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女の爪とは細くて長い、美しい縦長の楕円形、という印象がある。 それはやはり、女は爪紅を塗っており、如何にそれを美しく魅せるかとそのような形に整えている、そんな公式が頭の中で確立しているから。 勿論、そんな長くて形の整った爪とその上に塗り重ねられた爪紅とは非常に相性が良くて、何処までも美しい。 例えて言うなら極上のスポンジの上に飛びきり上品で甘い生クリームが乗っかった、と言うところか。貧弱な例えで申し訳ない。 ためしに俺の爪を覗いてみれば、そんな極上ケーキとは果てしなく縁が遠そうだ。短くて丸くてなぜか色黒、しかも若干深爪気味。見た目悪いこと限りなし。こんな爪に爪紅なんて塗ったらどうなることか。まあ兎にも角にも似合 わないことは間違いなさそうだ。いただけない。 話が逸れた。そんなわけで、女の爪と言ったら@細いA長いB楕円、そして…C美しい、そういうものだと思っていた。 けれどこいつの、妙の爪はそのどれからも離れていた。 短くて真ん丸で。俺のそれとは違って、決して見た目が悪いわけではないのだけれど。 けれども女の爪と言ったら前述のような印象を抱いていた俺にとっては、それは衝撃とまでは言わずとも大きな驚くべきことであった。 初めてあいつの小さな手に唇を寄せた夜も、そんなことを思ったもんだ。 しかしながらその理由は単純、そして明快。彼女は剣を振るうから。剣の道に身を置いた人間だから。そう、だから爪を伸ばすことは出来ない。長い爪とは剣を振るう者にとってはご法度(俺もそうなんですと言えれば良いのだろうが、ええ俺のは単なる不精なんです)だ。 その所為か妙は爪紅を塗らない。塗ったところであまり似合うものではない、ということが自分でも分かっているのだろう。だったら伸ばせば良い、と思うかもしれないが、 彼女の剣に対するその志は決して爪紅ひとつで覆すことが出来る程柔らかいものでも、爪きりで挟めばぱちりと切れてしまうような、そんな脆いものでも無い。 今も俺のすぐ隣、呼吸が聞こえそうなくらいの距離で、妙はせっせと爪を整えている。剣の道に身を置く者の礼儀だ。 小刀とやすりで形を整えられていく、彼女の爪を見る。丸くて短いその爪。決して美しくは無い…と、思う。確実に俺の爪よりは綺麗だけれど。 そんなことを考えていると、彼女は完成したその爪を見つめて。そうして向かいの化粧台から出してきたのは。 あれ? 爪紅? 「塗るの?」 思わず変な声を上げてしまった。しまった。口にするつもりは無かったのに。思わぬ失態に、ばつの悪い笑いでごまかそうとした。その間抜けな様に、妙も苦笑しているようだったが。 「うん、ついさっき買ってきたの」 そう言ってまた俺の隣に座る。その手元には、ほんのり朱の入った薄い桃色の爪紅。ついさっき買ったというのは本当らしく、蓋のところがまだ薄いプラスチックのカバーで覆われていた。 彼女のそういう色の着物を身に着けたところは良く目にする(こんな事言うのも何だが、似合っていると思う)のだけれど、如何せんそんな色の爪紅を、そもそも爪紅を塗った様など見たことも無いから、正直どんなものか想像がつかない。塗ったところでそれが本当に似合っているのかどうか、それすらも考えられない。だから、 「似合うと、思う?」 そんな、彼女の可愛らしい問いにも答えられることが出来なかった。 俺のそんな思いに気づいてかどうなのか、そう尋ねる彼女の表情も笑ってはいたのだけれど、何処か不安そうな色が滲み出ていることは隠せなかった。 「まあ、とりあえず塗ってみ?」 彼女は小さく頷いて、そっと爪紅のカバーを剥がし始めた。ピリリと音を立てて薄いプラスチックが剥がれていくたび、爪紅の綺麗な桃色がより,露わになってくる。この色が彼女のあの爪の上に重ねられるのだ。なんだか不思議な気分になった。 硬く閉められた蓋。きゅう、と音を立てて緩め、開けると爪紅の持つ独特の交合溶剤の匂いが広がった。そこから見えてきた桃色の海に小さな刷毛をそっと沈ませて。掬って。そっと、爪にその桃色の液を重ねた。 「緊張するわ」 くす、と妙は笑った。まるで見られているのが恥ずかしい、と言わんばかりにその頬をほんのり赤く染めた。爪紅の色だ。 そんな彼女の、細い女の指に抱かれた桃色は、丸くて小さなその爪の上を、まるで音楽を奏でるかのように緩やかで穏やかな一定のリズムを刻んだ。その度に爪を彩っていく桃色はその深みをそして輝きを増し、裸の爪は色鮮やかな桃色の着物を纏っていく。万華鏡が光の具合で美しい模様を覗かすように、その爪もまた、差し込む光の方向によって、きららかとした輝きを見せていた。 ひとつ、ひとつ、彼女の上に咲いていく、桃の花。 「…やっぱり似合わないわ、ね」 両の手に満開の桃の花を咲かせた後で、妙はぽつりと呟いた。 確かに、俺が抱いている爪紅を塗った爪のイメージと妙のそれとは異なっていた。 けれども妙のその爪は、決して「美しくない」とか「みっともない」とかそう言うわけではなく、 「いや、可愛い…んじゃねぇの?」 そんな印象を受けた。 春に咲き誇る桃、或いは桜の花びら。子供の頃に浜で夢中になって拾った桜貝。或いは新宿の宝石店のウインドウに飾られている、紅水晶(ローズ・クォーツ)のような、そんな。 俺の言葉に、彼女は口許に小さな笑みを浮かべた。でも、心からその言葉を受け止めているようではなかった。何処か、無理に繕った笑みにも見えて。そんな気がした。 そうしてまた、妙は爪紅の重ねられた自分の爪を見る。なんだかその様が、しきりに出来栄えを気にしているようにも見えて。 ああ。 俺は、ため息をついた。 なんか俺、誤解?していたみたいだ。「似合わないことを自分でも分かっていて」「だから爪紅を塗らない」「塗ったところで似合っているのか分からない」。 でも決して興味がないとか、爪紅を好まないとか、そういうわけでもなくて。 ただでさえ今あんなところで働いて、肌には白粉をつけ、唇には紅を引き。そんな中でも自分の剣への志は変えられずに、夜の闇事の中、白刃に晒してきた短くて丸い裸の爪。 だからと言って生活には変えられずに、そして少女特有の美しさへの憧れも其処にはあって。 彼女はその爪紅の似合わぬ爪に紅を重ねる。 急に、目の前の女が愛おしく思えてきて。 手を伸ばして、強く抱き寄せた。我ながら慣れた手つき。心の中でちょっと苦笑い。そんな俺と、その手にぎこちなく、抱かれる妙と。その頬は爪と同じ色に染まっていた。対照的な、二人。ふと目が合って、どちらからでもなく、小さく笑いあう。 「本当に、可愛い」 ふと、妙の両の手が俺の左の手を握り締めているのが分かった。そして彼女の視線の先も、其処に注がれていて。どうやら、爪を見ているらしい。@短くてA丸くてB深爪でC若干色黒でD見るに耐えない(…)俺の爪を。 「…いや、何かそーやって見られるのって恥ずかしいんですけどマジで」 やっぱこう、見られていることって、何か気恥ずかしい。さっきの妙もこんな気分だったのだろうか。妙のその両の手は柔らかくて、握られているだけで気持ちが良かったのだけれども。 ふと彼女は小さく笑った。 「銀さんにも、塗ってあげるわ」 俺の爪に桃色を重ねだした。 驚いた。 おいおい。 いきなり何するのかと思った。 ってかマジですか。 ほんとにやんの。 えっ。 俺の驚きなど露知らず、といったように、妙は桃色の花を咲かせていく。 ひとつ、ひとつ。 光の角度によって違う色合いと光沢を見せるそれは、いつもの俺の醜い爪とは一八〇度違っていて、俺の爪であって俺の爪で無いような、そんな感覚を覚えた。そういやパー子の格好をしたときも爪紅は塗らなかったっけ。 「はい、できた」 その声に左手を見つめれば、咲き誇る桃の花、一二三四、五本。やっぱり俺の、そう俺の爪であるわけだから、正直お世辞にも良く似合っているとは言えそうに無い。 けれど小さくて真ん丸い、指先にぽっかりと咲くその桃色の様は、妙の指先に咲くそれとよく似ている、と、ちょっとそう思った。 「ほら、お揃いになった」 妙はそう言って、俺の手に自分の手を重ねてきた。並んだ、十の小さな桃色の爪、桜の花びら、桜貝、紅水晶。こうしてみると、やっぱり俺の爪と妙のそれは良く似ていた。勿論、妙の爪のほうが圧倒的に可愛いのだけれど。というか比べるまでも無いのだけれど。 性別は勿論のこと、髪の色、年、生い立ち、生き方、考え方。何一つとして同じものが無い俺たち。 ただ今だけは、この爪に輝く色は同じだった。 でも、お揃いというにはあまりに違いすぎる、指先。 彼女の指先は握り締めたら壊れそうなほど細くて、その竹刀だこで覆われた手のひらさえも、もしかしたら俺の半分ほどの大きさしかないかもしれない。すらりと伸びたその腕も恐ろしいほど細くて白くて、冷たくて。そんな彼女と、そして剣を振るう彼女の像とをイコールで結びつかすことは、なかなか容易ではない。 そんな決して剛健とは言えない指先に、手に、腕に剣を、そして苦しい生活を抱えて。いくら彼女が自分で選んだ道とはいえ、十八の娘。お洒落に憧れるような、年頃の。そう、まだ娘。まだ十八の、娘なんだ。 重ねられた妙の手を重ね返して、そっと指を絡めた。 俺の太い、節ばった手の隙間を、妙の細くて白い指がゆらり、すり抜けていく。そして抱かれていく。 冷たい小さなその手、そしてその先に彩られた、桃の色。 その指にそっと、唇を寄せる。人差し指の第一関節にもう一輪、桃の花が咲いた。 重なり合った二つの手。添えられた唇。その白い肌に桃色が波紋のように広がっていくように、そこから二人の体温が広がっていく気がした。 多分、これからも彼女は爪を伸ばさない。丸くて短い、そんな爪に紅を塗るかどうか迷って、塗って、そのたびに似合わない、と肩を落とすのだろう。 それでも決して爪は伸ばさずに、戸惑いつつも爪紅を重ねることもきっと止めずに。女としての生き方と剣を志す生き方との狭間で揺れて、さらに其処に大きな荷を抱きかかえて。 彼女の小さな手に抱えるものが少しでも軽くなるように、そして剣を振るっても女で在れるようにと、俺は、願う。彼女が彼女として生きられるように。 いつかそんな日が来るまで、妙が塗ってくれたこの爪紅は消さないで置こうかな、とか、そんなことを考えてみた。同じものを共有したいと思ったから。彼女の荷を少しでも抱えてあげられると言うのなら。 一度離した唇をまた妙の細い指にそっと寄せて、そのまま強く胸元に抱き寄せた。 妙の手元から転がり落ちた爪紅が、床に桃色の海を作った。でもそんなこと、今はもうどうでも良かった。 走りかけた愛おしさはもう、ブレーキをかけても止まりようがないように感じられた。 ―で、ぼんやりと思ったこと。 いつか妙のその抱えるものが軽くなる日―って。それってもしかして、もしかしなくても俺次第ってことなんだろうか。いや疑問なんか持つまでも無くそういうことなんだよね。 頑張れ、俺。解き放て、甲斐性無し。 繋ぎあった二人の手に咲く桃色の爪が光を受けて輝いて。 時にそれが光る誓いの指輪のようにも見えたのだけど、それは妙には内緒にしておこう。 いつかのその日まで。 戻る |