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他愛もないものだった。 資産家の息子と庶民の娘が、男の親にその結婚を強固に反対されて――この世で結ばれないならばいっそ天上で、と毒薬を飲んで心中を図った。 そうしてその思いは報われ、男も女も苦しみながらも天上へ旅立つ事ができた。その後彼らが結ばれたかどうかについては管轄外だ。 ただそれだけ。 テレビドラマにでもなったら所謂泣ける純愛、とやらでそこそこ視聴率を稼げるのかも知れないが、俺たちにしてみればよくある事件。 むしろ事件と言う名のカテゴリに分類していいか迷うほど、生温いものだった。 そうであるはずなのに、こんなにも俺の胸に引っかかるのは――。 「ヘリオトロープ」 亡骸の傍らに置かれていた鉢植えに咲いていた花の名だ。 現場は小高い山の中腹で、草花が生い茂る眺めのいい場所だった。今はまだ花の咲く季節ではないから、そこに生えているのは色あせた未熟な草ばかりだ。 遺体の身体は土と草だらけで、手にも草が握られていた。また、遺体の周りの草は殆どがむしり取られている。こと切れる前どれ程苦しみ、草の上に転がりまわったのかは想像に難くない。 しかし何故か、その鉢植えだけは全く荒らされること無くそこにあった。苦しみのあまりその鉢植えを地面に叩きつけてもおかしくないだろうが、そういった形跡は全く無い。いや、そもそも何故に鉢植えが現場にあったのか、その理由も分からない。 念のため第一発見者にも尋ねたが、そんな物を置いた覚えはないと言う。 穂状に紫色の花をつけたそれを、元々花に明るくない俺がしっているはずも無かった。 「そんなに有名な花では無いみたいですね。試しに近所の花屋に行ってみましたが、取り扱ってませんでした。これ、夏の花みたいで。 どうやら、前々から自分の家の温室で育てていた鉢植えを持ってきたようです。なんてったって資産家の家庭ですからね」 「ふうん」 山崎の報告は左耳に入って右耳から出て行った。 「結構匂いが強い花みたいで…遺体の腐臭を隠すために用いたんでしょうか」 「さあてね」 「…まぁ、自殺する時にあえて見つからないようにするってのも変な話ですしね」 俺はその花の写った写真をじっと見つめた。 男と女と、花一輪。 恋愛の末に死を選んだその現場で、その花もこんな風に、目の前で消え行く命を見つめていたのか。 「ヘリオトロープ、ねぇ」 「どうしました沖田さん」 「いや、その名前聞き覚えがあるんだけど…何処で聞いたかが思い出せねぇ」 その花の名を聞いたとき、確かに聞き覚えがあった。しかしそれが花の名であったことをしったのはその時が初めてだ。 では一体、自分はいつなんどき、その名を聞いたのか。 「呪文みたいな名前ですからねぇ。ゲームとか漫画とかじゃないですか」 「……あれだ。“ザメハ”って呪文の名前はしっててもどんな効果だかわかんねぇ時の心境」 その名前は俺の中で長い事眠っていた。そしてその名前によって、再び目覚めをしる事となった。 おそらくはその花の名が、件の心中事件が胸に引っかかって離れない要因になっている。 しかしながら、これは所詮単なる心中事件だから捜査本部も置かれる事無く事務的に処理されていった。微妙なわだかまりを残しながら、俺もそのまま平穏(とは一概に言えないが)な日々を送っていた。 そんなある日のパトロール中、赤信号で止まってるとすぐ脇の歩道に見慣れた後姿があった。一つに結われた黒髪に、淡い薄紅色の着物。 信号が青になると、どうしようかと多少思案したが、車を歩道に寄せ、その人物に声をかけることにした。 「…おでかけでしたら乗っけてあげましょうかィ?」 その人物はこちらに気付くと、菩薩のような笑みを浮かべながら答えた。 「あら、お気遣い無く。ちょっとそこまで行くだけですから」 笑みの人物は言うまでもないだろうが志村妙と言う、ウチの局長の思い人だ。普段通りの着物に小さな鞄を提げるその様は、なるほど確かにちょっとそこまでと言う感じで、よそ行きのものではない。 ――別に、声をかけても何ら問題はない、のだが。 いつぞやウチの副長が、あの女は近藤さんに云々、とか言ってしまったものだから、どうにも俺、ないし真選組の中で彼女の取り扱いと言うものが些か変わってしまったような気がするのだ。 彼女自身はそんな良くわからない男の面倒くさい葛藤など知る由もないのだろうが。 第一、所詮はあの男、の言う事であるから、本当にこのひとが近藤さんに惚れているのかも分からない訳で。 そんな彼女は、俺が、 「お出かけですか」 と問えば、 「ええちょっと、ヘドロさんのところまで、お花を買いに」 と、穏やかな笑みで返してくる――。 そのときある単語が俺の中に引っかかった。 ――花。 その言葉を聞いた途端、あの心中事件のことが脳裏をよぎった。 もう済んだこととして処理され、マスコミも騒ぎを止めたあのことが、そしてあの場所に置かれていた一輪の花が、不意に頭に浮かんで消えなかった。 この日常で幾度となく花と言う単語は耳にしたはずであるが、彼女の口からその言葉が出た途端、俺の中で奇妙な違和感が浮かび上がり、またあの事件とあの花を結びつく手がかりが見つけられそうな気がした。 とりわけその違和感は、心臓の鼓動ひとつひとつとともに肥大化していった。 「俺も…行っても、構わないですか」 葛藤はどうした。思うより先に言葉が出た。 俺はパトカーを近くの駐車場に止め、彼女と一緒にヘドロの花屋に向かった。 「こんにちは」 彼女はこの店の常連なのだろうか。慣れた様子で店の奥へと入って行き、店主のヘドロと談笑を交わしている。ついてきた、は良いものの、早速手持ち無沙汰になってしまった俺は、ただ何をするでもなく店内を眺めていた。 天井から壁まで、大小色とりどりの花が己の美しさを誇るように咲いている。今は冬であるはずなのに、店の中だけがまるで春、或いは夏であるかのように華やかで暖かかった。 店の中を見渡して、試しにあの花がないか探そうとした。 しかし、以前に山崎が言った事を思い出す。 「花屋に行ったんですが、取り扱ってませんでした。これ、夏の花みたいで」 今は1月。俺の足はぴたと止まった。 だがその足を止めた時、どこか甘い、そして懐かしい香りが俺の花を掠めた気がして、思わず振り返った。 俺の視線の先では、彼女とヘドロが何か話をしている。 そのときまるで、俺の中で突然ボリュームが上がったかのように鮮烈に、それでいて明瞭過ぎるほどの声で、二人の紡ぐ言葉が耳に入ってきた。 「あら、このお花、夏のお花ですよね。もう咲いているんですか?」 「ええ、今の時期は温室で育てているところもあるんです。季節が何だろうと、ウチの花屋に置いてない花はありませんよ」 「ああいい香り。私、このお花大好きなんですよ」 その先に続く、であろう言葉が、どうしてだろうか俺には分かってしまった。 けれど、そうであって欲しくない、と思った。 「ヘリオトロープ」 呪文のようなその名前を口にして微笑む彼女の横顔が、誰かに似ていた。 『いいにおいがする』 見慣れた紅い小花柄の着物から、それまで知らなかった鋭くも芳しい香りがした。 石鹸とも、白粉のものともまた違う。どちらかといえば花のそれに近い。 『頂いたの』 着物の主はそう言った。 それは俺が今まで見たことのなかった、大輪の花のような笑顔だった。 『お花の香水よ』 だれからのものなのか、言わずとも察する事ができた。 きっと俺にも出来ない、このひとにこんな顔をさせる人間なんて、俺の知る限りではただひとりしかいない。 『ヘリオトロープ、って言うの』 そう言葉を紡ぐ笑顔と、いま目の前にいる彼女が振り返った表情が、重なった。 「おねーちゃん……」 無意識のうちに、俺の心は声を発していた。 ヘドロの店を出た俺たちの足は、いつのまにか河原へと辿り着き、何をするでもなくただ河辺に腰掛け、水の流れるさまを眺めていた。特に語り合うことも無くただ水のせせらぎを聞くだけであったが、その穏やかな沈黙にもやがて終わりが訪れた。 「…繋がりが欲しかったんでしょうね。離れていても、傍に感じられるような、そんな繋がりが」 ああ、と俺は答える。 ――あの時、姉の着物から香ったあの匂いは、その後もずっと彼女の身体に染み付いていた。 きっと香水が切れてしまった後も、自分で買い足したりしていたのだろう、そうしてその命尽きるまで、姉はあの匂いと共に過ごした。 いとしい男と自分を繋いだ、あの香りと生きた。 まるで、繋いだその手を離すまいと。 心中事件の二人を思い返してみる。彼らが育てていたヘリオトロープは、決して寄り添い合うことのできない二人の心を繋ぐ唯一のものだったのだろう。かつて呪文のようだと言ったその花は、ほんとうに二人を繋ぎとめるための魔法であったのかもしれない。 けれど、天上で永遠に一緒になる事を選択した彼らが、何故最期までその花を傍に置いたのだろうか。 「だって」 と彼女は言う。 「たとえ一緒に死を選んでも、ほんとうに死ぬ時はひとりになるんですよ」 ――どんなに短い間であっても、二人が離れてしまう事がないように、相手を感じられるように。 最後の灯が消えるまで、あの香りに包まれた彼らは――そして姉は、果たして安らかな気持ちで――幸せ、な気持ちで目を閉じる事が出来たのだろうか。 「きっと…そう、だといいですね」 穏やかに、そして何処か切なげに、彼女ははにかんだ。 「でも」 彼女はゆっくりと立ち上がり、沈みゆく太陽の方角を見つめた。オレンジ色のまんまるはビルの海に溶けて、反射するその光が彼女の頬をほんのりと色付かせている。 「傍にいたって、繋がりを感じられない事が多いんですから。…離れてしまっていてもずっと、大切な繋がりを持てると言うのは、幸せなことだと思います。それがどんなに、些細な事でも」 優しい視線が、いまだ膝を抱えるように座り込む俺を包んだ。 俺は、ようやく、立ち上がる。 「あんたは」 彼女の瞳が小さな驚きを映した。 「あんたは、大切な人が遠く離れちまっても繋がりを持っていられれば、幸せか?」 二、三度まばたきをした彼女は、後ろを振り返って視界に広がる町並みを眺めた。 連なる家々、煙突から立ち上る煙、消える事のないビルの明かり、手をつないで歩く子供と母親。 そこにはなにものにも変えがたい風景が広がっている。 彼女はそれらの風景を見つめたまま、穏やかに言葉を紡ぐ。 「それはとても幸せなことだと思います。女として、いとしい人の面影をずっと胸に感じて生きられるのなら、それはきっと素敵な事。でも」 ざざあ、と吹いた風が水面を撫で、俺の視界に映る全てのものを揺らす。 刹那に映った世界は、ああまるで子供のときに歩いたふるさとの光景に良く似ていて、目の前にはかつては大きく感じた小さな背中が、何か微笑っているように感じた。 あらためて自分が失ったものの大きさを、思い知らされた気がした。 「でも私は、大切な人のすぐ傍で生きていきたい」 そう言ってこちらを振り返ろうとする背中を抱きしめた。風に揺れる黒髪に顔をうずめる。理屈より先に、俺の中に燻る何かが今このひとを離してはならないと叫んでいるかのようで、俺はその腕に力を込めた。 遠くから無邪気な子供の笑い声が聞こえてくる。 抱きしめたそのたおやかな体からは、甘いあまい、ヘリオトロープの香りがした。 ヘリオトロープはキダチルリソウとも呼ばれる紫色の花で、それをもとに作られたのが漱石の「三四郎」にも出て来るヘリオトロープの香水です。日本で初めて売られた香水みたいですね。冒頭の事件に関しましては、とある映画の原作になった事件を参考にさせていただいております。 戻る |