『函館ソナタ』

    第一章

 

  ***海の見える喫茶店***

「姉貴、突然だけど女子生徒一人預かってくれないか?」

「はっ? 何言ってるの? 俊介、あんた何をやらかしたの?」

「俺は何もしてないよ。今から警察に引き取りに行くんだ。」

「なんだか全然話が見えないんだけど、」

「俺にだって見えてない。今、歩きながら考えてるとこだよ。

 なんで俺の教え子だからって俺が引き取りに行くんだ? 引き取ったあとどうするんだよ。親はどうしたんだ? って、兎に角、俺の部屋に連れて行くわけに行かないから、ちょっとだけ頼む」

「何なのよ。家に連れて行って母さんに頼めばいいじゃない」

「余計な心配かけたくないだろ? それに男子生徒ならいざ知らず、女子だよ。俺の家に連れて行くって問題だろ?」

「へぇ、私になら迷惑かけてもいいわけ?」

「あっ、警察の前に着いた。じゃ」

『全く、何が、じゃ、だって』

 近藤七海は、三歳歳下の俊介の突然の電話に少しイラつきながら携帯を閉じた。

 一人で経営している喫茶店を七時に閉めて、掃除と次の日のスタンバイを済ませ、部屋に帰ってきて、やっと一息ついたところだった。

 

 函館の外人墓地の下の海の、夕日のスポットでもある、周りに何も無い場所に喫茶店を持ち、周りの海を撮影して店に飾る。

それが七海の夢だった。

その夢を叶える為、大学では写真部に所属し、卒業してからは必死で働いた。

十年働いて、やっと資金を貯め、いざ土地を買う時になって、周りに何も無い海岸は、女一人じゃ夜が怖いということに気づき、安全な場所を探すことに計画を変更した。

坂の上なら海を見おろせるし、写真は休みの日に撮りに行ったほうが、いろんな場所を写すことができると思い、考えを練り直した。

七海は坂の上の教会の近くに二階建ての中古の家を買い、一階をリフォームして住居にし、海が見える二階を改造して喫茶店にした。

昔は車が登れなかったり、お婆さんが転がり落ちてきた、などという笑えない話もあったが、それもロードヒーティングなどで解消されている。

今ではここの場所にして良かったと、七海は心からそう思っていた。

思い描いたような、周りに何も無い海岸よりも、この場所の方がお客さんがコンスタントに来てくれる。

オープンの時からの、気になるあの人も、毎日コーヒーを飲みに訪れる。

七海はその男性、鳴海大輝の名前も知らなかったので、自分の中で『あの人』と名づけていた。

「火曜日が定休日なんですね」

「あっ、不便ですか? 日曜日が休みの方がいいですか?」

「僕はその方がいいけど」

大輝が笑いながらそう言った。

七海は平日に写真を撮りに行きたくて、火曜日を撮影の日と決めていたのにも関わらず、定休日を日曜日に変えてしまった。

大輝は定休日が変わったことには気づいたが、まさか自分が言ったことのせいで変わったのだとは思っていなかった。

大輝はランチタイムが終って、店に客が殆どいなくなるころにやってきて、入り口近くのテーブルに並べてある雑誌や新聞の中から、なにか一誌を持って奥の席に着く。

日替わりコーヒーか、ブルーマウンテンを注文し、コーヒーが運ばれると新聞を置き、ゆっくり海を眺めながらそれを飲んで、飾ってある七海の写真を見てから帰る。

『あの人が来なくなったらどうしよう。せめてどこの誰なのか知りたい』

 七海はいつもそう思うのだが、開店から三ヵ月経った今も、微笑んで挨拶を交わすだけで、なかなか話すチャンスが無かった。

 せめてカウンターに座ってくれたらと思うのだけれど、大輝は必ず海が見える奥の席に座るのだ。海が見えることがウリなのだから当然といえば当然なのだが・・・

 

 

***教師と教え子***

 俊介は、教え子の宮川春香を引き取って警察署から出ると、携帯を開いて時刻を見た。午後九時になろうとしていた。

「なんで先生の名前と電話番号言ったんだ? 担任も大事だけど、先に親だろ。お母さんはどうした?」

「私より爺さんのことで頭一杯だよ」

「お爺さんの世話をしてるなんて、優しいお母さんじゃないか」

「爺さんって、母の婚約者だよ」

 春香は静かな声で、だけどぶっきらぼうにそう言った。

「結婚に反対なのか? それでふて腐れてゲーセンで煙草吸ってたわけか」

 春香は答えなかった。煙草は吸えないし、酒も飲めないが、煙草を銜えたり、酒を舐めたりしていたことは確かだ。

「先生の家に連れて行くわけに行かないから、今夜は先生の姉貴の家に連れて行くけど、明日はちゃんと家に帰れよ」

「帰りたくない。入籍して母が家から出て行ったら帰る。とりあえず、今は顔合わせたくないんだ」

「おいおい、入籍っていつだよ」

「少しは私に気を使ってるらしくて、私が大学生になったらって言ってる」

「冗談だろ? まだ一年と八ヶ月もある。 兎に角、今夜母親に電話するから。

 それに、男性教諭に引き取らせてそのあとどうするつもりだったんだ?」

 春香は下を向いたまま何も言わずに俊介の後をついて歩いた。

 引き取ってもらったあとのことなんて、何も考えていなかった。

 なんとなく俊介を頼ってしまった。

 俊介に叱って欲しかったのかもしれない。

 

「じゃ、姉貴、後よろしく。明日は学校にちゃんと出してくれ。あっそれと、名前は宮川春香ね」

 俊介はそれだけ言うと、慌てて帰っていった。

 一刻も早く春香の母親に電話をしたいと思っていたのだ。

 春香の母の明子は、案の定すごく心配していて、俊介からの電話に安堵した様子で、丁寧にお礼を言った。

 すぐにでも連れ帰りたいが、原因が自分にあるので、無理強いしても、また繰り返すに違いないと言った。

 そして、聞いてもいないのに家庭の事情を詳しく話しはじめた。

 俊介は相槌だけを打ちながら聞いていた。

 

「春香の父親は医者でした。親の反対で私達は結婚できませんでした。

養育費として春香名義のマンションを一戸と、春香名義の預金通帳を渡されて、それで終わりにしてくれと言われて応じました。

なにも受け取りたくなかったけど、春香の将来の為、下手な意地を張るのはやめました。

 マンションが春香の名義であることは、春香はまだ知りません。

 ずっと母一人子ひとり。でも、寂しい思いはさせまいと、わたしはただあの子だけを見て暮らしてきました。

 あの子も、目いっぱいそれに応えて、私を喜ばせてくれました。

 私の後ろに男の影なんて、あの子にとっては耐えられないことだったのでしょう。

 私は、今も働いている水産加工会社で二十年も前から経理の仕事をしていましたが、七年前に社長の奥様が亡くなられてからは、秘書としての仕事もさせていただくようになりました。

 社長は次第に私を仕事上のパートナーとしてだけではなく、女性として見てくれるようになりました。私も社長を尊敬していますし、

 あっ、すみません。そんな話はどうでもいいんでしたっけ?」

「あっ、よろしかったら何でも聞かせてください。そのほうが、少しでも春香君の気持ちを理解してあげられると思うので、」

 俊介は、ドラマでも見ているようで、途中でやめて欲しくない心境だった。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 明子はくすっと笑ってまた話し出した。

 初めて心を開いて何でも話せている気がして、まるで人生相談でもしてもらっているような気持ちになっていた。

 しかも、担任だから知ってて欲しいという理由付けが出来るのが嬉しかった。

「社長は実にいろいろなことを良く知っている人で、飲み会でも、時間を忘れるくらい周りの皆を楽しませてくれました。

 そういうのを講釈好き、と言うのかもしれませんけど、まったくイヤミが無くて、話しかたが優しくて、実にユニークな人なんです。

 私はどんどん惹かれていきましたが、あの子が社会人になるまでは隠しておこうと思っていました。

でも、社長は二十歳も年上で、六十歳なんです。

一昨年、出来るだけ早く入籍したいといわれました。

春香が中学三年の時でした。クリスマスイブに、社長と社長の息子さんと、私達で食事をすることになったんです。

社長の招待だということで、食事をご馳走してもらうだけだと思っていた春香は、一緒に来た息子さんを見て、ひょっとして、私とのお見合いかもしれないと思ったみたいで、

「あの、大輝さんと母のお見合いですか?」

 って、悪戯っぽく聞いたんです。その時社長が、

「いや、申し訳ない。実は、君のお母さんに惚れているのは僕なんだ」

 ってとっさに言ってしまったんです。

 でも、春香は本気にしていなくて、本当に家族同士のお食事会だと思って、その時はとても楽しんで機嫌よく帰ってきました。 

 後になって、あれが本当の話だったとわかってからです。なんだか私に対してつっけんどんになって、だんだん私を避けるようになりました。

 ずっと二人で仲良くやってきたのに、やはり母親が恋をするなんて、子供にしたらすごく不潔に思えて、嫌なことなのだろうな。って思いましたので、社長に言って、春香が大学生になってから入籍していただくことにしました。

 でも、別れたわけではないし、私ももう、社長を好きでたまらなくなっているんです。

 あっ、ごめんなさい。こんなことまで」

「いえ、いいです。続けてください」

 明子は久々に心が弾んでいた。

 誰にもこの思いのたけを言えなくて、心が破裂しそうだったのが、先生だという安心感から言ってしまえて、そのことが本当に嬉しかったのだ。

「先生、春香は本当はすごくいい子なんです。あんな色の髪や、派手な爪や化粧をしたり、まして煙草や酒なんて吸ったり飲んだりする子じゃないんです。言葉使いもです。

春休みにすっかり変わってしまって、先生は不良の春香しか見たことが無いんですよね。 

私、恋をするべきじゃなかったのでしょうね。

 一番大事なのは、私が一番愛してるのは春香なんですもの」

 そこまで言うと、明子は言葉に詰まった。

「わかりました。お母さん、春香さんを僕の姉の家に預からせてください。

気持ちが落ち着いて、自分から帰る気になった時に帰ればいい。

 あの、僕がこんなことを言うのはおこがましいのですが、社長さんとの恋、成就させてください。

 春香さん、絶対にわかってくれる日が来ますよ。きっと応援してくれる日が来ると思います。だって本当は良い子なんでしょう?」

 明子は俊介の優しい言葉と春香を預かってくれることに対しての感謝と安堵感で、受話器を持ったままその場に座り込み、涙ぐみながらずっと頭を下げていた。

 俊介は心からそう思って言ったのだし、役に立てて嬉しいと思った。

 長かった電話を終えて我に返ると、姉の七海に申し訳ない気持ちで一杯になった。

 あの不良娘を、七海は持て余すだろうな、と思うと気が重かった。

 自分が知っている春香と、母親から聞いた春香はずいぶんイメージが違っていた。

 俊介は、気を取り直すと、要点をまとめて七海のパソコンにメールを送っておいた。

 

 一方、突然春香を預けられた七海は、居間のテーブルに冷えた緑茶を置いて、春香に椅子に座るように促した。

「私は俊介の姉の七海ね。七海さんって呼んでね。あなたは、春香ちゃんでいい?」

 そう言うと、七海はいきなり除光液とコットンを持って来て、

「悪いけど、食べ物の商売してるから、こういうの受け付けないの」

 と言って、春香のネイルを拭き始めた。

「あら、よく見るとずいぶん素適なアートなのね」

 七海はちょっと勿体無かったかな? と思いながら、途中で止めるわけにいかず拭き続けた。

「これって、ネイルサロンとかに行ってやってもらうの? 高いんでしょう?」

「はい。このネイルはパーマ代と同じくらい取られました」

 最近使っていなかったちょっと丁寧な言葉がすんなり出たことに、春香自身が驚いた。

「あらま、もったいないことしちゃったのね。でも、やっぱり気になるから、許してね」

 そう言って春香を見ると、ほんの少しだけ笑みを浮かべていた。

「その派手な髪の毛は? 前髪だけ染めちゃってるわけ?」

「あっ、カラーフォームです」

「シャンプーで落とせるの?」

「はい」

「あっそっ! そうだ! 温泉に行こう!」

 言うが早いか、七海は二人分のお風呂セットを用意した。

 春香のわりに素直な受け答えに七海は内心ほっとしていた。

「温泉って行っても、ほら、新しくオープンした三百九十円の温泉ねっ。

その服じゃ派手だからこれ着てみて。制服は? あっ、その手提げの中? わざわざ面倒なことしてるのねぇ。春香ちゃん、私とサイズ同じくらいじゃない? あと、下着は新しいのだけど、私、言いたくないけどAなのよね」

「私もAです」

 お互いに相手の胸の辺に目を向けると、プッと噴出した。

 春香に着せた七海の夏物のワンピースは、サイズがピッタリだった。

七海は俊介からの電話を受けた時も、最初に見たときも、不良だからとすごく構えたのに、なんだか拍子抜けしていた。

 

 春香は一年生の時から、数学教師の俊介に憧れていた。

 俊介のほうは、春香のことを、よく出来る子だが、派手な化粧をしている不良だ。くらいにしか思っていなかった。

 二年になって俊介が担任になった時、春香はすごく嬉しかった。

 本当の自分を見せたかったし、知って欲しいと思ったが、一度作ってしまったイメージを壊すわけに行かず、母に対しては、益々嫌悪感を抱いていたので、不良をやめるわけに行かず、頑張っていたのだ。

 七海にマニュキュアを落とされたときは、ネイルサロンで手入れしたり塗ってもらう時よりよほど気持ちが良かった。

 俊介の姉だと思うからか、七海の爽やかな性格がそうさせるのか、春香はすごく素直な気持ちになっていた。

 

「じゃ、一時間くらいでいいかな? って言っても、二人とも女風呂だから声かければ済む話だけど」

 七海が笑って言うと、春香も笑っていた。

 春香は身体を洗うと、洗髪して黒くなったストレートの髪を、頭の上にまとめて止めた。

 化粧も念入りに落とした。

 チラチラと目をやっていた七海だったが、春香がどんどん綺麗になっていくのを驚きながら見ていた。

 春香は楽しそうに、サウナに入っては三分もしないうちに出てきたり、ジェット風呂に入ったり、露天風呂に入ったりしていた。

 掛け時計を見ると、丁度一時間ほど経っていたので、春香は慌てて天然温泉から上がった。

「慌てなくていいから」

 七海がそばに来て笑いかけた。

 風呂から上がり、髪にドライヤーをかけた。

「ラストオーダー、まだ間に合うね、なんか食べよう」

 七海は春香を促した。

「私は車だから飲めないし、烏龍茶とあんかけそばにするわ。春香ちゃんは?」

「私も同じ物を」

「いいの?」

「はい」

 春香は嬉しそうに返事をした。

「ねぇ、今私の前にいる春香ちゃんは、ものすごく清楚なかわいい女学生なわけね。

 なんか、警察から引き取ってきたって信じられないんだけど」

 七海は笑いながら言った。

「私も、なんかやっと昔の自分に戻ったみたいで、すごく嬉しいんです。

 あっ、でも、私を家に帰さないで下さい。

 私、掃除とか炊事とか得意だし、喫茶店も手伝いますから」

「そんなにこき使ったら俊介に叱られるわ。

 追い帰さないから心配しなくていいわ。

 なんで喫茶店やってるってわかったんだっけ? あっ、あの玄関前の階段見たらわかるか。我が家にかぶさってるものね」

 春香は頷き、二人は笑った。

「じゃ、とりあえず明日から学校に行くこと。昼のうちに自宅に行って、着替えとか、学校の道具とか運んで来てね」

「はいっ」

 春香は本当に素直だった。

「ねぇ、どうしてそんなに嬉しがってるわけ? ひょっとして俊介先生のファンだったり?」

「わかるんですか? 七海さんは何でもわかっちゃうんですね」

「えっ? マジで? 冗談で言ったんだけど、あいつ結構もてるから、嫌われてはいないだろうって思ったけど」

「そうなんですか、、やっぱり、もてるんですよね。そりゃそうですよね」

「あっ、ちなみに彼女とかいないからね。 今フリーだから、目の前の春香ちゃんだったらイチオシだわ。ただね〜教え子に手を出させるわけに行かないからなぁ」

「あっ、憧れてるだけです。迷惑かけませんから」

 春香はまた嬉しそうに微笑んで言った。

 運ばれてきたあんかけそばを食べて、烏龍茶を飲みながら、二人はずいぶん笑った。

 

 家に帰ってからも、春香はたくさん飾ってある海の写真を興味深げに見て

「海の写真がたくさんあるんですね。七海さんの作品ですか?」

 と聞いた。

「うん、海が大好きなの。名前が七海だもの当然よね。そうだ! 今度、春香ちゃんモデルになってよ。海をバックに、綺麗な少女を撮るのが夢だったの。

 でも、なかなか私のイメージした少女はいなくて、春香ちゃんならピッタリだわ」

「嬉しいです。七海さん、女流カメラマンだったんですね」

「夢はね、喫茶店経営をしながら海を撮る女流カメラマン」

 七海は嬉しそうにそう言った。

 春香も、海を背景に七海の写真の中に立ってみたいと思った。

「じゃ、その部屋はゲストルームだから、自由に使っていいからね。

 明日は寝坊しないように、目覚ましは、」

「大丈夫です。携帯のアラームセットしますから。今日は本当にいろいろありがとうございました。おやすみなさい」

 しっかり挨拶をして春香は部屋に入った。

 

 七海も寝室に入るとパソコンの電源を入れた。

 俊介からの長いメールが入っていた。

 七海は、春香の生い立ちを知り、益々春香のことを愛おしく思った。

 

『よくわかったわ。お金持ちで余計安心したわ(笑) それに、相当素晴らしい遺伝子持ってるみたいね。

春香ちゃんのことは私に任せて。

 あと、明日、彼女を見てビックリしないでね〜(笑)』

 すぐに俊介からの返信メールが来た。

『恩に着る。じゃ、姉貴、よろしく頼んだよ。あ〜良かった。これで安心して眠れる。

 オヤスミ〜親愛なる姉貴!』

『おやすみ♪あんたの姉貴より』

 七海はメールを送信してパソコンの電源を落とした。

『まったく、ビックリしないで、って言ったのに、意にも介さないで、明日は見てらっしゃい!』

 心の中でそう言うと、七海は悪戯っぽく笑った。

 

 朝、七海が部屋から出ると、春香はもう台所に立っていた。

「お早うございます。昨日はありがとうございました。あの、勝手に冷蔵庫開けちゃったんですけど」

「いえいえ、それより、ほんとに出来ちゃうのね春香ちゃんは、じゃ、先に朝食いただいちゃおうかな?」

 七海はパジャマのままで席に着いた。

 目玉焼きに野菜を添えて、サンドイッチも食べやすいように小さく切られ、コーヒーも喫茶店より美味しいくらいだった。

 七海は思わず言ってしまいそうになった言葉を飲み込んだ。

『俊介のお嫁さんに欲しいわ』

 と言いそうになったのだ。

 ストレートの長い黒髪、清潔感のある素顔、細くてしなやかな身のこなし、春香はキッチンでも輝いていた。

 

「春香! どうしたの?」

 中学からの友人の優子が笑顔で近づいてきて言った。

「うん。私、昨日補導されたじゃない? でさ、警察から引き取ってくれた女性に全部剥がされちゃったの」

 春香は笑いながら言った。

「うっそ〜〜、春香メチャ可愛い。

 ねぇ、誰なの? その引き取ってくれた女性って」

「うん、喫茶店経営してる、美人の女流カメラマンなの」

「それはいいんだけど、そうじゃなくて、どんな関係の人? 親戚? 知り合い?」

「今は詳しく言えないけど、親戚、ってことにしておいて」

「なんかすごくない? だって、全部剥がしたって、その女性ほんとに最高だね。

でさ、なんか今日一日、春香にくっついて歩きたい。だって、みんなの驚く顔を見たいもの」

 優子はもろに興味を示してそう言った。

 そして、中学の時のように、優しげな優等生に戻った春香のことを、心から嬉しく思っていた。優子にとって春香は、憧れの女子生徒だったのだから。

 

教室に入っても、みんなは春香だということに気づかなくて、きょとんとしていた。

男子生徒は、まるで美人の子が転校してきたかのようにソワソワしている。

「あの、まさか、えっ? そこの席。まさかだよね。春香だったり?」

 隣の席の愛が言った。

 途端に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「春香? そう言われてみれば、春香じゃん。あら〜メチャ美人だったのねぇ。

こうなると、化粧とかおしゃれって何? って思っちゃう。マジで可愛いよ春香」

 まわりにどんどん女子が集まってきて、俊介が教室に入り

「何してるんだぁ。席に着きなさい」

 と言うまで、騒いでいた。

「はい、出席とります」

そう言って春香を見たときの俊介の驚き様といったらなかった。

 一番後ろの廊下側の席に座っているのは、昨日までの不良少女ではない。

 一目惚れしたかな? と思い、俊介は邪念を振り払うように努めて平静を装って出席をとり続けた。

HRが終り、俊介は教室から出るときに、

「放課後、職員室に来るように」

 とだけ言い、春香は黙って頷いた。

 

「お母さんには電話で詳しく言っておいた。安心していい。あとは、とりあえず真面目にやってくれ。帰っていいぞ」

 俊介はそれ以上普段と変わらぬ態度でいることに耐えられなかった。

「はい、ありがとうございました」

 春香は会釈をすると職員室を後にした。

 職員室にいた英語の男性教師も、

「あれ、宮川春香か? ずいぶんまた変わってしまって、あんなに可愛い子だったのか」

 と、驚いていたし、他の教師も、春香のあまりの変貌に驚き、笑みを浮かべていた。

 

 俊介は帰りに七海の家に立ち寄ろうと思ったが、なんだか春香を意識してしまい、平常心でいる自信が無いので寄るのを止めた。

『少なくとも警察から引き取ってきた時は、何も感じていなかった。

 母親から話を聞いた時だって、同情はしたし、担任だから役に立ちたいとは思ったけど、春香を好きだと思ったわけじゃない。

 なのに、今、好きでたまらない。なんなんだ? これを一目惚れっていうのか?』

 俊介は自問自答していた。

 その日から、俊介は七海からのメールが待ち遠しくなった。もちろん春香のことを、担任だからという理由で、心配してるフリをして、あれこれ聞くのが楽しみだったのだ。

 余計なことを打つと、気持ちがばれそうなので、意識して用件だけを打った。

『そうか、じゃあ、迷惑はかけてないんだな。明日もヨロシク頼みます。親愛なる姉貴』

 殆どこんな感じのメールだった。

 七海のほうはと言えば、

『春香ちゃん、メチャ料理が上手いのよ。私は喫茶店だけでいっぱいいっぱいだから、朝晩まかせっきりよ。助かっちゃう』

 だとか、

『来週の日曜日は春香ちゃんにモデルになってもらうのよ。海で写真撮るんだけど、俊介も行く? 

あっ、駄目だね。どこで誰に見られるかわからないもの。教師と生徒は一緒にいない方がいい』

 などと、からかうようなメールを送って楽しんでいた。

 俊介は、春香が自分に好意を持っているなどと夢にも思っていないし、春香も、まさか俊介が、不良少女だった自分を好きになるなどと微塵も思っていなかった。

 

 

***女流カメラマン***

「じゃ、今日は立待岬で撮影ね。なんかわくわくするわ」

「私も、モデルなんて初めてだからドキドキします。機材がすごいですね。その麦わら帽子も撮影に使うんですか?」

 春香が嬉しそうに後ろの座席に置いてある麦わら帽子やカメラや三脚を見て言った。

「うん、機材はそんなでもないのよ。入れ物が大きいだけ。

それより、春香ちゃんに似合いそうな麦わら帽子、と思ったら、つい三個も買っちゃったのよ。天使の帽子なんて名前ついてたら、買うしかない、って思ったし」

「どれですか? 白っぽいのですか?」

 春香は後ろを覗きこんで天使だから白だろうと予想して言った。

「と思うでしょう? ところが! こげ茶の大きな花がついて水玉のリボンが付いてるやつが天使。コサージュとリボンの付いた白っぽいのが、いかにも天使だよね。それ普通に一万円。

 で、ベージュの白いレースのリボンが付いたのはイタリー制で一万八千九百円もしたのよ」

 七海は嬉しそうに笑って言った。

 春香が思い描いていた麦わら帽子のイメージは完全に変えられたし、値段にも驚いた。

「お墓の中、車で入れるんですか?」

「この道ね。細いけど、車道なの。ここは心霊スポットなんて言われてるのよ。

でも、外人墓地と一緒で、心霊スポットって絶景の場所が多いのよね」

「へぇ、あっ、今『石川啄木一族の墓』ってあった」

「車止めて戻ってこようか?」

「はい、見たいです」

 

「東海の、小島の磯の、ってこれ、自筆かしら?」

「でしょうね。こっち見て。これはね、啄木を物心両面で支えた宮崎郁雨の歌碑。啄木の奥さんの妹と結婚して、啄木一家を支えたのも、お墓を定めたのも、後に語り継がせたのも全部この方だそうよ。

 あっ、この歌碑、これはね『砂山影二』って、啄木に心酔した歌人で、二十歳の時青函連絡船から投身自殺したの」

 春香は頷きながら歌をじっと読んでいた。

 二人は墓地を抜けて、岬に出た。

「そこの下にあるのが、自然の岩を利用して作った、与謝野寛と与謝野晶子の歌碑。啄木のお墓参りに来たときに詠んだんですって」

 春香はそばに行ってまたじっと見て言った

「それにしても、七海さん何でも良く知ってらして、さっきから感心しまくりです」

「うん、一度しか行けない場所は別として、また来れる、って思う場所は、最初は何の予備知識も持たないで来て撮影していく。で、次に来る時は、詳しく調べたり、いろんな話を聞いてから来る。ここは何度も来てるし、詳しくもなるよね。

 でもね、写真自体は、何も知らないで景色だけにときめいて撮った時のがいちばん好きな写真が撮れたりするの。

 知識がつくと、そういう雰囲気出そうとか、歴史的な背景を写真に表現しようと思ったり、邪念が働くのかしらね」

 春香はいちいち感心して頷いていた。

「うわ〜〜、気持ちいい〜、あれって青森ですか?」

 春香が遠くを見て興奮気味に言った。

「お天気が良くて最高ね。うんあれは下北半島よ。さて、下に下りるから、足元に気をつけてね」

 岩には静かな波が押し寄せたりひいたりしていた。

「麦わら帽子、被ったり、手に持ったり、自由にして、で、そのまま止まって、って言ったらそのままのポーズで止まってね」

「はい、なんかほんとのモデルさんみたいな気分で嬉しくなっちゃう」

「転ばないように足元よく見てね、春香ちゃん、女優みたいに綺麗で、私も嬉しくなっちゃう。あの不良娘の姿も写真撮っとけば良かったなぁ」

 春香と七海は爆笑した。

 春香は天使の帽子を被って万歳のポーズをとったり、スカートの裾を持って岩の上で立ち止まってみたり、麦わら帽子を変えて手に持って遠くの海を見たりした。

台詞の無い映画を見ているような気になり、七海はファインダーを覗きながら映画監督にでもなったような興奮を覚えていた。

「モデルさん。お疲れ様〜。じゃ、上に登ってみよう」

「うわ〜気持ちいいなぁ」

「春香ちゃん、ここに来たこと無いの? ほらあの辺一帯に咲く浜茄子も綺麗なのよ」

「うん、たぶん初めて。記憶には無いです。函館に住んでて珍しいですよね。

 あっ、本とか観光案内でよく見る立待岬の石碑だ」

「定番だけど記念に、隣に立って」

「はい。こんな時はV?」

「いや、春香ちゃんの場合は、と思ったけど、やっぱVでいいや」

 七海は笑ってシャッターを押した。

「あの、七海さん、凄くかっこいいですね」

「いきなり何を言うの」

「だって、カメラを扱う七海さん、かっこいいんだもの」

「そっ? そう言われると嬉しいわ」

 七海は笑って遠くにカメラを向けて写しながら言った。

「ねぇ、一休み、っていうか、車でその辺走ってお昼食べて、喫茶店めぐりでもしてこよう。それから夕方の海もバックに撮りたいから」

 

 七海と春香は時間があるので近くの温泉に入ることにした。名前はメジャーだが入るのは二人とも初めてだった。

かなり濃い目の温泉で、露天風呂は五稜郭にちなんで五角形の星型になっていた。

 

 車で少し走って、感じの良さそうなレストランに入って、二人とも大エビフライのレディースコースを注文した。

 七海は休みの日は、極力よその喫茶店やレストランに入って、刺激を受けるようにしていた。

「そう言えば、よくカメラマンがレンズ交換したりするのを見ますけど、七海さんしませんよね」

「うん。このカメラ、すごく張り込んだの。だから車に置いとけなくて、こうして持ち歩いて、貴重品のロッカーに入れたり、肌身離さずなんだけど、

デジタル一眼、標準、広角、望遠、一本でカバー、って言ってもわかんないか? 兎に角簡単でいい写真が撮れる。実は四十万円以上したの。清水の舞台から飛び降りたのよ。趣味と男を兼ねて」

「えっ? 男?」

 春香は目を丸くして笑って聞いた。

「うん。実は、喫茶店にずっと通ってくれてる『あの人』っていう人がいるのよ。名前も知らないんだけど、いつも写真を見てくれるの。だから、力入ってるんだ。

 今日の写真を飾るのがメチャ楽しみよ」

「え〜っ、そうなんですか? 見たいです。七海さんが好きな人」

「今度機会があったらね。

試験終った日とか、早く帰れる日があったら、喫茶店に来てみて。二時過ぎから三時の間ね」

 七海は嬉しそうに言った。

「早退しちゃおうかな?」

 春香は悪戯っぽく笑いながら言った。

 七海と春香は歳の離れた姉妹のように仲が良くなっていた。

 

 夕方の海をバックに、春香をモデルにした写真撮影は、七海を今までで一番興奮させていた。

 大好きな海と、思い通りの美少女。辺りが暗くなって、夕日をバックにすると、少女のシルエットが美しく浮かび上がった。

七海にとって最高の素材が揃っていた。

 

「帰ったらすぐにパソコンに取り込みたいんだけど。だから、お弁当買って帰ろう」

「あっ、私が何か作りますから、七海さん写真やっててください」

「そう? そう? 日曜くらい家事も休んで欲しいと思ってるのに悪いわね」

 七海は嬉しさを隠しきれない様子で、本当に家に付くなりパソコンの部屋に篭ってしまった。

 春香はトマトやピーマン、茄子などを冷蔵庫から出して、ベーコンを解凍し、スパゲティーを作った。

「スパゲティーとスープ、出来ましたよ〜」

「は〜い。じゃ、冷めないうちに先にいただくね。写真すごいよ。私の今までの作品の中で最高の傑作だわ」

 七海は嬉しそうに言いながら部屋から出てきて席についた。

「美味しい。春香ちゃん、ほんっと料理上手いわ。私も自分で上手いと思ってたけど負けるわ」

「そうですか? 良かった。七海さんに認めてもらうとすごく嬉しいです」

 春香は、その後に一言付け加えたかったが今は言えなかった。

 七海に認めてもらうと、俊介にも認めてもらえたような気になって、本当に嬉しかったのだ。

 

「見て。どうこれ? 女優さんだってこんな美しい子はいないわよ」

「うわっ、ほんとだ。あっ違いますよ。私じゃなく、写真のことですよ」

 春香がそういうと七海も笑って、夜遅くまで写真を見て二人で盛り上がった。

 全部の写真を七海はすぐにCDに焼いて春香に渡した。

「あっ、言ってなかったね。ゲストルームのパソコン。ラン飛ばしてるから、すぐ使えるからね。でも、今日は遅いからもう寝ようね。明日ゆっくり見てね」

「はい。今日は本当にありがとうございました。」

「いいえ、今日はマジでこちらこそ!」

 七海の方が深々と頭を下げた。

 

 春香はこの生活がすっかり気に入ってしまった。明子には申し訳ないという気持ちも少しは湧いてきたが、今はまだ素直に向き合えない気がしていた。

『そう言えば、母はまだ不良のままだと思っているんだ』

 春香は少しだけ胸が痛んだ。

 明子は頻繁に俊介にお礼の電話を入れるので、春香が真面目な生徒になったことは知っていた。

 そして、任せてくださいという俊介の言葉に甘えさせてもらっていた。

 

 

・・・あの人・・・

 七海は春香をモデルにした写真を印刷して、いつものように喫茶店の写真コーナーに飾った。

 写真を立派な額に入れたりはしない、そのまま白い壁にピンナップしたり、洒落た紐にクリップで止めて、ビーチの感じを出したり、出来るだけ写真そのままの味を変えたくないという気持ちで、いつもそうしていた。

 

「七海さんのあの人を見たくて来ちゃいました」

 試験が終ったら『あの人』を見る為に店に手伝いに行く、と言っていた春香が、午前中で試験が終ったので、私服に着替えて、可愛い白いエプロンをして喫茶店にやってきた。

「まぁ、可愛いこと。じゃ、早速、奥のテーブル、下げて拭いてきてくれる?」

「はい」

 春香は嬉しそうにキッチンタオルとお盆を持って片付けに行った。

 二時半になると、いつものようにあの人がやってきた。

 新聞を持つと、奥の席に向かった。

 すれ違いざまに顔を見合わせた二人は

「あっ」

 っと、お互いに指差して立ち止った。

「あれっ? 春香ちゃんじゃない?」

「あっ、鳴海大輝さん。ちょっと待ってください。今、仕事中なので」

 春香は慌ててお盆を持って調理場に行った。

「七海さん、あの人って、あの人?」

「うん、あの人。春香ちゃん知ってる人?」

「驚いた! 母の婚約者の息子」

「えっ? ってことは、兄妹になるの?」

「そういうことになるんだね」

 春香は笑って返事をしながら自分でも不思議な気がした。

 大輝に対して懐かしさだけがこみ上げた。

 優しい親戚の小父さん。そんな感じだった。

「そっか、じゃ、注文とってきて。あとは座って話してていいよ」

「はい」

春香は返事をすると踊るように大輝の席に向かった。

「お客様、ご注文は?」

「ブルーマウンテン。あと、春香ちゃん、何でもおごるよ。僕と話していいって聞こえたから」

 大輝が笑顔を向けて言った。

「はい、じゃ、お言葉に甘えて、グレープフルーツ生ジュースを」

 

「一年半、いやもっとだね。クリスマスイブの食事会で一度会っただけだけど、全然変わってないね。父から聞いてた話は全部嘘?」

「聞かせてください。どんな風に聞いてました?」

「失礼なこと言うかもしれないよ」

「もちろんいいんです。隠さずに、遠慮せずに、全部教えてください」

「じゃ、お言葉に甘えて」

大輝は笑って、一呼吸置いてから、少し真面目な顔になって話し始めた。

「いつも明るくて、話好きの父が、春香ちゃんの話をする時は、悲しそうな顔をして話すんだ。

『大輝、父さんは諦めた方がいいのかな?

こんなに明子さんを好きだし、春香ちゃんのことも、子供と孫とあわせたような感情で、すごく愛おしいと思っているんだ。

 可愛かったよな。食事した時。くったくなく笑って、明子さんに似て美人だったし。

 でもね、あの春香ちゃんが、不良になってしまったって、明子さんが自分のせいだってあんなに悲しんで悩んでいるのをみると、やりきれなくて、春香ちゃんにわかってもらいたくて、話したいけど、今はそっとしてやって欲しいって言われるばかり。

 大人の勝手な恋が、あの純真無垢な少女を傷つけてしまったのかと思うと、やりきれないんだ』

 って、いつも同じことを繰り返し言って、僕が春香ちゃんに会おうとしたけど、明子さんが、

『もう少し待ってください。私が何とかしますから』

って、居場所を教えてくれなかった。だから今、メチャメチャ嬉しいんだけど、俺」

 最後の言葉と嬉しそうな顔を見て、春香も笑ってしまった。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。私、本当に不良やってました。

 でも、もうやめました。母にも、大輝さんのお父様にも謝りたい気持ちです。

 それと、やはり母の恋だけはスッキリしなかったんだけど、今、大輝さんの話を聞いて、私、、、私も、大輝さんのお父さんのこと、『お父さん』って呼んでみたくなりました。

 私が不良やめたのは、っていうか、一夜で私の不良をやめさせたのは、七海さん」

 そこまで話したときに七海がコーヒーとジュースを持って来た。

「あっ、近藤七海さんです。こちらは鳴海大輝さん」

 春香はそう言って二人を交互に紹介した。

「はじめまして、じゃないんですよね。毎日お会いしてたのに、こんな偶然ってあるんですね。不思議で、今、僕は興奮してます」

「あの、私も興奮してます」

「お客さんいらっしゃるまで、ここに座って話せませんか?」

 大輝は急に積極的になった。そして

「すみません、気持ち落ち着けないと」

 と言って、七海も春香も笑ってしまった。

「大輝さん、ここの常連さんなんでしょう?

今まで七海さんと話したこと無かったんですか? 毎日七海さんの写真見て帰るだけだったんですか?」

「えっ? あの写真、七海さんの作品だったんですか?」

「あら、大輝さん、知らなかったんですか?

じゃ。通っていた目的は、写真ですか?

それとも七海さんですか?」

春香がからかうように言った。

「コーヒーが美味しいから。そう言ってすましておきたいけど、やましい気持ちのおじさんは、写真にも惹かれ、そして何より、七海さんに一方的に恋をしていた」

「一方的じゃないです」

 七海が焦ったように言うと、春香は噴出してしまった。

「あの、すみません。水、水くださいませんか? 俺、いや、僕、いやどっちでもいいんだけど、ちょっと舞い上がってしまって」

「水、私持ってきます。七海さんも要りますよね?」

「うん、お願い」

 三人は顔を見合わせて笑った。

「そうでしたか、七海さんの写真だったんですか? 素適な女流写真家だろうな、って勝手に思って、イメージ壊れると嫌だから作者に会いたいとは思わなかった。

 おなじ場所で、同じ素材を写しても、作品は人によって全然違うものになる。

 僕は写真の作者の感性に恋をしていたんだ。

 そして、七海さんをそれ以上に好きだったし、なんか今、僕の頭の中すごいことになってて、あっ、時間だ。すみません、仕事の時間なんで、また来ていいですか? 七時まででしたよね、六時ころに来れると思います」

 大輝はそう言うと、支払いを済ませて慌てて帰って行った。

 

 春香は奥の席を片付けてきて、七海を見てにっこり笑った。

「あの、凄いことになりましたね。七海さんの恋、叶っちゃってましたね」

「お陰様で。夢じゃないよね。夕方来るって言ったよね」

「言いました。確かに聞きました。六時ころですよ」

「ね、知ってること全部教えて。あの人、大輝さんのこと。あっ、お客さんいないから、春香ちゃん、カウンターに座って」

 七海はグレープフルーツを絞って、ジュースを二杯作ると、
春香の前に一個、自分の前に一個置いた。

「あっごめん、またグレープフルーツジュースにしちゃった」

「いいんです、大好きだから何杯でも」

春香は笑って話を続けた。

「じゃ、行きます。

 七海さんの『あの人』は、鳴海大輝。あの時三十六歳だったから今はたぶん三十八歳。

 母の婚約者、鳴海善一社長六十歳の長男で、弟が二人で、もう二人とも結婚してる。

 大輝さんが一番もてそうなのに、ってあとの二人を見たこと無いけど」

身を乗り出して聞いていた七海と春香は、笑ってジュースを飲んで、また顔を見合わせて笑った。

「続き行きます。私が母に、

『大輝さんはなんで独身なの? もてそうなのに』

って聞いた時、彼は写真ばっかり撮ってて、七海さんじゃないけど写真に恋してる男らしい、って母が言ってました。

あとは、えっと、あとは仕事が良くできて、次期社長で、あとは、私、母と険悪だったからなぁ。母と仲直りして、もっとたくさん情報集めますね」

「お母さんと仲直りはいいことだけど、そこまでしてくれなくても、なんか申し訳ないじゃない」

「いいえ、七海さんにはすごくお世話になってるし、それに私、数学得意だから計算高いです」

「なに? どんな計算式なの?」

「はい、母と大輝さんのお父さんが結婚すれば、私と大輝さんは兄妹になる。

で、七海さんと大輝さんが結婚すれば、七海さんは私の義姉さんになる。ってことは、先生とも近い親戚。嬉しくて死にそうです」

 七海と春香は手を取り合って笑い合った。

「じゃ、私、下に帰って夕食の支度をします。良かったら大輝さんも一緒にどうぞ。ちょっと多めに作っておきますから」

「春香ちゃんってほんっと気が利くね。じゃ、お願いするわ」

 

 大輝が店のドアを開けたとき、教会の鐘が六時を告げた。

 なんだか凄くドラマチックだと、二人はそれぞれに感じていた。

「カウンター、いいですか?」

 大輝は照れくさそうに言いながら、七個ある椅子の端から二個目に座った。

「はい、ずっと一度でいいからカウンターに座って欲しかったです。あっ、何になさいます? あの、よろしかったら、下が自宅なんですけど春香ちゃんが夕食の用意をしてくれてるので、ご一緒にどうですか?」

「えっ? いいんですか? それは嬉しい。なんだかいいこと尽くめで怖いくらいです」

「そうと決まれば、お水にします」

「あれっ? 写真のモデル。そっか、今日の昼は慌てて帰ったから見てなかった」

 大輝はそういいながら立ち上がると、写真コーナーの前に立った。

「これが全部、今までの海も全部、七海さんの作品だったんだね。ところで、海だけですか? 撮るのは」

「えぇ、父がすごく海を愛してて、私に七海って名づけて、小さい時から父が私を海に連れて行って言うんですよ。

『海はいいぞ』『海は広いんだ』『海は大きいんだぞ』『よその国にも行けるんだぞ』

って、後で気づいたけど全部歌のまんま」

 大輝は大声で笑った。

「素適なお父さんですね。実は僕もなんですよ。父が僕に海を見せ続けたんです。

世界中の海を見せたいって言ってた。だから、海、って聞いただけで夢が大きく膨らんでいく気がして、いつの間にか写真を撮っていた。

そのうち写真にのめり込んで、デートするなら写真機器を買って、写真を撮りに行きたい。って思うようになって、弟たちに、写真依存症なんて言われてる。

七海さん、今回の写真の麦わら帽子がなんとも言えないね。夕暮れのも素晴らしい。

いつも思ってたんだけど、七海さんの写真には優しさとドラマがある。  

あれっ? 写真評論家になってる? 感動してるだけですから、聞き流してください。

今日の昼にあんなことが無くても、帰りにこの写真を見たら、僕は聞かないで帰れただろうか?

『この写真を撮ってる人、女性ですか?』

 って聞いただろうね。

もしも男性だとしたら、この感性に嫉妬しただろうし、女性なら今まで以上に作者に恋をしただろうな。

 なんか、一人で雄弁になってますね。親父譲りなんです。男のお喋りっていただけませんよね」

「続けてください。いくらでも喋ってください。一言づつ全部がドキドキします」

「そうですか? 調子にのりますよ」

 大輝の話が七海は楽しくてしょうがなかった。

「仕事の合間に考えてたんですけど、たしか七海さん、お昼に、

『一方的じゃないです』 

って言いましたよね。彼氏とかいないんですか?」

「言いました。ずっと一人で悶々と片思いしてました。彼氏とかいません」

「ほんとうに? じゃ、はっきり申し込みます。僕と付き合ってください」

「はい。よろしくお願いします」

「うわっ、やったね。今まで写真一筋で良かった」

「私も、海だけに恋してて良かった。あっ、そろそろ閉店ですので、お店片付けて行きますから、先に下に行ってて下さい。春香ちゃんにお話もあるんじゃないですか?」

「じゃ、そうさせていただきます。

 実は、父と明子さんに、春香ちゃんに会ったことと、春香ちゃんの様子を知らせたら、ほんとに嬉しそうで、二人とも目を潤ませてたんですよ。 

僕の方もそれを見てなんかウルウルしちゃいました。」

 七海はゆっくり頷いた。

 

「大輝さん、そこのソファーに座ってて、もうすぐ出来上がるから」

「春香ちゃん、料理上手そうだね」

「はい、母が下手くそだから、私が作った方が美味しくて、そのうちテレビや本やネットで料理を見るのが楽しくなって、今は趣味みたいなものです」

「へぇ、料理が趣味っていいね」

「はい。でも、七海さんは写真が趣味だけど料理もメチャ上手いです。

 そりゃそうだよね、喫茶店の日替わりランチ見たらわかるよね」

「そっか、失敗したなぁ。会社でお昼食べるから日替わりランチ食べたことなかった」

「そのあと会社でコーヒーは飲まないの?」

「ここの喫茶店が出来る前は会社で飲んでたんだ。

 ここがオープンした日だったと思う。新しい喫茶店が出来たんだな、と思ってふらっと入ってみたんだ。二時前だったから混んでて覗いただけでその日は帰った。

 次の日は二時半に行ったら空いてて、席を選べた。

 僕は海の見える奥の席を自分の指定席にして、そうだ、火曜日が定休日だったのを日曜に変えてくれて、もしかして、僕の為に? なんてうぬぼれたり」

 春香と大輝は手をたたいて笑った。

「それでね、海が見える喫茶店で、美味しいコーヒーをすすると、なんかいい気持ちになって午後の仕事も頑張れる。

 ちなみに違った味を楽しみたいから、日替わりで、いい事があった日はブルマン。

 あっ俺のいいことって、写真が上手く撮れたとか、給料日だとか、大きな仕事を決めた時とか、そんな些細なことだよ。

それでね、レジを済ませて帰る時、海の写真を見るのも楽しみで、写真、どれも全部好きだったなぁ。

毎週写真が変わるでしょう? だから一週間で目に焼き付けておかないと、って、そうして通ってるうちに、七海さんの笑顔にもすっかり恋してた。以上! 今度は春香ちゃんの番だよ」

「うん、なんか素適なお兄さんが出来たみたいで嬉しい」

 春香はそう言いながら一人用のソファーに座った。

「僕も、可愛い妹が出来たみたいで嬉しいよ。僕は初めて会った時からそう思ってたけど、 

不良の時ってどうだったのか、一度だけでも見ておきたかったなぁ」

「あっ、やめてくださいよ。恥ずかしい。

 でもね、今だからそんなふうに思うけど、あの時は恥ずかしいとか、何も思わなくて、ただ母を私から取り上げようとする社長さんが憎くて、そしてそれ以上に、恋をした母がいやらしく思えて、私、ただただ拗ねてて、なんだか今思うと自分のこと大馬鹿だと思うけど、ああいう時って、誰が何を言っても駄目なもんですね」

「そうです。焼け石に水どころか、下手したら火に油を注ぐことになる」

「ですよね。やっぱ大輝さんは大人だなぁ。大輝さんはお父さんのこといやらしいなんて思わなかったの?」

「僕は大人だもの」

 春香と大輝は顔を見合わせて笑った。

「それにね、親父のことを好きだといって面倒見てくれる人がいるなんて、願っても無いことでしょう? そうじゃないと、僕のお嫁さんが面倒見なきゃいけなくなるじゃない。

 春香ちゃんだって、好きな人が出来ていずれお嫁に行くんでしょう? 

そんな時、お母さんを一人残して行くのは辛いでしょう? 連れて行くのも、お婿さん貰って一緒に暮らすのも大変でしょう? 結婚してくれたらどんなに精神的に楽になるか、って思わない?」

「ほんとうだね。私、数学得意なのにそこまで計算できなかった。大輝さん年の功だね」

「うん。そうだけど、年の功、ってなんだかすごくおじさんって言われた感じ」

 春香は笑いながら拝むように手を合わせた。

「私ね、不良やったり、不良をやめて思ったんだ。

 世の中って真面目なかっこうしてると渡りやすいなぁって、不良やってると、不良って目で見られる。当然だけどね。

 真面目にしてると回りの目が優しい。

 それと、不良の中に入ってみると、ほとんどの子は、本当は優しくていい子なの。

 私のあの時みたいに、何かしら家族とか彼氏に不満があって、憂さ晴らしみたいな感じの人が多い。 

あと、ただ不良の格好をしてみたいだけの人もいた。

 私ね、その中で人望あったのよ。って変なことでえばるな。って思うでしょう? でもね、私が不良やめたら、何人もの人がやめて真面目になっちゃったんだよ。それってすごくない?」

「うん、すごい」

「なんかなぁ〜 今、無理やり同意したでしょう?」

「いや、何でかな? って思って、春香ちゃん成績いいんでしょう?」

「あの、自分で言うのもなんだけど」

「それだね。カリスマ性あるんじゃない?」

「そうかもしれない。私、数学だけは一番でいたいの。数学の先生が担任だから、一番とって褒められたいし、教師を好きになるって一番を取る早道だね」

「ん? そっか、春香ちゃんは数学の先生が好きなんだ。どんな先生?」

「七海さんの弟」

「マジで? いやぁ、今日はもう驚かされてばかりで気が狂いそうだよ」

「うわっ、言っちゃった。なんだか大輝さんには何でも言えちゃって、もう本当のお兄さんになって欲しい」

「それって親父と春香ちゃんのお母さんの結婚を認めるってことだよ。いいの?」

「うん、今はもう祝福してあげたいと思ってる。だって、お嫁に行く時連れて行きたくないもの」

 春香と大輝が大きな声で笑っているところに七海が入ってきた。

「うわっ盛り上がってるね。お待たせ。ワイン開ける? 大輝さん車じゃないですよね」

「車だけど駐車場に置かせてください。明日取りに来ます。折角だから飲みたいです」

「春香ちゃんは」

「あっ、私は野菜ジュース。これってワイングラスに入れるとなかなか雰囲気いいでしょう?」

 春香は赤い野菜ジュースを自分のグラスに注いだ。

 七海がワインを開けて二個のグラスに注ぎ、三人で乾杯した。

「七海さんの弟さんもここに呼ぶわけには行かないんだよね」

「うん。教師と生徒だからね。ここが俊介の姉の家だってばれたら今は困るし」

「そうなのよ。私も友達に親戚の家だって言ってるから」

「うわ、春香ちゃん調子いいなぁ。嘘がばれないうちに家に帰ったほうがいいんじゃないの?」

 大輝は真面目な顔で言った。

「そうだね。私が母と仲直りする気になったんだから、そろそろ帰らないといけないね。 

ばれてからじゃ先生に迷惑かけるものね。そう思ったら、焦ってきたわ」

「そっか春香ちゃん帰っちゃうのか。

目出度いことなんだけど、なんか寂しいね。

あの写真が余計にドラマチックに見える。

あれはずっと取り替えないでおこうっと。そうだわ。初めての永久保存版。あれだけは額に入れて飾っておくわ」

 七海は凄く寂しかったが、飲んで話しているうちに、どんどん大輝との距離が縮まり、一緒に写真を撮りに行く約束もしたし、寂しさよりも嬉しい気持ちが膨らんでいった。

 

「じゃ、明日は昼のコーヒーを我慢して、仕事が終ってから車を取りに来て、春香ちゃんを家に送り届けますので、これ車のキー、春香ちゃん、荷物車に積んでおいて」

 大輝はそう言って帰って行った。

 

「春香ちゃん、寂しくなるけど、また遊びに来てね」

「もう、七海さんったら、私だって寂しいです。でも、友達にばれて先生に迷惑かけたら、って思うと、気が気じゃなくて。

 私、大学受かったら先生にアタックしていいかな?」

「あっ、駄目だよ。アタックは俊介にさせたらいいんだよ」

「だって、先生は私のことどう思ってるかわからないもの。

不良やってて、しかも先生のこと警察に呼び出して、きっとしょうがないやつだって思ってるだろうね。私、名誉挽回の為にも、一番とり続ける」

「うん。それはいい事だわ。わかった。俊介のほうからアタックするように伝えておくから安心して」

「駄目ですって七海さん。私が先生のこと好きだってばれたら、先生やりにくいじゃないですか。

卒業式が終るまで、私、片思いでいいです。卒業したら体当たりしますから」

「わかった。じゃ、悪い虫が付かないように見張ってるから」

「あっ、それお願いします。

今でも狙ってる古文の先生とか、家庭科の若い方の先生とかいるし、生徒だってファンがいっぱいいるんだもの。お願いします。  

虫除けだけはたくさんスプレーしておいてください」

「うん。私のほうも、なんか大輝さんの情報とかあったら教えてね。社長に気に入られる方法とか」

「大丈夫ですよ。だって、社長の恋路をじゃましようとした私を更生させて、結婚できるようにしたのは七海さんだもの」

「そう? そう? そこんとこよろしくね」

 七海と春香は最後の夜を惜しむかのように遅くまで話していた。

 

「遅くなってごめん。八時まで商談してて」

「いいのいいの、少しでも遅い方がいいの。別れが辛くて」

 慌てて玄関のブザーを押して入ってきた大輝に七海は本当に寂しそうにそう言った。

 春香も元気がなかった。

 最後の点検に、春香は自分が使わせてもらっていた部屋に入った。

「あの、僕が二人を引き離すんじゃないからね。

それに、近いうちにみんな親戚になるじゃない。あれっ? おれ、何気にプロポーズした? 今の忘れてください」

「えっ? ひどいわ、プロポーズの取り消しなんて。子供に玩具与えて取り返すみたいなこと」

「そんなんじゃないです。ちゃんと、もっとムードあるところでしたいから」

「なんだかね、恋をすると駄目なものね。余計に愛した方が負けって言うけど、こうも傷つきやすくなるのね。

 十年以上も忘れてたから、今、すごく痛かった」

「俺の方こそそんな事言われるなんて、ずっと忘れてた。今、胸がキュッと痛かったよ。

 そうだ、七海さんも送って行こうよ。

 春香ちゃんちに行くのは僕も初めてだし、そして帰りにデートしよう。そうだ。そうしよう」

「いいの?」

 七海は急に明るい声になって言った。

「さて、春香ちゃん行くよ」

 大輝が声をかけると、春香が目を赤くして部屋から出てきた。

 七海は春香の肩に手を置いた。

「春香ちゃん、泣かないで。私も貰い泣きしちゃうよ」

「うん、ごめん、大丈夫よ。だって、近いうちにみんな親戚だもの」

 春香は泣き笑いしながら靴を履いた。

 

「ただいま」

 春香が照れくさそうに、出迎えた明子に言った。

 明子は春香を強く抱きしめた

「お母さん、ごめんなさい」

「ううん、母さんこそ、もう少し春香の気持ちをわかってあげればよかった」

「違うよ。私が悪かったの。ごめんね。不良やってた分、取り返すから。お母さんのいい娘やって、お嫁に出すから」

「まぁ、春香ったら」

 明子は涙でぐしょぐしょになりながら笑った。

「あっ、ごめんなさい。

七海さん、なんてお礼を言っていいか、本当にありがとうございました。

くれぐれも、先生によろしくお伝え下さい。改めてちゃんと御礼にお伺いしますので」

「あっ、お礼なんて、もう十分です。

 私、春香ちゃんにはすごく助けていただいて、モデルをしてもらったし、家事もまかせっきりで、本当は手放したくなかったくらいなんです」

「そう言っていただくと凄く嬉しいですけど、先生には本当にお世話をかけっぱなしだったし、あらためて、」

「あっ、大丈夫です。私からよく伝えておきますから、ほんっと気にしないで下さい」

 大輝は笑って聞いていた。

「大輝さんも、本当にいろいろありがとう」

 三人で話しているうちに、春香がお茶をいれてきた。

「キッチンに置いてあるケーキは?」

 春香が明子に聞いた。

「うん、社長が春香にって」

「じゃ、今みんなに出しますね。

 コーヒーの方が良かったね。今コーヒーも落としますから、

私、ここのケーキ、大好きなの。特にこのフルーツがたっぷりのが好き。なんで社長さんは知ってたのかな?」

春香がコーヒーを落としながら言った。

「あんたがクリスマスイブの食事会でデザートを食べながら言ったそうよ。

母さんはちっとも気が付かなかったけど」

「そうなんだ、社長さんに、お母さんをよろしく、って言わなきゃね。メールしようかな? 社長さんとメル友になろうかな?」

「なんか、涙もろくなってしまったわ。それにしても、こんなに普通になって帰ってくるなんて」

「そっか、私が家を出た時不良だったんだものね、あはは、お母さん驚いた?」

「先生から聞いてたけど、驚いたわよ。

でも、驚いた以上に嬉しくて」

「ん? 先生から? なんて? 先生私のことなんて言ってたの?」

「お母さん、心配要りません。もう不良じゃないですよ。あとのことは姉に任せて下さい、って」

「なぁんだ、それだけかぁ、それじゃ普通の先生と父兄の会話じゃん」

「そりゃそうでしょう? 春香ったら、何を期待してたの?」

 明子が笑うと、春香の気持ちを知っている七海と大輝はもっと笑った。

「このケーキ、ほんっと美味しいわ」

 七海がスポンジも味わうように食べながら言った。

「うん美味しいよね。でも、七海さんの手作りケーキ、もっと美味しいよ」

「あれっ? ランチだけじゃなくケーキも美味しいの? 今度ケーキセットにしてみようかな?」

 大輝は嬉しそうに言って七海を見た。

 目が合った途端、七海は恥ずかしそうに目を伏せた。

「じゃ、僕達はそろそろこれで」

「七海さん、ほんとにありがとうございました」

 春香が深々と頭を下げて言った。

 明子も何度も頭を下げてお礼を言った。

 

「お母さん、風呂に入っていい?」

「そうね、疲れたでしょう? ゆっくり入って」

「うん、あっケーキの皿洗ってから入るわ」

「いいから、これくらい母さんが洗っとくから、はやくお風呂に入りなさい」

「うん」

 なんでもない会話が、凄く嬉しかった。

 ぎこちなかった会話がどんどんスムーズになっていく。

 湯船に浸かり、へりにタオルを置いて頭を乗せた。

 思い出したくないような不良の日々だったが、その間の心の変化を思い起こした。

『決して無駄では無かった。あの時の全部があって今がある。みんなの話を素直に聞けるようになったのは、一旦噴火させたからだ』

 春香はそう思ったら、叫びたいほど嬉しかった。

 風呂から上がっても、機嫌がいいのが見て取れて、明子に何度も笑われた。

 

大輝と七海は、車を置く為に、とりあえず大輝の家に向かった。

 七海の家からは坂を下れば着く、というくらい、大輝の家も、春香のマンションも近かった。それでも歩いたら結構な距離だが。。

「ちょっと家に上がりませんか? カメラの部屋を見せたい」

「えっ? いいんですか? 見たいです」

「どうぞどうぞ、あっ、でも、掃除してないから、そこんとこ、ちょっと目を瞑ってください」

「はい、そこんとこ見ないでおきます」

 あまり世帯数が多くない高級感が漂うマンションだった。

 部屋の中は、大輝が言った言葉とは裏腹に、男性の一人暮らしとは思えないくらい綺麗だった。

 掃除が行き届いてるというわけじゃなく、ゴチャゴチャ物がなくて、必要最小限の洗練された家具だけがある。そんな感じだった。

 一人暮らしにしてはずいぶん広いので、よけいにそう感じたのかもしれない。

「こっちです、どうぞ」

 大輝は写真の部屋にライトを点けると、七海に手招きした。

「うわっ、これ全部大輝さんの? これ全部使うんですか? 一番使うのはどれですか?  

あの、この部屋の写真は全部大輝さんが撮ったの?」

「えっと、これは全部僕の機材です。

 全部は使いません。どんどん買い換えて、それでも前のが捨てられなくて、コレクションみたいになってますね。

 だから使うのはやっぱり一番新しいやつ。

 で、写真は全部僕が撮ったやつです」

 いっぺんに聞かれた質問にしっかり順を追って答えてくれた大輝を、七海は益々好きになった。

 七海は部屋中に飾られた海の写真に見惚れていた。

「すごい。額に入ったのは全部受賞作品なんですね。で、ピンナップのは? ピンを刺すのが勿体無いくらい素晴らしい作品ばかり」

「最初はね、何もかも額に入れたら、部屋が堅苦しくて、ピンナップにしたのは七海さんの影響ですよ」

「えっ? そうなんですか?」

「はい。あの感じが素適で、真似してみたけどあんなふうにお洒落にならなかった。部屋も固いしね。写真も固い」

「固いんじゃなくて、男性的なんだわ。

写真にも力強さを感じます。この感じ、好きです」

「僕も、七海さんの写真や飾り方に女性らしさを感じたんですよ。

 絶対に自分には出来ない表現。すごく憧れてたんですよ。だから日参した。それに、七海さんにも憧れてたし」

 七海は大輝の話すことを嬉しそうに聞いていたが、大輝の写真の一枚づつに、それぞれドラマを感じながら、遠くをみるようにしてゆっくり見ていた。

「七海さんの写真には映画のような綺麗な物語が見えるけど、僕の写真には何が見えるんですか? 七海さん凄く丁寧に見てくれてるから」

「大輝さんの写真には男の浪漫が感じられます。すごく憧れます」

「そうか、お互いに作品に憧れられるってすばらしいことだよね。

作者にはもっと惹かれてるけど、さて、出かける? それともそっちの部屋で飲みますか?」

「なんだか写真部屋で感動しすぎて、出かけるのが億劫になってきちゃった」

「じゃ、ビールしかないから、待ってて。コンビニで買ってくる。

缶チューハイとか、カクテルとか、寿司とかつまみも適当に買ってくるね。

あっ好きなCDとか聞いてて」

 大輝はコンポのほうを指差して急いで出て行った。

 七海は思い出したように携帯を取り出し、俊介にメールを打った。

『春香ちゃんを親元に帰してきました。これでもう何も心配要らないから。私は今、大輝さん(春香ちゃんのお兄さんになる人)の家におじゃましてるの。ルン♪ 七海』

 送信して、携帯をバックにしまいこむと、おもむろにCDを選んだ。

『ずいぶんたくさんあるなぁ』と思いながら見ていると、中に紛れて『マイベスト』とマジックで書かれたMDがあった。

 大輝が選んだベストってどういうのかな? 

と興味が湧いてそれをセットした。

 聞いたことの無い曲だったが、曲調が凄く好きだった。

 大輝が両手に大きな袋を提げて入ってくるなり

「えっ? 僕のベスト?」

 と言って笑いながら、買って来た缶チューハイやつまみをテーフルに広げた。

 座り心地の良さそうな白の三人かけのソファーと、一人用のソファー。そしてずいぶん大きなガラス張りの洒落たローテーブルが置いてある。

「好きなの開けて」

 大輝は大皿と、グラスを二個持って来て言った。

「じゃ、このカクテル」

「じゃ、僕はこのチューハイ、乾杯ね」

 七海は嬉しそうに一口飲むと、大皿につまみを袋から出して並べた。

「幸せだなぁ、このままこうして七海さんと暮らしてしまいたい気分だ」

 大輝は本当にリラックスしてそう言った。

 七海も同じ気持ちでいた。

 曲が変わっても、全部七海が好きな曲調で、七海はこのMDを欲しくなってしまった。

「いい曲ばかりだけど、全部初めて聞く曲」

「でしょう? これ全部カップリング曲ばかり。時々レンタルで借りてきてダビングするんだけど、カップリングの方が好きな曲だったりする。

 そればっかり集めたMDも自分だけの宝物みたいでいいでしょう?」

「いい。すごくいい。でもMDからMDってダビングできないですよね」

「いいよ持っていっても。お嫁に来る時持って来て」

「あっごめん、また言っちゃった」

「だから、謝らないで。せっかく嬉しくなるのに、謝られるたびに悲しくなっちゃう」

「じゃ、ちゃんと言わせて。七海さん、外見て」

 大輝はカーテンを開いて七海を窓辺に立たせて肩に手を置いた。

「ここも海が見えるんだ。近いでしょう?

そしてね、このままず〜〜っとズームアウトしていくと、七海さんの喫茶店からの景色になる」

 目の前の暗い海。大輝の優しい素適な言葉と声。七海は感動して胸が震えた。

 

「七海さん、僕はこれ以上愛せる女性がこの先現れるとは絶対に思えない。

 もちろん今まで出会った誰よりも七海さんが好きだ。

 結婚して欲しい。僕と、結婚して欲しい」

 七海は振り返らずに言った。

「私も、これ以上愛せる人がこれから先絶対に現れないと思う。

今まで出会った誰よりも好き。私と結婚してください」

 大輝は七海を自分の方にふり向かせた。

 そっと抱きしめて口づけをした。コンポからは相変わらず短調の綺麗な曲が流れていた。

 大輝は次第に強く抱きしめ、何度も口づけをした。

「返したくないな。でも、明日もお互い仕事があるしね。駄目な物だな。欲張りになる。

ずっと一緒にいたいって思ってしまう。

明日から七海さんの喫茶店には仕事が終ってから行くことにする」

「うん。そうして。そしたら貸し切りよ。

 駄目なものね。私も、毎日昼の三十分くらい同じ空間にいるだけで満足してたのに」

 七海はバックを手に持った。

「送っていくよ」

 大輝はそう言いながら、コンポからMDをとり出して七海に手渡した。

 七海は大切そうに受け取るとバックにそっとしまいこんだ。

「送り狼になっちゃいそうだ」

 大輝は七海の手を引いて坂を登りながら言った。

「うん、家まで送られたら中に引きこんじゃいそう。ねぇ、真ん中でバイバイしようよ」

「うん。真ん中よりはすこし上で。じゃないと、七海さんは登りだからゆっくりでしょう? 僕は下りだから早いよ。同じくらいに家に着くようにしよう」

「うん。大輝さんって少年みたい」

「七海さんも少女みたいだよ」

「ねぇ、おばあさんになっても、ってあの気持ち、今すごく良くわかる」

「うん。もちろんだよ。僕は描いてるよ。

子育てを終えた七海おばあちゃんと、大輝爺ちゃんが、カメラを持って旅をして、全国の海の写真を撮って、ずっとずっと仲良く写真談議をしながら暮らすって。

 それからね、七海さんとこは坂を登るのが大変だから僕のところで暮らして、あそこは景色がすばらしいから別荘にして、車で行けばいいなんてね」

「えっ? そこまで考えたんですか? それ可笑しいけど、いいですね」

 七海と大輝は笑って

「じゃ、また明日」

 と言って坂の途中で別れた。

 

 

  ***実らぬ恋***

 七海の部屋に明かりが点いていた。

『あら、舞い上がって電気点けっぱなしだったかな?』

 七海はそう思いながら部屋に入ると、俊介が居間のソファーに寝ていた。

 俊介は、物音で目を覚ますと、

「ただいまのお帰りですか? 姉貴はいいよなぁ自由な恋が出来て。先生なんてなるんじゃなかった」

 そう言いながら起き上がった。

「俊介、飲んでるの? 何をふて腐れてるのよ。春香ちゃんのことも片付いて、あんただって良かったじゃない。

あのさ、ひょっとして、寂しいわけ? そりゃあ私だって寂しかったよ。でも、彼氏できたし、結婚申し込まれて即返事したし」

 七海は自慢げに言った。

「なんだよ。一日二日で結婚決めていいのかよ。俺なんて、これからまだ一年半も待たないと結婚も申し込めないし、あいつはそれから大学生だ。

 おれ、迫られてる家庭科の先生と付き合っちゃおうかな?」

「あの、さっきから聞いてると、俊介あんた春香ちゃんのこと好きなの? いつから? 参ったな。

私、あんたの気持ち知らなくて、からかって、挑発するようなことばかりメールで言って。私がけしかけたからでしょう?」

「違うよ。姉貴のとこから登校した一日目、一目惚れしたんだ」

「それ、先に言ってくれなきゃ。やっぱまずいでしょう? 教師と生徒の場合、春香ちゃんはいいんだよ。先生に憧れる女子高生は、世の中に溢れるほどたくさんいる。

 でも、先生が教え子を好きになったら問題になるのが世の常。

 春香ちゃんは俊介のことが好きだから、あんたは凛としててよ。

卒業さえしたら、大学生になったら、学生結婚だっていいじゃない」

「姉貴、甘いよ。春香は不良やめたとたんにモテモテなんだ。

だけど、ここにいて、春香の母親にお願いされてた時はなんとなく安心してたんだ」

「俊介、辛いところだけど、ここが我慢のしどころだよ」

「姉貴は自分が上手くいったからって、俺の事なんてどうでもいいんだろ」

「何言ってんの、どうでもいいんだったら好きにさせるわよ。勝手に付き合えばいい。でも、そのあとのこと考えてみて」

「言わなくていい。わかってる。普通に、平静を装ってるのが一番。

 担任として、姉貴、この度はありがとうございました。おかげで不良が一日で変身して真面目な学生になりました。母親からも御礼の電話が来ました。じゃ、帰る」

「私も飲んだから車で送って行けないけど、あんた、泊まって行けば? 母さんに電話してあげるよ」

「うん助かる。なんか疲れちゃって。おやすみ」

「まって、シーツとか、って、あらま、流石ねぇ、春香ちゃん全部洗って、乾燥機で乾かして行ったんだ」

 七海は感心しながら、綺麗にたたんであるシーツやカバーを被せて、枕にカバーをかけて更にタオルをのせた。

「ありがとう。風呂は朝帰ってからでいいや、おやすみ」

 俊介はよほど疲れていたと見えて布団に入るなり眠りに落ちた。

「あっ、母さん、俊介が家に来て、飲んで寝ちゃったから、今夜泊めるから、朝起きたらすぐ返すから、朝ご飯お願いね」

 七海は最近春香にまかせっきりで、家で炊事をしていなかったので、俊介に食べさせる為の朝食の用意はすごく億劫だったのだ。

 

「起きて! 早く帰らないと学校遅れるよ」

 七海はまるで子供にでも言うようにして俊介を起こした。

「それからこれ、春香ちゃんのパソコンのメールアドレス。携帯の方は教えない。

だってね、携帯落としたり、友達に見られたりした時、あんたのメールとか残ってたらヤバイでしょう? これもね、単におまじないね」

「サンキュー、姉貴。俺、昨日なんか迷惑かけた?」

「かけたかけた、なんだかいろいろ言ってたよ」

「悪い! 全部リセットして」

「はいリセットね。じゃ、先生頑張ってね」

「うん、じゃ」

 俊介はニッコリ笑顔を向けて、七海が出してくれた水を飲んで家に帰って行った。

 

「ただいま、今、学校に行く準備してくる」

 俊介は二階にある自分の部屋の、机の引き出しにメモを入れると、シャワーを浴びて着替えてきた。

 いつも通り、父の浩と母の涼子と俊介で美味しく朝食を食べた。

 

 俊介は、登校すると気が引き締まり、

『うん、大丈夫だ』

と、自分に気合を入れた。

相変わらず家庭科の教師は熱い視線を送ってくる。それを別に嫌だとも思わない。

俊介は自分に余裕を感じていた。

春香も他の生徒となんら変わることなく、休み時間も楽しそうにしていた。

 

俊介は、夕食を済ませて自分の部屋に入ると、パソコンにスイッチを入れた。

引き出しを開けて、七海から受け取ったメモを見ながらアドレス帳に登録した。

俊介はそれだけで満足だった。

『別れたわけじゃない。第一付き合ったわけでもない。

それに、自分のクラスの生徒であることに変わりはない。

昨日は、急に春香がマンションに帰ったから気が動転していただけだ。

教師なんだから、まずそのことを優先しよう。そしたらおのずと答えは見えてくる』

そんなことを考えているやけに冷静な自分を、もう一人の自分が褒めていた。

 

春香は勉強を頑張って俊介に褒められたい。家事を頑張って、明子に喜んでもらいたい。

そう思うと、毎日の生活に張りが持てた。

「僕と付き合ってくれませんか?」

 何人に言われただろう? 

「ごめんなさい。好きな人がいるんで、本当にごめんなさい」

 何度同じ返事をしただろう。その度に春香は気が咎め、心が痛んだ。

 

 

  ***新しい恋***

春香は中学でやっていたテニスを、しばらくやめていたが、週に一度だけ夜間のスクールに通いだした。

学校では華道部に所属しているが、ずっと幽霊部員だった。

 顔を出してみよう、と、久々に覗いてみると、顧問の先生が手招きした。

「まぁ、春香さん、ちっとも出席してくれなくて、

 まっ、あの格好じゃ、歓迎はしていなかったけど、あなたの才能が惜しくてね」

 先生は笑って言った。

 春香は、明子に教わって、生け花は相当の自信があった。

「先生、来週から来ていいですか?」

「もちろんよ。じゃ、来週の申し込み、ノートに書いて行って」

 春香は教材の花の申し込みノートに名前を書いて教室から出た。

 丁度通りかかった隣のクラスの山口一樹と目が合った。

「おい、春香、ちょっといい?」

「一樹君」

「帰れるのか? 一緒に帰ろう」

 そう言われて、春香は断わる理由も無いので一緒に帰ることにした。

 一樹とは、春香が不良をしている時に時々ゲーセンで話したことがあるが、成績も優秀なスポーツマンだ。

一樹は時々ゲームをやりたくなって、ゲーセンに行くのだが、不良仲間でも一樹に勝てる相手はいなかったので、誰もが一目置いていた。

「春香、不良やめたんだね。一夜にして別人だもの、流石の俺も驚いたよ」

「でしょう? どう?」

「どうって? いや、綺麗で爽やかでいいんじゃない?」

 一樹は笑って言った。

「ところで提案だけど、あのさ、俺達付き合ってることにしない? その方がお互い便利じゃない?

春香、交際申し込まれて困ってるだろ。

断わる時、好きな人いるからって、あれ通用しなくない? 実は俺も困ってる。」

「あっ、それわかるわかる。一樹君、モテモテなのに、女性に冷たいって言われてるよ」

 校門を出て坂を少しだけ下り、まだ新しい公園のベンチに、どちらからとも無く腰をかけた。

「俺達、仲間になろうよ。

 付き合ってることにして、たまにこうして一緒に帰ればいいわけだし」

「あのさ、一樹君はなんでみんな断わっちゃうの? 好きな人いるの?」

「仲間になるんじゃ言わないわけにいかないよな。

 俺んちの二階、親父が経営してるダンス教室なんだ。

 で、高齢のおじさんやおばさんがいっぱい来るんだけど、先生が、親父のほかに、若い女性を一人頼んでるのね。

 で、中学の時から、面白いから覗くと、その女性に「おいで」って呼ばれて、踊らされて、なんかドキドキして、悪いことしてる気になるんだけど、はまった」

 春香は噴出した。

「おい、そんなデカイ声で笑うな」

「だって、可愛いって言うか、おかしいんだもの」

「先を聞きたくないのか?」

「聞きたいっ」

 一樹は笑って続けた。

「で、その女性を好きだとかじゃなかったんだけど、ダンスの世界にはまったんだ。

 ダンス教室が終るころ覗くと、ただで指導してくれる。

『若いから驚くほど飲み込み早くて、こっちも嬉しいわ。早く私のパートナーになってくれたらいいなぁ』

 彼女にそう言われて、何しろ自分ちなんだから、練習し放題でしょう? 

 おまけに俺って、何やってもセンスいいじゃん?」

 春香はまた大声で笑った。

「笑うなって。先を聞きたくないのか?」

「聞きたいっ」

 一樹は笑いながらまた話し始めた。

「それでね、大学生になったらバイトも出来るんだって。

 おばさん達の相手だけど、ホストじゃないけど、美味しい仕事らしい」

「ふ〜ん。なんか、一樹君に合ってる感じがする」

「だろ? 俺も合ってる気がするんだ。

 それよりね、彼女が言うには、俺、相当なレベルらしい。

 若いからジャズダンスとかのほうがカッコイイと思うけど、あれはもう飽和状態で競争が激しくて、俺、おばさんたちにチヤホヤされるの嫌いじゃないし、あっ、くどくど言ってないで白状するけど、

 俺今、九歳年上のその先生と一緒に踊ってるのが最高に幸せなわけ。これって恋?」

「うん恋だね。わかったわ。協力する」

 春香は一樹を下から見上げるように、にやっと笑った。

「なんだよ。お前さ、数学教師っていうか、自分の担任が好きなんだろ?」

「えっ? なんで?」

「図星だろ? 大丈夫。誰にも言わないし、幸い誰にもばれてない」

「何でわかったの?」

「俺、大人だからカンいいし、っていうか、春香が警察から近藤先生の後ろについて出てきたとこ見たんだ。

 そしたら次の日、今の格好。マジビックリって感じだったよ。

 普通ありえないでしょう?

 一夜にして変身させた、いや変身したのか、その辺の事情はわからないけど、

 あれは恋のマジック、って思ったのさ」

「そっか、そうだったんだ。

 実は、先生のお姉さんの家に連れて行かれて、私、魔法にかかったみたいに一瞬で素直になってたの。

 不良するのに疲れてたのかな? なんて思ったけど、だよね、恋しかありえないよね。

 自分でもわからなかったんだ。ありがとうね。なんかすっきり」

「まぁ、自分の精神分析は、他人にしてもらった方が当たるかもしれないからね。

 兎に角、そういうことで、よろしく」

「うん、これで私も『付き合ってる人いるから』って断われるし、便利かも」

「近藤先生もてるし、古文と家庭科も狙ってるし、保険も狙ってるらしいぞ。頑張れよ。

 って言ってもなぁ、とりあえず、俺に負けないように一番とってりゃ、お前可愛いし、先生に気に入られるだろ。卒業するまではその線で行けば?」

「うん、そうだね。なんか力湧いてきた」

「おれも、お前から一番奪おうかな? なんかファイト沸いてきた」

「負けないわ」

「俺もちょっと本気出そうかな?」

「あら、こんな時間になっちゃった。今日は買い物しないで、あるもので作ろうっと」

「ごめん、遅くまで付き合わせてしまった」

「どういたしまして。楽しかったし、いい話で嬉しいよ。じゃね」

 春香と一樹の家は逆方向なので、手を振って別れた。

 春香は、もう声をかけられても堂々と断われると思ったら、心の霧が晴れたように爽やかな気分になった。

 

「春香、隣りのクラスの山口一樹と付き合ってるってほんと?」

 優子がちょっと羨ましそうに聞いてきた。

「ん? もうそんな噂が?」

「嘘なの? 噂だけ? そうだよねぇ」

「いや、実はほんと」

 春香は昨日のデートが凄く楽しかったし、

一樹と付き合っていると言われるのは嫌じゃなかった。

「それ、マジ? あぁ春香相手じゃ叶うわけないし、ベストカップルって感じだしなぁ」

 愛も少しがっかりした様子で、かったるそうに笑いながら言った。

 

 二人が交際しているという噂は、すぐに広まり、俊介の耳にも入った。

俊介は、相手が一樹ならしょうがないと思った。

『俺は春香が変身してから好きになった。

しかし、一樹は春香が不良の時から一緒にいたのを何度か見た。

考えてみたらその時から付き合っていたのかも知れない。

山口は非の打ち所が無い生徒だ。

春香が幸せなら喜んであげるべきだ』

俊介はそう思った。

 

家庭科教師で二十六歳の桃井由香子が、麻のブルーの生地で涼しげな椅子用の座布団を作って持って来た。

「近藤先生、良かったら、これ使ってください。涼しいんですよ。クールビズです」

 笑顔でそう言うと俊介の椅子の上に座布団を置いた。

 俊介は、『真夏に座布団?』と思ったが、これが以外にもサラッとして、敷いた方が涼しかった。

「あっ、これ、具合がいいや。ありがとう」

 俊介が笑顔でそういうと、由香子は本当に嬉しそうに、やった! というジェスチャーをして、俊介は笑ってしまった。

 俊介は、自分に気があると、もろに感じる女性教師が三人いたが、中では家庭科の由香子のことが顔も性格も一番気に入っていた。

 

 俊介は寝ようと思ったが、ベットの中から携帯で七海に電話をした。

「俊介? どうした?」

「驚いた声出すなよ」

「だって、心配してたし」

「心配無用だよ。一応言っておこうと思って電話したんだけど、春香は隣りのクラスの子と付き合い始めた。っていうか、前から付き合っていたのかもしれない。

 彼なら成績優秀、スポーツ万能、お奨めだし、妙に大人な所がある。

 不思議にあまりショックじゃなかった。っていうか、むしろホッとしたかもしれない。

 だって、これから好きな気持ちずっと抑えていくことを思ったら、スッキリしたというか。やっぱ、教師と生徒は面倒だよ」

「俊介の気持ちがそれでいいなら、そのほうがいいよ。やっぱり教え子っていろいろ面倒だし、

 それであんたは? 寂しくないの?」

「うん、家庭科の教師に迫られて、悪い気がしない。

 春香が変身しなければ、俺は全く春香のことは眼中に無くて、その教師と付き合ってたと思うし」

「そうなんだ。なんか四方丸く納まった感じだね」

「そういうこと。姉貴もこれで安心して自分の恋に専念できるだろ? 俺もちょっといい弟だろ?」

「あんたには立派な教師になってほしいから、本音を言うとすごく安心した」

「その割りにずいぶん宮川春香のこと、メールで褒めまくって俺をそそのかしたよね」

「ごめん、あとですごく後悔したの。悪かったと思ってる」

「別にいいよ。謝らなくたって、結構ワクワクしたし。じゃ、オヤスミ」

 俊介は笑って言って電話を切った。

 

『春香は俊介が春香を好きだということを知らないし、俊介も、春香が俊介を好きだということを知らないのだから、私さえ何も言わなければ、二人はそれぞれ世間体のいい交際が出来る』

 七海はそう思って、自分もそのことを忘れることにした。

 

 山口一樹と春香は、時々一緒に帰っていた。

 デートはいつものベンチで少し話すだけだが、それがお互いに結構楽しみになっていた。

 試験の度のデットヒートが楽しくて、まるでゲーム感覚で勉強をしているうちに、二人の成績が飛びぬけてきた。

「切磋琢磨、って感じで、俺達羨望の的だし、春香は大学どうする?

 おれ、札幌のH大に行こうかな? なんて考えはじめてる」

「えっ? 考えてもみなかったけど、だよね。私も考えてみようかな? でも、一樹君、九歳年上の彼女は?」

「ルール違反っておこんなよ。気にしないで聞き流してくれたらいいんだけど、最近、ダンスより勉強に精出して、何でだろ? って考えて、俺、春香に気があるんじゃないかって自分を疑ってるとこ」

「あっ、ルール違反だよ」

「うん。だから、おこんなよ、って」

「怒んないよ。っていうか、怒れない。

 私も今、札幌の大学、なんて聞いたら凄く寂しくなって、私も行こうかな? って思ったもの」

「マジ? 近藤先生は?」

「憧れてはいるんだけど、一樹君といると妙に落ち着くし、後ろ指指されない恋っていいなぁ、って」

「呼び捨てでいいよ」

「そう? 私、やってみたかったんだ呼び捨て。『一樹』うふっ、なんかいいね。

 早速だけど、一樹、分析してほしいんだけど、私、一樹のこと好きなのかな?」

「おいっ! そんなこと俺に分析させるな。なんて答えりゃいいんだ?」

「だよね、自分で考えるよ。札幌の大学も考えとく」

「うん。なんか、『嘘から出た誠』みたいになってきたね」

「うんなってきたね」

 一樹と春香はそんな会話が楽しくてしょうがなかった。

 

 春香は家に帰ると夕食の支度をしながら。一樹が札幌の大学に行くと言ったときの、自分が受けた衝撃の原因を考えていた。

『私、兎に角ショックだった。

 すぐに、一緒に行くことを考えたくらいなのだから、、、

 今でも先生のことは信頼してるし、憧れの対象だということに変わりは無い。

 だけど、最近考えているのは一樹のことばかりのような気がする。

 先生に認められるように頑張っていたはずの勉強だったけど、今は完全に一樹とのゲームの為にやっている気がする。

 一樹の彼女のことが最近気になりだした。

 だけど、今日、ダンスより勉強って、それって、彼女より私ってことじゃないかな?

 私ももうとっくに一樹を好きになってる』

 

 明子が帰ってきて、二人で食事をしている時に大学のことを切り出してみた。

「お母さん、私、成績がどんどん上がって、勉強嫌いじゃないみたいだし、札幌の国立大学に行こうかな? と思って」

「そうだね」

「あれっ? 驚かないの?」

「うん。成績良すぎて勿体無いって、母さんも思っていたんだ」

「そうなの? でも、お金かかるしね」

 明子は立ち上がると箪笥の引き出しから通帳を持って来た。

「これ、春香の通帳」

 通帳を開いた春香の目がまん丸になった。

「お母さん、ありがとう。行っていいの? 札幌の大学に行っていいの?」

 春香は明子の背中から腕を回して抱きついた。

 明子も、春香の父親から貰った通帳に、コツコツ足して増やしておいて、それを見た春香がこんなに素直に喜んでくれて本当に嬉しかった。

 

 高校生活が終ろうとしているころ、春香と一樹は揃って札幌のH大学に合格した。

 

 卒業式の日、俊介から卒業証書を渡されると、目が潤んだ。

「札幌に行っても頑張れよ」

 俊介が肩を叩いてエールを送ってくれた。

 一樹と一緒に校門を出ると、後輩達が

「先輩、卒業おめでとうございます。先輩を目標に頑張ります」

と、握手を求めてきた。笑顔で応じて、それからいつもの公園に立ち寄って、いつもの椅子に一樹と並んで腰掛けた。

「卒業したね。ありがとうね一樹」

「何で俺にお礼言うんだ? なら俺も、ありがとう春香」

 一樹は笑って言った。

「先生との恋だとか、問題起こさないで卒業できたのも、成績上げられたのも、全部一樹のおかげだもの」

「担任の力もあるだろ?」

「近藤先生には勝手に憧れて迷惑かけたし、感謝してる。けど、あの時一樹が声かけてくれなかったら、こんなに頑張れなかったし、今、一番離れたくないのは一樹だし」

「そっか、そういってくれてありがとう。俺もだよ。今一番好きなのは春香だよ」

「そうだ、七海さんの喫茶店に行こうか」

「おっ、先生の姉さんがやってる店だろ?

 一夜で春香を不良から清純な乙女に変身させた人、見てみたかったんだ」

 二人はさらに坂を登って喫茶店に入った。

 写真コーナーに目をやった一樹は、近づいていって、春香が写っている写真を食い入るようにじっと見た。

 

「ケーキセット、私がおごるから」

 春香がそういうと、一樹は右手をかざして

「サンキュ」と言った。

 七海は嬉しそうに笑顔を向け、ケーキセットを運んでくると、

「これじゃぁ俊介も叶わないわ」

 と、一樹を見て微笑んで言った。

「えっ? それはないです」

 一樹は真面目な顔でそう言った。

 本当に印象が良くて、七海は一樹の背後から春香に人差し指と親指で丸を作って合図した。

 春香は嬉しそうに笑顔を返した。

「春香のあの写真、七海さんが撮ったんだろう? すごくいい写真だね。俺、中学の時行ったことあるけど、また行ってみたいな、立待岬」

「うん、札幌に行く前に二人で行こう、

 でもあそこ、冬は通行禁止だし、午後八時から朝六時までも通行止め」

「もう春だろ。それに車両だろ? 歩きなんだから、もし閉まっていたらゲートのわきから入ればいい。

引越しとかの準備もあるし、忙しくなるから、早めにお天気のいい時に行こう」

 春香は嬉しかった。そしてすごく楽しみだった。

 

 春香は自分の部屋に入ると、机の上の教科書など、使わないものをダンボールに詰めてロッカーに入れた。

 大学生になっても使えそうな辞書などはまだ机の上に積んでおいた。

 喉が渇いたので、冷蔵庫からジュースを出して、椅子に座って飲んだ。

 頬杖をつくと、中学を卒業してからの三年間のことが走馬灯のように頭を駆け巡った。

 ひとしきり思い出に浸ると、今度は未来のことで頭がいっぱいになった。

 これまでは、一樹と同じ大学の同じ学部に受かることしか考えていなかった。

 一樹が経済学部を受けたので、自分も経済学部にした。

 今もそれで満足しているし、学校の近くのワンルームマンションを探そうとしていたが、それも当然、一樹と同じマンションにしようと思っていた。

『ずっと一人で、精神的には誰にも頼らないで、何でも自分で決めて生きて来たつもりだったのに、一樹には、最初に呼び止められたあの日からずっと頼っていた気がする。あんがい私の初恋は一樹だったり』

 春香はそう思いながら、ずっと一樹のことを考えていた。

 

 明子は、入籍はしたものの、結婚式も、引越しもせず、春香が帰ってきたときの為にと、マンションはそのままで、自分が管理しておくことに決めていた。

 社長の家とマンションを行ったり来たりの生活になるが、近いので別段不便だとも思っていなかった。

 春香が札幌に行ったら、社長と二人の喫茶店代わりにしようと思っていた。

「品のいいモーテル代わりにしよう」

 と、社長が冗談を言った時は、明子にぶたれて爆笑した、

 

 

  ***立待岬の約束***

『お天気いいね、今日行く?』

 一樹からのメールを見た春香は、嬉しくてすぐに返事を打った。

『行く。待ち合わせは?』

『十字街の電停、一時間後』

『えっと、今十時だから、十一時ね、了解』

 春香は急いでシャワーを浴びて、髪を乾かした。お気に入りのワンピースを着て、薄地のコートを羽織った。

 待ち合わせ場所に向かうと、逆方向から歩いてくる一樹の姿が見えた。二人は電車に乗り、後ろの方の席に並んで座った。

 谷地頭に着くと、立待岬までは、道案内の看板があって、凄くわかりやすい。車で来るのと、歩くのとではずいぶん印象が違う。

「この墓地の中を通って登るのよ」

 春香が、啄木一族の墓や歌碑の説明をしながら坂を登りきると岬に着いた。

「ずいぶん詳しいなぁ。何でそんなに知ってるんだ?」

「七海さんから聞いて、自分でも調べたの」

「そっか、あの写真の場所は?」

「そこから降りるのよ」

「えっ? ここ降りれるんだっけ? 大丈夫なの?」

「大丈夫よ、昔は海水浴場だっららしいよ。ちょっとだけ気をつけてね」

「それにしても絶景だなぁ。下北半島が見えるってのはわかるけど、あの遠くに見えるのは津軽半島だろ?」

「うん、今日はすごい。あの時以上に遠くまで見える」

 春香と一樹は下まで降りて、携帯でお互いの写真を何枚か撮った。

 一樹は携帯の画像を確認して、満足げに微笑んだ。

 春香と一樹は上に戻って、二人用のベンチに腰を掛けた。

「春香。これから俺達は大学生になるんだ」

「うん、当たり前でしょ」

「今までより世界が広がるんだよ」

「うん、それも当たり前」

「目の前の海を見てると、本当に世界が広がって希望が湧いてくる」

「うん、ほんとうだね。でも、一樹が船出しちゃいそうでちょっとびびる」

「そのことだけど、船出はお互い様。なんていうか、まず、それぞれやることがいっぱい。大学に行ったら、サークルに入ったり、俺は札幌のダンススクールのバイトが昨日決まったし」

「そうなんだ」

「春香もサークルの付き合いとか、友達とか、もちろん勉強も大事だし忙しくなると思う」

「なんか、別れ話されてるみたい。悲しくなってきた」

「違うよ。逆だよ。高校から付き合って大学も仲良く過ごして、ゴールインできるカップルってそんなにいないと思うんだ。

 新しい彼や彼女が出来たっていうならしょうがないと思うけど、

殆どが、お互いに好きなのにも関わらず、一緒にいる時間がなくなって、ちゃんと話しあうことが出来なくなって、好きでいることに疲れて、うやむやのまま別れる。わかる気がするんだ。

 結婚ってさ、タイミングなんだよね。七海さんと大輝さん、確か一日か二日で結婚決めたって言ってなかった? そんなものなんだよね。

 何年付き合っても、タイミングがずれると

どんどん歯車が噛み合わなくなって、疑心暗

鬼になって別れることになってしまう。

 いくら好きでも、信じあってるつもりでい

ても、会えなくなると不安が募る。

 いつも側にいてくれる安心できる人が出来たら、しっかりフォローする時間が無い相手より、そっちの方がよくなったりする。

 俺は春香とそうなりたくないんだ。だからと言って、四年間春香を束縛したくもない。

 束縛されるのも困る。

 別れるんじゃなくて、約束しよう。大学を卒業して、俺が社会人になって、仕事が軌道に乗って、時機が来たら結婚してくれ」

 俯いたまま、一樹の言葉の一つ一つを噛みしめるように聞いていた春香が、

「なんか、プロポーズされてる気がしない。

どうして一樹はそんな先のことばかり話すの? 私はもっと自然に一緒にいたい」

 と呟くように言った。

「一生一緒に生きていきたいと思うから言ってるんだ。じゃあいいよ。とりあえず、ベッタリしてていいよ」

「なによその言い方。でも、それでも嬉しいなそのほうが」

「そっか。でも、もしもすれ違ったり、お互い忙しくて会えなくなって、二人の愛に自信が持てなくなったとき、

『会うのが早すぎた』とか、『タイミングが悪かった』って、諦めたりしないで、さっき俺が言ったこと思い出して欲しい。

 そして、絶対に、諦めないで欲しい」

「うん、わかった。待ってたらいつか結婚してくれるのね」

「おい、なんか、この岬にピッタリすぎじゃない?」

「ん? そっか、立待岬にピッタリすぎ?」

 そう言って春香は一樹を見て笑った。

「いい景色だね。ここからの朝日とか夕日は最高だろうね。朝だったら漁に出る船も何隻も見れると思うし」

「夕日はきれいだったよ。朝日は見てみたいけど、六時前でしょう? どうやってここに来るんだっけ?」

「う〜ん、そうだ! ゲート前までタクシーで来ればいいんだ。結婚したら朝日を見に来ようか」

「なんで結婚してからじゃないといけないのかわかんないけど、なんか、それくらい先のことまで約束してくれるほうが今は物凄く嬉しい」

春香と一樹は笑って手をつないで細い道を登った。

「やっぱここでも写真撮らなきゃ」

 一樹と春香はかわるがわる『立待岬』の石碑の隣りに立って写真を撮り、お互いにそれを待ち受け画面にした。

 

 帰りは元町の七海の喫茶店の近くのスパゲティーの店で、ランチを食べた。

「さっきさぁ、電車で終点まで行けたらどんなにいいかと思ったよ」

 一樹はふざけるように明るく言った。

「湯の川? えっ? 温泉に泊まるの?」

「うん、早く三十歳にでもなりてぇ、って思った」

「そっか、そういうことね。もしも私達、せめて二十五歳とかで出会ったのなら、このまま湯の川に行って、電撃結婚してもいいんだものね」

「うん。俺が岬で言ったのは、そういうこと。

大学で好きな人とか出来たら俺に言えよ。俺以上のやつだったら祝福するけど、以下のやつなら待ってるよ。そのうち飽きて俺のところに戻ってくるだろうって」

「私も、今の台詞、そっくり全部返す」

「うん。今日のことお互い忘れないで、明日からも仲良くやって行こう」

「うん『立待岬の約束』ね」

 春香は何よりも、明日からも仲良く、と言ってくれたのが嬉しかった。

 昨日までは、先のことなど何も考えていなかったし、ずっとこのまま一緒にいることしか頭になかったのだから。

 

   新しい生活が始まる・・・

   

    立待岬で約束したけれど・・

第2章に続く

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過ぎ行く季節 『音楽の部屋』様
第一章目次
海の見える喫茶店
教師と教え子
女流カメラマン
あの人
実らぬ恋
新しい恋
立待岬の約束
『函館ソナタ』
原稿用紙からのコピーなので
読みづらいと思いますがご了承下さい
第2章へ
『5周年記念作品』とうことで、力作です(笑)  背景は函館の立待岬。
「まだ終らないで」というリクエストに応え、最終章を書き足した人気の作品。

北海道の『冬ソナ』とまで言っていただけた小説です。

函館の高校、札幌の大学、そして彼は東京へ、春香の恋の行方は?