のどかな昼下がり、いつもと違う賑やかな放課後。明日から楽しい夏休み。
窓の外の陽気とは裏腹に、教室の中には眉間にしわを寄せるだけ寄せて机に向かう少女が一人。

「やっぱり、新八に頼めば良かったヨ」
「なんだいその湿っぽい面(ツラ)は。俺の指導を受けられるなんざ大変名誉なことだぜぃ」

彼女に向かい合うように腰掛ける少年はそう言って彼女のノートを覗き込んだ。

「今日中にこの課題終わらせねぇと、ダンナが悲しむだろうねぇ」
「銀ちゃんは優しいから明日の朝まで待ってくれるかも知れないヨ」
「そりゃあ優しさってより諦めじゃないかね」
「…だからお前に聞くの嫌だったヨ」
「そう言いなさんな。ダンナに愛想尽かされないように今日中に終わらせるのを手伝ってやろうってんでさぁ」

どこからともなく聞こえてくる蝉の声が耳を突く。
校庭の部活動の声が何か急かすようで落ち着かない。
目の前の男の言葉はいちいちカンに障る。
担任の残した補習の課題が面倒臭い。
とにかくいろいろな条件が神楽の神経を逆撫でしていた。

「新八ならもうちょっとデリカシーのあるフォロー入れてくれるアルよ」
「あいつは今日も部活でしょう」
「帰宅部ほどつまらない男はいないネ」
「いつでも遊べるからモテるんでさぁ。
おう、そこはさっきの公式が使えますぜ」
「何で? さっきのと全然違うヨ」
「よく見ろや。数字変えたら入るでしょう」
「……」
「それじゃピタゴラスの定理だ。スイッチ入っちまいます」



彼女の担任・坂田は本来国語の教師である(その点については多方から疑問の声が上がっているが)。
その坂田が何故数学の課題などを残していったのか。
そこには彼なりの優しさと、いくらかの適当さが含まれていた。


事はちょうど1時間前のHR終了時。

「おう、そこのビン底」
「花も恥じらう乙女になんたる言いぐさアルか」

周りのクラスメイトはそれぞれ、帰宅の準備をしたり、部活動に走ったりと忙しい。
そんな中、坂田は今まさに酢昆布をくわえんとする神楽に声を掛けた。

「乙女にならもうちっと色気のある声掛けするっつの。お前今日補習な」
「なんで?」
「なんでも何も、神楽ちゃんの期末の点数見ればそりゃあ誰だって心配になるってなもんですよ?」
「通知票なら最高評価ネ」
「これ、課題。今日中に俺んトコ持ってきたらまぁ、夏休みくらいはやるよ」
「そうめんのように爽やかに流されてしまったヨ。あんた本当につまらない男アル」
「そうやって人の古傷えぐるような台詞言う前に課題をやりなさい、課題を。先生、今一瞬過去の自分が見えちゃったよ」
「これから夏を満喫しようっていう可愛い生徒に味気ない紙切れを寄越すような男に、女は目もくれないネ」
「はいはい。酢昆布で一体どんな酸っぱい夏を満喫しようってのかは知らねぇが、学生の本分は学業だからね。
じゃあ、ちゃんと今日中に職員室まで持って来いよ」

神楽は、ひらりと背を向けて手を振る銀時の背中と己の手にあるプリントに、交互に視線を向けた。
そこに印刷された文字列に、少しばかりの疑問を感じるには、そう時間はかからなかったはずである。

「銀ちゃん、これ数字と記号の羅列に見える」
「俺も数学はとんと分からんからな。誰か出来る奴に教えて貰って完璧な答案持って来いや」
「銀ちゃんは国語の先生だったはずヨ」
「まずお前の解答が日本語として正しいかを見てやろうってんだよ」

もっともなような、そうでもないような、曖昧な言葉を残して担任は去った。
残されたのは、窓から吹き込む風にカサカサと音を立てる紙切れと、ただそれを眺める神楽一人。
少なくとも彼女にとっては、それを解読する事から始めなければならない厄介なものに他ならない。

気が付くと教室にはもう誰も残ってはいなかった。

はずなのに。

「おうチャイナ。幾松のプリントなんて持って何してんだぃ?」

ぼんやり手の中の白い紙を眺めていると、顔のすぐ隣から声がした。
普段、他人の気配にはそれなりに敏感な神楽でも気付くことが出来ない人間は少ない。

「気配消して近づくなって言ってる」
「消さずに近づいたら逃げるでしょう。それにこれはもうある種のくせでさぁ」

そう言って、総悟は神楽の前にまわり、プリントをつまんだ。
さらりと眺めて呟く。

「なんだい、これ1年の内容じゃねーか。…あんたがやるのかぃ?」
「銀ちゃんが『補習だ』って置いていったョ」

総悟は、思いがけない名が出たと言わんばかりに目を見開いて、神楽を見た。
それから、改めてプリントを眺める。

「前々から適当な人だとは思っていたが、まさかここまでとは」
「幾松センセの数学はわかりやすいって有名ヨ」
「確かに幾松の数学は好評だが、そもそも国語の補習に与える課題には向かねぇだろ」
「銀ちゃんは適当だから銀ちゃんアル」

褒めているのかけなしているのか。フォローになりきらないフォローを入れつつ、神楽は総悟の手元を見た。
すぐにでもここを出ることが出来るようにまとめられた荷物と、握られた自転車の鍵。
そういえば、HRが終わって真っ先に教室を出て行ったのは、座席が教室の入口に最も近い総悟であった。

「お前、帰ったんじゃなかったアルか」
「お?」
「わざわざ戻ってくるなんて、忘れ物?」
「…まぁ、そんなところです」
「忘れ物くらいで戻ってくるほど暇なんだったら、私の数学手伝うよろし!」
「いいぜ」
「…は?」

いつもならば文句の一つや二つ出るであろう総悟の口から間髪入れずに返された承諾に、今度は神楽が目を丸くする番だった。



そうして、現在の状況に至る。

補習を言い渡されてから一時間。総悟の指導が良いのか、もともと神楽にやる気が無かっただけなのか、彼女はようやくプリントに載せられた一年生の数学を理解し始めたところだった。

「この式は解けるようになったヨ」
「公式として使えなきゃ意味がねぇだろ」
「むぅぅ〜」

とはいえ、理解し始めの頭には、折角完成した数式を分解し、別の数字を使って解くという芸当が困難であった。右手にはペンを握り、左手では口元を押さえてプリントとノートを睨み付ける。残りの一問、応用問題だけが手も付けられず、ノートには真っ白い空間を残していた。

「ガードしてんの?」
「は?」

数学の問題を解いていて一体どこから格闘技の話が出てきたのか。
訳も分からず顔を上げると、総悟が上目遣いで自分を見上げ、さも楽しげに目を細めた。

「左手」
「………」
「ひとけの無い校舎。教室に二人きり。二人の距離はたったの三十センチ。
青春の一ページにもってこいのシチュエーションだ」

そう言われて、初めて自分の人差し指が唇に触れていたことに気が付いた。この左手が、目の前にいるクラスメイトに唇を奪われない為の防御壁だとでも言いたいのだろうか。
もちろん、無意識なのだからガードしようとか何だという気はない。


「いつもそんなこと考えてるアルか。万年発情期」


呆れながらも、プリントに視線を落として答えた。
総悟のこの手の発言は今に始まったことではない。

「人間の三大欲求ってやつでさぁ。あ、そこはxじゃねぇよ。2xだ」
「あ、ども。お前には慎みってモンが無いアルか。イヤーキス魔ー色魔ー身の危険ネー」

問題の解き方に気が付いたのか、今度はすらすらとペンが進む。
ところどころ修正されながら回答は出来上がっていった。

「なんだい、人を変態みたいに。……それともキスは初めて?」

相変わらず面白そうな笑みをたたえたまま、総悟は二人の境界線となった机に体重を掛けた。


ぎし。


年季の入った金属の軋む音が、しんと静まった教室に響く。
さっきまで騒がしく聞こえていた蝉の声も、校庭の部活動の声も、今の総悟には遠い音でしかなかった。


数ミリ単位でその大きな瞳と、自分のそれとの距離を縮める。



あと、五センチ。

ぎゅむ。



「…………?」

期待した柔らかい感触より、いくらか骨張った暖かさが総悟の唇を押し上げた。目の前には、勝ち誇ったような神楽の瞳。わずかにつり上げられたその口元が、自分のよく見せる表情に似ている、と思った。
真っ直ぐに視線を落とせば、自分の唇に人差し指を押しつける、白く細い左手。

「なめんな」

神楽は何事もなかったように指を離し、席を立った。
右手には坂田の残したプリントと数学のノートを持って。
呆気にとられる総悟には構わず、真っ直ぐ廊下へ向かう。

「あたしの初めての口チューはそんなに安くないネ」
「おや、手厳しい」
「おかげで補習終わったアル。感謝してやるョ。
明日からの夏休み、せいぜい楽しめ、遊び人!」



三年の夏。最後の夏。

勝負に出る者、やけになる者、最後の部活に汗を流す者、進学へ向けてエンジンをかける者。青春まっただ中の彼らにはそのひと夏はあまりに短い。
短いからこそ、一つ一つの出来事がキラキラ輝く宝石になる、なんて事を誰かが言ったかどうかは知らないけれど。



廊下を駆ける足音が遠ざかるのを待って、総悟は声を殺して笑った。


「間接キスは安いんですねぇ」


瞳に溜まった涙を拭い、窓の外を見遣る。夕暮れも間近に迫った空に、真夏の太陽は西の空を赤く紅く染めていた。
まるでたった今教室を出て行った少女の頬を染めるように。



ドアに手を掛け振り向いた彼女の笑顔は、しばらく彼のまぶたに酷い熱をもって焼き付いていたという。



最後の夏はまだ始まったばかり。








真田の個人誌『Days』にゲストさせて頂いた原稿、原型。
差し上げ物より銀ちゃん出張ってるってだけなのですが。



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