五月五日、珍しく恒道館道場にひとの声が響いていた。




―柱の傷は一昨年(おととし)の


               五月五日の背比べ 


  ちまき食べ食べ姉さんが


           測ってくれた背のたけ―




何処か鼻にかかった、柔らかな女の済んだ歌声。

「そこさ、「姉さん」じゃなくて「兄さん」じゃねぇのか」

そして低く響き通る、気怠げな男の澱むような声。
男の問いかけに女はちらと男のほうを向いて、

「これでいいの」

と言わんばかりに微笑んで見せた。その表情がひどく可愛く思えて、思わず男も似合わぬ笑みを返してしまった。
道場の柱をよくよく見れば、あちらこちらに子供の落書きや、丈比べの彫り跡が刻まれていた。
―この道場の姉弟のものだろうか。男は立ち上がり、そっとその傷と己の背丈を照らし合わせた。

「小せぇ」

それはもちろん子供のものであるから、丈など大人の男の腹ほどでしかない。頭の中で今目の前で歌声を響かす女と、目立たぬ眼鏡の少年の姿をこの背丈に挿げ替えてみるのだが、如何せん想像し難い。出来た所で、非常に不自然極まりない。この男がこの丈比べの姉弟を知ったのは思えばつい最近のことで、言ってしまえば今の彼らしか知らないわけだから当たり前だと言えば当たり前のことである。

「それ、私が測ってあげたのよ」

不意に女が声をかけてきた。歌声とは違う、まっすぐに透き通る女の声音。

「懐かしいわ」

女は男と柱の元へ寄ってきて、懐かしむかのようにその傷跡をしげしげと眺めた。

「こっちのでっかいほうがお妙で、ちっこいのが新八か」
「ええそう。新ちゃん子供の頃からあんまり体が大きくなくて、よくお友達にからかわれていたの」
「ああ、タカチンコとかにか」
「ええ、まぁね。でもこのころに比べるとずいぶん大きくなったな」

そう言って、微笑む。





女のその表情が一瞬幼い子供のように見えて、男は思わずその目を擦ってしまった。

「ねぇ」

しかしながら次に男を見上げたときのその表情は、もう女のそれであった。

「いつか、新ちゃんも銀さんくらい大きくなっちゃうのかしら」

くすくすと屈託なく笑う。その声はまだ何処かあどけなさの残る声で。





ああ、不意にまだこの女が齢十八の子供であることが思い出された。





忘れてしまっていた。この目の前の気丈な女は、まだ女とも言えぬ小娘であったのだ。笑顔の奥のその強さに惑わされていた。女の子供の頃など想像出来ないというのは当然のことだ。目の前の小娘を、小娘ではなく女として受け止めていたのだから。本当は子供で、小娘で、本来ならばこの傷跡の頃と大して変わらぬほどであったろうに。
そんな事を微塵も感じさせぬほど、既に女になっていたのだ、この傷跡の娘は。

「その前に私が追いつかれちゃうかしら」

しみじみとした声音で言葉を零した娘は、女の貌をしていた。

「追いついてほしくないなぁ。新ちゃんを見上げることなんて、正直想像出来ないもの」

そうか、と男は笑った。
女も笑った。





この女に追いつけないのは弟ではなく、自分なのではないか。
ふと男の何処かで、そんな思いが去来した。





追いつけない。





届かない。





なら。





「お妙、俺の背も測ってよ」

え、と女はその大きな瞳を幾度も瞬かせた。いきなり何を言い出すのだろうか、と思ったのであろう。とその間にも、男は何処からか鉛筆を取り出し、ん、と女に差し出した。

「測って」

戸惑いながらも女は鉛筆を受け取り、立ち上がった男のその顔を見上げた。

「届くかしら」
「届くよ」

男は背比べの傷のついた柱に背中を預け、視界を闇に預けた。
その背丈はやはり高くて、女が背伸びをしても届くことはない。










「届かないわ」
「届くよ」
「届かないわ」
「届くよ」
「届かないわ」
「届く」










かり、





男の後ろで黒鉛が樹を撫ぜる音がした。
歪んだ一本の、短い黒。





「届いたわ」





そういって口元をほころばせる女の手元から鉛筆を奪って、

「ほい、じゃあ次はお妙の番」
「え?」

と言うが早いか、男は女の体を柱に押し付けて、頭の上に鉛筆をあてがった。

「ちょっ…銀さん!?」
「ほーらーあんまり動くとチビになるぞー座高伸びるぞー」
「伸びるわけないでしょう!」
「あーもーいいから動くなっての」

呆れてか大人しくなった女の頭の後ろ、男は黒鉛の音を響かせた。

「ほい、出来上がり」

その声に女は振り向く。沢山の古傷に混ざって、真新しい黒い二本の線。
その間の間隔は、なかなかのもので。
改めて見るとこんなにも差があるものかと、女は小さな息をついた。
一方の、男は。

「俺のほうがでかい、だから俺の勝ち。つーことでちまき食いに行くぞコラ」

言い放ち、無骨な手で女の細い指先を攫った。

「どっ…どういう理屈よ!!」

女の猛追にも似たその言葉と声にも男はたじろぎもせず、ちゃっかりとその手は女の手をしっかと握り締めてしまって離さなかった。
ぐいと引っ張るその手に、女の口から先程とは違う息が零れてきた。その力強い手が相手では、女は手を解くこともできなかった。
けれど、解くつもりも無かったのかもしれない、と言う様にも見受けられたのは、男の自惚れか錯覚か、或いは。

「まあ…いいわ」

女は、笑った。
十八の笑みをしていた。
男も、笑った。
少年のような笑みであった。





不意に男は調子外れな歌を奏でだした。





―柱の傷は一昨年(おととし)の


               五月五日の背比べ 


  ちまき食べ食べ銀さんが


           測ってくれた背のたけ―






「へったくそ」

「うるせえよ」




男の視界の隅に、先程の鉛筆の跡が映る。

おおきなたけ、ちいさなたけ。

目に見えたその間隔と、目には見えないもどかしい距離。





届かないなら。





追いつけないなら、





追いつきたいなら。





抱き寄せればいい。
この胸元へ。





透ける銀と艶やかな黒が、揺れた。













黒滝からお題を頂きました。相棒ありがとう。




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