早上がりで帰れる日だったから、ケーキでも買って、新八とゆっくり過ごそうと思っていたのに。
 その足は家ではなく万事屋の方向へ向かっていた。左手にはケーキの箱を持って。
 別に深い意味なんてないんだから、阿音ちゃんやおりょうちゃんがうるさかっただけだから、近くのケーキ屋でプリンがお買い得だったから、お月様が綺麗だったから、などと頭の中で沢山の言い訳していたが、そのどれもが単なる後付けに過ぎないと言う事は自覚している。けれどそれを素直に認めることはなんだか、腹立たしい。そうしてまた頭の中から苦しい言い訳がひねり出される。
 だがそんな色々入り混じった頭の中とは裏腹に、その足取りは緩められる事無く一定の方向へ向かう。

 けれども、あと一つ角を曲がれば万事屋が見える、と言うとき。
 足が止まった。
 この時間まだ階下のスナックは営業中。だから一階の明かりはついている。では二階は?今日は早上がりだと言ったから、新八はきっと志村の家に居るはず。神楽は昼過ぎに会った時、今夜は父親が江戸に来ているから会いに行くんだ、と言っていた。だからきっと万事屋にはいない。忠犬はきっとご主人様についていく。
 だからもし、万事屋に明かりが灯っているとすれば銀時がそこにいて、灯っていないのであれば銀時はそこにいない、きっと茶屋でお目当ての女と枕を並べている。
 そう考えると、踏み出す一歩が出て来なかった。



 暫し時間が過ぎた。
 妙は賭けをしようと思った。
 もし角を曲がって明かりが消えていたら、銀時の勝ち。
 次に会った時には笑って彼の話を聞きながら、「よかったね」と一言お祝いして、ハーゲンダッツをおごらせよう。
 もし角を曲がって明かりがついていたら、妙の勝ち。
 次に会った時には――とにかくハーゲンダッツをおごらせよう。
 「すまいる」に姿を見せなかった時点で、大体勝負は見えてはいるのだけれども。
 けれど、覚悟を決めれば、きっと次の一歩が出てくると思った。



 視界が変わった。
 目の前にあるのは見慣れた一軒の建物。
 一階のスナックお登勢からは薄っすらとした明かりが洩れており、入り口に掲げられた提灯はほんのりとした光を灯らせている。
 そして二階の部屋からは煌々とした白熱灯の明かりが灯っており――その玄関先には、見慣れた男の影がぼんやりと揺らめいているように、見えた。
 ――居た。
 その事実を目の当たりにしたとき、自分でもどうしたいのかよく分からぬまま、夢中でその影に向かって走りだしていた。
 一応、賭けには勝った――ことになる、のだろうが、却ってその事実が妙を混乱させた。
 どうしてここにいるんだろう。
 どうして今日来てくれなかったのだろう。
 どうして今日来てくれないと嫌だったんだろう。
 どうして私は今こんなに足を急いているんだろう。
 思考がぐるぐると入り混じる。疑問に対する答えも出てはこない。いや、出ているものも有る、ただ認めたくない。
 一歩一歩と万事屋に近づいていく。
 揺らめく影へ、近づいていく。
 すると、いつしか影はその足音に気付いたようだった。ゆらり、こちらに向くのが見えた。
 スナックお登勢の入り口で立ち止まり、そうしてこちらを見上げてくる女に、影は言った。


「………なにしてんの」


 お妙かともこんばんはとも言わず、いきなりここまで来た妙の心情を無視するようなことを口走った。
「…!!」
 刹那に妙は左手に持っていたケーキの箱を、二階の影に向かって力の限り投げつけた。さも当然のように、箱は影の顔面に直撃する。
「えっ!?ちょっと、何いきなり!?っていうか何勿体無い事してんのォォォ!!??これ中身爆発してるんじゃない!?えええ」
 衝撃で倒れかけた影が体勢を取り直して下に居る妙に叫ぶ。身を乗り出して光の当たる位置が変わる。その表情がよく見える。毎日会っていた顔だ、今日会えなかった顔だ。
「……プリンだから大丈夫です」
「いやそう言うことじゃなくってね、食べ物で遊んじゃいけませんって、父ちゃん母ちゃんに教えられなかった?」
「教えられました。教えられましたとも。でも、でもねっ……」
 ――言葉が止まった。
 色々言おうと思っていたのに、何故かその何れもが、喉から言葉として放たれることなく、すべて飲み込まれていった。感情と共に、胸の奥にあったはずの言葉が流れていく。
「…えっ?ちょっ、お前、どうした?」
 二階からこちらを見る影が明らかに戸惑っているのが分かる。けれど、何をどう言ったらいいのか分からなくて。けれど、言わなければ勿論何ひとつ伝わらなくて。
 搾り出すようにしか言葉を紡ぐ事ができないし、言葉を選んでいる余裕も無かった。
 一番見せたくなかった本音の部分を、さらけだすしか。
「なんでここに居るんですか。今日はお店に来なかったのに。あのひとのところに行ったんじゃなかったんですか。じゃあどうして来てくれなかったんですか」
 まるで投げつけるように言葉を吐きだした。
 上からこちらを見据える戸惑いの表情が、何処か鋭くて、何処か切なく思えた。
 あたりに流れる沈黙。
 返事は返ってこなかった。
 代わりに万事屋の玄関の開く音がして、何か言葉が聞こえて、そうして閉じる音が飛び込んできた。
 足音が近づく。階段を下りる音。金属の音。彼の音。
 やがて、止まる。目の前で、止まる。顔を、見上げる。ああ、会いたかった顔だ。


「……銀さん」
 何故だか彼の名前を口にしたくて、その言葉を口にしたくて、堪らなかった。銀時と目を合わせると、彼は何処か面倒くさそうな表情をしながら頭を掻く。
「…あー…その、だな、つまり…」
 銀時は勿体付けるような言葉を幾度も繰り返すが、まともな言葉は一向に出てはこない。
 がしがしと頭を掻いたのち、単語をひとつひとつ並べるように言葉を見つけていく。が。
「ええと、気温とかさ、とにかく、なんかすげー暑かっただろ?今日」
「…?」
 突然の銀時の良くわからない言葉に、妙はいきなり面食らってしまう。
「や、暑かっただろ?お目覚めテレビの結野アナも真夏日になるーとか言ってたし。めちゃくちゃ暑かったんだよ。そしたら神楽が思いっきり日にやられちまって、で熱出しちまって今二階で寝てるんだわ」
 妙ははっとした。
 振り返ってみれば、確かに今日は暑い一日だった。店のボーイ達もシャツのボタンを開けながら必死に汗を堪えていたし、道すがら上半身裸で仕事に従事する工事現場の人の姿も見た。日差しも強く、思い返してみれば昼過ぎに会った神楽は何処か疲労しているようにも見えた。
「で、今日は親父さんと会うんだって言ってたから、親父さんにこっちに来てもらって。新八もさっきまで看てたんだけど、今日は姉上が早上がりだから、ってさっき帰った」
「…そう、だったんですか」
「んでまぁ…俺が見るからお前はいい、って親父さんに追い出されたんだけど…どっか行く訳にもいかねーし」
「ええ……そうですよね」
 銀時は茶屋の彼女のもとへ行ったわけではなかった。
 自分の護ろうとしているものの傍に居ただけだった。
 そう、解ったとき、妙は自分でも驚くくらい、自分が胸を撫で下ろしている事に気付いた。
 と同時に、自分の今しがたの行為を、まるで自分の事しか考えていない、ひどく幼稚なものに感じ、激しく後悔するとともに銀時や神楽に対してひどく申し訳なく感じた。
 話でしか知らない女と銀時が寝ている事を想像しただけで、酷く狼狽した自分。店に来なかった銀時に対し、汚い本音をぶつけてしまった自分。そこには彼や彼を取り巻く環境のことなど微塵とて配慮していなかった気がする。
「ごっ、ごめんなさい、私、本当に何にも……私っ…」
 ああ、もっとよく考えてみればそれくらい予想がついただろうに、彼の立場を思いやれただろうに!
 自分の浅はかさと幼稚さが嫌になる。
 が、その言葉をまるで遮るように。
「っていうかお前、髪すげー乱れてんぞ」
 銀時はばっさりと言い放つ。
 ここまで走ってきた衝撃と、先ほどの慟哭による衝動で、妙の髪はかなり乱れに乱れていた。
 と、銀時は妙のその乱れた髪を撫でて、直してやる。そうして。
「――なんかお前、恐山のイタコみてぇ」
 しまりのない笑みで、そう言ってのける。
 銀時は意地悪な言葉と笑みで、妙の懺悔をあっさりと無視してくれた。
「……本物のイタコに会ったことあるんですか」
 あるわけねーだろ、と小さく笑いながら髪を撫で続ける男に、妙は言いようのない信頼感と人間としての成熟さを感じていた。
 ああ、やっぱり、このひとは。このひとには。


「――で、お前は?」
 髪を撫でながら、銀時はまるで囁きかけるように、妙に尋ねてきた。
「え?」
 その言葉に、妙は思わず、顔を見上げる。
「新八が待ってる家にも帰らないで、お前はここで何してるの?」




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