浅い眠りに包まれたぼんやりとした意識の中で、門の扉ががらり、と音を立てて開くのを聞いた。
すぐに扉は閉まり、続けて砂利を踏む音が一回、二回、三回…。
その踏み方の間隔と回数で、おぼろげな意識の中ででもこの深夜の来訪者が誰であるのか、妙には容易に推測することができた。
今度は玄関の扉が開いて、閉まる。古い木造家屋の床は一歩一歩と踏み出すたびにみしりみしりと音を立てて軋み、家はほんの少し、小さく揺れる。
よくある古民家のように、広い家。しかしその広さのわりに今夜の主はたったの一人だけ。いやがおうにも、立ってしまった音は家屋一面に響き渡ることとなる。
きし、きしという音はだんだんとその音量を増していくかのように近づいて来て、やがて妙の部屋の前で消えた。
すうう、と開かれる襖。しかし妙は驚くことなかった。この音の主が誰なのか分かっていたし、このようなことは決して珍しいことではなかったから。



眠気で重い瞼をそっと開いた。開かれる双眸。障子の隙間から僅かに見せる月明かりの下、吹き込んでくる風に揺れる銀色の像を結んだ。
その姿はまるできらりきらりと輝いているようにも見えて、ただただ美しい、と思った。

「銀さん」

消え入りそうなほど小さな声で、妙は来訪者の名を紡いだ。
たとえどんなにか細い声でも、深夜の無音の闇の中では聞こえぬはずもない。銀時はその声に気づくと体をかがめ、まどろむ妙の姿を穏やかな目で見つめた。
心なしか、その顔はほんのりと朱に染まっているような気がした。

「悪ィ、起こしちまったか」
「うん、でも大丈夫」

何が大丈夫なのか自分でも分からなかったが、「そうか」と小さく笑う銀時に笑顔で返事をした。
銀時はすっくと立ち上がり、着けていたベルトを外すと身にまとっていたその白い着流しをすべらせた。焦点の定まらない、ぼんやりした妙の瞳に、流れるような着流しの青い流紋が映し出される。まるでそれが、流れゆく海の青のように見えてならなかった。
無音の闇の中、しゅるりと衣擦れの音だけが耳に入ってくる。その髪の色と同じように色素の薄い白い肌が見え隠れする。銀時は黒のシャツを放り投げ、上半身を裸にすると、妙の寝ている布団の中へともぐりこんできた。

驚きもせず、抗いもせず、妙はただ銀時を迎え入れる。そこは厚みのある柔らかい布団と妙の体温とで、びっくりするほど暖かかった。更なる温もりを求めようとしてか、
銀時はそっと、その細い体を抱き寄せた。もしや妙は床について間もなかったのか、その身体は風呂上がりであるかのように温かく、柔らかな黒髪からの芳しい石鹸の香りが鼻をくすぐった。

銀時はしばし、その温もりと香りとの甘い感覚に酔いしれていたのだが、一方の妙はと言うと、銀時の腕の中その眉間にしわを寄せて、銀時を睨みつけていた。

「…お酒くさい」

その咎め、諌めのような言葉に銀時はくくっ、と笑って返す。どうやらたいそう酒を飲んできたらしく、銀時の死んだ魚のような目が息を吹き返したかのように泳いでいる。先ほど朱に染まっているかのように見えた顔は、やはり気のせいではなかった。

「どれくらい飲んできたの」
「んー、たくさん」
「よっぱらい」
「だって酒飲んできたんだもん。水飲んで酔っ払っちゃおかしいけど、酒飲んで酔っ払ったなら何もおかしなことないでしょー」

そう言って、酔っ払い特有の屈託のない笑みで笑うから、責めるに責められない。酒の匂いはぷんぷんと強く漂ってくるのだけれど、銀時のその大きな胸は温かく、そして聞こえてくる規則的な鼓動が心地よかった。



そう、銀時に身体を預けていた妙の艶やかな黒髪に、そっと銀時の指が絡んできた。
かつて刀を振るっていた者の持つ、骨ばった大きな、けれどどこか繊細な指。まるで壊れ物を扱うかのよう、すうう、と梳くかのように触れてくる。耳から下、首筋、後頭部の柔らかな丘陵、滑らかな毛先。
ひとつひとつのその稜線をゆっくりとなぞっていく。撫でていく。落ちていく。
昼間の銀時の乱雑さから、こんな繊細な指遣い。一体誰が想像できようか。
けれどこれが銀時のくせと言うか、愛情表現と言うか、甘えというか。
或いは「救済」と言うか。
そんな銀時の指に髪を、胸に身体を預けている間、銀時がぼそりと言葉を呟くのを聞いた。

「あー…俺、やっぱ今日大分酔ってるかもしれねぇ」

何を今更、そんな分かりきったことを言うのか。はっきりとした像を結ぶことなく泳ぐ瞳、何処か舌足らずなその口調、漂う酒香、朱に染まった頬。
どこからどう見ても、立派な酔っ払いだ。発言もどこか、中途半端で。

「お妙が、天使に見える」

ほら、こんなことを言ってのける。困った酔っ払いだ―と、思う。
けれど心と頭のどこかで、妙はその言葉を真摯に受け止めていた。
そうしてやがて、妙の髪の毛を梳く手はだんだんとその動きを止めていった。心地よい眠りが訪れてきたのだろう、「おやすみ」と妙が小さく呟くと、聞き取れぬほどの
何かを発して、そのまま銀時の意識は眠りの彼方へと消えていった。すうすうとした寝息とともに、裸の胸が上下する。彼の心臓は心地のよいリズムを刻んでいた。
そんな銀時の裸の胸を、妙は彼の腕に抱かれながらまじまじと見つめていた。
大きな、厚い、色素の薄い白い胸。そこは服の上からは分からない、鋼のような筋肉に覆われていた。裸の彼を見るのは勿論初めてではないのだけれど、こんなにまじまじと見るのは初めてかもしれない。いや、きっと初めてだ。こうさせているのは、きっと彼がさっき発した言葉のせいだ。

「天使」

酔っ払いのたわ言と聞き流せばよかったのだろうが、何故かそんなことはできなかった。
彼の裸の胸をよくよく見れば、夜目でも分かるほど、無数の刀傷が刻まれていた。それはどう見てもここ最近つけられたような代物ではない。同じように剣を振るう妙だからこそ分かる、古い、古い、無数の刀傷。どうして今まで気づかなかったのだろうか。いや、本当は気づいていたのだ。ただ、気づかぬ振りをしていただけのことで。



銀時が深夜、妙の布団にもぐりこんでくるのは何も妙の身体を求めてくるときばかりではない。世の恋人たちがそうであるように、ただただ今そうしているように同じ布団の下でぐっすりと眠る。それだけの日もある。
けれど時に、今日のようにひどく酔っ払ってやってくるときもある。そんなときは必ずと言っていいほど、こうやって、妙の髪に触れてくるのだ。きっと何かあったのだろう、と思う。今日、或いは彼の過去に。
けれど妙は何も聞かない。そこはまるで自分が入り込むことのできない―入り込んではいけない場所であるような、そんな気がしてならなかったから。もしかしたら、いつか銀時のほうから話してくれる日が来るかもしれない。その日が来るまで、信じて待つのだと決めたのだ。
だから今は何も言わずに髪を銀時に預けるのだ。自分が、そしてこの髪が少しでも彼を心癒すものとなるのならば―。そう、願いながら。



ふとその時、銀時が寝返りを打った。妙を抱き締めていたその腕は優しく解かれて、
何か言葉にならない言葉を呟きながら妙にその背を向けた。その瞬間にちらりと垣間見えた銀時の表情は、穏やかながらも少し、切なげに見えてならなかった。
その銀時の表情を、そして銀時の背中をその双眸に映して、妙は呟く。

「天使なのは、あなたのほうよ」

細く繊細な指が、銀時の背をなぞる。まるで、さっき銀時が自分の髪にそうしていたように。
銀時の背中は彼の胸と同じように、無数の刀の痕が刻まれていた。ろくな手当てもしなかったのだろう、いや、出来なかったのであろうか。胸以上にざっくりと、その身に無数の刀を浴びて。



まるでそれが、今にも飛び立とうとしている天使の翼に見えて仕方なかった。



その傷ひとつひとつを、そうっと指の腹でつなぎ合わせてみた。
どこからか吹き込んできた夜風が、彼の銀色の髪をさらさらと撫でては、揺れる。今にも銀時が飛び去って行ってしまうのではないか、そんな予感がして妙は銀時の背中を抱きしめた。銀時が飛んでいってしまうなんて、そんなことありえないと分かっている。
けれどもし自分が眠りについて、次に目を覚ましたとき、銀時が隣にいないことは無い、とは言い切れない。天使のように、自分の元を去って行ってしまうかもしれない。

彼の生々しい傷痕を目の当たりにしても、不思議と涙が溢れてくることは無かった。
泣きたい気持ちになった。彼をこんなにした人間を、或いは天人を許せないとも思った。けれど涙は流さなかった。泣いてはならない、そう思ったのだ。涙を流して彼を不安にさせるわけにはいかない。自分の願いは、彼が自分の元で癒されることなのだから。
涙の代わりにそっと銀時の背中に唇を寄せ、その傷痕を紅に染めた。翼の代わりに華を咲かせたのだ。これではもう、天使は空を飛ぶことが出来ない。
だからと言って妙の不安が満たされるわけでもなく、銀時が言えぬ過去を背負っていることも、今もなおそのことに苛まれていることも消えやしない。
それでも妙は、銀時の背中をぎゅうと抱きしめ、唇を寄せた。伝えきれぬ愛しさを伝えようとした。



銀時の背中は胸と同じように心地がよくて、だんだんと意識がおぼろげになってくる。
そんな時ふと視線を変えると、銀時の着流しが視界の隅に入ってきた。白の色地に、
流れるような青い流紋。さっきそれは流れる海の青のように思えた。
けれどきっと、あれは広がる空の青なのだ。
天使が舞い飛ぶ、あの空の青なのだ。




もしかしたら銀時にとっては自分のところなど、天使が翼を休めるための一過点に過ぎないのかもしれない。
そう、今は。今だけは。
けれどもいつかは、この髪が、そして自分が彼にとって本当に心休まる場所となりますように、
帰る場所となりますように。



「…銀時」



愛しき者の名を紡ぐその言葉にそんなささやかな、けれど大きな願いを込めて、
妙はその大きくも華奢な天使の翼を抱き締めた。





東の空に暁が舞い降りて、世界を白く銀色に輝かせ始めていた。














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