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―ああ、「悔しい」。 「…っと、センちゃん、消しゴム持ってない?」 「ああ、はい」 「ありがと」 何の変哲もない、いつもの風景。 いつもと同じ、いつものデカベースで。 いつもと変わらず仕事をしていた。 いつものように、書類を書いていただけのこと。 なのにどうして。 「自分の名前間違うなんて、疲れでもたまってるんじゃないの」 「そんなことないわよ」 「お茶、淹れてこようか」 「ジャスミンティーね」 「はいはい」 些細な報告書であっても、概要はともかく署名には3通りの書き方が必須となる。 それは、その報告書を読むのが日本人だけとは限らないから。 外国の幹部もいればチーニョ星人のスワンさんのように異星人もいる。 だから、表面上となる3通りの署名。 ・日本語(漢字表記) ・ローマ字 ・宇宙語 の3つ。 こんだけ書くと、何だか、ペラペラのバイリンギャルのような気分になる。 「デキる女」になったような、自惚れ。 ただ名前を書くだけなんだけれど。 そう。 ただ、それだけ。 ただ、書類に名前を書くだけだったのに。 「なんて書いちゃったの?礼紋・フランソワーズ・ド・茉莉花とか?」 「そんなの書いたらうしろゆびさされ組よ。大した事じゃないの。ローマ字」 「ローマ字?」 そう言って彼は私の書いた書類を覗き込んだ。 「ほら…私の名前、[Marika Reimon]ってなるでしょ?[Reimon]を[Leimon]と間違えちゃうの。時々ね」 「ああ、LとRね。確かに[Leimon]は英語の[Lemon]に似てるから、そう書いちゃっても仕方ないな」 「そう。いい加減慣れなきゃいけないんだろうけど、こんなことぐらいしかローマ字なんて書かないし」 「うん、そうだね」 ことりと、ジャスミンティー入りのカップが横に置かれた。 良い香りが広がる。 「ありがと」と小さく言って、カップを手にした。 ひとくち。 「俺はそういうのないな。「え」は[E]にしかならないし、「せ」も[Se]しかない」 「私みたいなのが珍しいのよ」 「ジャスミンの苗字も俺と同じだったら、そんな間違いしなくて済むのにね」 淹れたてのジャスミンティーが、私の喉を直撃した。 口腔と咽喉を突如襲った高温の液体によって、首上の体温は一時的に上昇し、無数の咳が溢れ出る。 「ジャスミン!?」 息が、苦、しい。 顔、も真っ、赤に違いな、い。 頭も、のぼせて、きた。 「ごめん!!そんなに熱かった!?えっと…あの…水!水持ってくるから!!」 無数の咳によってもたらされた目尻からの熱い雫でよく見えなかったのだけれど、 パタパタという足音で彼が出て行ったのが上気した頭でも理解することができた。 「げほっ、けほっ…何よ、今の…」 頭の中で、反芻されるのはジャスミンティーの熱さではなく、直前に彼が発した、言葉。 「ジャスミンの苗字も俺と同じだったら、そんな間違いしなくて済むのにね」 思い出しただけで、さらに頬が熱くなる。 何よ、これ。 何よ、あれ。 何よ、彼。 何言ってんの?何言ってんの。そして何やってんの私。 あんなの、何の気なしに言った言葉じゃない。 彼ってそういう人でしょ。 私じゃなくても、ウメコにだってテツにだってホージーだってバンにだって。 ボスにだって言ったでしょうよ。 なのにどうしてこんなにならなきゃいけないの。 感情制御には慣れていたはずよ、訓練だって受けていたでしょう。 しっかりしなさいよ。 私の中で、きっとくだらない、けれど大きな葛藤が繰り広げられる。 また、パタパタと足音が聞こえてきた。 「ごめん…水道水しかなかったから、オレンジジュース!」 火傷した喉に100%オレンジジュースはさぞ染みるだろうな、と頭の何処か遠くで思った。 けれど、何か液体は欲しい訳だから、ありがたく受け取る。 「…ありがと」 何の変哲もない、いつもの風景。 いつもと同じ、いつものデカベースで。 いつもと変わらず仕事をしていた。 いつものように、書類を書いていただけのこと。 なのにどうして。 あんな一言で、こんなにも世界の見方が変わってしまうのだろう。 5分前と何一つ変わらないはずの風景なのに、 同じ世界はもうどこにも存在していなかった。 ああ、「悔しい」。 あんな一言で、こんなにも惑う自分がいる。 そして5分前と何一つ変わらぬ彼がいる。 何より、 「嬉しい」という感情が、私の胸のうちにある。 あの言葉に。 つたない、意味もないはずの、何気ない、あの言葉に。 5分前とは全く別の類の自惚れが、私の頭と心に芽生え始める。 ああ、「悔しい」。 嬉しいから、悔しいから。 そう、頭を撫でないで。 |