かぶき町に足を踏み入れるのは久方ぶりだと言うのに、あの生臭さと煙たさが混じった独特の空気と、踏みしめるコンクリートの感触を、自分の身体は覚えていた。


此処は、自分の人生の中で、最もいい加減で、最も空虚で、最も安らいだ時間を過ごした場所だった。幾つもの夜と朝を迎えたこの土地を、そう簡単になかったことには出来ないのかもしれない。



かつて自分が寝床にしていた住居兼事務所は、24時間営業のコンビニにすっかりその姿を変えていた。


人間じゃねぇ、化け物だ宇宙戦艦だと言っていた階下のババァもやはり人間で、いつの間にか旦那のもとへ逝ってしまった。一緒に居たネコ耳オバサンは、その後何処へ消えたのだろうか。ババァが逝って直ぐここを去った自分には、その後のことが分かろうはずがない。




あの時自分と同じ時を過ごした面々のその後は、勿論知らない。

唯一の例外がチンピラ警察であるが、その理由はとても言えたものではない。ただひとつ言えることは、今は彼らが居ない。自分自身が今居ることが、それを証明している。




何も考える事無く、ふらふらと今のかぶき町を歩いてみた。町並みは以前とは大分変わってはいる。それでもエロスとタナトスがカオスになったかぶき町の基本趣旨のようなものは相変わらず健在で、何処か安堵している自分自身が居た。

たとえ自分がそこにいなくても、この世界は正常に動き続けているのだ。



あれからなんどもなんども、世界は太陽と月に背く事無く廻り続けた。

人であれ、物であれ。この町にはきっともう、自分自身がここに居た形跡を残すものなど、何もないのだろう。


そう、何も。


本当に、何も。




柄にもなく感傷に浸っていた自分自身を、甲高い泣き声が引き戻した。


びえぇぇ、と、年のころ3、4歳くらいの幼い娘が、地面にうずくまるように泣きじゃくっている。転んでしまったのだろうか、紅色の着物は土で汚れ、裾から覗く膝は擦り切れ、血が滲んでいる。

普段は大して気にも止めなかっただろうが、懐かしい土地が自分の中の良心をくすぐるのか、直ぐにその子供に駆け寄った。身体を起こしてやり、土をはらってやると、初めは見知らぬ男に何処か戸惑う様子を見せた子供も、やがて「ありがとう」とはにかんだ表情を見せた。


その表情に小さな概視感を覚えた。自分はかつて、この町で同じような表情と、出会ったことがある――。

そして、その概視感は明白な形となって目の前に現れた。



きっとこの子供の名前だろう、美しい花の名前を必死に呼びながら駆け寄ろうとして、そして立ち止まる表情。この子供によく似たその顔に、見覚えがないはずが無かった。

無意識のうちに、自分の口はその名を呼んでいた。

一緒に居たときには、一度として当人に向かって言ったことのない、その名前を呼んでいた。




たえ、と。





娘の名前は桜と言った。桜が満開のときに産まれたからだと言う。

我ながら安直よね、と彼女は笑った。
年月を重ねた笑みだった。


この町に今なおかつての面影を残すものなど何一つないと思っていたのに、なんとあのだだっ広いオンボロの道場は健在だった。所々修繕を重ねながら、道場で弟子を鍛えつつ、母娘二人慎ましく暮らしているのだと言う。

室内にも華美な装飾が一切無いのは相変わらずだが、所々に手鞠やお手玉、それに幼子が描いたと思わしきつたない絵が飾られた部屋は、何処かとても温かみを感じた。

とはいえ、かつて色とりどりの花が咲いていた大きな庭は、今は幾つかの小さな畑に姿を変えており、入り口にどっしりと構える桜の木だけがかつての姿を留めていた。時代は確実に変わっていた。
そして弟は剣の腕を認められ、幕府お抱えの侍に取り立てられたのだと言う。


「廃刀令の時代とは大違いね」と、彼女は何処か切なげに呟いた。


夕飯時だから、と食事を御馳走してくれた。
台所に立つその姿は確実に母のそれであった。けれど彼女の淹れる茶の味はともかく、彼女の生み出す卵焼きの味も哀しくなるほど相変わらずで、かなしいようで何処かでは安堵していた。



いま、の事は彼女は何も聞こうとしなかった。
ただ、他愛もない、あの頃の思い出話をしているうちに、時だけが穏やかすぎるほどゆっくりと過ぎていった。初めは隣で絵を描きながら二人の話を聞いていた娘も、いつの間にか疲れて眠ってしまっていた。
そんな時母親は、幼子の身体にそっと毛布をかぶせ、そうしてその柔らかな身体を胸に抱いた。

娘は母の胸に抱かれているのが分かるのか、とても穏やかな表情で、寝息を立てていた。


その表情は、ほんとうに彼女によく似ていて、彼女の遺伝子がそのまま受け継がれてたのではと考えてしまうほどだった。
彼女もかつてはこんな風に母親の胸の中で眠った事があったのだろうか。




そんなことを思っていた表情は、無意識のうちに、最も肝心な部分を彼女に求めていたのかもしれない。
彼女はくす、と笑って言った。




「あなたです」




彼女と視線が合った。柔らかで落ち着いた、それでいて強い視線だった。




まさか、と。



年月が合わない、とか、アレがアレで総合してそんなわけがない、とかいう訳でもなく。


無かったのだ。二人の間に、そういうことが。




間違いなく、自分は彼女を、彼女は自分を、思っていた。通じ合っていた。愛してあっていた。


けれど、もしあの時、彼女を抱いていたら、今の自分はきっと存在していない。

一度でも抱いてしまっていたら、すべてなかった事にしてこの町を離れることなど、きっと出来なかった。
出来るはずが、なかった。




優しい声で、彼女は続けた。



「桜を産んだ時、すごい難産だったんです。そうしたら、その産院の先生がとても面白い方で。旦那さんの名前を叫べ、叫べ!って言うんです。だから私も無我夢中で叫んだんです。『銀さん、銀さん』って、あなたの名前を、なんどもなんども。そうして、この子が産まれたの」
   
「……」
   
「丁度そのころは、今以上にテレビも新聞も雑誌もかなしいニュースしかなくて。身体に悪いからって、周りが何にも見させてくれなかったんです。だから、写真をずっと見てました。昔の写真をいっぱい。桜にも見せました。だから、銀さんたちと過ごしたあの時の記憶を、この子はしってるんです」
   
「…」


くす、と彼女は笑う。娘の頬をそっと指で撫でながら、母のとも女のともつかぬ声で、言葉を紡いだ。
   

「あなたのつもりで産んだんですよ。だから、あなたの子です」



その瞳は、あの頃のように純粋で、そして、美しかった。



そう彼女の口が紡いだ時、彼女の腕の中で、娘が身体をよじらせた。
隠れてしまっていたその顔が見えた。
安らかな表情で寝息をたてるその表情はほんとうに母親に似ていて、そして無垢なまでに美しかった。



――そうだな、と呟いた。


「それなら、俺の子だな」


かつてないほど穏やかな気持ちで、その言葉を口にしていた。
自然に、手が娘の、桜の頭を撫でていた。

「ええ」と笑う目の前の表情は、同じだった。
なにも変わることなく、美しいままだった。





その夜は桜を挟んで川の字で寝た。

あまりにも優しい時間は瞬く間に過ぎていき、気付いた時には太陽が新しい朝を告げていた。
けれど、それくらいあっけないもので良いのかもしれない。そんな時間が続けば続くほど、今の自分の居るべき場所には戻れなくなる。


別れ際に桜は一枚の絵をくれた。肌色と白で出来た幾何学模様のようなそれは、どうやら似顔絵のようだった。なんどもなんども握手をして、一度だけ指切りをした。



「もう、転んでも泣かないか?」

次はきっと助けられない。

うん!と言う威勢の良い返事に、力いっぱいちいさな頭を撫でた。

母親はずっと、くすくすと穏やかに笑っていた。



握手も指切りもしなかった。

ただ一度だけ、彼女の瞳を見つめた。
彼女もこちらを見つめ返した。
ほんの少しだけ、時間が止まった。





一歩、踏み出した。時が動き出した。

彼女に背を向けて、止まる事無く歩を進めた。
彼女との距離が、どんどん、離れていった。


さっきまで直ぐ近くに感じた彼女の気配が、だんだん、無くなっていく。




この醜い町のために、一歩、そしてまた一歩、世界から飛び出していく。




そうして――振り返る。

最後に映った景色は下品な極彩色と乱雑なオブジェばかりなのに、それでもその世界は美しく見えた。



これから先はどうだか分からない。

ただどうやらこの町は今日のところ、まだこの町のままのようだった。
俺が護りたい町は、まだここに、あった。






END












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