独り者はやることが無くていけねぇ、と言ったら
あの店の親爺は女房がいたらそれはそれで鬱陶しいと言っていた。
その女房は嫌だよと言いながら親爺の背中を叩いていた。
そんな店に今日も行く。オフの日は本当に暇で仕方が無いのだ。
嗚呼独り者は本当やることが無くていけねぇ。
そう言ったらあの親爺はまた言うんだろう、「女房がいたらそれはそれで鬱陶しい」と。





「あらすいませんね土方さん、生憎今日は満席なのよ」
噂のその女房が言うとおり、店のテーブルには何処も誰かが腰を下ろしていた。
何時もなら二、三席は空いているはずのカウンターさえも疾うに埋まっている。どうやら今日は日が悪かったらしい。
女房が「相席でも良かったら」と言ったが俺は煙草を吸うからな、と店を出ようとした。
「ここで宜しかったら」と言葉を紡ぐ、あの柔らかな女の声が耳に届かなければ。





声の主は言うまでも無いだろうがあの彼女だった(俺が軽々しくあの彼女の名を紡げるはずもないので、「彼女」で勘弁して欲しい)。
以前この店で見かけてしまった、彼女の相手のあの天パの男の姿は無い。
彼女ひとり。
「珍しいな」
「そうですか?私よくここに来てたんですよ。お仕事前、同伴が無い時とか」
ここ暫く志村邸に近藤さんを引き取りに行ってなかったせいか、彼女と顔を合わせるのは随分久方振りのことだったのではないかと思う。
「来て「た」ってことは、最近は来てないんだろう。あんたを見かけたことなど一度も無かった」
「そうですね。仕事もお休みしてるし」
「へぇ」
懐から煙草を取り出そうとしたところで女房が茶を出してくれた。ほうじ茶の湯気が視界に映る彼女の像をほんのりと揺らす。
「出稼ぎにでも行くのか」
「違いますよ。それにこういうときは「体調でも悪いのか」って聞くほうが普通じゃありません?」
「あんたの場合、相手してる男が普通じゃないだろう。金に苦労でもしてるのかと思ってな」
ふふ、と小さく彼女は笑った。店主と女房の娘が膳を持ってくる。旨そうな香りの膳は彼女の前で止まった。
「他人丼小盛り、お待たせしました」





「そういえばまだ、言ってませんでしたね」
箸を割りながら彼女は呟いた。
「私達、今度結婚するんです」
俺は茶を一口啜る。
「何だ、まだ結婚してなかったのか」
「ええ、実は。ご近所さんにも、昨日会った沖田さんにも土方さんと同じことを言われました」
確か昨日沖田は彼女に会ったと言っていた。だがそれだけで、それ以上のことは何も言わなかった。元気だったとも、結婚するとも。
知っていたから言わなかったんだろう、あいつはそういう男だ。
「避妊に失敗でもしたか」
「ふふ。いいえ寧ろその逆。上手く当てたんです」
「…そうか」
くすくすと彼女は無邪気に笑う。
あの天パが聞いたらなんと思うかと考えてくっと笑いがこみあげた。懐に手を入れたが手は直ぐに止まった。
「…じゃあ、ここで吸っちゃあ、悪いな」
一瞬目を丸くした彼女はやがてその目をうっすらと細め、そして笑った。
「…ありがとうございます、優しいですね」
「よせやい、誰かの物になる女に言われても嬉かねぇ」
そうですねと彼女は笑い、その箸は口許へと運ばれていった。
その唇の味を、俺は知らない。
「祝言はあげるのか」
煙草恋しの口寂しさからか、或いは別の何かの所為か、俺は何時に無く饒舌だったように思う。
「ええ、ささやかなものですけど。お登勢さんのところで」
「そんなんでいいのか」
「良いんです。祝ってくださる人たちがいるだけで有難いんです。十分すぎるほどの贅沢ですよ」
「…とりあえず近藤さんが祝言爆破計画なんかをを立てないようには見張ってるさ」
「ふふ、お願いしますわ」
彼女の口許にまた箸が運ばれ、そして俺の元へ膳が運ばれる。その上に乗っかっているものは言うまでも無く。
「親子丼土方スペシャル、お待たせしました」





「…あんたも苦労するな」
箸を割りながら俺は言った。
「あの天パのお守りなんて大変だろう」
「そうですね」
「否定、しないのか」
「はい」
彼女はクスと笑った。先程と違い、その箸はもう動いていない。
ふと見ればただでさえ小盛りの丼なのに殆ど箸が付けられていないように感じられる。
良く解らないが体調的にそういう時期なのだろうか。
「…いいのか」
「何がです?」
「結婚して、ガキ作って。そんなにあの男に縛られて、いいのか」
彼女ほどの女が、あんな男に。
少し、沈黙が流れる。それだけのことは言った。けれど言わなければ気が済まなかった。
―まるで声を漏らすかのように彼女の口から言葉が零れた。
「他人丼って、どうして他人丼って言うんだと思います?」
彼女の声に引き寄せられるように、俺の視線は彼女の目に、そして丼に向けられた。
具と米が丼の中で小さくうずくまっている。
「…鶏以外の肉と卵をとじてるからだろう」
「そうですね。だから“他人”」
そう言うと、彼女はただでさえ進まなかった箸を置いた。
ことり、と綺麗に響く。
「どうして他人だなんて言えるのかしら。こんなに美味しいのに。こんなにぴったりと寄り添っているのに」
彼女は俺に笑みを見せた。物静かで優しい、そしてどこかかなしい、女の笑みをしていた。
その笑みが何より今の彼女の心の波紋を如実に表しているのだと俺は感じた。
だがそれがどんな意味を持つのか、全てを理解することは俺には出来なかった。
おそらく、今の彼女と言う人間がある上で、あの男を切り離すことは不可能なのだ、と言うこと以外。
自分とあの男が他の者であることを頑なに拒否しているようにもその言葉は受け取れた。
―心なしか、その目は俺を通り抜けて、遥か向こうにいるあの男へとに向けられているようにも感じられてならなかった。
「…別にいいが」
親子丼土方スペシャルを頬張る直前、俺は呟いた。
「あんたとこうして飯を食いに行ってみたかったと思うくらいには、俺はあんたのことが好きだった」
今の言葉は忘れても構わない、と付け足したが、彼女は何も言わずに穏やかな笑みを浮かべるばかりだった。
温かな湯気が目に沁みた。





食べ物を口に頬張っている時は大抵無言になる。今日もそうだった。
それでも彼女が去るときには返事をした。
「今度招待状を出しますから、来てくださいね」
が、何と言ったかは記憶の外にある。
別に何でも言いのだろう。どうせは誰かのものになる女だ。そしてその誰かの種を蒔かれた女だ。
すっかり平らげた親子丼土方スペシャルを前に、俺はようやく煙草を吸った。
煙草と言うものはこれほどほろ苦かったのだろうか。
それでもこのほろ苦さにある種の落ち着きを感じている辺り、俺はやはりあの天パとは合い得ぬ分子であるのだろう。
まして彼女と惹かれ合うはずも無い。





独り者はやることが無くていけねぇ、と言ったら
この店の親爺は女房がいたらそれはそれで鬱陶しいと言っていた。
その女房は嫌だよと言いながら親爺の背中を叩いていた。
いつかは彼女達もこの夫婦のようになるのかと考えてみる。
そう、元は知らない者同士であったはずのこの夫婦のように。
吐き出される紫煙が、今までの彼女に対する送り線香のように感じられた。
紫煙の燻る向こう側には既に彼女の姿は無い。
ただ彼女の残したほぼ手付かずの他人丼が俺を捉えては睨みつけているだけだ。









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