その日は雲ひとつない晴天だった。
まだ朝だというのに太陽は焼け付く位に燦々(さんさん)と輝き、あちらこちらから蝉(せみ)時雨(しぐれ)が聞こえてきた。既に街は陽炎に包まれ、外を歩くだけで汗が滲み出る位暑かった。
そんな中人々は家族で食卓を囲み、「行ってきます」、「行ってらっしゃい」と互いに挨拶を交わし、母親は夫や子供を笑顔で送り出した。路地には学校へ通う子供たちのはしゃぎ声が響き、街を見渡せば、あらゆる路面(チンチン)電車の停車場は通勤客や学生でごった返し、銀行の前では開店時間が待ち切れず数人の人が並んでいるのが見受けられた。
同じ頃、街のあちこちで「エンヤ、エンヤ」の掛け声とともにガラガラと木造の家が崩れ落ちる音がした。そこでは壮年の男達が中心になって縄を引っ張って家屋を引き倒していた。家が崩れ落ち、濛々(もうもう)と立ち込める砂塵が収まると、老人や婦人、毬栗(いがぐり)頭の中学生やおかっぱ頭の女学生までもが家の残骸に群がり、使える瓦や木材をテキパキと運び出し、残ったどうしようもない廃品を処分した後、鍬やショベルで跡地を均してきれいな更地にしてしまった。真夏の太陽が照りつける中、皆汗まみれになって働いていた。
その少女もそんな人々の中にいた。カーキ色に染めた学生服とモンペを身に纏ったおかっぱ頭の彼女は、女学校の先生を先頭にして級友達と一列になって先生が剥がした瓦を次々にハイ、ハイ、ハイ…と掛け声を掛けながらリレーしていった。彼女も汗まみれになり、とてもしんどかったが、決して弱音を吐こうとしなかった。この作業は御国のためと心から信じていたし、何より同じように御国のためと信じて頑張っている級友に悪いと思ったからだ。
しかし、前日も斯くの如き炎天下の中で作業していたので、朝からこの陽射しはやはりきつかった。周りを見ると級友達もしんどそうな顔をしていた。それでも皆、搾り出すように、ハイ、ハイ、と掛け声を出して暑さと疲労感に耐えていた。多分、級友達も彼女と同じ様に考えていたに違いない。互いにそう思うことが、過酷な作業に耐える彼女らをぎりぎりのところで支えていた。
ハイ、ハイ、ハイ…
流れるように瓦が少女たちの小さな掌(て)を伝って運ばれてくる。彼女は右隣の少女から渡された瓦を素早く左隣の少女に手渡す。
ハイ、ハイ、ハイ…
(暑いなぁ…)
その言葉が唇から外へ出そうになる。
ハイ、ハイ、ハイ…
ふと、横を向くと懸命に働く級友の姿。
彼女は首をブンブンと横に振る。
(…ううん。いけん、いけん…)
ハイ、ハイ、ハイ…
目が少し眩んだ。
頭もぼうっとする。
(…まだ終わらんのんかなぁ…ダメ!そがぁな事、考えちゃ…)
ハイ、ハイ、ハイ…
永久に続くかのような掛け声。
意識が朦朧とする。
(…もう倒れてしまいそう…)
彼女はふっと真っ青な空を見つめながら重力に身を任せた。
丁度その時だ。行列の先頭に立っていた先生が見計らったかのように号令を掛ける。
「作業止め!小休止!!」
途端に、女学生達は掛け声を止め、整然としていた列を崩し、陰のある方へと散って行った。
「靖ちゃん、もう終わったよ。」
少女は隣の級友に抱き留められていた。
彼女たちが作業していた場所の近くにはお寺があった。境内には本堂や鐘楼の他、二三の建物があり、また庭には春には綺麗な花を咲かせていた桜や、秋には紅葉が美しいであろう銀杏など数々の木々があり、休憩するにはもってこいの場所だ。建物の陰や木陰を見つけて、少女達は暫しの休息を取っていた。
その少女も本堂の陰で休んでいた。
「ねぇ、靖ちゃん、大丈夫?」
彼女の横にはさっき彼女を助けた級友が同じく暑さを凌いでいた。
「うん。ちょっとフラっときただけじゃけぇ…ごめんね。」
少女はそれでもややしんどそうな顔をしていた。
「ほんまに?たいぎかったらいつでも言うんよ」
「ううん。うちは本当に大丈夫よ…」
心配する友の気遣いにも彼女は気丈にも首を横に振った。
「そう…でも、無理はいけんよ。」
「ありがとう…でも、お国のために作業を頑張るんがうちらの務めじゃけぇ…」
「…そうね。」
二人は壁に寄り添って空を見上げた。
空は、雲の欠片も無く、抜けるように蒼かった。今日は憎らしいほど暑かったが、青空だけはうっとりする位美しかった。
少女は暫くの間空を見つめていた。すると、一羽の鳥が目の前を飛んで行くのが見えた。彼女が見ている前でその鳥は陽の光で輝くような青空を思うが儘に翔んでいた。
彼女はその鳥を目で追った。小さな鳥だった。突風が吹いたら何処かにでも飛ばされるのではないかと思われる位の小鳥だった。だが、その小鳥は地上の事などお構い無しに自由に空を駆けていた。そんな鳥を見ていた少女の瞳は心なしか安らいでいたようだった。
鳥は暫く少女たちの真上を旋回した後、上空へと翔け昇って行った。少女は尚もそれを目で追う。鳥はぐんぐん高度を上げていった。あの青い空に吸い込まれるかのように。高く昇るに連れ、鳥はどんどん小さくなっていった。空の彼方へと飛び去って行くその小さな鳥。少女は鳥の行く先を見上げた…
そして、その先に少女はそれを見た。
小さな豆のようなものが飛んでいるのが見えた。
「何じゃろ、あれ…」
彼女は思わず言葉を口に出していた。
隣に居た級友もそれを見つけたらしく、立ち上がり空を指した。
「Bじゃ…」
周りの女生徒達もそれに気付いて騒ぎ始めた。
それは飛行機、しかも憎き『敵』の爆撃機だった。
彼女達が見るに三機だった。超高度で飛んでいたのか注意しないとなかなかそれとは気付きにくい。しかし、彼女達――況や街中の大人たちはすぐにそれだと気付いた。今、空を飛ぶものはそれしかないと知っていたから。
耳を澄ませると微かだがその飛行機の爆音が聞こえた。
暫くすると、飛行機は地上に向けて何かを投下した。少女はそれが落下傘であるのが見えた。落下傘はゆらりゆらりと落ちていった。少女達は暫しその光景を眺めていた…
その時、路面電車は会社や学校へと出る人で溢れ――
銀行ではお金を下ろそうと気の早い人々が玄関前に列を成し――
商店は朝の支度も済ませ、開店準備に勤(いそ)しんでいて――
人々は普通の日常を始めようとしていた。
そんな人々の頭上に落下傘が舞い降りた。
いったいどれ位の人がそれを見たのだろうか。それは分からない。だが、それに気づいた人々は空からゆらりゆらりと落ちてくるそれを指差しながら、或る者はその飛行機の乗員が脱出したのだと嘲(わら)い、或る者はそれが落ちてくる意味が解らず、不思議がった。
少女も不思議に思いながらそれを見ていた。何時になったら地上にたどり着くのだろう、そう思った刹那――
ピカッ
人々の日常は終りを告げた。
少女の今日も、明日も、――未来も。
1945年8月6日、広島。
その日は雲ひとつない晴天だった――