そのことが済んだあと、彼女は小さく呟いた。


「銀ちゃん、変わったね」、と。


ともすれば辛辣にも聞こえるような言葉。
しかしその彼女の言葉の紡ぎは、吐き棄てるようでもなく、棘を刺すようでもなく。
ただその女特有の穏やかな声で微笑みながら。

そう、さらりと。


彼女の顔を見たのは何年振りのことだったろうか。確か攘夷戦争が終わってからは逢っていないはず。あれから何年たったっけ。忘れちまった。なのに突然、何かに導かれるかのように再びめぐり合い、あの頃と何も変わらぬように体を重ねあったこれは、
いわゆる運命とか、そういった類なのか。
そんなことはきっとどうでも良いこと。
とにかく、ずいぶんと長い時間が経っていた。



攘夷戦争時代のこと。
あの頃俺らが拠点としていたある女郎屋があった。
旅籠を拠点に動くよりも足がつきづらく、連中の動向も探り易い(下手すりゃ奴さんの方からいらっしゃる)、という高杉の判断によるものだった。
彼女は当時そこの新造だった。確か俺より歳は上。詳しくは知らない。聞いたとしても、忘れちまった。
その間、俺と彼女は幾度も幾度も体を重ねた。けれどそれ以上に言葉を重ねた。
厄介な客集団の内の一人、に過ぎなかっただろう俺と、
まだ部屋持にもいかない、比較的端女郎のうちの一人だった彼女と。
そこからは大体予想がつくと思うが、つまりは惚れちまった、というわけだ。
俺が彼女に、彼女が俺に。
そう、当時はそれが恋と思っていた。恋だと信じて疑わなかった。
毎夜彼女の元へと通い、彼女と語り、共寝し、同じ朝を迎えるという、そのこと。
この戦が終わったら一緒になって、ささやかながらも二人で生きていきたいと。築きたいと。家族になりたいと。
その頃はまるで、彼女の脈打つ胸の中が、そして彼女の熱く締め付ける胎内だけが、
俺の帰るべき場所のような気がしていたから。


ある晩、ことが終わったあと、彼女にその意を告げた。
彼女はくすりと微笑を浮かべて、言った。
ああ、ちょうどさっきのような感じだったなあ。

そう、さらりと。


「でも、紙切れ一枚で家族になれるわけじゃないでしょう」


そうなんだ。結局俺たちは他人、なんだから。
血も、何の繋がりも持たない俺たちが繋がりを持とうと思うこと自体、きっと間違ったことなんだ。
在るのは体の繋がりだけ。けれどそんなものはこの体に染み込んでいたとしても何の形にも残らない。
紅い、鬱血した花を散らせても、その柔肌に歯の跡を刻ませても、時が経てば色褪せて消えていく。
消えてほしい孤独の証は嫌というほど感じさせられるのに。すぐに消えてしまうのは理不尽だ、と思う。
けれどそれこそ仕方の無いことなのかもしれないね。
嫌というほどわかってる。
俺は本当に彼女のことが好きだったから。
彼女も本当に俺のことが好きだったから。


その後まもなく廃刀令が発布され、実質攘夷戦争は終結の一途をたどった。
もうあの女郎屋に行くこともなくなった。
それきり彼女に会うこともなかった。










外は生憎の雨模様で、まさに今の俺たちに相応しい表情をしていた。
彼女が一歩、一歩と歩を進めるたびに、水溜りがぱしゃり、ぱしゃりと音を立てて跳ねる。
着物の裾が濡れてしまうと笑っていた。
笑ったときに目尻に浮かんだ小さな刻みに、俺の知らない長い年月を感じた。
彼女はその後身請けされ、商家に迎えられたという。
しかし数年後旦那は死んで、家を出されることになってしまった。だが幸いなことに娘を授かり、今は二人ささやかに暮らしているのだと言った。
身請けされたのだと彼女の口から出されたとき、正直俺に言ったことと辻褄が合っていないような気がした。
けれどそれは俺の中の思いであって、彼女の中ではきっと何一つとして矛盾したものは無いのだろう。
歩を進めた。
だがいよいよ雨は本降りになり、堪らず何かの建物の下に駆け込んだ。
狭い、狭い軒下。
ともすれば互いの呼吸や鼓動が聞こえてしまいそうな位置に、居る。けれど自然と不埒な思いは浮かんでこなかった。(十分不埒なことをしてきたから、というのもあるだろうけれど)

ざああ、と響き渡る雨音。
ぽたり、と頬から零れ落ちる雫。
ぱしゃ、と跳ねる水溜り。




流れる沈黙。






「銀ちゃん、変わったね」






破ったのは彼女。先刻と同じ言葉で、沈黙は彼方に消えた。
「そうか」とだけ答える。それ以外に何が言えるというのか。自分ではどこも変わっちゃいないつもりだ。彼女のように子を持ったわけでもないし。しいて言うなら血糖値が少し高くなったくらいで。
「つよくなった」
その穏やかな、少し鼻にかかった声で続けた。周りの雨音が喧しい。彼女の声は何処か消え入りそうなほど、か細かった。
「どういうこと?」俺は返す。
そのときの俺はどんな顔をしていたんだろう。
「あたしに、縋りつかなくなった。えっと、してるときのこと、じゃなくて。心?が」
たどたどしくも言葉を紡いでいく。
心が。その言葉が、胸のどっかに突き刺さる。
そうあの頃は。
寂しさと満たされなさをぶつけ合っていた。愛し合ってるときもそんな感じだった。
彼女も、俺も。
夜毎彼女の中に寂しさを吐き出して、彼女もそれに埋め尽くされるような中で爆ぜる。
互いが互いを好き過ぎていて、いろいろなものを求め過ぎていた。知らず知らず縋っていたのだと思う、俺は。もしかしたら、彼女も。
けれど今は?
彼女が言うように縋りつかなくなったのなら、それは何故?
「あたしね、今幸せなの」
いきなり話が全く別のところに飛ぶ。こういうのも、変わること無い彼女の癖だ。
「仕事してさぁ、帰るのね。そうしたらあたしを待っていてくれるひとがいるの。おかえりって、言ってくれるの」
また彼女の目尻に刻みが浮かぶ。彼女の横顔って、こんな顔してたっけ。
「家族って、どういうものかはわからないよ。一緒に暮らしてるから、血を分けたから家族ってわけじゃないと思う。でもねぇ、今はとっても居心地がいいの」
知らず知らずのうちに俺は彼女の手を握り締めていた。
愛しさがそうさせたんじゃない。
彼女の紡ぐ、その言葉が途切れてしまわないように。
「あったかいの。誰かがいてくれて。ひとの温もり?あたしの帰る場所はぬくもりがいっぱいなの。だから、今、幸せ。とっても」
その言葉に相槌を打つ代わりにほんの少しだけ手に力をこめた。

「あたしには、おうちができたの」
彼女はそう言って、笑った。目尻にまた、小さな皺を浮かばせて。けれどそれは本当にいい表情だった。今まで見てきた彼女の表情の中でも、この上なく穏やかで、幸せそうで、いとおしい表情だった。
俺も笑った。笑うのは決して得意じゃないけど、今なら自然に笑えるような気がしてならなかった。
「だから、おあいこだよ」
今度は白くて小さな歯を見せて、悪戯っぽく笑った。本当にころころと表情が変わる。
こういうところにも、俺は惚れたのかもしれない。
何が、と小さく笑う俺に、彼女は続ける。
「あたしも、変わった。銀ちゃんも、変わった。同じように、つよくなった。だから、おあいこ」
そう言って、繋いでいた手を優しく、ゆっくりとほどいた。
繋がりは失せた。けれど何処かで大きく満たされたような気がしていた。
空を見上げてみれば、暗い雲の切れ間から太陽がほんの少しずつ顔を見せ始めていた。
光の線が水溜りに反射して、きらきら。



そうして初めて、俺は何処かで雨が止まないで欲しいと思っていたことに気がついた。



「銀ちゃんは今は、どうしてるの?」
裾を気にしながら、彼女は訪ねてきた。ここから出る準備をし始めているのだろう。
「かぶき町で、万事屋。何とかやっていってるよ」
そう、とだけ彼女は呟いた。今の生業を彼女は口にしなかった。俺も聞かなかった。
それでいいんだ。
「がんばってるんだねぇ…すごいなぁ」
彼女はまた、先刻のようにそう、さらりと微笑んで言った。小さな皺は浮かばなかった。
彼女のその言葉に、今俺が思っていることを言ったら、彼女は笑うだろうか。俺らしくない、と。
けれども、なぜか言わずにはいられなかった。
「そんなことねぇよ、むしろ頑張ってるのはお前だろ。頑張ってっからその分、今の幸せがあるんじゃねぇの」
昔の俺なら決して言わなかったであろう言葉に彼女は驚いているようだった。自分でもこんな言葉がこみ上げてきたことに驚きだ、本当。
驚きの表情はやがて穏やかな笑みに変わった。目尻にはまた小さな刻みが。それすらも美しく感じられてならなかった。あんまりいい表情で笑うから、俺にもその皺がうつっちまいそうだ。
ああ、彼女も、「つよくなった」。





完全に雨は上がった。太陽の光が、暗い空に慣れた目にまぶしい。
地面は相も変わらずの水溜りで、彼女はしきりに裾を気にして止まない。彼女の藤の着物の裾は水に染みて、ほんのり色濃くなっていた。
じんわりと染み込んでいくその色に、自分の今の気持ちを重ねてしまったり。なんて、俺らしくも無い。

「かぶき町は、右よね」
「だな」
「あたしの行き先は、左なの」
「そうか」

ここが、分かれ道だ。
それぞれの行き先への、それぞれの帰る場所への、それぞれの未来への。

「じゃあ、元気でね」
「お前もな」


どちらからでもなく、微笑んだ。けど俺もしかしたら泣きそうな顔してたんじゃないだろうか。
すぐに、一歩踏み出した。今踏み出さずに、いつ踏み出せる?
家族を知らない俺たち。誰よりもそういう存在が必要だった俺たち。決して家族にはなれない俺たち。

この一歩は、これからへの一歩。
彼女に背を向けて歩き出した。振り返るつもりは無かったし、彼女の踏み出す音はまだ聞こえなかったけれど、彼女だってきっとそうだろう。
彼女はつよくなったよ。でも変わっていないよ。ぜんぜん変わっていないよ。
かつて俺の愛した、あの彼女のままだよ。






一歩一歩と歩みを進めていくたび、ぱしゃぱしゃと着流しの裾に水が跳ねる。水溜りが文字通り溜まった道を、歩いて歩いて。
やがて万事屋の前にたどり着いた。あたりはいつの間にか夕闇へとその姿を変えていた。西の方角にはさっきまでてっぺんに浮かんでいたはずの太陽が沈みかけていて、
世界をほの暗いオレンジ色に染め上げていた。
ここからでも分かるくらい、喧しい声が聞こえる。新八と神楽だろうか。やっぱ賑やかだなあ、あいつら。星に帰るって騒いだのが嘘だったんじゃないかと思ってしまう。
その時からら、と玄関の戸が開いて、閉じた。誰か出てきた。ああ、お妙だ。これから仕事に行くのかな。そんなことを思っていると、地面に映る影に気が付いたのか、
上からこちらを見下ろしてきた。
「銀さん」と声を上げて、こちらへと駆け下りてくる。その着物の姿が先ほどの彼女と重なって見えた。顔も背丈も全然違うのだけれども、水溜りの跳ねる裾を気にする
その様は、先ほどの彼女のそれとよく似通っていた。
こちらに向かって来る彼女。でも俺はちょっと身構える。さっきまで女と睦み合っていたわけだから、その艶やかな甘い残り香が着物や体に染み付いていないとも言い切れない。
そんな俺の元へ来た彼女の第一声。

「おかえりなさい、銀さん」
再び彼女の姿がお妙に重なり、さっきの声が蘇ってくる。



「…そうしたらあたしを待っていてくれるひとがいるの。おかえりって、言ってくれるの。あったかいの。誰かがいてくれて。とっても居心地がいいの。ひとの温もり?
あたしの帰る場所はぬくもりがいっぱいなの…」



ああ、そうだね。おかえりと言ってくれることが、ひとの温もりが、こんなにもあたたかい。
家族じゃない。
お妙も新八も神楽もそれぞれにそれぞれの家族がある。ここにいる俺たちは家族じゃない。家族と思ってくれてもいいと言われてもやっぱり家族じゃないし、家族にはなれない。
俺にはやっぱり家族なんてものはいない。それはあの頃から変わらないこと。
だけど、今の俺には帰る場所がある。
万事屋という、この家があるんだ。



彼女の温かい言葉にただいま、とかすれた声で返すと、妙は笑顔で
「いってきます」と言った。いい笑顔だった。
はにかみながらもそんなお妙に「いってらっしゃい」と言う。やっぱこういうのは慣れてないから、ぎこちないし、むず痒い。
けれどおかえりなさいの向こうにただいまがあること、
いってきますの向こうにいってらっしゃいがあることを知ったよ。
そんな俺のぎこちない送り出しに背中を押されるかのように、彼女は仕事場へと向かっていった。
そしてきっと、ここに帰ってくる。
そうだね、ここは俺の帰る場所だけど、それだけじゃないんだ。
お妙の新八の神楽の帰る場所でもあるんだ、ここは。
ここにいるのは家族じゃないけど、帰る場所はみんな同じなんだ。
そう、ここがおうちなんだよ。




彼女も今頃温もりを感じているだろうか、家に帰れただろうか。
彼女の帰る場所に。温もりの在り処に。
今度は俺たちには帰る場所ができた。もう、独りだと思いこんで、寂しさに縋りつかなくていいんだ。
この長い空白の年月は、きっと俺と彼女がそのことに気付くための時間だったんだ。
もしかしたらもう彼女と逢うことは無いかもしれない。けれどそれでいい、きっと。
俺たちはそれぞれ帰るべき場所を手に入れることができた。それぞれがそれぞれの温もりに包まれながら日々を送っている。
そう、だからいいんだ。それで俺たちは繋がっていられる。
別れの涙は俺たちの代わりにお天道様が流してくれた。
だから笑顔でこの階段を上っていこう。俺の笑顔なんて彼女のあの笑顔には遠く及ばないけれど。
あの笑顔に負けないくらいのとびきりの笑顔が、この扉の向こうに待っている。




さあ、うちへ帰ろう。
ホーム・スイート・ホーム。











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