月の末日には決まって家中の大掃除をするのが私の習慣でした。
決して広くはない家ですし、もとより竹を割ったような性分なので、たいして物を取っておくような事も致しません。ですから大掃除と言っても大したことではないのですが、やはり家中を整頓に動き回ることなどそう毎日できることではありませんから、いつも自分の中で、末日は大掃除の日と決めているのです。
その日もいつものように、朝も早くから居間に客間、玄関、台所に風呂場、そして寝室をとひと通り片付け、最後に書簡の整理に取り掛かりました。様々な請求書やら公共料金の明細票、親しい人からのお手紙と、ひと月30日そこいらの間でも、手紙と言うものはそこそこの数届くものです。私は明細票やら請求書やらを家計簿に貼り付け、要らないダイレクトメールは鋏で裁断し、そうして最後に私宛に届いた手紙を読み返しました。
人の手で書かれた手紙は、やはり受け取るとこの上なく心に響くものです。
天人訪来に伴う文明開化から、電話にファックスにメールにと、様々な伝達手段が開発されてきましたが、この手書きの文字が直接書かれた紙の感触と言うものは、他のなにものにも勝るとも劣らない力を持っているような気がします。たとえそれがお年賀や暑中のご挨拶だけのものだったとしても、その文字から手紙の向こうの人の温かさが、伝わってくるようで。そうした手紙の記憶と言うものは、どれ程年月を経ても色褪せないと思うのです。
私は頂いた手紙を文箱に仕舞いました。そして、古びた一通の手紙を取り出しました。
宛名は私、差出人は書いてありません。
乱雑に畳まれたその手紙を開くと、そこには畳み方からは推測できないくらい丁寧な文字が並んでいます。文字は人となり、などと申しますが、だとすればこの手紙を書いた方はなかなかに叡智あるよく出来た方だと考えられるでしょう。しかしながら実際のところは、全くもってその正反対の方でした。
その方の暮らしぶりを私はよく存じています。自由気まま、と言えば良く聞こえるのでしょうが、正直に言えば自堕落な生活を送られていた方でした。ですから私はしばしばその方を叱りつけました。時には拳を以って怒りを表に出したものです。その方は弟の上司に当たる方なのですが、実際のところまともにお給料が支払われたことなどありませんでした。むしろ私からその方のほうに差し入れやらお掃除やら、よほどの功労を支払ったのではないでしょうか。
それでも私が、そして弟がその方から離れることが出来なかったのは、やはりその方に何かこの上なく惹きつけられるものがあったからなのだと思います。その方の崇高な魂の輝きはいかなる時でも消えることはなく、隠しきれない真直ぐな瞳は時として私の心を身体を射抜きました。
白地に染め抜かれた青い流紋の着流しと白銀にきらりと輝く髪がとても綺麗な方でした。
いつだったか、私がその方と二人で何気なく海に行った時のことでした。初秋の爽やかな風が心地よかったことをよく覚えています。その方は波打ち際に立ち、遥か彼方を見つめていました。
眼前の景色を望むその横顔から、私はそのとき目を離すことが出来ませんでした。
蒼の彼方へ全てを帰す母なる海と、天へ望まんとする透き通るような青い空にふわりと浮かぶ包み込むような白い雲。それらの曖昧な境界線に立つその方の穏やかな横顔。青と白の二つの色だけで作られるその世界はあまりに美しくて、私はそのままその方が海に空に溶けていってしまうのではないかと思ったのです。
その方の魂の如く気高く美しいその姿は、私の眼に焼きついて、決して離れることはありませんでした。
私の視線に気付いたのか、その方は海や空に向けた眼差しよりもなお優しい瞳でこちらに笑いかけてくれました。そうして私の手を取り、その方が見ていた景色と同じ景色を、私に見せてくれたのです。
気高さと逞しさと優しさを照らし出す、目の前に広がるいっぱいのあお と しろ。
それはまるでその方の色、そのものでした。
あのとき私の手をとったその大きな手で書かれた唯一の手紙は、92文字で紡がれた恋文でした。
言葉少なに込められた、その方の気持ちがひしひしと真摯なまでに伝わってくる、それは温かくも気高い、恋文でした。
丁寧ではあるけれど、よくよく見ればその文字は全体的に右肩上がりで大分くせがあります。それに幾分年数が経ってしまっているものですから、紙も色褪せて、文字のインクもかすれています。
それでも、その方の書かれたくせのある文字に、そして文字の舞い躍る柔らかな紙に触れるたび、あの時の姿が頭に浮かんでくるのです。
まるで「忘れてねぇか」と囁きかけてくるかのように。
そのたびに私は、「忘れる訳ないでしょう」と微笑み返すのです。
季節はずれの柔らかな風が吹いて、かたかたと障子を鳴らしました。
見上げた障子の向こうに広がるのは、あの時と同じように美しく雄大な景色です。蒼の彼方へ全てを帰す母なる海と、天へ望まんとする透き通るような青い空にふわりと浮かぶ包み込むような白い雲。



そうあのとき、あの大きな手が見せてくれた景色が。銀さんの色が。この世界をいっぱいに包んでいるのだから。







「銀妙誕生祭」さまに参加させていただいた作品です。お題は「忘れてねぇか?」でした。
主催者様、素敵なお題を、そしてお祭をありがとうございました。












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