ちょっとした野暮用で俺とアルがリゼンブールに戻ってから数日後、ある日を境に急に咳をする回数が増えた。
喉の奥が酷く渇く。体は何処も(勿論、機械鎧も)悪くないのに、喉だけがえがらっぽく痛むのだ。一度咳をしようものなら、立て続けに咳が出てきて、止まらなくなってしまう。
 ある時ばっちゃんが心配してか、大丈夫かと尋ねてきた。何とも無いよと返した俺の声を聞いて、ばっちゃんは心配 していた顔を一変させ、かかかと声高らかに笑い出した。何のことかと目を丸くする俺に、ばっちゃんは言った。

「気にすることは無いさ。只の声変わりだよ」

 ああ、俺もそんな年になったのか、と我ながらしみじみ思う。確かにそういう時期かもしれない。そういやここ最近、以前に比べて心なしか筋力も上がり、肉付きもよくよりたくましくなってきたように思う。ただひとつ、身長が伸びないと言う難点はあったけれど、まるで護れるものが増えたかのような。
勿論、それは錯覚だとわかっていた。体が成長したくらいで護れるものが増えるだなんて、そんなことありえない。けれど、そんな錯覚さえ芽生え始めて来ていた。

 折に触れて、ラッシュバレーから戻ったウィンリィから、あの大佐がまた出世したとか言う、嫌味な話を聞いた。20代では異例の出世だとかで、目下の噂になっているのだと言う。「憎まれっ子、世に憚る」という言葉は、どうやら本当のことのようだ。
あの男もずいぶん大層な男だと思う。周りに膨大な数の敵も作っていることだろう。
なのにケロリとした顔をして。どれだけ強ぇんだ、と思う。その強さに、時に酷く自分の弱さを見せ付けられてしまう俺は、不本意ながらも憧れに似たものを抱いていた。不本意だ。決して本意ではない。
 2,3日もすれば、リゼンブールのような田舎町にも奴の噂が流れ始める。
「ロイ・マスタング准将」
奴のことを知らない町の人たちは、次々に奴を褒め称えたり感心したりしている。奴の強さは認めるにせよ、人間性は認めるに値しない。大方、今回の昇進記念にもいろんな女寄せ集めて盛大にやらかしたんだろう。何からナニまで。中尉を初めとした部下達の苦労が目に浮かぶ。
 それにしても、マスタング「准将」
今はもうこの世にいないヒューズさんと同格になったのか、と気付く。けれどもう、ヒューズさんはそこから上がることも下がることも無いのだけれど。

ある日の夕刻、訳あって中央司令部に電話をかけた。相手はシェスカ。色々と調べ物をしてもらっていて、その経過を聞くことになっていた。シェスカは、低くなった俺の声に「大人になったんですね、おめでとう」と言ってくれた。単純に嬉しい言葉だった。「きっとこれから背が伸びますよ」…という一言は正直、余計だったけれど。
 色々報告をしてもらって、少しだけ他愛も無い話をして、シェスカとの電話を切った。通話時間の表示は29分54秒。
そしてはた、と思う。中央に電話するついでだ、マスタングの奴さんに昇進おめでとうの一言でも言ってやろうか!俺にしては盛大なお祝いだ。それでいて皮肉たっぷりな。
シェスカの居た資料室から今度は奴の執務室に繋いでもらった。接続を待っている間、受話器から流れてくる保留の音楽に片足でリズムを取っていた。急に低くなった俺の声に、奴は何と言うだろうかと考えながら。シェスカのようにただただ祝福するか、或いは奴らしく俺を小馬鹿にするかのように茶化すか。俺の「おめでとう」の言葉に対する反応よりも、正直そっちの方が楽しみでならなかった。何時の間にか、片足は音楽よりも一段階速いリズムを打っていた。これってどれくらい?4分の4拍子ってところ?
 そうこうしてる間に音楽は止まり、代わりに

「ロイ・マスタングだ」
と言う奴の素っ気の無い声が入ってくる。いつ聞いても無愛想で低い声だ。相手が中尉とか(それはないか)、ウィンリィとか(…ない、かな)とにかく女だったら、また違うのだろうか。
奴の言葉が素っ気ない分、俺は俺なりの茶目っ気たっぷりに言ってやった。

「いようマスタングさん、久しぶり。また昇進したんだってねぇ、おめでとう。一体何処まで行く気なんだ?俺の居ないところでちゃっかりやってるんだから、なぁ全くよう」

あの男ならきっと一層の皮肉とともに返してくる。綺麗なオネエちゃんでもない限り、純粋に「ありがとう」などと受け取りはしない。そんなこと、よく解ってた。
だから、そんな「ありがとう」のような言葉が返らないことには特に疑問を持つことは無かったけれど、受話器の向こうから何の反応も返ってこないことにはある種不自然に思わずにいられなかった。
俺、何か変な事言ったっけ?長い沈黙の後、受話器の向こうから零れ落ちてきた言葉。

「…ヒューズ…?」

俺の思考を止めるには十分過ぎるひとこと。
そして俺の声も、彼の思考を止めるには十分な声だったのだろう。

 俺のその低くなった声は、亡きヒューズさんのそれと良く似通っていたらしい。
ウィンリィもアルも、そして俺も全く気がつかなかったし、気にも留めなかった。けれどこの男がそれに気付かぬ訳が無かったのだ。
かける言葉が見つからなかった。このまましらを切りとおし、ヒューズさんの振りをして話を続けようか。そんなこと許されるはずも無いから、俺が誰であるのか名乗るべきか。
 どちらにせよ、彼を酷く傷つけることにかわりは無いことは解っていた。
臆病で大根役者な俺は、アンデルセン童話に出てくる即興詩人のように上手く話を進めることなど出来ずに、正直に名乗り出た。

「…准将、俺だよ。エドワード」
自分の名を紡ぐということが、こんなに重くも切なく憚られることはきっとこれからも無いだろう。 

「あっ…鋼のか。何だ、変声期か。…気付かなかった」
俺の声、そんなに辛そうだったのだろうか?俺を傷つけたと思ったのか、とっさに口ごもり、訂正する。けど賢いあんたなら気付いているだろう?あんたの言葉はきちんと俺に届いている。
 だけど俺は何も感じなかった、聞かなかった振りをして適当な話題を振った。今となってはそれが何の話であったのか思い出せない。彼も話に乗ってきた。そうして、しばらく他愛も無い話をして、電話を切った。
通話時間は2分8秒。
今までで一番長い2分8秒だったかもしれない。きっとこれからも。
誰だって何かのきっかけで、誰かが既に死んだ者の名を、特に大切だった者の名を紡いだらきっと俺のような当り障りの無い行動をする。それが人間という生物だ。母さんが死んだときの周りのオトナたちの反応で、嫌なくらいよく身にしみている。だから、大丈夫だ、大丈夫だ。…大丈夫だ。
ちくりと胸の奥が痛んだ。
 彼の、愛しき友の名を呼ぶ声は思い出せても、俺との会話の中彼が何を言葉にしたのか思い出せない。何気の無い会話の中、あの低く落ちる声で、エドワードと俺の名を紡いでくれたであろうか?

錬金術師よ、大衆のためにあれ。
それは俺たち錬金術師を構成している「錬金術」という部分。とはいうものの、国家錬金術師はそれに反したものであるのだけれど。
残った、エドワード・エルリックという何の力も持たぬであろう無力な俺自身は、この受話器の向こう、もうどれくらい前になるのか、あの日で止まったままもう鳴ることの無いベルを待つ男を、憧れるほどに強く、胸が痛むほどに脆いこの男を、守るため在りたいと願うのは、許されること無いエゴイズムだろうか。
友の名を呼ぶ彼の声を思い出しながら、先刻の保留の音楽がキリストの受難曲であったことに気がついた。
背負う十字架は、一人で負わねばならない。

そんな俺の思いを塗り潰すかのように、窓の向こう大きな空の果ては、重く深い闇に包まれ始めていた。










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