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二週間ぶりに江戸に戻ってきて一番の驚きは、既に桜が満開になっていたことだった。 それまで出張で訪れていた北の都は、名残雪と言うにはあまりに生易しいほどの猛吹雪で、弥生の終わりなど微塵も感じさせはしなかった。暦の上では疾うに春満開の筈であったが、北の国では暦など形式ばかりで意味を成さないものなのだ、と痛感した。 国内線のターミナルから屯所までの道筋は、大方が遊歩道と桜並木になっている。俺は迎えを呼ばず、屯所までの道のりを歩いて帰ることにした。一キロと半分ほど歩いた時だったろうか。やけに空が暗かったから嫌な予感はしていたのだが、突然空が大粒の雨を降らせてきた。まるで行く手を阻むような大粒の雨。映画のように「春雨じゃ、濡れて参ろう」と行きそうには無い。屯所まではまだ大分ある。仕方なく山崎あたりに迎えに来させようかとも考えたのだが、ふと視界の先に見つけた淡い色に、俺はもう少し足を続けることにした。隊服が水を吸って若干重く感じたが、大したことではない。それよりも今目の前に広がりつつある光景を見逃してしまうことの方がよっぽどのことだと思っていた。 先程まで居た都には「滝桜」と呼ばれるそれは立派な枝垂れ桜の樹があるのだという。葉よりも前に開く淡い紅色の花の咲き誇るのはさぞ美しいことだろう。だが今眼前に広がるこの様も、決して引けをとらぬのではないかと思える。 一面の淡い紅が、一枚一枚まるで降り注ぐ雨に合わせるかのようにひらりひらり、と舞い散るのだ。上を見上げれば桜の雨が降り、下を見下ろせばゆらゆらと紅色が浮かぶ。眼前に臨むのは紅色の舞。 雨がこの桜の美しさを引き出しているのだ、とそう感じた。 「あら」 刹那俺の目の前に広がったのは、また別の桜だった。漆黒の地の上にひそやかに咲く、艶やかで白い桜。 「お久しぶりですね。北の方に出掛けていたと聞きましたけれど」 耳に染み渡るその声に、ああ今自分は江戸に戻ってきたのだと改めて実感した。これから仕事なのだろうか、彼女の声、表情ひとつひとつから何処となく艶やかな雰囲気を感じ取ることが出来た。笑みを浮かべる唇と同じ色の番傘の上で、一層淡い紅色が舞っている。 今しがた戻ったところだ、と言うと彼女は「そう、」と呟いて、穏やかな手つきで俺を傘の中に招き入れた。 「雨宿りには、桜の樹は不釣合いですよ」 まるで囁くように紅色の唇が言葉を紡いだ。 「美しさに見惚れて、気付いた時にはすっかり濡れ鼠」 彼女の細い手が俺の髪に着いた雫を払う。その手は空を舞う桜のような紅色ではなく、彼女の着物の中で舞う桜のように白かった。それは彼女の体温が低いことを暗に示しており、同時に彼女がどれだけの間雨の降りしきる中に居たのかが窺い知れた。俺の奥で何かが焦がれていた。 「まぁ、私に逢いたくて雨に打たれてたなら話は別ですけど?」 「何馬鹿言ってんだ。俺に逢いたくて雨に打たれてたのはアンタの方だろ」 そう言って、その細く白い腕を少し強引に引き寄せた。 掴んだその腕はやはり冷たく―そして、熱くなった。 二週間ぶりに江戸に戻ってきて一番の安らぎは、変わらずに桜が優しかったことだった。 戻る |