※90訓のネタバレを含みます。ご注意下さい。






 彼はまるでうわ言のように同じ言葉を繰り返していました。言葉と言うには不明瞭、呻きと言うには自我を持っていた、それ。
「大丈夫、大丈夫だから病院には行くな」
 多分、そんなことを言っていたんだと思います。何を言う、大丈夫な訳が無いじゃないか。そんなのは自分が一番解っている筈でしょう、なのに彼は頑として僕の言葉に耳を傾けはしませんでした。いつもは他人のことなんて気にも掛けないのに、こんな時に。いや、こんな時だからか。他人を巻き込みたくないのは解るけれど、でも僕に貴方を放って置くことなど、出来ると思っているんですか銀さん。僕は仕方なく自宅へ行きました。薬ならば幾らかあったから、ある程度の応急処置ならば出来るかもしれない―。そう、誰も巻き込まずに。
 嗚呼、なのに。どうして夜の蝶は此処に留まっているのですか。





 煌々と毒々しい光を放つネオンに惹かれるから蝶と言う訳じゃない。夜の街という空、縛られることなくその着飾った身を自由に飛び回るから夜の蝶。ほんの一瞬、留まっていただけ。ヤドリギの下、疲れた羽をほんの少し、休めていただけ。そう、只それだけ。
 嗚呼、なのに。どうして彼はいらしたの。私を一介の夜の蝶ではなく、ひとりの人間の女にさせる、彼は。





 急いで彼を寝かせた後の姉はそれこそ空を飛び回る蝶のようでした。その動きは素早くて、音もなく。姉はあちこちの部屋をひっぱり回して、清潔な布と薬類、そして焼酎の瓶を持ってきました。揺れる袖を襷掛けして、血の溢れ出る傷口を晒で拭く。僕にはしっかり彼を抑えているようにと。清潔な布に焼酎を沁み込ませて傷口の消毒をするのでしょう。嗚呼、どれ程凄まじき衝撃が四肢を駆け巡るのでしょうか!!
「ごめんね銀さん、ごめんね。少しだけ我慢して」
 声を上げると思っていました。いや声とは言えない、叫び、悲鳴、唸り。彼の口から溢れ出るとばかり。正気を失いのた打ち回っても全く可笑しくないほどの痛みでしょうに、彼の口からは何も出てきませんでした。どれ程豪気なのでしょう、この男。その時、僕は気づかなかったのです。彼の腕が姉の腕をしっかりと掴んでいたこと。迷い児が母親の手を暗中から求めるが如くその手を伸ばし、温もりを探しているかのように。そうして見つけた安楽の場所を、何があろうと離れまいとしているように。
 大きくて力強い彼の手に、細くて白い、蝶の羽は折れてしまわなかったのでしょうか。





 何時しか声もなく、彼の意識は飛びました。それでも未だ、彼の大きな手は私の手を掴んで離しません。無意識の意識とでも言うのでしょうか。所詮は女の細腕ですから、あんな力で掴まれて痛みを感じないはずがありません。骨が軋むのが良く解りました。それでも私は嬉しかったのです。掴まれていたのは腕だけでは無かったのですから。天使、鳥、或いは蝶のように自由に空を翔るあの彼が、ほんの少しだけでも私のもとで羽を休めてくれたのですから。
 顔には出さずに、私は涙を流しました。





 彼の様子が落ち着いて初めて、僕は手の震えが止まらないことに気が付きました。いや、本当はずっと気づいていたのです。でも目も前の彼を助けなければという気持ちを口実に、その事実から目を背けていたのです。その言い訳が消えてしまった今、僕の腕はカタカタと震え、止まることはありませんでした。僕は人を斬った。あの人の腕を斬った。ひとを傷つけてしまった。父上が僕に教えてくれたのはこんな剣だったでしょうか、ひとを斬るための剣だったでしょうか―いや、違う。ひとを、護るための剣のはず。
 蝶の腕は彼の腕に包まれている。僕の腕は震えが支配している。





 掴まれた腕をそっと解きました。私の腕にはしっかりと彼が付けた赤い痕が残っています。嗚呼随分、我慢をしていたものだと思います。くっきりと残っていますから、暫く消えることは無いでしょう。けれど私はそれでもいい、と心の底から思いました。私がイエというヤドリギの下で羽を休めたそれのように、蝶が私の腕に留まった証です。
 弟の震える腕に気づいたのは、その時でした。





 ひとを、斬りました、と告げる僕の声は思ったよりも冷静で、その事実に僕は驚きました。父上が教えてくれた剣で、人を傷つけてしまいました、と紡ぐ言葉は、小さいながらも確かな声を抱いていました。姉はただそう、とだけ。けれどその表情が、声が、心が、その言葉が決して投げやりな言葉ではないと、言葉以上に痛いほど、伝わってきたのです。
「刀は、重かった?」
 そう紡ぐ姉の目は優しくも僕を真直ぐに貫いてきて、思わず逸らしたい衝動に駆られました。けれど決して逸らしてはいけないと、解っていました。
「よく覚えておきなさい。それが人を傷つけることの重さ、奪う命の重さなのよ」
 姉は微笑んでくれました。けれどその笑みが、今にも蝶が飛び去るように消え入ってしまいそうで。
 何だか僕は寂しかったのです。





 彼の寝顔は、決して穏やかとは言えませんでした。彼は今迄に何度、こんな夜を過ごして来たのでしょう。彼の手をそっと握りました。まるで、今迄彼が私にしていたように。彼の手を握りながら、私は願いました。彼がこれから歩む道が、少しでも心安らかな道であるように。弟は身を挺してこの人の命を護りました。ならば私はこの人の心を護ろうと誓います。彼の顔に近づくと、思わず息をついてしまいました。大量の血を流したためか血色を失ったその顔は、月光に照らされて泣きたくなるほど美しかったのです。優しく閉じられたその瞼、かかる前髪、長い睫毛。私はそっと、彼の瞼に瞳を寄せて、目を閉じました。蝶が自分の羽を閉じるが如く、私の睫毛で彼の瞼をそっと撫でたのです。
 バタフライ・キス。彼の痛みが蝶のように飛び去ることを願いながら。





 狭間で結んだ像はおぼろげで、形を成していない。赤と黒、閃光。その中で一羽の蝶だけが、俺の目の前でくっきりと浮かび上がっていた。












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