チョコレート


かつての教え子から電話が入った。
俺の目の前に居たとき18歳だった彼女は22になり、そうして今度、結婚するのだという。そこまではいい。
が。
おめでとう、と言葉ばかりの祝福を述べた後で彼女から発せられた言葉は、相手が彼女であるからこそ何処かで危惧してはいたものの、いざ耳に入るとここまで動揺するものだとは予想だにしていなかった。
「結婚する前に一度だけ、お会いしていただけませんか」
何処のベタ恋愛ドラマだ。しかも指定されたのはホテルの一室。オイちょっと待ってくれ。俺の頭はそう訴えたが肝心の口は何も言葉を紡ぎはしなかった。時だけがただ流れ、やがては彼女の「お待ちしています」という言葉で電話が切られる。
俺は受話器を置き、黒ずんだ職員室の天井を眺める。
卒業して4年。平均結婚年齢よりはいささか早いかもしれない。しかし彼女は高校を卒業してすぐ社会に出たパターンだから、そうでもないのか?それでもかつての教え子がひとり、誰かと結ばれて新たな家庭を築いていく。そう思っただけで、何処か感慨深くなるのは事実である。
――まして、彼女の場合ならば。



「おかえりなさい」
綺麗な声が俺を出迎える。と同時に飛びついてキスをひとつ。彼女が社会に出て4年ならば、俺もコイツと暮らして4年になる。結婚はしていない。第一コイツはまだ大学に通う学生だ。いつ結婚するんだと教え子連中に会うたびに問い詰められるが、予定は未定だ。
コイツが学生だからと言う理由は勿論だが、それとは別に俺に未だ結婚して家庭を築いてどうのこうの、というヴィジョンが形成されて無いことも関係していると思う。三十路を過ぎた男が何を言うかと思われるかもしれないが、まだ自分は手前のことで手一杯な状態だ。この上更にやがて友人他の先生に「家内です」とか紹介するだろう女や、その女の股から「お前の息子だよ」とか言いながら出てくるガキどもを背負って社会に奉仕していく様が如何にも信じがたい。
22その辺で結婚を決意した彼女はもしかしたら俺より遥かにオトナであるのだろうか。
多少の危機感にも似たものを、覚える。

「…うわの空だったね」
未だ繋がったままの状態でコイツは呟いた。
「うわの空、っていうか、心ここにあらず?何だか、おざなりに抱かれたみたい」
「…正しくはなおざりだろ」
「そっちの方が最悪…っていうか、自分で言う?」
しまった。何やってる国語教師。コイツは生徒じゃないしこれは授業じゃない(ある意味では個人授業とか言う枠に入るのだろうが)。
折角俺も早く帰れて、そんでもってコイツも今日はゼミやらバイトやらがなくて家にいられたってのに、今まで何やってたんだ。いや、ナニをしていたことには変わりはないが。しかしながらもう一度…という気力と体力が無いのが哀しすぎる。
引き抜いて後始末をするさまを、ぼおっと熱に浮かんだ瞳が眺めていた。
「…なに?」
「…らしくないな、と思って」
確かに。
何やってんだろう俺、マジで。
多分それは夕方にかかってきた一本の電話に由来していて、それが未だ俺を縛っている。それが何故だかは分からない――ということにしておく、一応。
しかし4年も一つ屋根の下でもって一つのベッドで寝ている女に、今更隠し事も何も無いのかもしれない。
「猿飛が結婚するんだって」
その名を聞いた瞬間コイツの目の色が変わる。頭の何処かでは予想していた反応だった。
「…おめでたいことね」
「そうだな、相手はアイツだ、附属校に転任した、日本史の服部」
「全蔵先生?」
「ああ」
「そう、結婚するのね」
伏せられたその目からは何を考えているのかは何となく予想できた。同じ元教師と元教え子の関係でありながら、向こうは社会的に認められた関係に発展し、こちらはどうともつかない関係をだらだらと続けている。言い訳なら幾らでも出来る――が。
「それで?」
そう、鋭く俺を見つめる視線に射抜かれそうになる。
「それだけじゃないでしょ?それだけで、そんな動揺するはず無いもの」
肌を撫でる風が冷たかったので服を着込みたいところだったが、明らかにそんな空気ではないことくらい、俺にも分かっていた。告げる口は重く、鋭い。
俺は何処かで躊躇いながらも、言い切った。
「最後に一度だけ、会ってくれませんか、って言われた」
コイツの視線は相変わらずで、逸らすことも受け流すことも出来ない。にらみ合いとまでは行かないが、それに似た状態が続いただろうか。そんなに長い時間ではなかったが、まるで永遠にも近い時間のように感じた。
やがてはコイツの方が折れるかのように、投げ捨ててあった俺のシャツやらを寄越してくる。それに従うかのように、俺は膝まで下ろしていたトランクスを上げた。
「行くなとか言わねぇの」
服を着込む背中にそう言葉を投げた。
「言う訳無いじゃない。だって猿飛さんはあなたの教え子で、あなたは猿飛さんの恩師でしょ?結婚式のスピーチだとか、そんな感じのお願いで行くんなら、私がそれを止める権利なんて何処にも無いじゃない」
なるほど全くもってその通りだし、そう考えるのがあくまで自然だ。っていうか如何にも下種な方向に辿り着いた俺の方がよっぽど不自然なのだろう。
それでも。
だったら何で喫茶店だとか…せめてホテルのロビーじゃなくて、ホテルの部屋なのだろうか。人に見られたらまずいわけでも無いだろう、だったらやっぱり人に見られたくない何かを企てているのではないかと考えるのが、やっぱり普通だ、うん、そう言うことにしておこう。
ホテルの部屋で会うということまではコイツに言わなくてもいいだろう。
「…猿飛さんのこと考えながらしてた訳じゃ、ないでしょ?」
心臓が飛び出るかと思った。
確かに彼女のことを考えていたわけではないが、彼女の一件があったからこそ如何にもおざなり通り…なおざりいやのセックスになってしまったことは否定できなくて。
「ね」
目の前にずい、と綺麗な顔が飛び込んでくる。大きな黒目がちの瞳、長い睫毛、形のいい眉毛、何処か艶やかな小さい唇、ほんのりと上気した頬、そして憂いを帯びたその表情…それらが合わさって出来上がったコイツの女としての貌は、まるで一種の芸術作品のようだと思った。
その瞳が、唇が、ほんの少しだけ、弧を描く。
「でも私はちゃんと、分かってるから」
視線が再びかち合う。けれど先程のように鋭く重いものではなく、何処か柔らかで甘いような――俺は無意識のうちにその両手にも余るほど小さな顔を包み込んで、その額に口付けを落としていた。
「…そっちじゃなくて、こっち」
細く白い指が潤んだ唇を指差す。その指ごと口に含むかのように、俺はその唇に喰らいついた。
現金にも俺の気力と体力はそれで復活した。コイツの唇はどうやら死ぬ気弾以上の力を持っているらしい。どちらからでもなく互いの衣服に手を掛けて、2回戦ならぬ真の1回戦が始まった。



指定されたホテルに着いたのは夕方6時のことであった。土曜日だったから授業もなく、いささかやり残していた仕事をしに学校へ行き、その足でホテルに向かった。
一応スーツな訳だからなんら問題も無いだろう。
何かちょっとした祝いの品でも持っていこうかと思っていたところ、ホテルの中に名前だけは知っていた高級チョコレートの店が入っていたのでそこで見繕うことにした。
店内に並ぶチョコレートを見ただけなのに、こみ上げてくる唾を抑え切れない。が、財布の中身は彼女への贈り物を買うのに精一杯で、とても自分の分を買う余裕などありそうにも無い。うらやむ気持ちをじっと抑える。
チョコを鞄に仕舞い、指定された部屋のベルを押すと、中には彼女がいた。当たり前、と言うべきかどうなのか、部屋には彼女は一人で、数ヶ月後には夫になる男もそこにはいなかった。
「お久しぶりです」
そう言って彼女は笑う。
こういう言い方は下賎だろうが、色っぽくなった、と思う。身体のラインがより強調された服に、艶やかな長い髪。そして表情や声から滲み出るような女香。もともと女の部分が強調された生徒であったから、こういう成長振りを見せることは特別変わったことではないのだろうが。
確か今はフリーターを経て介護福祉施設で働いていたと思うのだが、そこでもこんな感じなのだろうか。介護される爺さん達はいろいろと大変だろう。
「…来てくださって、とても嬉しいです」
「そうか」
「ずっとお会いしたいと思ってたから」
そう言葉を紡ぐ唇や微かに笑みを見せる目許は18のあの時のままだった。あの当時、俺に向けられてた、あの。まるで昔にタイムスリップしたような気分になった。
「…ああ――結婚おめでとう」
彼女はありがとうございます、と笑った。どこかその声が切なげに聞こえたのは、俺の気のせいだろうか。
促されるままに椅子に腰掛けると、彼女は一枚の紙を鞄から取り出した。そこには結婚式のタイムテーブルと思わしき内容がびっしりと書き込まれている。
「実は先生に、お願いしたいことがあって」
この流れからすると正しいのはアイツの方だったようだ。
「私の恩師で、全蔵の友人ってことで、スピーチをお願いしたいんです」
ビンゴ。
神様仏様キリスト様、不埒な俺をお許しください。
確かにまぁ…結婚を控えた男女がホテル暮らしと言うのは珍しいことでは無いのだろう。新居にもまだ入れなくて、でも部屋の荷物はまとめなければいけなくて、結局住むところがなくてホテルに篭る、なんて。ドラマや映画でよく見かけるじゃないか。
変な話だが、これで神楽あたりがホテルの部屋に俺を呼んでも、俺は何の懸念も持たずホテルに行ったことと思っている。しかしながらこんな変な妄想や紆余曲折にも似たものを抱いたのにはそれなりに理由があり、それは相手が彼女だったからと言うところが一番大きく、同時にそれ以外に理由は存在しなかった。
「先生?」
思考が変なところに飛んでいた。ごまかし程度の笑みを浮かべて、ああわかった任せておけと言う。彼女はまた、嬉しそうな笑みを浮かべた。
それにしても。
「全蔵 ねぇ」
「どうしたんですか」
「あのころは普通に服部先生って呼んでたよな」
少し。ほんの少しなのだが、笑みが翳ったような気がした。不思議だ。表情は眉根ひとつ変わっていないのに、発せられるものが先程とはまるで違う。
まずいことを言っただろうか。しかし彼女は特別咎めるようなことは何も言わない。代わらぬ声音で、言葉を続ける。
「それはそうですよ。これから曲がりなりにも4、50年一緒に生きていく人だもの」
くす、と笑うその表情は、先程までのそれとは違う、今の彼女そのもの、22の女の笑みであった。俺の知らないところに行った、猿飛あやめという女の貌が俺の目の前で壁のように笑っている。
タイムスリップはうつつの夢であった。
そこそこの談笑をしていたが、ふと目に入った時計で既に時刻が8時を回っていたことに気が付いた。
「じゃ、そろそろ俺行くわ」
椅子から離れる俺に合わせるように、彼女も合わせて立ち上がる。
「…当日、よろしくお願いしますね」
ああ、と手を上げて背を向けた。多分狭いアパートには俺の帰りを待っている人間がいるはずだ。
「全蔵によろしくな」
そう告げた途端、背中越しに感じる空気が変わったことに気付いた。そうして何時の間にか、俺の背には本来ここに張り付くべきではない元生徒が、いや女がぴったりと寄り添っている。



相手を間違ってるんじゃねぇの。
そう言ってこの手を解けば何の問題は無い。全蔵のためにも、彼女のためにも。そして何より俺やアイツのためにも。
なのに何故か俺はそうせず、そうすることも出来なかった。教師ゆえの優しさだとか、そんな言葉で説明できたらどんなに楽だろう。国語教師の知識や授業の内容はこんな時に限ってこれっぽっちも役に立たない。
知らないわけじゃない、そして分からない訳じゃない。かつて彼女が俺に対しどのような感情を抱いていたのかと言うことを。
そしてそのことが、今もなお俺が彼女をかつての教え子の一人と言うカテゴリの中に区分できないという事態を起こしている。
ドラマや漫画では良くある内容だ。教師に憧れる生徒の話と言うものは。しかしそれはあくまで憧れであって、恋ではない。そう思っていた。
だが俺は、彼女の俺に対する気持ちが単なるピュアな憧れではなく、もっと生々しい、恋という感情であることに気付てしまった。自意識過剰と思うだろうか、でも今までにもそれなりの場数は踏んできた男だから、隠し方すらも知らない青くさい十代の感情くらい分かった。分かってしまった。
その刹那に感じたことは、彼女に対する好意やその逆の嫌悪感ではなく、ただただ「申し訳ない」という思いであった。
高校生の恋と言うものは、後になってからわかることだが、卒業してしまえば2度とは経験できない、その場限りのこの上なく貴重なものである。高校を卒業しても、「恋愛」は出来るだろう、しかし「恋」はもう出来ない。
より、具体的な面について触れてしまえば、ただ相手を好きなだけで恋人関係が成立するのは高校時代までである。仮にキスの先にセックスと言うヴィジョンがあったとしても、それは「思うだけじゃ物足りなくて、好きだからこそ繋がりたい」だとか、そんなキレイな思いだけで成立するモノだろう、きっと。それが通用するのはそれこそ高校時代までだ。それから先の世界に進むと、打算だとか、肉欲だとか、そんな出来る事なら知りたくはなかった部分から男女の肉体関係が生じてくる。
だとすれば、そんな貴重な時間を俺のために費やされるということが、(やはりこれも自意識過剰とも取れるかもしれないが)彼女に対し申し訳無くて仕方が無い。彼女の気持ちを知っていながら、受け入れもせず否定もせず受け流しているだけと言うことがどんなに卑劣な行為であったことか。俺が彼女の気持ちに応えられることなど決してありえないのに、曖昧でどうとでも取れるような態度で受け流して。
だからこの上なく「申し訳ない」。この言い方は決して適切ではない。しかし他の言葉も考えられない。
そんな俺自身の屁理屈にも似た理論から、今も彼女にある程度固執にも似た感情を抱くのは、仕方の無いことだ――と、そうオトナの理論で解決しようとしている。
――アイツのことは、と聞かれれば、返答に困る。
アイツを俺の元へ引き込んだのは紛れも無い俺だ。俺は教師だから生徒の思いには応えられないんだ、と適切な回答をしている横で、同じ生徒と言う立場にあった女をそれまでいた世界から無理矢理引き上げた。
彼女とアイツが幾度となく衝突したことは知っている。そのたびに俺は彼女に向かってアイツとの関係を嘘で固めた理論で否定し、アイツには彼女との関係が教師と生徒のそれ以外の何物でもないことを言い聞かせた。
酷ぇ野郎だ。
都合よくいろんな顔を使い分けやがる、人間として男として教師として最悪だ。
だがしかし、最悪野郎は最悪野郎なりに幕を下ろさなければならない。


「マリッジブルーか」
「違います」
彼女は即答した。そんなことは俺もわかっている。彼女が何を思い、本当はどんな目的で俺をここに呼んだのか。今となってはもう、分からないはずも無い。
「私は」
そう紡ぐ唇が震えていた。続けて発せられる、それまで彼女が抱いていた何処かの国語教師に対する心情を吐露する声は震えていて、それは既に言葉にの形を成していなかったが、それでも彼女の意思は言葉と言う形を越えた部分で俺の元に届いてくる。
「ひどいひとですね」
「俺もそう思う」
「はっきり切ってくれればよっぽど良かったのに、いつまでも曖昧にして。だからいつか、だなんて期待しちゃう」
「そうか」
「先生だからなんてキレイごと言って、そのくせ他の生徒に手を出してるんだから、最悪」
「…だな」
しかし返事は無い。肯定も否定もせず、ただ目の前の大きな背中を離すまいと必死になっている。
大きな沈黙、の、あとで。
「…私は先生というひとがわからないわ」


チョコレートの紙袋を鞄から取り出した。
そして俺はゆっくりと振り返り、その袋を彼女の前に差し出す。
「お前の結婚祝いだ、食おうぜ」
そう言って俺は笑う。
――また、はぐらかして。
鋭く睨む瞳がそう言っていた。俺は袋を開けて、5個入りのチョコレートの箱を取り出す。ホワイトチョコやココアパウダーの降りかかったチョコが綺麗に並んでいる。
箱の蓋を開け、どれが食べたい、と彼女に問う。彼女は真ん中のチョコをつまんでそのまま頬張った。瞳は俺をじっと睨んだまま。俺はその隣のアーモンドが散らされたチョコをつまんで食べた。
視線をかち合わせながら、互いにチョコを黙々と食べる。コンビニで売っているようなそれとは違い、一粒でチョコ1ダース位の満足感を覚えるほどの濃厚さと質量がある。たかがチョコ一粒を食べ終わるのに、随分な時間がかかった。
「美味いか」
目の前の彼女はじっと俺を見つめたあと、首を小さく縦に振った。
「けど、苦い。とっても」
彼女が手に取ったのはきっとカカオ分の強いビターチョコだったのだろう。確かに色も大分濃いものだったと思う。
「そうか、でも俺が食べたのは甘いやつだった」
そう言って、残りのチョコが入った箱を彼女の掌に載せる。
「教師ってのはチョコみたいなもんかも知れねぇな。甘い面と苦い面を使い分ける。なんかそんなの」

ひとりの人間である以前にいち教師、なのか。いち教師である以前にひとりの人間、なのか。そのような葛藤にも似たものはどんな職に携わる人間にでも存在するだろうが、とりわけ教師と言うものにはそれが顕著に現れているような気がする。「教師」を広辞苑で引けば「教育をする人間」で、「教育」を引けば「人間を望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動」とある。しかし実際、どんな道が人間に望ましいのかはなんて教師も文部科学省も総理大臣もきっと良く解ってない。一般的に何処かずれていると判断される生徒にも、その生徒の世界の中で、彼ら自身の「志」に似たものがあって、それをまっとうするために生きているのだ。俺は実際にそういったものを目にして、彼女に新たな世界を教えようと、そして与えようとした。盛りのついた年齢の集まる「高校」と言う場所なら、それも容易なはずだった。けれどそれは、彼女の目には「教師」や「先生」という面を被ってお仕着せの反応しか出来ない酷くつまらない人間に映ったかも知れない。
だからこそ、同じ生徒と言う立場であるにもかかわらず、俺からの特別な庇護を受けたアイツに何かしら美しくは無い感情を抱くこともあったのだろう。アイツは教師としての俺じゃなくて、男としての俺が好きになったとか訳の分からない回答をしてもきっと彼女が望むのはそんな答えじゃない。
アイツにはただただ甘い面を、彼女にはひたすらに苦い面を見せていた、そんな風にきっと――感じたことだろう。包みは同じ、教師と言う名のチョコレートなのに。
「苦いのばっか食ってきたよな、お前」
俺の掌が彼女の小さな頭を包み、撫でる。思い返せば冗談でも生徒の頭を撫でるなんて真似をしなかった俺にとって、こうして愛おしく撫でるのは初めてかもしれない。
「新婚生活の愚痴なら幾らでも聞いてやるぜ。なんせ俺はお前の先生だからな」
苦いチョコレートは急には甘くなれない。だからこれが俺が表現できて彼女が甘いと感じられそうな精一杯だ。
ずるいな。
そう聞こえた気がする。彼女の声なのか、それとも俺の頭の何処かが呟いた声なのか。



「おかえりなさい」
出迎える声は相変わらず綺麗だった。でも今日はキスは無し(なんとなくそうじゃないかとは思っていた)。相手の帰宅が8時過ぎるときは勝手に食事を取るのが自然と決まったルールなので、今日もそうしてるかと思いきや違ったらしい。俺のことが気がかりで食事も喉を通らなかったのかと茶化してみたがとりあえず殴られた。
素直じゃねーな、と痛む頬をさすって、ふと感じるのは教師もそうだが女もある意味では十分チョコレートみたいなもんだろうという結論だ。いつかのように甘い時もあればこんな風に苦い時もある。コイツの場合はそれがいたって顕著だ。
ああ、だから同じもの同士で惹かれあったのかなだなんてくだらないことを考えてみる。
糖分至上主義者の立場からすれば、甘いものだけ食っていたいというのが正直な気持ちだ。
でも。
「妙」
そう呼ばれて振り返る横顔。今はお世辞にも甘いとは言えなさそうなその表情にすら、愛しさと言う名を借りた欲情すら芽生えてくる。
ビターな面ですらそう思えてしまうのは、俺がこのチョコレートにどっぷり浸かっているからなのかも知れない。だとしたら、あの彼女がそう思えなかったのはそこまでには至っていなかったから、とまた自己を正当化するような言い訳を考えてみる。しかし彼女がこれから40年50年をともに生きることを選んだ男が教師であることを考えれば、あながち俺の推測も間違ってはいないのかも知れない。
目の前の女に手を伸ばして、胸に抱きこむ。白くやわらかな肌や、艶やかでなめらかな黒髪からは他の何物とも違う甘い香りが漂ってくる。それは時に俺を欲情に駆り立て、時に無性にやるせなくさせ――時にはこの小さな箱庭のような家に閉じ込めて、俺以外の何者も見えないようにさせたくなる。そのくせ、肝心の俺は家の外で聖職者を演じて。
ああ、何処までも都合のいい男だ、と自分でも思う。けれどそれほど理屈を超えて好きになって出来るだけ近くに居たいと思える人間がいるわけで。その思いが多分結婚とかそういうものに何処かで繋がっていくのだとは思うのだけれど。


「無性に甘いものが食べたい気分なんですけど」
「戸棚にチョコレートがありますよ、「坂田先生」」


今はもう少し、ただ何も考えずに目の前のチョコレートを貪りたいだなんて、それは甘っちょろい考えですか。その前にドロドロに解けてしまうのかもしれないけれど、どちらも。