ひとりになった私を出迎えてくれたのは足元の自由だった。時期的には丁度夏物の靴が出揃い始める時。満たされない欲望が私を新宿へと駆り立てる。春物のフラットシューズを脱ぎ捨てて、VIVA CURCUSの重いガラス戸を開けた私を待っていたのはシーシェルピンクのヒールのミュール。キレイなキレイな靴だった。



買い物帰りに待ち合わせていたおりょうと呑みに繰り出した。私はいつものようにウオッカトニックを頼み、おりょうはスクリュードライバを頼んだ。
必然的に話はそこへ飛んだ。
「別れちゃったんだぁ…」
おりょうがどこか名残惜しそうに言う。私はどこかこれ見よがし、といった感じでVIVA CIRCUSの紙袋を見せつけた。
「そ、だからこれでようやくヒールの靴が履けるの。バイト代も入ったし、見て。いっぱい買っちゃった」
私は満面の笑みを浮かべた。おりょうは何処かもの哀しげな笑みを浮かべた。
タイミング良くカルパッチョとから揚げが運ばれてくる。別に気まずいという訳じゃないけどいまいち会話が乗り気じゃない、そんな時の食べ物は本当に功労者だと思った。
私はから揚げを頬張りながら、おりょうの次の質問を待った。意外に時間はかからなかった。
「沖田さんってさぁ…あんまり会った事なかったけど、そんなに小さい人だったっけ?」
「170センチってことになってる。でも本当は169センチなの。男の見栄ね。だから私より辛うじて大きいくらい。そんなに小さいわけじゃないんだろうけど、如何せん私が大女だから、ね?」
私と同じ168センチのおりょうは小さく笑った。
「でも、そう身長変わらないならキスする時とか楽だったんじゃない?」
「そりゃ確かに楽だったわよ。でもね、ほら…少女マンガとかだと女の子がちょっと背伸びしてキスするのが一般的じゃない?ああいうのに憧れてたから、ちょっと残念」
「あとアレね。階段とかで、女の子が高い段にいて男の子が下の段からキスするとか」
「男の子の方がちょっと顔かがめてくれたりとか」
ピザを持ってきてくれたお兄さんがちょっと気まずそうにお代わりを尋ねてきた。二人揃って鬼嫁の冷を頼むことにした。お兄さんの大きな後姿は何処か気まずそうで、小さかった。
「…そんなの一切なし。ただちょっとお互いの顔近づけるだけ。色気も減った暮れもないのよね。おでこにキスされた記憶も無いし。だからかな、あんまりキスにまつわる思い出もないの」
「へぇ。女の子はよくエッチよりキスの方に思い入れを感じる、とか言うけどね。どうなんだか」
おりょうは来たばかりの鬼嫁を舐めるように口にした。私もそっとグラスにキスを落とした。
他愛も無い思い出話を繰り広げていた。おりょうは嫌な顔ひとつせず時に乗り出して質問し、時に距離を置いて私の話を聞いてくれた。
「…でも、手を回してみると腰の位置が向こうの方がちょっと高くてね。なんかそれはちょっと悔しかったかな」
「そう」
「他にもね、二人で歩いてると何故かアイツだけがスカウトされたり。しかも女性誌のモデル。女と間違えられたのね。男二人にナンパされたこともあったっけ。しかもお目当てはアイツの方。ためしに私の服着せてみたらすっごい似合っちゃって、そのままコンビニ行かせたこともあったな」
そう、エピソードは挙げればキリが無いのだ。とめどなく溢れてきては、止まらない、ただ。
私はそこまで喋って、胸の奥をまるで空腹時の脳内のような空っぽの虚無感が支配していることに気が付いた。
私はふと、誰に言うでもない呟きを漏らす。
「色々あったはずなんだけどね、今思い出すのはアイツキス下手だったなとか、ペタンコの靴しか履けなかったから洋服選びが大変だったなとか、本当くっだらないことばっかりなの。修羅場とか大喧嘩とか全然無かったし、悪い思い出が何一つ無い。それはきっと幸せなことなんだろうけれど――」
おりょうがまるで次の言葉を促すかのように私を見つめた。
「…キレイすぎたんだね」
続く言葉が上手く出てこなくて、結局のところ自分でも良く解らない言葉になってしまった。
けれど実際そうなのだった。今思えば日々の生活はあまりに楽しすぎて、何気なさすぎて、くだらなさすぎて、結果として何も残っては居ないのだ。
唯キレイな思い出という形でしか残らない。愛情も憎悪も親しみも絶望も。キレイすぎて、彼との生活が一体自分にとって何をもたらしたものだったのか、当の本人が理解できるに至っていないのだ。
ふと、いつの間に頼んだのか、おりょうが私の分のカルアミルクを渡してくれた。おりょうはやっぱり笑っていた。
最後までおりょうはどうして別れたのかは聞かなかった。



店を出る頃からぽつぽつ雨が降り始めた。
駅に着くころには本降りになり、電車に乗り込む頃には雷も鳴り始めていた。
終電間際で込み合う電車。人の波に押されるように電車を下りた時、こんな時に手を引いて助けてくれる背中が無いことを改めて実感した。刹那に目に入った同じくらいの背丈の男の背に亜麻色の猫背を重ね、一瞬で消えた。あの背中はたった一人のものでしかないのだ。
そうして私はVIVA CIRCUSの紙袋を置き忘れたことに気が付いた。けれど新宿方面の最終電車は既に行ってしまったあとだった。
けれど自然と気分は平気だった。私はきっともうヒールのミュールの履き方など忘れてしまっただろう。履いたところで二秒で転んでヒールを折るのが目に見えている。
改めて私はフラットシューズが自分にとってどんなに履き心地が良い物かを思い知らされた。
最早私の中の一部分になっていたのだ。それはきっと、靴だけじゃなく。
けれど何を思っても、もう―――。

なのに、私の足が向かうのは彼のアパートなのだ。
愚かだ。
どうしようもなく愚かだ。
靴からは雨水が侵略してくる。
無理やりにでもヒールを履けば楽になれるのだろう。水溜りも防げれば視界の違う新しい世界に飛び込むことも出来るはず。
なのに、私が求めるのは。
対等という安定を手放したのは、自分なのに。
どこかで何かが折れる音がした。












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