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女、とは、難儀な生き物と思うのです。 ひとり道を歩いているとき、ふとあのひとと同じ香の男性と擦れ違ってしまうと、それがあのひとではないと解っていても、思わず振り返ってしまう。 あのひとではないと解っているのに。 落胆する自分の姿を頭の中で描けているのに。 それでも振り返らずにはいられない生き物。 そうしてその場に漂う残り香と、ほんの少しの胸の疼きと痛みを抱えて、 またひとり、歩を進める。 そしてほら、こんなとき。 閨の中で自分を抱き穿つその男性を、知らぬ間に頭の中であのひとに挿げ替えているのです。 闇の海に視界を投じれば、あとは波のままにその身を泳がせていればいい。 揺られながら、揺さぶられながら、ただただあのひとの夢を見ていれば「いい」。 そう、「いい」。 ただ、毀れそうな衝撃と溺れるような快覚とに包まれながらも、触れてくる指が唇が、 刻み込まれる熱が時折、思い出したように波から私を引き上げるのだけれど。この唇は違うのよ、この触れ方は違うのよ。あのひととは違うのよ。 身体がそう、訴えている。 それでも、ただただあのひとの夢をみる。 夢を、みられる。 それが、女という生き物。 「みっけ」 ― 大きくて無骨な彼の指が私の首筋後ろ、肩にかけての稜線をなぞっていく。壊れ物に触れるかのように覚束ないような、それでいて何処か手馴れているようなその手つき。 「ここに、1個2個、3個」 ひとつひとつと、その指の腹で軽く押して数えている。その指は彼の髪の色と同じように白くて、血の通わない磁器人形を思わせるほどだった。 その白と対照的な、ひょっとしたら扇情的とも感じさせるような、赤。 そう。 彼が数えているのは、私の首筋に咲いた、花。 赤い赤い、鬱血した、花。 彼が咲かせた花じゃない。彼の知らない誰かが、今日の私に咲かせたもの。自分では死角になっていて気づくことは無かった。着物の襟と垂らされた髪に隠れた首筋はそうそう見えないから。ご丁寧にもそんな場所に、赤い3連星。けれど彼は目ざとくも見つけるのだ。そういう、男。 「普通にヤってたらそんな処に痕なんかつかねーよなあ。何?後背位?」 彼独特のいやらしい笑みを口元に浮かべて問うて来る。ただ、その瞳だけは笑わずに、真直ぐに私に視線を送ってくる。 「馬鹿」とだけ、小さく返した。「馬鹿だもん」彼の瞳がほんの、ほんの少し、ほころんだかのようにも見えた気がした。 不意にその彼の視線が私の下部に注がれた。訝しげに視線の先を追ってみると、そこは小さく突き出た双丘、両方の膝。 「膝、治った?」 彼の手が後ろから私の膝元にまわされた。夏物の薄手の小袖の上から、大きな手のひらがふうわりと包んでくる。衣越しではあったけれど、まるでそこから熱が伝わってくるかのように、身体がじんわりと熱くなった。 「おかげさまでね」 1週間ほど前のことだったろうか。家路の途中、擦りきれた両膝がどうにも痛くて、 たまたま近くだった万事屋に駆け込んで手当てをしてもらっていた。痛そう痛そう、 と新ちゃんや神楽ちゃんが心配げに見ている中で、何も言わずに白濁色の消毒液の滴る綿でその傷を拭ってくれていた彼。 その時の私を突くような瞳、でも何処か、かなしげにも見えるその表情は、今も頭を離れることは無い。 手当てのお蔭か、そこは化膿することも無く痛みも引き、大分具合が良くなってきている。ただ今だけはこう、彼に触れられている所為か、痛みがあるときのように熱を持っているような気がして、ならない。 「痛えよなあ、畳って。硬いし擦れるし」 ふと、彼が言葉を零した。 「まあ、膝に全体重かけた挙句さんざんに動くんだから、あれ位の傷がついて当然だよな」 返事は返さなかった。 「でも板張りの上ってのもなあ、冷てえし。あれはあれで平らに擦れるしな」 そう、と返した。頷くでもなく、反意するでもなく。 「ま、痛みがあるからこそってのがあるってことなんですかね。上でも下でも」 「下卑なことで」 「どっちがですか」 そう言って彼は笑った。笑うだけで、後は何も言わなかった。 今、彼が触れているその膝の傷を、そして赤々とその存在を誇示するかのような花の咲き誇るを、彼はどんな思いで受け止めたのだろう。どう、思われたのだろう。 そして目の前の女をどう、とらえたのだろう。 ふと、ああだの何だのと勿体の無い声が頭の後ろから放たれていることに気が付いた。 「俺はね、悪いこととは思わないよ」 「なあに」 「お妙が後ろに抱かれようとも、跨って腰振ろうとも」 私はまた、黙った。 「寧ろお妙がどんな風に腰振ってるのか想像すると興奮する」 「…変態だこと」 今度は彼が答えなかった。ただ、私をその胸元に引き寄せるだけで。 正直、それならそうすればいい、と思っていた。彼がそう感じる欲のままに、私を思う存分使えばいい、と。 私がどう髪を乱すのか、どうその身を締め付けるのか、どう腰を振るうのか。 その瞳で直接、確かめればいい、と。 ずっとそう思って、「いた」。 彼が私を抱き穿つことは、無い。 抱こうとは、しない。 私は私のあるがままの姿を、彼の前に見せつけるばかりだ。 彼と出会いどれほどの月日が流れようと過ぎ去ろうと、どれほどの言葉を紡ごうと騙し合おうと、どれほどの思いを折り重ねようと通じ合おうと、彼は私を貫かない。 傷つけることは、ない。 それは決して「臆病」、なのではなくて、寧ろ。 「でもな」 彼のその声音が急に低く穏やかに、そして何処か、かなしげな色に染まった。 こつ、と私の肩にその額を預けた。ふわふわとした銀色の髪が私の頬や首筋に掛かって、くすぐったい。 「忘れんなよ」 後ろから私の身体をいっぱいに包み込んできた。刹那にほのか、彼の甘い香が私の鼻を頭を身体をくすぐる。その香は私の手を彼の手の上へと重ねさせた。私のその手の動きに、彼の手も重ねた私の手を握り締めて。彼の熱と私の熱とが混ざり合い溶け合ってしまいそうで、身体の奥が焦がれるような感覚に襲われた。 密着した首筋から微か、彼の吐息が感じられてる。味なんて知らないけど、きっと甘いだろうその吐息。首筋のおくれ髪を撫でられるたび、身体は震え胸は疼いた。 やがてその吐息は響きに変わる。 「どうしても最後に傷つくのは、お前のほうなんだから」 そして響きは止まった。 言葉を紡ぐ彼の顔は私の顔に突っ伏されていて見えなかったけれど、きっと何処か、 かなしい顔をしているのだろう、彼のその指が赤い膝を白濁に濡らした、あの夜のように。そんな気がして、ならなかった。 握られた手に、ほんの、ほんの少しだけ、力が込められてきた。 「無茶だけはすんなよ」 それだけ呟くと彼は顔を上げて私を見下ろした。そのさまに、私も彼のその顔を見上げる。今まで隠れていたその顔には、やはりあの夜の表情が見えた。 ふと視線をずらした先、彼の右の首筋。黒色のシャツからはだけた白い肌にちらちらと映える、朱色の模様、鎖骨の窪みの海に沈む、アカイハナ。あわせて、1個2個3個、4個。 「みっけ」 ― 喉の奥、声には出さずに呟いた。 ああ彼も今日、その身体を預けてきたのだ、私の知らない誰かに。その白い肌を波のあるがままに漂わせてきたのだ。 そう、男に抱かれて、きたのだ。私と同じように。 彼は知っている。女を抱く男の思いも、男に抱かれる女の思いも。身体も心も剣で貫かれてさんざんに毀されていく、傷ついていくそのことを。そう彼は知っているの。 その身をもって、傷ついて傷ついて。だからこそ、彼は私を抱こうとはしない。私の身体を穿つことは無い。 自分のように私を傷つけたくないと。 自分の手で傷つけたくないと。 それは決して「臆病」なのではなくて、寧ろ「自己満足」。 自分の経験がはじき出した、全くの、けれど痛みすら感じられる「自己満足」。 でもそれが彼の私への精一杯の表現なのだと解っている。 だからこそ、また。 胸が疼く。そして痛む。 彼の身体にもたれかかった。大きくて温かい、いとしい身体。彼も私を抱きとめた。 私の身体は力強いぬくもりに包まれる。時がゆらりと、観覧車が回るようにゆらりと流れていくような中、首に掛かる彼の甘い吐息と私の吐く息だけがひっそりと響き渡る。ひっそり、そうせつないまでに、穏やかに。 ゆらゆら揺れてる頭の表面で、彼に花を散らせた男のことをうすぼんやりと考えてみた。もちろん皆目見当もつかない。だから考えようも、無い。でもそれでいいのだと思う。彼も私を穿った男のことなど、何一つとして聞いてはこなかった。 彼のその身を傷つける男のことを、全く思わないわけじゃない。もう存分にさまざまな傷を受けてきた彼に、もうこれ以上傷ついて欲しくはない。 けれど彼がその白くて大きな手で私以外の女に触れるのなら、その温かくいとしい身体で抱くのなら、その身にくすぶる熱を内に解き放つくらいなら、いっそ。だなんて、我ながら恐ろしいと思わずにいられない。けれどこれが女という生き物の性であるのなら、ただ、狗のように従うだけ。 ああ、本当に。 ふと私の耳元に彼がその唇を寄せているのが感じられた。入ってくるのはいつもの彼の、ただ何処か穏やかで優しい響き。 「折角俺が命がけで借金取りやらストーカーから救ったんだから」 「うん」 「きっちりいい恋愛して」 「うん」 「いいセックスして」 「…うん」 「……で、いい男と結婚しろよ」 「………うん」 そして、せつない響き。 また銀色の髪が私の頬を首をくすぐる。肩に感じる心地よい重みと手のひらに伝わる体温。 ふいに、私に咲いた花に薄い皮膚に包まれた優しい唇が触れてきた。吸うのでも、噛むのでもなく、ただ、触れた。 そして、離れた。 彼はこれからも、ひょっとしたら明日も誰かに抱かれるのかもしれない。誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷つく。 そういう男なんだ、あのひとは。 あのひとがそうであるように、私もきっと、知らない誰かの腕の中であのひとの夢をみる。 今までもこれからも。 抱かれることは無いと知りつつ夢をみる。 知っているからこそ夢をみる。 ああ本当、女って難儀なものですね。 そして男も、難儀で、愛すべきものですね。 |