いつの時代も、どこの場所でも、高等学校の昼休みの購買戦争とは在るものだ。


 勿論ここ、私立大江戸学園においてもそれは例外ではなく、一階の購買とその周りの廊下、階段では熾烈な争いが毎日毎日、飽きもせずに繰り広げられていた。何時もは人の通りも多くなく静かなこの場所ではあるが、4限終わりのチャイムとともにその色を変える。1階から5階まで、沢山の生徒の山(若干の教師を含む)の山、山、山で溢れかえる。そこはいつも戦場。味方など居やしない、孤立無援の侍合戦。戦況は勿論鍛え上げた体格の男子、特に長身が有利。女子には一見とてつもなく不利に見える。しかし女子の生徒数が圧倒的に少ないこの学園では、大抵の男子が女子慣れしていない為か、女子の「お願ぁい。私の分も買ってきてv」と言ったようないわゆる「珠緒的おねだり」に非常に弱い。愚かな男子どもはそういった女子の演技にコロリと騙されてしまうのであった。

しかしまぁ、必ずしもそういった手段を好まぬ者が居ない、という訳ではなくて。


今日も今日とて、1階は戦場だった。
購買の周りは勿論、階段、廊下も人、人、人の大群であった。しかもそこは整列マナーなど存在しない無法地帯。人の熱気が肌を撫で上げる不快感が一面に漂う、押しては掴み、踏んだり蹴ったりの学園内戦。怒号と注文の嵐と渦。それでも戦争に志願する生徒が一向に減らないのが学園七不思議の一つである。
志村妙は、食費の節約も考えていつも手製の弁当を持参していたが、この日は週番で早く登校しなければならなかった為、弁当を用意することが出来なかった。必然的に昼食は購買に頼らねばならなくなり、この戦争に参加することになったのだが、購買の周りは前述の惨状。一気に購買意欲を萎えさせるその様に、妙は大きな長いため息をついた。
今までにもこの購買戦争に参加することが無かった訳ではないが、弁当派の彼女には多くて三ヶ月に一回程度。そのため、この嵐のような状況に慣れる、という公式は成立し得なかった。購買までの道のりは遠く、行く手を阻むは富士山のような人の山。行き交う人の流れはお世辞にもスムーズとは言えそうに無い。しかも今妙の周りを囲んでいるのは、よりにもよって180cmを越すであろう大男ばかり。道のりは長く、険しい。とんでもなく険しい。果てしなく険しい。
 ぎゅうぎゅうに、肉壁に潰されそうになりながら、それでもなんとか前に進んで行くと、やっと購買が視界の片隅に入った。パンの残りは少なそうだ。今妙がいるところから購買まではまだ長い。もしかしたら、妙が購買に行き着くまでに売切れてしまうかもしれない。それは困る。何とかしたいけれど、何ともし難い。誰か購買の近くにいないかしら、と思った。あわよくば、代わりに買ってくれないかしら、と。少々負けず嫌いの気があるいつもの彼女なら、こんなこと思わないのだろうけれど。購買戦争は、いつもの彼女を打ちのめすには十分の威力を持っていたのである。
 そんな自分らしからぬ願いを込めて、再び購買を見やる。すると、同じクラスの男子が丁度カウンターの目の前にいるのに気付いた。黒髪の短髪で、すらりとした長身だから遠目にも良く解る、土方その人であった。
 良かった、何かパンの一つでも頼んで買ってもらおう、と考えたが、その考えは無駄である事に気付いて諦めた。何を隠そう、土方はこの学園では珍しい、硬派で高名な剣道部員。この剣道部こそ、先程の「おねだり」を好まない連中の総本山なのだ。
しかも土方は、その剣道部の副主将。人呼んで、「鬼の副将」。もしもおねだりでもしようものなら、逆に一蹴もしくは一喝されるのがいいところだ。
 そして、そもそも自分は甘え下手だったという事に気付いたのだ。おねだりなどやったことが無い(出来れば、やりたくも無い)。なので、妙は諦めて素直にこの肉壁の中を耐え抜くことにした。先は長いが、まあ、何とかなるだろう。
ふとその時、土方がこちらを振り向いた。そして、妙と目が合った。何の因果か偶然か、妙が土方のことを考えていた ら、土方がこちらを振り向いたのだ。 

 群集を掻き分けて、二人の視線が交錯する。
しかし土方は購入の順番が巡って来たのか直ぐに前を向き、パンを買ってそのまま立ち去ってしまった。
あまりにあっという間の出来事に、妙は呆然とした。目が合ったとき、ほんの一筋、希望の光が差したかのように思えたのだが。いや、やはりそれは錯覚だったのだ。もしかしたら、視線が合ったことすら、錯覚だったのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。
 そう自分に言い聞かし、妙は開き直って前に進もうとした。やはり地道に行くのが一番だと、小さく息を吸って、よし、と意気込む。


 その時だった。
 ふと、ぽん、と肩を叩かれたかと思うと、振りかえる間も無く急に腕を掴まれ、そのまま凄い力で引っ張られてしまった。人ごみをぎゅうぎゅうと掻き分けられ、体中のあちこちが知らない誰かと思い切りぶつかってしまう。自分では決して見ることは出来ないが、きっと髪も乱れてしまっている。今自分の手を引っ張っているのが誰なのか、妙には解らなかった。ただ掴まれた手の大きさとその力から、女性ではないだろうことは解っていたけれど。
 人ごみを掻き分けて、なんとか下駄箱に辿り着いた。はあはあと、妙の息が上がっている。あんなに大勢の人の山、山、山からきり抜けて来たのだから、仕方の無いことかもしれないが。そうしてやっと顔が上げられて、初めて自分を連れ出した男の正体に気付いた。
「土方くん…」
 先程、自分の視線を逸らした男であった。
 とすれば、先程視線が合ったと感じたのはやはり、錯覚では無かったのか。
「…髪、すげぇことになってんぞ」
 土方の第一声はそれであった。
 しらじらしい。そうさせたのは紛れも無く自分であろうが、と妙は思う。
「一応女なんだから、その辺気を遣え」
「…何よ‘一応’って。」
 自分とこの男は、特に仲が良いわけではない。特に悪いわけでもない。同じクラスの男、と女「友達」こういうやり取りが別談珍しいわけでもないし、不自然なわけでもないのだけれど、何処かぎこちなかった。まるで、無理矢理そんな言葉を搾り出しているかのように。
「離して」
 妙は強く言い放った。だが土方は一向に離す気配が無い。離す事無く、じっとこちらを見つめている。その視線の強さに、まっすぐさに、そして昇降口の方から差し込んでくる光に、妙は一瞬たじろぐ。しかしひるむ事無く、今度はより声を張り上げて言おうと思っていた。
 その時、土方はおもむろにその手を離すと、それまで掴んでいた妙の手元に手のひら大の何かを落とした。
反射的に、妙はそれを拾ってしまった。
それは丁度妙の手のひらにすっぽり入る大きさの、甘そうな袋詰めのメロンパン。


妙の頭上に疑問符が輪を作って浮かんでいる。これはどういう意味なのだろうか。
「間違って甘いもの買っちまった。俺ぁ食えねえから、やるよ」
 その言葉に、妙は土方の顔を見上げる。この男はもしや、先程の自分の視線の意味に気付いたのであろうか。この男が(しかもあの状況で)嫌いなものを‘間違って’買うなんて。だがそうでないとするなら、妙の思うところが正しいとするなら、ますますありえないことである。土方が、あの土方が、泣く子も黙る鬼の副将と呼ばれるあの土方が。
ちいさな驚きと大きな疑問を胸に抱えて、妙は土方に聞いてみた。
「嫌いなんじゃなかったの」
「何が」
「…女の子の、おねだり」
 妙の疑問に、土方はそんなことか、と さも言いたげな様子で舌打ちをする。
「嫌いだよ。それにそんなんじゃねーって言ってるだろ。間違えただけだっつの」
 しれっ、と答える土方に妙はふうん、とだけ返す。思い過ごしだったのだろうか。今日はこの男に覆されてばかりだ、と思う。頭の中でそういうことにしようとして、妙は財布から小銭を取り出そうとした。
だが。
「いらねぇ」
 土方の声が、妙の行動を遮る。妙は驚いた。思わず土方を見上げ、目を瞬かせてしまった。
「なんで」
「いらねぇったらいらねぇ」
「悪いわよ、払うわ」
「いらねぇよ」
「なんでよ。理由くらい教えなさい」
「…別に何にもねえよ」
 妙は基本的に曲がったことが嫌いな、真面目で正義感の強い娘だ。善と悪を、条理と不条理を、白と黒をはっきりさせなければ気がすまない。だからといって決して持論を推し進めねば気がすまない自己中心的性格や意地っ張りな性格なわけではなく、相手が正しいと、或いは相手を推し量ろうとするときはそれを受け入れるだけの柔軟さや気配りも持っている。
 しかし今回は、別物であった。購買戦争で初めからいつもの覇気と意気を萎えさせられており、目の前にいる土方には感情を裏切られてばかり。今は彼の優しさを素直に受ける柔軟性など、かけらも持ち合わせていなかった。
「払うって言ってんだからいいじゃないの!」
「だからいらねぇっつってんだろ!」
 筋の通るわけも無いやっかみあいにも似た言い争いが延々と続く。だがふと、周りを行き交う人々の視線が突き刺さり始めた。
 それに一足早く気付いた土方がはっと我に帰り、あたりを見回した。つられて妙もあたりを見回す。何時の間にか、痛い視線から嘲笑の視線まであらゆる人のあらゆる視線が縦横無尽に張り巡らされていた。
それらの視線に、珍しい妙の意地っ張りさに業を煮やした土方は、
「もういい!!俺は行く!!」
大声で叫び、くるりと後ろを振り向くとそのまま去っていってしまおうとした。
「ちょっと、土方くん!!??」
 その言葉に、土方が振りかえることは無い。取り囲んでいた人垣は、鬼の副将さまのお通りに一斉にその道を開け、作り始める。それにつられてか、その他の視線もひとつまたひとつと妙の意識の外に消えていった。あたりの人垣は全て何処かへといなくなり、空っぽの妙が一つ、残された。


「…全く、何なのかしら」
 妙はぶつぶつと呟き、教室に戻ろうとした。日誌を書かねばならないし、黒板も消さねばならない。確か次の授業は自習だったから、先生のところへ行ってプリントを貰って来なければならない。そして自分の授業の準備もある。それに確か先刻担任の坂田に呼ばれていたし、神楽に宿題を教える約束もしていた。そうだ、やらねばならないことは沢山残っているのだ。そう、沢山、たくさん。だからこれしきの事でみだりに腹なんて立ててはならない。そうしきり直して、教室の方へと足を向けようとした。
「おい」
 その行く手を、先刻まで聞いていた怒鳴り声と同じ声が阻んだ。思わず振り向いた妙の視線の先で、土方がじっ、とこちらを見ている。再び二つの視線が絡み合っては、直ぐに妙がその視線を逸らす。怒っているわけでは勿論無いのだけれど、何故か今は素直に接せない。先程のあれが、まだ尾を引いている。土方は今、どんな気持ちでこちらを向いているのか。声からは推し量れず、またその表情を読み取ろうにも、昇降口からの逆光でよく見ることが出来なかった。
「…さっきさ、何でかって、理由教えろって言ったよな。俺は別に無いって言った」
 先刻とは違う、ぶっきらぼうだけど何処か落ち着いた低い声。その声に、そして言葉に、妙は一瞬瞠目する。言葉も発せず、ただ首を縦に振ってその言葉に答える。
「理由…あった」
「…なによ」
 こんな時くらい、素直に優しく接すれば良いのだろうのに、意地っ張りな性格がそれを許さない。
二人の間に流れ始める、深い沈黙。購買や廊下の喧騒だけが耳に入ってくる。その中には妙の声も土方の声も含まれてはいない。刻々と、時だけが刻まれていた、刹那。
「お前だから」
「…!?」
「お前は特別だって言ってんだよ!!」
 真昼の逆光で彼の表情は良く見えなかったけれど、声だけは一点の翳りも無く、妙の耳に届く。その声に、言葉に、妙は自分の声を、表情を、全ての動きを失った。落ちてしまった。
今の言葉は一体、どういう意味を持つと言うのだろうか。お前だから、特別だからと言うのは。
 今日、土方には感情を裏切られてばかりで、今も素直に接することも受け取ることも出来ない。なのに今だけは、この言葉をそのままに受け止めたいと思うのは何故だろう。
土方は今一度妙を見やると、それ迄向かっていた方へと戻りだした。土方の姿は光に溶けていく。


あの時の土方がどんな表情をしていたのか、妙には解らなかった。そのことが今、とても悔やまれてならなかった。
やがて周りの喧騒も落ち着き始めて、一人妙だけが残された。てのひらには、土方の寄越したメロンパン。
袋を開けて、メロンパンをひとくち、頬張った。砂糖の甘さが、バターの濃厚さが、メロンの甘酸っぱさが、口の中に広がっていく。

「甘い…」

無意識のうちにそう、口にしていた。
耳に残るは土方の声も、姿はとっくに光の彼方に消えていて。口の中にはメロンパンの後味がいつまでも残っていて。
彼方から差し込んでくる光が眩しくて、目を閉じた。


そのときに感じた甘酸っぱさを、胸の疼きを、
全てメロンパンのせいにしてしまいたかった。









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