五重塔本尊奉安



歴史と変遷
 當院五重塔は津軽三代藩主信義公の時世、大圓寺第六世京海和尚の
発願により津軽藩南部藩の分け隔てなく戦乱の死者の菩提を弔う為に
と起工され、津軽四代藩主信政公の時世、大圓寺第七世當海和尚の代
に完成し、その後ご本尊の奉安が行われ入佛開眼供養式(魂入れ)が
勤修された。このような歴史的背景を持つ最勝院五重塔は国指定重要
文化財の指定を受けている。
 もともとこの塔は五重の塔婆であり佛塔という宗教的意味合いを持
つ建造物である。通常佛塔には、中心にご本尊を奉安する。最勝院の
五重塔も建立当初にはご本尊は奉安されていたが、何時の頃からかこ
のご本尊は五重塔に不在となっていた。これは江戸期までの古義真言
宗の大円寺から、明治期以降の新義真言宗の最勝院へと変わりゆく動
乱の時期のことであったのであろう。本尊不在の間は、堂内の須彌壇
には仮のご本尊が安置されていたが決して正式なものではなかった。
戦乱の世に亡くなった人々の菩提を弔うという本懐に沿うべく、供養
の象徴たる本尊を新たに制作し、五重塔への奉安を実行しようという
気運が高まり、ついにこの浄行が行われる事となった。



ご本尊奉安の宗教的意味合い
 新たに制作されたご本尊は胎蔵界大日如来である。五重塔建立当初
のご本尊は金剛界大日如来と伝承されていたが、制作奉安は胎蔵界大
日如来と決定された。それは、当時最勝院本堂には既にご本尊として
金剛界大日如来が祀られていた為である。本堂や金堂に金剛界大日如
来が祀られている場合、佛塔へは胎蔵界大日如来を祀るのが習わしと
なっているのである。この為、最勝院五重塔へは法界定印を結んだ胎
蔵界大日如来を奉安することとなったのである。このご本尊の光背に
は智拳印を結ぶ金剛界大日如来を中心とした五智五佛が配されてい
る。それは、ご本尊胎蔵界大日如来と金剛界五智五佛とで金剛界胎蔵
界の両部の曼荼羅世界を表す為である。そして理法身の胎蔵界大日如
来、智法身の金剛界大日如来が理智一体不二であるという真言教学の
真髄を表しているのである。



津軽へのこだわり
 この胎蔵界大日如来は、次のように津軽に大きなこだわりを持って
制作奉安された。

    @津軽のヒバを使う
    A津軽の彫刻家が彫り上げる
    B津軽の仏師が彩色・截金を施す
    C津軽一円の真言宗寺院住職が魂入れをする

@とAについては、津軽産ヒバを接ぎ合わせる方法をとり、青森市在
住の小西正暉師に依頼し彫刻して頂いた。Bについての彩色及び截金
は弘前市福村出身の仏師で滋賀県大津市在住の渡邊載方師に依頼し
た。特筆すべき事として、衣や蓮台部分の下地の金箔とその上に施す
截金に、金の含有度の違うものを使い、将来的にメリハリのきいた外
観となるようにして頂いた。



三百三十五年ぶりにして
二度目の入佛開眼供養式
 真言宗祖弘法大師のご縁日平成十五年四月二十二日(旧暦三月二十
一日)を大吉祥の日と定め、五重塔へこの新たに制作された胎蔵界大
日如来を奉安し入佛開眼供養式(魂入れ)を勤修することとなった。
 五重塔新築建立時の入佛開眼供養式の勤修は、五重塔が建立された
翌年の寛文八年以来で、実に三百三十五年ぶりにして二度目というこ
とになる。この儀式は津軽の真言宗寺院の住職に呼びかけがなされ
た。四月二十二日から日々ご本尊胎蔵界大日如来の前で修法(魂入
れ)がなされ、それが二十一日間続いてゆく。最初の日を開白、最後
の日を結願といい特に大切な日である。開白では祈願法要が勤修され
た。まずは本堂にてお勤め後、結縁の綱を檀信徒皆で引いて五重塔へ
奉安となった。法要終了後、参列の願衆全員が五重塔回廊を廻って、
四面の扉から内部を拝観した。結願では胎蔵界唱禮(九方便)付き理
趣三昧法要が勤修され、三週間に亘る入佛開眼供養式は無魔終了と相
なった。



供養式・御開帳雑考
 真言宗祖のお大師さん(弘法大師空海)にちなんで二十一という数
字にこだわった。旧暦の三月二十一日を開白と定め、結願は開白から
二十一日目とし、その二十一日間を以て入佛開眼供養式とした。
 入佛開眼供養式に伴い、御開帳も行う事とした。一般公開は約四十
年ぶりのことであり、今後の御開帳も未定とあって、土曜、日曜とも
なると実に数千人の参詣者で五重塔前は人であふれかえった。この間
の参詣者は約三万人を数え、ご本尊彫刻の余り木による記念御守の千
五百個は三日を待たずに全てなくなった。御開帳の間は弘前観光ボラ
ンティアガイドの会の全面協力を頂き、桜祭り期間中であるにもかか
わらず、毎日多くのボランティアの方々の協力を得て参詣者への説明
を頂戴した。弘前市内の小学校が団体で訪れる事もありこのガイドの
存在は実に大きく、大変に助かった。弘前市観光物産課、弘前観光協
会の協力も得る事が出来た。
 参詣者が多いが故の反省点も見受けられた。回廊下板の弁柄が殆ど
はげ落ちて木地が露出してしまった。階段部分はかなり摩耗して、角
部分が丸くなってしまった。参詣者三万人という人数に加え、靴によ
る板地の摩耗は予想もしていなかった事であった。金箔部分はこする
人がいる為か、地肌の漆が丸見えとなってしまった。最勝院護持会役
員による巡回を行ってはいたが、貴重な文化財にたいして簡単にしか
も直接手で触れる人が多くおられるというのは、文化財保護の観点か
らも残念な事である。

   金剛山最勝院第三十八世
                                                                                
    法 印 公 彰 識



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