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時は2月15日。 見慣れた天井の筈なのに、少しの歪みで全くの別物に感じられる事を、知った。 『…あー…』 『はい銀さん、氷枕取り替えますよ』 自分のすぐ近くから発せられている筈の妙の声。しかし今は、その声がこの上なく遠く感じられてならなかった。 『…悪ィ』 『いいえ』 妙は左手で銀時の頭を軽く持ち上げ、下に敷かれていた氷枕を取り替える。 銀時の視界に彼女の胸元の合わせがこれでもかと言うほど大きく入って来たのだが、流石に今は不埒な思いが頭をよぎる事は無かった。代わりに、頭内の思惑まで一気に冷えてしまいそうな程のひんやりとした冷たさが、銀時の頭を捉えては支配して来る。 ひんやり、痛みすら感じそうな程の冷たさ。 『…冷てぇ』 『銀さんが熱いのよ』 『…そっかあ…』 その口は、まともな言葉を紡ぐという機能を既に失っていた。 そのさまに、妙は苦さ混じりの息を吐く。 『…ほんと、来て良かったわ。でなきゃ今頃…』 それは二月十四日深夜の事。妙は本当ならば仕事の筈だったが、今日は休みを貰い、万事屋に居た。 遡れば昼刻、訳あって万事屋に行った処、銀時がリビングの床に突っ伏してばたりと倒れていたのだ。蒼白になって駆け寄ると酷い高熱で、既に意識は殆ど無い状態だった。慌てて布団に寝かしつけて医者を呼んだ。その間も彼は意識を朦朧とさせており、ろくに言葉を紡げぬまま、熱に浮かされたうわ言を繰り返していた。単なる流行風邪だと医者は言うものの、銀時の熱はこの刻になっても一向に下がる気配が無い。 生憎と新八はお通の試合に、神楽と定春は真選組の沖田との果し合いに行ってしまっていた。 …高熱に浮かされ、身体の自由がきかぬ事は勿論、ろくに正気を保つことも出来やしない―。 こんな様子の銀時を放って置く事など、妙には出来よう筈もなかった。 彼女はよく働いた。普段の彼女― 時に地球の重力をも無視するほどの怪力の持ち主 ―しか知らぬものには恐らく信じられぬ光景だろう。 氷枕を当てさせて、額には冷たいタオル、料理は苦手だからとインスタントの粥を少しでも口に入れさせて。風邪薬と出来るだけ水分を…。彼女はかいがいしく働いていた。 そこには普段の彼女が見せる怪力的な一面も、時折覗かせる十八の少女の一面も垣間見えなかった。何か達観したかのようなひとりの女になって、今この時を銀時のために尽くす。 朦朧とした意識の中、銀時はそんな彼女に感謝を感じると共に、申し訳なく思うのだった。 『銀さん、着替えましょ、汗で体冷えますよ』 『…嫌』 『何言ってるの、ほら脱いで』 『…自分でやる』 『そんなふらふらでどうやって着替えるのよ』 『…分かんない』 『馬鹿』 着替えを手伝い、体を拭き、あまつさえ夕刻に吐き気を訴えた時でさえ、彼女は銀時を支えた。 彼女のそれは、おそらくは父母の居ない生活の中、長年弟の世話をしていたことに由来しており、今更銀時を看ること一つ、どうという事では無いのかもしれない。 それでも、妙に、―まがりなりにも自分の恋人、但し母でも妻でもない―にこうされると言う事はなかなかに気恥ずかしい事だと銀時は頭の何処かで思った。ただでさえ長年を戦場で過ごし、温かな温もりと無縁の血なまぐさい生活を送って来た彼だからこそ、特に。 今も、高熱と気怠さからか横たわることしかできない彼の横で、妙は滴り落ちる銀時の汗をタオルで拭っている。 嫌そうな顔ひとつ見せず、まるで臥してしまった銀時を励ますかのように、その顔には心配そうな顔を見せつつも穏やかな笑みを浮かべている。自分が見せられるのはただ、高熱にうなだれるみっともない表情だけ。それでも彼女は銀時の傍を決して離れようとはしない。 そんな彼女にどうしてやることも出来ぬまま、気怠さには勝てず、銀時は重たい目蓋をゆっくりと閉じた。 額に感じるひんやりとした心地よさに目を覚ました。次第に視界が鮮明な形を作っていく。ふと見上げればそこにはやはり心配そうな妙の顔が。彼女を見た時、何故だか心がひどく落ち着いたのが分かった。目を開いた時に誰かが居てくれると言う事がこんなにも落ち着く事なのだと、初めて知った。 何か声を発しようとして、酷く喉が渇いている事に気がついた。言葉を紡ごうにも声が出てこない。 『お水飲む?』 力なく小さく頷くと、水の入ったグラスが手渡された。銀時の体を思ってか、その水は決して冷たくは無い。しかしからからに渇いた喉に、それは優しく潤いを与えてくれた。水が喉を流れ、身体の中に広がっていく。その感覚がとても心地よく感じられた。 喉を潤して、少し身体を落ち着かす。熱のためか、先程の天井のように、目に映る様々な物が歪んで見えた。梁、棚、柱、カレンダー…。 銀時の視線はカレンダーで止まる。そしてふと、気付く。 そういえば、今日は。 『どうしたの??』 銀時の不思議な視線に気付いたのか、妙が優しい声で尋ねてくる。 そうだ、そういえばどうしてこの女は今日此処に来たのか。 今日の日付と、今、恋人が此処に居る理由と。熱に浮かされた頭でも解る位、それは簡単に解けてしまう推理だった。若干、いや、とても彼女の性格にしては信じ難い事ではあったけれど。 『…自惚れて良い?…』 熱に浮かされた力無い声で銀時は問う。覇気は無かったけれど、ひとつひとつの言葉はしっかりと力を持って聞こえた。 『お前が今日万事屋に来たのって…ほら、あの…二月十四日だから?』 その言葉を紡ぎ終えた途端、妙の顔が高熱の銀時と同じ色になる。 そう、今日はバレンタインデー。女から男にチョコレートとともに愛を告白出来ると言う一年に一度の特別な日。江戸の町もデパートの有名菓子屋からコンビ二、スーパー、はたまた近所の駄菓子屋まで、バレンタインフェアなどと称してチョコレートを売りまくっている。 たいていその類の、チョコレートに心を込めての愛の告白、だとか、好きな恋人にこれからも変わらぬ愛を、などと言うのは(こう思っていたことを言ったら後でどうなるか解らないが)内気な女性、或いは女らしい女性のすることで、そのどちらからもかけ離れている妙とは無縁のことと思っていたのだ。 しかし待て。ただ妙は新八にチョコレートを渡すために来たとも考えられる。寧ろ彼女の性格を考えればその方が自然だ。だがだが。ならばこんなにその頬を激しく赤くする必要も無い。 『…俺に…?』 力無くも妙の瞳をしっかと見つめて来る銀時に、妙は小さく、けれど確かに、うん、と頷いた。 『…マジでか…?』 はにかみながら妙も答える。 『…マジで…よ?』 朱に頬を染めて小さくなる妙のその姿は先程のかいがいしい様とは似て非なるものであり、年相応の少女の姿であった。 『うっそ…マジで?…やっば、スゲー嬉しいんですけど…』 恋人が見せた嬉しくも意外な一面が、いや、ただただ妙の優しさが、可愛さが、今傍に居てくれることが、彼女の全てがいとおしいと感じた。これ以上は上がるまいと思われた熱が、更に上がってしまいそうだった。 只惜しむらくは、今はそんな心底いとおしい、と思う恋人に自分から口付ける事も抱き締める事も出来ない。 『…ただ、日付変わっちゃったけどね』 言われて初めて気がついた。視線を時計に移せば、とうに日は明けて深夜の三時をまわっていた。いくら妙は夜間の仕事に慣れているとは言え、女をひとり、こんな時刻まで。しかも自分の看病をさせてしまっている。 『…ごめんな』 ぽそりと呟かれたその言葉はせっせと氷枕を取り替えて居た妙の耳に届いたかは解らないが。 『…ほんとは、作ろうかなって思ったの。チョコね』 その言葉を聞いた瞬間だけ、瞬時に全身の熱が引いた気がした。幾ら妙とは言えど、それだけは勘弁して欲しい。妙の料理は新八の視力を低下させ、近藤(そして自分)の記憶を抹消させるほどの破壊力なのだ。 ふと以前彼女の作る料理を食したときの味と食感を思い出してしまった。形容の仕様も無いほどの出来栄え。 その時背中をたらりと流れ落ちた冷たい汗は、風邪の為だけでは無いだろう。銀時は心の中で今の発言が熱による空耳であることを祈った。 『…でもほら、私料理苦手でしょ?だから買う事にしたの』 ほっとした。先程妙の顔を見た時以上に、心底胸を撫で下ろした。気の緩んだ銀時の表情に、幸いなことに氷枕を差し入れていた妙が気付く事は無かった。 もし気付いていたら。とても言葉で表せそうにも無い。 『…でもねぇ、美味しいかと思って生のチョコ買ったの。それ生菓子だから今日中に食べなきゃいけなくて…これじゃ、食べられないわね。ごめんね』 妙を見れば、そっと銀時の銀色の髪を撫でながら、申し訳なさそうな顔でこちらを見て居る。 蛍光灯の光に銀髪が映えて、きらり。 対照的とも思える程、沈んだ妙の顔。 …そんな顔をする必要、全く無いと言うのに。銀時は思う。そんな妙に、力無くもやわらかく微笑む。 『ん…いいよ。そのチョコ。お妙が食べて』 『でも…』 『俺がもらって、それをお妙にお裾分けしたってことで…ほら、なんつーの?今日のお礼?』 チョコレート一つで今日のこの感謝と申し訳なさを、そして何より彼女への愛しさを表現出来るとは思っても居ないけれど。 少しでもその気持ちを伝える事が出来ると言うのなら。 『だから、な』 『…そう、解った』 ほんの少し躊躇はしたものの、案外にあっさりと彼女は承諾した。すぐさま、いそいそと鞄の中から包みを取り出してその包装を丁寧に解いてゆく。 甘い物が好きな銀時のために買った、甘い甘い生チョコレート。 『自分で食べても美味しそうなチョコを選んだの』 『ちゃっかりしてるねぇ、お妙ちゃん』 ふふ、と、どちらとも無く笑い合うと、妙はチョコレートを口に頬張った。指でつまめるくらいの小さなまあるいチョコレート。 『美味い?』 銀時の問いに妙はその優しい華やかな笑みで返事をした。 そして。 チョコレートを食べたその唇を、そっと銀時のそれに重ねた。 銀時は目を閉じた。 妙も目を閉じた。 それは何時も銀時が妙に与えるような、熱く甘美な響きでは無かった。只互いの唇を重ね、その温もりを感じ合うだけの、言ってみれば素っ気ない口づけ。けれどそんなことはさして重要なことでは無かった。妙の唇は先程のチョコレートの為か仄かにその味が感じられ、ショコラの香りが銀時の鼻をくすぐった。妙の唇は何処までも温かく、何処までも甘かった。 唇を重ね合いながら、銀時はその唇を割って、彼女の舌を絡めて愛撫したい―より、深い口づけを求めたい。そんな衝動に駆られた。けれどこれ以上、只でさえぴったりと自分に付きかいがいしく世話をしてくれる彼女に自分のこの高熱を移したくない。だから理性で押さえ付けた。それでも時に妙の唇を軽く吸って、銀時に贈ったチョコレートとその唇の甘さを味わった。其処に相手が居ることを確かめ合うような、長い口づけ。人の唇の甘さを、その温もりをあらためて感じていた。 彼女の唇がより甘く感じられたのはきっと、チョコレートのせいだけでは、ない。 『…甘いね、このチョコ』 『そう、良かった』 『…でも、チョコより甘かったかもねぇ、今のは』 『ふふ、そうかもね』 『…美味かったよ』 銀時が美味いと感じたのはチョコレートか妙か、或いはその両方か。 『良かった。…さっ、寝た方が良いわ、銀さん』 『うん…』 先程までの唇の感触を噛み締めて、銀時は再び眠りにつく事にした。目を閉じる直前にその瞼に妙の顔を焼き付けて。 戯れに、丁度空いていた妙の左手をぎゅうと握った。突然の事に、妙は何事かと驚く。 『手ぇ握ってて、い…?』 小さな吃驚を見せつつも、笑みを浮かべながらその手を握り返して、妙は応えた。その様子に、銀時は微かにその口許を綻ばせた。これではまた熱が上がってしまうかもしれない。でも今は少しでも妙の温もりを感じて居たかった。 繋がれた手からは彼女の温もりが、優しさがじんわりと伝わって来る。自分の方からも妙への感謝が、溢れんばかりの愛しさが伝われば良いのに、と思う。繋いだ手からは温もりが伝わるばかりで、伝えたい思いも言葉も伝わらない。 全身の熱と気怠さと、刻々と襲い来る睡魔と闘って、銀時はひとつひとつ、言葉を紡ぎ始めた。 『…そのチョコレート、全部食べるんだぞ…俺からの感謝…ってもそんなんじゃ足りないけどよ』 『…うん』 銀時の言葉に、妙は優しく相槌を打つ。耳に優しく落ちて行くような、溶けていくような、温かい声で。 『それでさ…食べるじゃん…チョコをね…そしたらさ、俺が良くなったらさ…えーと、なんてーのかな。…お妙ごと、食べさせて』 『…もう…、馬鹿ね』 『…うん』 『おやすみなさい』 耳に染み入るその声はあまりに心地よくて、一気に眠りの淵に誘われた。それでも最後の一言は伝えたかった。伝えなければならないと思った。 『…お妙が、好き』 何気ない日常の中で流されてしまっていた言葉が今なら言える気がした。 次の刹那、その言葉を紡いだ唇にチョコレート味の柔らかい唇が重ねられたのだけれど、眠りの園に旅立ってしまった銀時はそれに気付く事は無かった。 二月十五日。 いつもとちょっと違った一日を。 いつもとちょっと違った二人の関係を。 繋いだ手の、重ねた唇の温もりは、その日一日、二人を甘くも強く抱き締めていた。 戻る |