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そう問うてくる瞳には、優しさと悪戯心の火が灯っていた。 こんな風に髪を触って――撫でてくる、なんて一度もなかった。だってそう言う関係じゃなかった。なのに。 この人は、ずるい。こちらが見せた小さなシグナルを機敏に掬い取って、そうしてきちんと言葉を待ってくれる。そうしてくれるのはただ彼が経験を多く踏んできた大人だからなのだろうか。ん?と小さく尋ねながら髪を梳いてくる指が心地良い。髪という部位がこんなに敏感なものであるという事を、今、初めて知った。 もう一度、目と目を合わせてみた。こんなに大人の余裕とゆとりを見せられるのは初めてだ。どんなに笑顔で仮面をつくって素顔を隠しても、こんな目をされると全てを曝け出したくなるのは、曝け出さなければならなくなるのは、所詮は自分が18の小娘だからか。 でもそんな大人に良いように扱われたくない、と言う強がりが交錯する。 「……別に深い意味なんてないんです。阿音ちゃんやおりょうちゃんが色々うるさく言ってきて、早上がりしてお店を出たらお月様が綺麗とっても綺麗で、帰りがけにケーキ屋さんの前を通ったらプリンが1個75円で安売りしてて」 「……はあ」 「75円だったら4個買ったらキリが良いなって思ったんですけど、新ちゃんと2人で4個はちょっと重いなぁって気付いて、そうしてお店を出たら月がとっても綺麗で…ああもう、そうじゃなくて」 妙はかむりを振って言葉を選び出す。違う、言いたいのはそんなことじゃない。そんな言い訳のためにここまで来た訳じゃない。 何故か喉の奥が酷く乾いていた。 幾度か息を飲み込みながら、かすれがかった声で、不器用な自分の真奥を明かした。それは、彼の姿を見た途端抱いた幾つかの疑問の答えでもあった。 「毎日銀さんの愚痴ばっかり聞いてたもんだから、なんだかもう、聞かないと落ち着かなくて。銀さんの顔を見て、銀さんの話を聞いて、そうしておやすみって言われないと、言わないと、一日が終わった気がしないんです。明日も頑張ろうって気になれないんです。どうしてくれるんです」 先ほど感情と一緒に流れた言葉が、今度は抑えられない感情と共に一気にあふれ出す。 「アタリマエ」は当たり前でなければならない。 きっと自分でも知らず知らずのうちに積み重ねられてきた笑顔の奥の言葉を、まるで投げつけるように曝け出した。 自分はこういう手段でしか、まだ上手く伝える事ができない。 銀時が入れ込んでいた節子ちゃんと言う妓はどのような女だった?以前自分は銀時に言った事があるだろう。 『清楚で可愛く見えて、でも実は色気があって性格も大胆で、男の人を大きく派手に振り回す女性』 つまりはそれだけ余裕がある大人の女と言う事だ。力技でぶつかっていくしかない生娘の自分とは違う。 今銀時の目の前に居る女は――その大きな手で髪を撫でられている女は、手練手管で相手の心を惹きつけもしなければ、大人でもない、美しい高級茶屋の傾城というわけでもない。 ただ幼稚で嫉妬深い、そのくせ自分の本音を上手く表す事の出来ない、安っぽい酒場の酌婦だ。 そう思ってしまったとき、身体の奥から波のようなものが押し寄せてくるのを感じた。 ああ、やばい。 こみ上げてくる。悔しさややるせなさやもどかしさ、胸に去来する全てのものが、目の前の銀色の像を結ぶその双眸から、嵐のように溢れ出しそうになってくる。 でも、駄目だ。ここで涙を見せてはいけない。 自分の卑屈さに酔って、愛憎ドラマのヒロインを演じるつもりはない。 ―笑ってみせろ。 そうだ、目の前の男に精一杯の笑顔で笑ってみせろ。 いつものお店の営業スマイルなんかじゃなくて、彼の中にある節子ちゃんとかいう女の姿なんて忘れさせてしまうくらい、完璧で大きな笑顔で笑って見せろ。 楽しかった。彼の嘆く、報われない恋の話を聞いて、下らないことを言い合って。楽しいと思えた。でも、しらない女の話をする彼の表情を、楽しそうだと思いながら、それで 何処かでは寂しく思った。 別れるときが切なかった。けれどまた明日も頑張ろうと思えた。 だってそのときだけは本当に自分のことを見ていてくれたから。 本当はいつも私のことを見て欲しかったんだ。 ここにいない女の事じゃなくて、目の前の自分を見て欲しかったんだ。 こっちを向いて欲しかったんだ。 「……銀さん」 囁きかけるように、その言葉を紡ぐ。 噛みしめるように、その名前を呼ぶ。 柔らかな黒髪を撫でるその手は、本当に温かいと思った。 「だから、明日はお店に、来てくださいね」 そう言って、微笑んだ。 ぜんぜん完璧な笑顔じゃない。完璧に隠しきれない涙の影がぼんやりと染み付いている。 けれどいつもの、心の奥を隠すような仮面の笑顔とは違う。 大人になりきれない少女の愛らしさやひたむきさ、そして彼女の内面の強さが滲み出た、心の底からの微笑みだった。 「……」 銀時は何も語る事無く、その微笑みをじっと見つめたまま、妙の柔らかな髪を撫でていた。 が、ふと、その指が止まる。ずっと享受されていた甘い心地よさが消えてしまった。 ――もしかして、怒らせてしまった?? 妙の笑顔が輝きを失いそうになっていく。その刹那に妙の前髪にそっと触れたのは、さっきまでその指で甘い感覚をくれた男の唇だった。 目を見開いて驚く妙の小さな頭を抱き寄せて、小さく呟く。 「馬鹿だな」 小さく吐き捨てるように言った言葉には、小さな照れが垣間見えているように感じた。 そしてその照れを払拭するかのように、銀時の手に力がこもり、妙は一層強く抱きしめられる。 「んなもん言われなくたって行くっつーの……」 「……」 「なんつーか…あー…っその、な」 銀時は言葉にならない言葉を洩らしながら、必死に言葉を探している。 「俺も…お前に会って、お前の声聞いて、そうしていっぱい笑わねえと…なんか、どうにも調子が悪くて…仕様がねぇ」 「……!」 妙の頭は銀時の胸にきつく抱かれてしまっていて、うまく声を出そうにも出せない。けれど、出せたところで、今このとき湧き上がってきたものをどう言葉で表したらいいか、わからなかった。 わからないから、頭をその胸に押し付ける。聞こえてくる彼の鼓動の大きさに驚きと安らぎを感じた。妙の耳元で、銀時が小さく笑った。銀時の声音がほんの少し、変わった。 「なんかもう」 「…?」 「向こうに行く必要、無さそう」 それってどう言う、と言いかけた。けれど言わない事にした。少し自惚れてみたい。彼のこの鼓動がその答えなのだと、そう思ってみたい。 ふとスナックお登勢の扉が開く気配を感じて、銀時はすかさず身体を離した。 刹那に立て付けの悪い古い扉が大きな音を立てて開く。中年のサラリーマン風の男が数人、わあわあと騒ぎ立てながらスナックの中から出てきた。いかにも酔っ払いという風体のその男たちは、お登勢の店を出るとかぶき町のネオンの光の方へと姿を消していく。 小さくなっていくその背中を、妙と銀時はただ呆然と見ていた。 「「………」」 忘れていたがここは万事屋の軒下でスナックお登勢の目の前なのだ。 もしかしたら今の一連の行動を見られてはいなかったか、と妙の身体から血の気が引いていく。銀時もそれは同じだったようで、ふと見た彼の表情はこの上なくぎこちなかった。 「……多分ここで『家に来る?』なんて言ったら格好良いんだろうけど」 何処か困ったような瞳で、どうする?と妙の瞳に尋ねてくる。 どうするも何も。 上には神楽ちゃんとお父さんが居るんでしょう、わたしも家で新ちゃんが待っているしと答えると、ああその通りだなと銀時はまた笑った。 「でも」 無防備だった妙の左手を掬いながら言葉を続ける。突然の行動に、妙の心臓は大きく飛び跳ねた。 「もしこれから先、そうじゃないシチュエーションになったら、お前どうする?」 無邪気で意地悪な瞳で、妙の瞳を覗き込みながら聞いてくる。今にも鼻先が付いてしまいそうなほどの距離で――。 「…それは、明日のお店での銀さん次第です」 そう言って、満面の笑みを映す。 節子ちゃんとの愚痴やら銀時の女関係の話だけではなくて、もっと違う話でも今までのような時間を過ごせたならば。今度はちゃんと妙のことを向いてくれたのならば。 「そうしたら、考えてあげても良いですよ?」 夜の蝶は逞しい。そう悪戯のように笑う表情は銀時の瞳に刻み付けられて、離れなかった。 「手厳しいな」 どこか呆れるように小さく笑った銀時に穏やかな笑みで返す。そうして、握られていたその温かい手をゆっくりと離した。どこか、名残惜しそうに。 「それじゃあ、新ちゃんが待っていますから」 「…ああ…送って」 「いいですよ。お父さんと一緒に、神楽ちゃんのことちゃんと看てあげてください。プリンもどうぞ、みんなで分けて」 「っていうかお前のゴリ的馬鹿力でブン投げられたんだから原形留めてるかどうか…ってなんでもないですすいませんその拳を引っ込めてください」 こめかみに青筋を立てながら妙はふふ、と微笑む。夜更けにひとりで歩いていても、何にも問題点を感じなさそうな勢いだ、と銀時は心の隅でちょっと思った。 そうして最後に、一番言いたかった言葉を紡いだ。一番言われたかった言葉が心に沁みた。 「おやすみなさい」 「うん、おやすみ」 銀時の前で、艶やかな黒髪が舞うように翻った。一筋の髪が、まるで別れを惜しむかのように、銀時の頬に触れ、そして撫でた。 その黒髪と、蝶のように艶やかな着物がすぐ先の角に消えてしまうまで、銀時はずっとその背中を見つめていた。 月は随分高かった。 新八は今頃とても心配しているかもしれない。いつもの早上がりだったら、あと一刻ほど早い時間に帰宅している。 今日はその一刻の間に、随分と様々な経験をしたと、思う――主に、自分の心の奥底を、色々と思い知らされた。ただその時間は決して悪いものではなかった、寧ろ、このまま時が止まっても良いだなんて、そんな馬鹿げた考えを抱いてしまいそうになる時もあった。 あのひとは――と、頭にひとりの人間の影が過ぎって、足を止めた。 節子ちゃんとか言うお茶屋の女性は、銀時をどのような人間と感じていたのだろう。 単なる遊び客の一人に過ぎなかったのか。それとも、自分が真選組のストーカーに対して若干感じるように、何処か厄介者のように感じていたのか。或いは、客以上のものを抱いていたのか。だから本当の馴染みになってしまう事を恐れたのか。 それは自分には分かりようもない。 ただ言えることは、もし彼女の存在が無ければ、自分の奥底にあった銀時への感情など表に出る事無く、それこそ従業員の姉とその雇用者、キャバ嬢とその客、のままであったかもしれない。 振り返ってネオンの方角を見る。 あれはかぶき町。その更に奥の奥、ターミナルの方向へずっと奥へ行ったのが件のお茶屋のある新橋だ。 銀時をそこまで魅了した節子ちゃんと言う女がどんな女であったのか、気にならないと言えば嘘だし、会ってみたいと思うときもある。そんな度胸も道理もないのだけれど。 けれど彼女がどんな女性だったにせよ、自分はこれからも自分のままであることは変わらない。銀時の理想の女性をまるきり目指すつもりもないし、ましてや節子ちゃんを準えるような女になる気は毛頭ない。 そしてきっと銀時はあの銀時のままで、きっとそれで良いのだ。だからこそ変わりゆく日々と共に変化するはずの、二人の関係はきっと新鮮でいとおしいものになるだろう。 明日の帰り道には、そうだ、ハーゲンダッツを買ってもらおう。 今夜の賭けに勝ったご褒美と、昨日までと少し違う、「おやすみ」前の甘い時間を作るために。 END ←戻る |