| 一旦は晴れ渡る笑顔をも見せた神無月の空も、やがて再び涙を零し始めてしまった。このような日が、もう五日は続いている。 その涙は世界が夜の闇に包まれても泣き止まず、かりそめばかりの太陽の光がぼんやりと東の果てを白く滲ませてもなお、しとしとと音も立てず地に降り注ぐのであった。 彼女は部屋の障子を開けて、白やみかけた早朝の空を見上げた。 暦ではもう冬である。早朝ともなると、その気温はひと月前のそれとは比べ物にならぬほど低く、容赦なく肌を突き刺す。 彼女の吐く息の白さがそれを如実に示していた。 殆ど眠っていないようだった。 その肌は空の色と同じように青白く、生気というものを殆ど感じさせはしなかった。いまだ泣き止まぬ空を見上げる眼差しは凛としたものではあったが、その目の周りは黒ずんだ隈が出来かけており、滲み出る疲労感を隠し切ることは出来ないようだった。 彼女は傍にいた私に気付いたのか、振り返って穏やかな笑みを投げかける。 ああ、なんと美しく、力強い笑みであることか。 彼女は笑うのだ、このようなときであっても。いや、このようなときであるからこそ、笑うのかもしれない。 町はまだ目を覚ましてはいなかった。 ここまでの道すがらでも、明かりの灯った家は片手指に余るほどしか見かけておらず、まして出歩いているものの影はひとつとして見当たらない。新聞配達の人間ですら、まだ動きを見せない時間である。 ましてこの冷たい雨である。このような天気の中、好き好んで早朝に出歩く物好きな人間などまずいないだろう。 私と彼女はそんな町を並んで歩いていた。彼女の手には、小さな赤い番傘。 先程とは違い長い髪を高く結い上げ、胴着姿に身を包んでいる。それは時折彼女が見せる、剣士としてのいでたちであった。 天人のこの世で女が道場を守り、剣術を志して生きていくことの困難さは計り知れない。彼女の強さの由来にも似たものが、その胴着姿に見え隠れした。 私と彼女は街中の喧騒を抜けた、小さな小路に足を進めた。そうして、小さな神社の前でその足は止まった。 彼女は私に傘を預けると、何も言わず鳥居を抜け、決して振り向く事無く階段を上り、境内に入った。私はただその後姿を見送ることしか出来ず――そうして彼女は、お百度を打ち始めた。 もう五日になる。 毎朝夜も明けきらぬうちからこうして、彼女はひたすらにお百度を踏むのだ。 それはきっと彼女の弟と妹のように可愛がっている少女、そして――あの男のために。 彼らが姿を消すと同時に降り始めた冷たい雨。 この空の雨はきっと、決して表には見せぬ彼女の心が流す涙なのであろう。 彼女は戦っている。 この雨の中で傘も差すことなく、胴着姿に裸足のままで。冷たい地面を何度も踏む足が、自らの血で黒く滲んでしまっていることを私は知っている。けれど彼女は決してそれを見せる事無く、全ての痛みと苦しみを自分の中に抱え込んで。 いつ倒れてしまってもおかしくない身体である。今すぐにでも鳥居をくぐって彼女の元にいけたら、と思う。だが、彼らを思う彼女のためにも、それは許されないことである。 お百度というのは、けっして他の目に見られてはいけないものなのだ。冷たく苦しい道のりを、そして痛みを自分ひとりが一身に負うことで、神仏にただひとつの願いを託すことを許される。 彼女にとっての願いとは、只ひとつ。彼女の愛するものたちの無事である。 ただそれだけを祈りながら、彼女は一心不乱にお百度を踏む。私に出来ることといえば、ここから彼女を胸に思うことだけ――。 どれくらい時が経ったであろうか。 柏手を打つ音ひとつ、私の耳に入ってきた。やがて階段を下りる影が視界に入ってくる。すぐさま私は駆け寄り、傘を渡した。が、もう傘など全くの役に立たぬほど彼女はずぶ濡れで、身体も冷え切っているようであった。 足を見ればやはり擦り切れて血が滲み、その白い肌を赤黒く染めている。きっと境内の参道にも似たような色がこびりついているのであろう。それは時が経てばきっとこの雨が洗い流してくれるであろう。が彼女のこの傷はきっと、時の経過だけでは癒されない。 私と彼女は空を見上げた。雨自体は一向に止む気配はないが、雲と雲の隙間から太陽がわずかばかり顔を出しているようにも見受けられた。 早く太陽が顔を出すこと、そしてこの涙が止んで心からの笑顔が見られることを願ってやまない。 彼女が私に寄りかかってきた。 私の身体もすっかり濡れてしまっているが、それでも彼女の身体よりは数段温かいはずである。少しでも彼女の身体を、そして心を温められれば、と思う。 しかし彼女が何も言わず頬を寄せる行為に没頭していることに気付いた時、そのような私の思いは単なる思い上がりでしかないのだ、と気付いた。 彼女は私の身体を通じて、彼を思い出しているのだ。彼女にとって唯一無二である、彼のあの温もりを。 何処か似ている私の白い毛が、彼女の頬をそっとくすぐった。 やがて彼女はゆっくりと私の身体から離れる。向き合った彼女は、朝見せたものと同じように美しく、力強い笑みを私に見せてくれた。 「帰りましょうか、定春ちゃん」 戻る |