが、白夜叉――。 技、速度、腕前、精神力。どれも自分とは桁が、いや格が違う。 勝ち目は、おそらく万に一つも無い。 だがそれは、妙との別離を意味する。 最早、無我夢中であった。 月の光と銀色の光、そして刀の光が一つに重なった瞬間、力の限りに突き上げた。 悪くはなかった。タイミングも、狙いも、隙も十分であったはず。だが――。 肉を断つ音の代わりに乾いた音が響いた。 土方の刀が両断したものは、銀時ではなくその刀の鞘。そして鞘から引き抜かれた銀時の刀は土方の肩を縦裂した。 耐え難いほどの激痛と湧き噴くような鮮血に、土方は唸り声を上げて膝を落とす。咄嗟に左肩を掴もうとするが、自らの血で濡れた肩は上手く掴めない。出血の量が多いのか、視界が霞がかり、意識が混濁としてくるのが自分でも解った。土方の脳裏に二文字の言葉が浮かぶ。 敗北。即ち、死。 天が自分にあきらめろと言っているような気がした。勝つことも、生きることも、妙のことすらも。 銀時の靴音が近づいてくる。 土方は必死に顔を上げ、銀時の姿を見据えようとする。自らを死を導く夜叉の異形を。 青白く輝く月を背に、刀を構え土方を睨みつける銀時の影は、地獄へ導く審判者のようであった。やがてはその刀が振り下ろされ、死が与えられる。そして自分は本当に地獄に導かれる。 歯を食いしばった。死を覚悟したのではない。もう一度立ち上がろうとしたのだ。しかし動かない。この身体はもう、動くことを許さない――。 銀時の姿が目の前に映し出された。 ああ、もう遅い。 自分はこの男の刀によって死の闇へ叩き落され、二度と光を浴びることが出来なくなるのだ。 そして、二度と妙にも会うことは許されない。 必死で銀時を睨みつけるも、何の力をも持たない。その眼差しからは既に生気と言うものが消え失せていたのだから。それでも土方は銀時を睨み続ける。そして下される自分の死を否定し続ける。 だが、銀時の刀は土方に死を与えない。それどころか銀時は刀を下ろしてしまった。 土方は起こっている状況を理解することが出来なかった。 何故、何故銀時は自分を殺さない? 土方の視線を銀時は正面から受け止める。そしてゆっくりと口を開いた。 「立て、土方。出来る事なら俺は…お前を斬りたく、ない」 理解、出来なかった。 何を言う、何を言うか。この斬りあいは一体何のためのものであるのか。そして。 「…はっ、今更、ウチの隊士何人も斬り殺しておいて、何言ってやがる」 副長として多くの隊士を守りきれず、見殺しにしてしまった。それは致し方ないことなのかもしれない、それでも力及ばず夜叉の前に命を散らせてしまったことには変わりない。なのに、その自分は夜叉の手でのうのうと生きる。いや、生かされる――。 銀時の瞳が翳った。何を考えているかは明らかである。だが、言葉を続けた。 「…ここで俺がお前を斬ることは…俺が俺を斬る事と同じだ。今の俺を否定することになる。妙に心底惚れちまって、狂いやがった手前をな」 「…」 「俺は生きていたいんだ。生きなきゃなんねぇ。妙のために、俺を必要としてくれた妙のために生きていたい」 打ちのめされた。 銀時に、そして銀時を突き動かす妙と言う女に。 この男はそれほどまでに妙を求め、そして妙は銀時を動かし――。 虚勢を張っていた身体から力が抜け、がっくりと頭を垂れた。うなだれるその身体からは、最早副長の威厳や斬り合いの気迫など、微塵も感じられはしなかった。 呆然、無様、失望、絶望。 そこに響きわたる、それらを払拭するかのような凛とした声。 「…教えてくれ。妙の居場所」 銀時はまるで手を差し伸べるかのように土方に近づく。その目には一種の穏やかさすら感じ取れた。それは戦いの後の、相手の健闘を褒め称えるような思いにも似ていた。 立てるか、と身体を屈めて話しかけるその表情はかすかに笑っているようにも見えた。 刹那に妙の笑顔が重なる。 はにかむような穏やかなそれは、何処か妙の見せる笑顔にも似ていた。 いつも投げかけてくれた妙の穏やかな笑顔。この上なく愛しくて、この上なく好きだった妙の笑顔。自分はずっとそれが見たかった。そのために生きてきた。そのためなら何だって出来る。妙の笑顔を見るためなら、それを自分だけのものにするためなら―――。 妙に対する狂おしいまでの執着が、土方の次の行動を許してしまった。 感じたのは、刀が肉を貫く感覚と、顔や手に浴びせられる生暖かい感触。 眼前に在った穏やかな笑顔はその白に溢れ出る赤 を浴び て音 も無 く雪 崩れ た 漸く理性を取り戻した土方の目に入ったものは、力なくだらりと腕を垂らす銀時であったもの。そして、膝を折ってそれを愛おしく胸に抱く妙の姿だった。 嗚呼、何ということか。まるで嘆きの 無音の世界。 己の呼吸する息も、妙のすすり泣く声も声も聞こえない。妙は何も言わず、ただ穏やかに銀時を見つめるだけ。 ポタと刀の血の滴る音がやけに生々しく響き渡る。突如割り込んできたその音に、土方は現実に引き戻されたような気がした。 恐らく自分は無意識のうちに地下の座敷牢に戻り、無意識のうちに妙の牢の鍵を開け、そして意識的に銀時の骸と引き合わせたのだ。自分はこういう結果になったことを歓喜すべきなのだろう。銀時という自分を脅かす存在がこの世から消えた今、永遠に妙を己の傍に置くことに何の障害も無くなった。妙の笑顔は自分ひとりのもの。 「罰を、受けたのです」 押し黙っていた妙がゆっくりと口を開く。 「このひとは自分の犯した罪に対し死という罰を受けました。ただ、それだけのことです」 妙はそっと銀時の傷に触れた。心の蔵を一突き――しかし、下段から突かれたそれはどう見ても不自然なものであり、剣士である妙には銀時がどのようにして命を失ったかなど、容易に判断出来たであろう。銀時の白の着流しは既に深紅に染まり、妙の着物にも鮮やかな赤を浸している。 「私には貴方をお恨みする理由は御座いません。私は貴方の妻であり、貴方は私の夫。ですから本当に責められるのはこのひとだけ」 妙の紡ぐ言葉は最早言葉という域に達していないほどか細く、消え入りそうなものであった。それは今にも妙の魂がこの場を離れ世界を隔てた遥か彼方へと浄化してしまうのではという錯覚を抱かせ、土方の胸をこの上なく締め付けた。 土方は自問した。 自分は何故銀時を斬ったのか。妙の笑顔が見たかったから。妙を自分ひとりのものにしたかったから。そうだろう?だが、そうして手に入った妙は、妙だったのか?今目の前にいるこの妙は、自分が本当に欲しかった妙なのか? 妙は言葉を続けた。消え入りそうな声で、それでもしっかりと。 「…なんだか困ったような顔して笑ってるの、このひと。どうしたの?何か、困ったことでもあったの?」 しかし銀時は何も言わない。 当たり前だ。死者は何も語ることが出来ない。紡ぐ言葉も、掛ける手も死者には与えられないのだ。 妙の背中が震えていた。土方は手を掛けようとした。自分には銀時とは違い、掛けられる手がある。しかし掛けられない、手が動かない。目の前の妙がそうさせているようにも感じられた。 零れ落ちる言葉の端々。だがそれにも土方は返す言葉もなく、ただその場に呆然と立ち尽くした。 妙の銀時を見つめる瞳は何よりも穏やかで美しい。静かながらも、深い愛情を嫌と言うほど感じさせるその表情。 それは知り得なかった妙の顔。今まで妙は自分に笑顔を見せてくれたことはあれ、こんなに激しく愛情を感じさせる表情を見せてくれたことが嘗てあっただろうか。いや、自問するまでも無い。 堪えきれずに妙の名を呼ぶ。そして問う。 「お前は屍を、愛せると言うのか」 自分でも驚くくらいに震えた声。動揺していた。妙は何も答えなかった。答えるわけも無い。土方は自らの醜い狂気を妙の前にただ晒しただけであった。 空白ののち、色の無い言葉が妙の口から紡がれていく。 「貴方が気に病む必要なんてありません。ただ、貴方のほうが少しだけ、私に執着する気持ちが強かっただけのことです。貴方の欲望がこのひとの欲望より深かった。…それだけ、それだけです」 妙は少女のように銀時を深く愛し、愛される一方で、同時に土方の狂気じみた愛を受けいれていた女であったのだ。女という器用で奇妙な生き物。蔑みにも似た声は、少女のように純真な部分が発したのか、汚い女である部分が吐き捨てたのか。 それでも妙の銀時への思いは事実であり、真実。消え入りそうな声が言葉を続けた。続けなければならなかった。 「ですからどうか。私がこのひとの骸を抱き続けることを許してください。貴方に怨みの言葉を浴びせる前に、どうか」 土方は気付いた。身体から噴出するように溢れ出ていた赤い血が、すっかり止まっているのだ。 自分は、血も涙も無い狂った肉片へと変貌していたのだ。 ただ、黙した。キン、と音を立て、抜き身の血刀が在るべき所に納められる。 妙はもう何も言わず、何も聞こえず、何も見えなかった。 ――罰だ。土方は天を仰いだ。 男は一人の女のためだけに幾多の命を奪ってしまったが故、自らの命を失った。 女は本能と理性の間で葛藤し、そうしてどちらにも従えぬまま何もかもが砕けた。 己は女に底知れぬ狂気と欲望を抱いたが為に、女の全てを失った。 女の目の前で自らの死を曝け出した男は、結果として命ある女の全てを自分に繋ぎとめた。嘗て言った「俺だけをお妙に見せてやる」と言う言葉は現実のものとして露呈されたのだった。それは幸いなのか、仕組まれた罰であるのか。 それぞれが自分の狂変したエゴイズムを押し付けるあまり、それぞれがそれぞれの罪を背負い、罰を受けた。 マリアは地に堕ち、イエスは崩れた。 土方は妙に掛ける言葉も伸ばすも手も無く、身を隠すように妙に背を向ける。 ふと視界に入った月はそう、鬱陶しいほどに美しかった。太陽に背いた罰を受けているかのように。 幸い、と言うべきか。幕府の上層部から土方に移動の話が舞い込んできた。篝火になりつつはあるものの、未だ戦火の耐えぬ北の大地で指揮官として統率を執って欲しいという。至極酷な命令だ。しかし土方はその命令に安堵すら覚えていた。 このまま江戸に残るのは辛すぎる。 自分の心が現実に追いつけなくても、妙との思い出が染み付きすぎた屯所で朝を迎え、夜を迎える。刻は止まらない。何かに縋っては期待するかのように、二度と振り返らぬ女を思い続ける日々にも言いようのない疲労感を感じていた。 上層部の申し出に土方は二つ返事で快諾した。 あの夜の一件について、当初市民は好からぬ噂を囃し立てたものの、人の噂もなんとやら、というものである。妙が屯所を去ったことについても正式な祝言は挙げていなかったし、結局は男女の仲であるから、と周囲は特別関心を寄せなかった。 土方が北へ向かう僅かな間に、近藤が復帰し沖田が神楽とともに屯所に戻ってきた。 「未だ生きてたんですかィ」と減らず口を叩く沖田は相変わらずで、土方はその時だけ5年前に戻ったような気がした。 近藤はただ、「ご苦労だったな」と微笑んだ。目元が哀しかった。下手な言葉より余程、己のした事に対する取り返しのつかなさを、突きつけられた気がした。 神楽にはあの夜の一件を伝えなかった。が、鋭い娘であるからきっと察知はしたことであろう。それでも彼女は明るく振舞った。その満面の笑みと持ち前の明るさに、あの夜以来ふさぎ込んでいた隊士も徐々に癒され、真選組は以前の調子を取り戻していった。妙の役割は、神楽が引き継いだのだ。 一般市民にしてみれば、真選組は以前と変わりなく動いているように見える。特に問題など受け取れないだろう。悪評の立つ事無く、市民に受け入れられることが副長としての土方の願いだ。 土方は感謝し、そして懺悔した。あの日失った同志は、二度とは戻らない。 この見せ掛けの平和は彼らの骸の上に建立しているのだ。 北の大地に居たのは1年ほどであったが、土方にはとても長い時間のように感じられた。 極限の命のやり取りの中、血と雪の間を這いずるような日々に、土方は幾度となく己の死を覚悟した。しかし奥底ではそれを望んでもいた。妙を壊してしまった罪の意識が消えず、またそれを償う道も見えなかったのだ。やはり死を以ってとも考えるようにもなった。だがそれは逃げでしかない――。 答えが見つからぬまま長かった戦争は漸く終結を迎え、土方は再び江戸に帰還した。しかし己を取り巻く何もかもが重荷や枷に感じられ、土方は酒と女に溺れるようになっていった。 自分も世界も妙も何もかもどうでもいい――。 土方は現実から身を投げた。 息を呑むような伊達男の土方に言い寄る女は少なくない。羽振りも決して悪くはなかったから、何時しか土方は酒場や色町、とりわけかぶき町の馴染みとなっていた。 霞がかったような心身でかぶき町に通う日々が続いた。そんな或る日のことだった。 かぶき町の裏路地に、何処かここの雰囲気とは違う、懐かしい影を見た。 新八だった。 数年前までなら、姿を見掛けて「新八君」と呼ぶことに何のためらいもなかった。しかし今となっては何と呼んで良いのか、そもそも声を掛けて良いのかすら解らない。いや、声を掛けてどうしようと言うのか。掛ける言葉も話す話題も、何も無いはず。 何も見なかったことにして立ち去ろうか、と言う時、何処からともなく泣き声が聞こえた。赤子の、泣き声だった。 目には見えない何かに惹きつけられるかのように、土方の両の足は動きを失った。頭ではなく心が土方の動きを止めているようであった。 程なくして、新八が土方の姿に気付いた。新八は始め何かに戸惑ったようであったが―土方と目が合うと、小さく笑って会釈をした。 「お久しぶりです」 ああ、と土方は答えた。それ以外に何を言ったら良いのか解らない。新八は姉である妙をこの上なく慕っていた男だ。しかしそれは血族としてのものであり、その思いゆえに狂うことは無かった。そう、何処かの白と黒の男のように。 その姉の最愛の想い人を殺し、最終的に姉から笑顔も何もかも奪い去ったのは誰でもない己だ。どんな罵声を浴びせられても仕方が無い、土方はそう思っていた。 けれど新八は土方を憎むような言葉など何も言わなかった。穏やかな笑顔で、他愛も無い世間話をした。山崎から最近ミントンを習っているだとか、お通がチャリティライブを始めたから忙しいだとか。 今日は万事屋の掃除の帰りなのだと言う。週に一度、未だ階下にスナックを構えるお登勢とキャサリン、神楽、そして自分と交代で掃除を行うのだと言う。 土方は神楽の行動を知らなかった。新八にそのことを聞けば、時々沖田を連れて出向いてくるのだと言う。 新八も知らないことではあるのだが、屯所では明るく振舞う神楽もそのときだけ少し、慟哭を見せる。 今は誰も住んではいないけれど、あそこはやっぱり僕にとっても神楽ちゃんにとっても大切な場所だし――新八はそう言って笑った。土方もつられるように、微笑した。 その時だった。先程と同じように赤子の泣き声が聞こえ、その声に引っ張られるように土方は一切の動きを失う。 自分に一体何が起こっているのか。 赤子の声は、新八の背中から聞こえてきた。 「ああ…すいません。何だか今日は機嫌が悪いみたいで」 新八は慣れたような口でそう言った。その赤子は新八が育てているようであったが―。 君の子か、と問うた。新八はまだ未婚だったはずだ。 新八は言った。 「いえ――姉上の子です」 もしや、と頭の何処かで抱いていたモノが事実となって目の前に突き出された。 何故赤子の声に自分がこのように動揺せねばならないのか。そして何故こんなにもこの赤子の声は自分を惹き付けるのか。全てが一本の線になってその姿を見せた。 耐え切れず、土方は口にした。 「おたえさんはいま、どうしている」 震えた唇から零れてきたその言葉には、色と言うものが無かった。必死で言葉を紡ぎだそうとしているのが、新八にも痛いほど伝わってきた。 「…姉上は、信州のほうに居ます」 「…信州?」 新八はこう続けた。妙とあのあと銀時を埋葬したこと。それからまもなく妙が病に伏せたこと、それと同時に子を身籠っていると解ったこと。妙がずっと子供に逢うのを楽しみにしていたこと。しかし病が妙を襲い、医師を始め周囲は子を堕ろせと迫ったこと。その所為で今度は精神を病んでしまったこと――。 それでも妙は無事に子供を産んだ。けれど一度病んでしまった心と身体は未だ元に戻らず、専門の施設がある信州の病院で療養を余儀なくされているという。とても赤子を育てられるような状態ではないので、今は新八が引き取り、お登勢やキャサリンにも助けてもらいながら育てているのだと。 新八は自分の知る限りの全てを土方に話した。すると何も言わず新八の話を聞いていた土方の目から、まるで堰を切ったかのように涙が流れてきた。 切れ切れの言葉の中で、言った。 「生きて、るんだな…生きてくれているんだな…」 生ある身で在るにもかかわらず、二度と触れ合うことすら適わぬ死者に縛り付けてしまった己の罪。 妙は銀時を追って自らの命を投げ打ってしまったのではないか、とずっと心の奥にしこりのように残っていた。 けれど妙は生きていてくれた、生きる道を選んでくれた――。唯それだけで、土方はほんの少しだけ救われたような気がした。 ただ、と新八は言葉を濁す。 だれとの子供なのか、解らない、と。 男の子かしら女の子かしら、と母親というよりはまるで少女のような笑みを浮かべて腹を撫でる妙を見ていると、とてもだれとの子供なのかは聞けなかったという。新八も銀時と土方の顛末は知っている。だから、怖かったのかもしれない。 抱かせてくれないか、と土方は言った。新八は黙って頷いた。 無骨で汚れた腕の中に収められたのは、あまりに清らかで華奢すぎる命。 それは今まで奪ってきた無垢なる力であった。 抱きしめたら脆く壊れてしまいそうで、土方は上手く抱くことが出来ない。それでもその赤子を強く胸に抱かずには居られなかった。 男の赤子であった。珠のように艶やかな黒髪は正しく妙のから受け継いだものであり、若干垂れた印象を受ける細い目は銀時のとも土方のとも受け取れた。果たして土方と妙が夫婦であったころに授けられた子であるのか、或いは還ってきた銀時との逢瀬の間に宿された子であるのか。 いや、誰の子でも構わない。土方は無骨な手で赤子の頭をそっと撫でた。言葉とも唸りともつかぬ声をあげて赤子は身をよじる。その手のぬくもりが心地良いのか、赤子はまもなく眠りについたようであった。 もしやこの子の父を殺したかも知れぬ者の腕の中、何も知らず眠りにつく清らかな命。土方にはこの赤子がビルゼン・マリアが世に残した唯一の希望であるように感じられてならなかった。 意識の殆どを赤子に注がれたような状態の中、土方は新八に告げた。 この子を自分に育てさせてはくれないか。 自分の子であるかどうかも解らない。そのような資格があるのかも解らない。第一、戦しか知らぬような男が赤子を養えるとも思えない。 それでも土方には、これが自分に出来る唯一の贖罪の道であるかのように思えたのだ。 銀時は生を終わらすことによって。妙は生を産み、生を選ぶことによってそれぞれ罪を償った。そして己は生を育てることによって罪を償おう。 土方の申し出に新八は戸惑いを覚えたものの、その穏やかな笑みで返事をする。赤子を抱く土方の姿に、新八はどこかで銀時を抱く妙の姿を重ねていたのだった。 土方の目から一筋の涙が零れた。だがその涙は行く先を持たずただ地面に落ちては染みを作る。腕の中では赤子が乳を求めて泣き声をあげた。 その日も美しい月だった。 涅槃にも信州にも同じ輝きが見えるだろうか、と思う。 かつて太陽から背負わされた罪のようにも感じられたその美しさ。その下で合間見えた銀時と己は確かに狂っていた、と思う。 しかし人が狂い、そして罪を背負う生き物であるならば、同時にその罪を償う道も、そして何より赦される道もあるのではないか。 その道は決して平坦ではないだろう。それでも確かに道には終わりがあり、そして始まりがあるのだ。 そうそしてこれは一介の通過点に過ぎない。 人が人として、愛し憎み汚れながら生きていく、旅路の。 月明かりに照らされる赤子の顔を覗き込む。まるで何かに気がついたように、赤子は土方に笑みを見せた。 |