口煩いし、暴力的だし、その実泣き虫だし、料理はとてもじゃないけれど口に入れられそうにもない。
 けれどやっぱり武家の娘で、抑えるところと引くところは心得ていて、そうして一歩下がったその場所で、いつもこちらに微笑んでいる。
 凛とした背中と、刀が収まったようなその気高い魂は美しくて、そんな彼女に何処かでは憧れを抱いていた。


 その彼女が自分を離れて、誰か別の人間のものになってしまう。



「なんかこう、落ちつかねえ」
 目の前の銀髪は杯を空にすると、そう呟いた。





 数年前にもここでこうして居合わせた事があった。
 その時は土方スペシャルと宇治銀時丼とやらのどちらが美味いかで争いあい、そうして互いに直ぐに立ち去ったものだが、今日はそうは行かなかった。
 店の中に銀髪の姿を確認した時、俺は直ぐに去ろうとした。また無益な疲労は起こしたくない。
 しかし野郎は俺に気付き、呼び止めると自分の席に促した。
 呑み相手が欲しかったのだろうか。
 また何か悶着を起こしそうになったら直ぐに店を出るつもりで、俺は銀髪の前の椅子に腰掛けた。


 しばらくは他愛もない話をした。
 最近のプロ野球の話だとか、近所に出来た美味いラーメン屋の話だとか、総悟とチャイナ娘の話だとか。
 野郎はたまに小さく笑い、たまに拗ねて、たまに無気力な顔に戻り、たまに声を上げて笑った。
 随分と色んな表情を見せるようになった。酒の所為もあるかもしれないが、四六時中、死んだ魚のような目をしていたあの頃は確実に過去になっていたようだった。


 知らず知らずのうちに頃合を見ていたらしい。
 ひとしきり喋った後に訪れた穏やかな沈黙の後、切り出した。
「元気か」
 銀髪は無気力そうな顔で酒を呷る。
「見てわかんねえか」
「お前がじゃなくて」
「だから」
 片手で銚子を揺らしながら、俺に向かってニッと笑う。
「元気じゃなかったら、俺は今頃こんなところにいないだろ」
 それくらい気付けよ、と小さく呟き、俺の杯に酒を注ぐ。
 続く言葉を見失った俺は、その場を誤魔化すかのようにその酒を一気に呷った。


「今ね、7ヶ月くらい?」
 銀髪は手酌しながら言葉を続けた。
「始めのうちはそれこそ…まともに動くのも飯食うのもままならない感じで、ババァとか新八もほんと付きっ切りな感じだったんだけどさ」
 思い返せば半年ほど前、この店で彼女を見かけた。確かにあの時、小盛りの丼をまともに食すことが出来ないようであった。
 あの時彼女が口にした言葉の端々は、今の俺の頭の中に刻み付けられている。
「何ヶ月か経ったら安定期ってやつに入ったみたいで、今は結構腹も目立ってきて、飯も俺の倍くらい食うんじゃねえかって感じなんだけど」
「健康で良いじゃねえか」
「子持ちの腹は三段腹とか言うしな」
 俺は無意識のうちに懐に手を伸ばし、薄いフィルムに包まれた箱を手に取った。
 ふと銀髪の目を見たが、小さく笑っては促すように手を伸ばすので、そのまま懐から引き抜いた。
 箱を開け、一本取り出す。
 そうしている間の、微妙な間。
 居心地が悪い訳でもないが、良い訳でもない。
 まるで相手を待たせてしまっているようで、別にそう感じる必要もないのに、なんだかばつが悪く感じた。
「上手くいってるようで良いじゃねえか」
 間を誤魔化すように言葉を並べた。
 不意に口から出たそれは賛美であり、何処かでは妬みだった。
「…そーだな…」
 紫煙の向こう、奴は何処かうわの空でそう答えた。


「ただなんか、何て言ったら良いのか俺も自分でわかんねえんだけど」
 そこまでを一気に捲くし立てると、野郎は杯を呷る。杯を空にすると、何処か吐き捨てるように、そうして切なそうに、言葉を続けた。
「なんかこう、落ちつかねえ」
 そう言った銀髪の目は何処か虚ろで、頬も赤かった。
 これから奴が何を口にしようと、酔いの所為にしておこう――その時、そう決めた。
「今までアイツはさ、変な言い方をすれば俺の女で、恋人で、奥さんだったんだよ。確かに新八の姉ちゃんだし、すまいるのキャバ嬢だけど、それ以前に何より俺の、俺のものだと、そう思ってたんだ」
「…」
「それがさ、突然出てきた存在に、全て持って行かれてる気がするんだ。ああなんかコイツ、俺のものじゃなくて、他の誰かのものになっちまったんだなって。そうさせたのは紛れも無く俺なんだけど、なんか寂しいなって」
そう語る銀髪の瞳は本当に寂しそうだった。ともすれば、情けなさすら感じるほどの瞳の色をしていた。
 ただ、同性だからなのか、それとも他の理由からなのか、その寂しさを共有するとまでは出来なくとも、察する事は、納得する事は、出来た。
 男と言うものは素っ気のないように見えて、存外独占欲が高い生き物だ。
 自分の惚れた女が他人の――例え自分の子供だろうが、自分と言う存在以外を気に掛ける事を正直、良しとしない。
「でもま、俺がそう望んでしたことだから、別にそれは仕方ない事だと思うんだけど」
 煙草を灰皿に押し付ける。
 まだなんとなく燻る紫煙の向こうで、銀髪が額を手で押さえながら、何処かを見つめていた。


「…けれど、自分がしたことを、これまでと全く逆の結果として見せつけられるのは、初めてで…正直、怖いと思った」
 そう言って、笑う。
 穏やかに、そうして、かなしそうに、笑う。
 あの桂と共に行動をしていた節のある人間だ。己が言わずとも、これまでどのような道を進んできたかは、推し量る事が出来る。
 人を殺す、死体が転がる、「死」が生まれる。そう言う生産をしていた世界の人間が、人を愛し、子供を宿し、「生」が生まれる、という連鎖に恐怖を感じるのは至極当たり前のことだろう。
 ともすれば俺自身が生きるのも前者のような世界だ。これから先にそう言うことが起こるとは考え難いが、同じ境遇に立ったなら同じような恐怖を覚えることになるのだろう。


「甘ったれかな?」
 ふふ、と口の端を歪めてこちらを向く。俺は銚子を掴むと、向かいの杯に酌をした。
 音を立てて銚子をおくと、ひたひたになった杯からほんの僅か、酒が零れた。
「不安は誰にだってあるだろうよ」
 俺も些か酔っていた。そう言うことにした。そう言うことにしなければ、奴に掛ける言葉をひねり出すなんて、出来ないと思った。
「こさえるだけこさえても産めねえのが男だ。実際経験する訳じゃねえんだから、色々思ったって仕方ねえだろう」
「……」
 銀髪は聞いているのかいないのか、その表情からは読み取る事が出来ない。ただその瞳はぼんやりとしながらも真直ぐに、俺の目を見つめていた。
「それに、な」
「……ああ」
「……怖いと思っても、今更手放したいとは思わねえんだろう」
「ああ」
 表情は変わらない。ただそう応える声はとても冴えていて、そして真直ぐだった。
「じゃあ何があっても離すんじゃねえ。手前ら、まだ色々始まったばかりだろう?まだ途中だろう?なのに今みたいに下手な事抜かしやがったら」
 奴の表情は相変わらずだが、瞳だけはその色を変えていく。俺は一気に捲くし立てると、息を吐いて次の言葉を紡ぐ。
「――俺がお妙さんを貰う」


 僅かの間。本当に僅かな間だったのだが、俺には途轍もなく長い時間に感じた。
 やがて。
「へっ」
 目の前の銀髪が揺れて、前髪の間から鋭い眼光を覗かせる。
 奴は俺が酌した杯を一気に呷ると、何処かいやらしく口の端を歪めて、小さく声を上げて笑う。
「じゃあせいぜい頑張ってください?まあ俺は負ける気がしないけど」
 鋭い、真直ぐな眼光が俺を射抜く。まるで、睨みつけるように。
 だがそこから溢れ出てきた声はその表情に似合わず、とても穏やかな、けれど力強いものだった。
「お妙も子供も、ふたりとも俺の家族だよ」
 ――そうしてまた、歯を見せて笑ってみせる。 
 その言葉と瞳には、一切の迷いが存在してはいなかった。
 まるで雨上がりの空のように澄み切って、そして、晴れやかなものだった。



 そうして「俺たち」はもう一度、互いの杯を合わせ、小さな音を立てた。



 店を出た俺たちは、その後情けない事に連れションなら連れ吐きをした。
 それでも何とか互いに家に辿り着けたのは心配した彼女が迎えに寄越した新八君の御陰だろう。
 屯所の自室で天井の梁を見上げながら、ぼんやりと野郎と彼女のことを考えてみた。が、直ぐに止めた。



 口煩いし、暴力的だし、その実泣き虫だし、料理はとてもじゃないけれど口に入れられそうにもない。
 けれどやっぱり武家の娘で、抑えるところと引くところは心得ていて、そうして一歩下がったその場所で、いつもこちらに微笑んでいる。
 凛とした背中と、刀が収まったようなその気高い魂は美しくて、そんな彼女に何処かでは憧れを抱いていた。
 その彼女が自分を離れて、誰か別の人間のものになってしまう。



 ――それはとても、喜ばしい事。



 目を開けて窓を開けば、昨日の銀髪の表情のように晴れ渡った、いちめんの青空。
 なのに俺の頬には雨の痕が残っていた。





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