10月日記

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●右の花は『芙蓉』です。この花で
 思い出しますのは、高橋治著の『風の
 盆恋歌』です。
  中年の哀愁をおびた恋物語ですが
 舞台が富山・八尾(やつお)村のおは ら風の盆です。いつか、行ってみ た いと思い、今年は民宿が予約できた  のですが、一緒に行く予定の知人   の入院で、来年以降に持ち越しました。
 この写真は自宅の近くで撮影したものです。(2005年9月下旬撮影、T・O)

2005年10月23日(土)曇り

 
本を執筆したり、雑誌をつくっていて売れることはもちろんうれしいことですが、それ以上に「何かのお役に立った」と、分かったときは無上の喜びを感じます。自分の名前で検索していて、『き坊の近況』という個人HPに私の著書が入っていたことを知りました。「リヨン」というキーワードで検索しますと、拙著『リヨンで見た虹』が入っていることが、うれしかったので、そのHPを引用いたしました。

ー−この1週間ほど、「リヨン」に関する本やインターネット上の情報を読みあさっている。
リヨンというのはフランス東南部の都市である。GWのあとでリヨンとフランクフルト郊外との2個所に10日ほどずつ滞在する旅行をしようと計画している。いずれも、わたしの子供のころから親密にしている友人が居をかまえているので、宿をお願いしてそれぞれ停滞してみようと思っている。ヨーロッパについて納得いくイメージが持てればいいと思っている。
リヨンについてわたしは恥ずかしいほどなんの知識もないのであるが、公立図書館で「リヨン」を含む書名を検索して、面白そうなのからかたっぱしから読んでいる。自分の興趣にあわないものはサッサと捨てて、面白そうなものに集中している。

 なんといっても大物は永井荷風『ふらんす物語』である。この作品についてオタクの極致をいっている加太宏邦『荷風のリヨン』(白水社2005)には感服した。ここまでオタクに徹すれば、荷風の作家論として本物になっていくことがよく分かる。荷風のフランス体験について「荷風ぶし」(遠藤周作)というような浅薄な批評では本質を突いていないことが納得される。今後、荷風の『あめりか物語』、『ふらんす物語』を論じる場合に無視できない基本文献であると思う。だけど、若い頃読んだ荷風を読み返して、荷風の日本の文筆家としての凄さをあらためて実感した。

 中野中央図書館に行って、『リヨン織物美術館』(1〜3、学研)の厚い重い本を借り出して、半日かかって目を通した。それだけでくたくたになった。リヨンはイタリアから入った絹織物の工業都市として発展していく。幕末から大正にかけて日本が世界にたいして生糸を主要輸出品としたことはよく知られているが、リヨンへ何人もの京都の少年が留学していることは今度初めて知った(『リヨンで見た虹 稲畑勝太郎伝』岡田清治)。荷風が横浜正金銀行の行員としてリヨンに行くのも絹織物の貿易と関係がある。ついでながら、わたしの父は少年時代に両親(わたしの祖父母)が懸命に養蚕にいそしむ姿を見て育ったことを忘れられないようであった。貧乏と勤労の山村生活である。いま、考えてみればそういう日本の山村の人たちの人生と、リヨンなどヨーロッパの絹織物工業とがつながっていたのである。

宮下志朗『本の都市リヨン』(晶文社1989)は最後まで読み切れないでリヨンに行ってしまうと思うが、素晴らしい本だ。これのなかに出てくる16世紀の「リヨン俯瞰図」(25枚あるらしい)をコンビニで拡大コピーして参照しながら読んでいる。この本は、大学も高等法院もなかったルネッサンス期のリヨンが、出版を手がけ、書物を商品として扱う先駆であったことを論じている。ノストラダムス『大予言』もリヨンで作られた本だという。
わたしがこれまでに知ったリヨンに関連して既知の人名は、わずかに次の数名にすぎない。フランソワ・ラブレー(16世紀、『パンタグリュエル物語』などの)、永井荷風リュミエール兄弟(映画の原型を作った人)、サン・テクジュベリ(作家、『星の王子さま』)など。

5/3-2005

2005年10月20日(木)晴れ

 
初秋散策

 久しぶりに、裏庭の生駒山、枚岡公園の桜の広場まで散策しました。海抜150m程度です。自宅が70mほどの位置にありますから、少し登れば到着します。
 
 先日、大分県の佐伯市に仕事で出かけましたが、そこには城山(写真)があります。市街地から約20分で登れますが、明治の作家、国木田独歩がここに1年ほど滞在して、英語と数学の教鞭をとったことがあります。そのとき、彼はこの城山があったから、佐伯に留まることができたと、城山を絶賛しています。
 確かに城山から見る佐伯の眺望はすばらしいと、私も思いました。同時に生駒山から見る河内平野、その向こうの大阪平野も改めてすばらしいと思う。

 公園に行く道に沿って自宅の前を溝のような川が流れていますが、そこにかかる人一人ぐらいしか通れない石の橋が架かっています。この石に「文久」(写真)という年号、つまり1861年ごろに造られたことが記されている文字を見つけました。150年前の橋が今も使われていることの驚きと、この辺りは額田村といいますので、相当、歴史的に旧いことを感じています。少し、時間の余裕ができれば、もう少し勉強してみたいなと考えています。

 公園の草木はまだ、青々して秋の風情は感じませんが、3週間まえに満開だった、ミズヒキ(写真)が最後の姿をみせていました。此花は、結婚式など祝い事での進物にかける細い紐のように、表から見ると、赤色、裏を返すと白色の草花です。

 冬が近づきますと、花の数も少なくなります。この冬はなんとしても野鳥の撮影をしたいと思っています。庭にはいくつかの花が咲いていやしてくれます。いま、ちょうど咲いていますのがジンジャエール(写真)の白い花です。
 
 もうすぐ紅葉の季節です。今年は奈良に行こうと、友人に誘われていますので、紅葉&お酒の宴を考えております。また、報告したいとおもいます。

 
【庭に咲くジンジャエール】


【公園の山に咲くミズヒキ】


      
【橋に刻まれた「文久」の文字】】  【佐伯の城山へ登る途中の山道】                   



2005年10月15日(土)雨

 
布団太鼓

 10月14日、15日は恒例の枚岡神社の秋祭りです。各町内会の布団太鼓20台前後が、枚岡神社の境内に集まります。私の子供ころから続いていますので、半世紀以上になるのでしょう。太鼓の響きと大人30人前後で担ぐ大型の布団太鼓は珍しいのかもしれません。ただ、神社まで担いで、またそれぞれの町内会に戻るだけで、何の芸もどきも披露しません。それでも担ぐことが、相当力仕事ですから、その姿に勇壮さを感じるのです。
 この日の朝に、花代をはっぴをまとった自治会の役員が各家々を訪問、集めます。都会でいかにも田舎くさい行事に、今どきの若い人たちは、おしゃれを感じているのかもしれません。
 夜店が参道から一般道路300mにわたって並びます。昔なつかしい金魚すくい、たこ焼き、玉子せんべい等々。毒々しい字が書かれたビニール暖簾がかかる屋台で、オッサン、おばはん、にいちゃん、ねーちゃんが売り子になって子供に売っています。
 毎年、多勢の人で賑やかになっているようです。



【枚岡神社の秋祭り 2005年10月14日午後8時撮影】

【参道の屋台】




2005年10月14日(金)晴れ


【赤福本店ーおかげ横丁】

 
朝晩、ようやくしのぎやすくなってきました。300ページの長編もメドがついてきましたこれからは日記執筆にも励みたいと思います。 
 昨日、伊勢の赤福の浜田益嗣(はまだ・ますたね)氏に会ってきました。この十月、長男に社長の座をゆずり、会長となって地域発展に尽くしたいと言っておられました。
 
 浜田会長は現在、68歳で慶応大学で前の席に座っていたのが、加山雄三だったそうです。学生のころ、自宅に来たこともあるという。
 父親を戦士でなくしたため、祖母、母の二人に育てられ、3人が戦後、店を大きくしたのです。
 赤福は2007年に創業300年を迎える超老舗です。赤福は「赤福餅」1品で年間売り上げ100億円、経常利益36億円といいますから、超優良企業です。
 松下幸之助氏にもかわいがれたこともあります。
 とにかく、西は大阪、東は名古屋の市場に限定して、朝、配送して10時間後に残ったものは廃棄処分にするシステムに赤福ブランドの強さがあることがわかりました。いずれ詳細は、後日、掲載します。

 先日、開かずの踏み切りで80歳の老女がJRの列車に跳ねられ、即死したそうです。1時間も開かなかったようです。普段も20〜30分開かないといいます。JR東日本の社長に言いたい。貴方はこの踏切で開くまで待つことができますか。できないなら、即刻、開かずの踏切をなくすことを最優先の仕事にすべきです。CSとか社会的責任とお題目だけ並べていますが、お客様の満足がなければ、300年の老舗には絶対になられません。












2005年10月6日(木)曇り

 ご愛読いただきながら、しばらく日記を休みまして申し訳ございません。10月も中旬過ぎれば
また、執筆いたしますので引き続き、よろしくお願いします。
 時々、これまで書きました原稿の中から定期的に掲載いたします。今回はミキハウスの木村社長です。
 
 先日、ある会合で元官僚の話を聞きました。
 まず、「官の仕事を民にしても良くならない。JRや日本航空の事故をなど見てもそうだ。」と
指摘していました。また、次期首相は谷垣あたりではないかということで、安倍はなれない意味の
のことを話していました。意外か、当然か、大田大阪府知事を評価していました。
 要は官でないとダメということらしい。国会議員を志望していることをほのめかしていました。

▲▽

「核心を聞く」 ミキハウス創業社長 木村 皓一氏

    見出し:子どもたちに大きな夢を

「企業とスポーツ」は旧くて新しいテーマであ

る。企業のスポーツ選手等への支援は企業PR

が大半。宣伝広告と同様、費用対効果によって

支援打ち切りとなる。ところが、多くの五輪選

手を輩出している「子どもの文化創造」を掲げる

ミキハウスのスポーツ支援は子どもに夢を与え社

員に誇りを持たせるためという異次元で捉えて

いる。その狙いと真意を木村皓一社長に聞いた。

――木村社長にとって会社とは何ですか?

木村氏 企業の夢は時代と共に変わります。変わらないもの、変えてはならないものは、「信頼」です。これは言葉で言えば簡単ですが、実行は難しいですね。売れるなら、なんでも作るという姿勢では信頼は勝ち得ません。

 創業の時から子どもをキーワードに最高の材料を仕入れて最高の品物を提供するピンピン商法に徹してきました。これからも品質にこだわりつづけたい。    

――今の世の中、子どもは好きなことをやれないと?

木村氏 親の姿勢次第ですね。卓球の福原愛ちゃんは、小学校の三年生の時、仙台から母親に連れられて当社卓球部の門をたたきました。当時はジュニアを受け入れる体制がなかったのですが、最後は親と本人の熱意が監督に通じ、ミキハウスJSC(ジュニアスポーツクラブ)設立に至りました。

    現在、ボランティアで二百名の子どもに体育館で柔道を教えておりますが、子どもたちの目の輝きがすばらしい。日本の企業一社が、何か一つ子どもたちに教えるだけでも、世の中変わると思います。

    いまでこそ女子柔道は人気がありますが以前、社会人になれば受け入れ体制がないため、止めざるを得なかった。十六年前に実業団初の女子柔道部をつくって励ましてきました。

――ミキハウスからアテネ五輪に十三人出場の快挙ですが、五輪選手に何を求めますか?

木村氏 彼らの処遇は普通の社員と同じです。ただ、仕事はそれぞれの競技で実績を積むことです。会社の仕事はゼロです。中途半端にさせることはダメですね。世界中の選手と競うものですから、彼らにはすばらしい経験があり社員、得意先の方々と交流するなかで、他では得られないものを与えてくれます。それで十分です。

――企業とスポーツの支援について?

木村氏 それぞれ企業の考え方は違うでしょう。当社は子ども向け商品をつくっていますので、できるだけ子どもたちを支援したい。そのことで社員が誇れる企業になればいい。最近、全社員をまとめる求心力が不足しています。今夏の都市対抗野球に当社野球部が初めて奈良代表で出場しましたが、この応援をすることで盛り上げ、社員の結束力につながったと思います。

――これからの夢について。

木村氏 これまで国内でつくることにこだわってきました。それは日本でしかつくれなかったからです。例えば、縫製の仕事に従事している人の年齢が高い日本より、アジアの若い人たちの力を借りる方がいいものができます。当社の発注先は国内企業でも、当社が求める品質を確保できるなら世界中どこでつくってもいい時代になってきました。グローバル化はますます進むでしょう。

――ありがとうございました。
【大商ニュース09月10日号】

略歴

木村 皓一(きむら・こういち)

1945年生まれ,滋賀県出身.1年三起産業創業、78年三起商行(株)設立。現在フランス、北アメリカ、イタリアの現地法人含め11関連企業グループ代表。全国ロータリークラブ野球大会で三連覇を目指して監督兼サードを務める。