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モノクローム・ラバー







 アリス=デュプレ。職業、学生。金糸に近い栗色の髪と、それに結ばれたリボンが特徴的な可愛らしい少女だ。だが、彼女はその外見に似合わず、恐ろしく冷めていたり、妙に現実的だったり、同年代の少女よりも大人びていた。その所為で色々物事を楽しめなかったり、友人が恋だの愛だのにうつつを抜かすのを、多少羨ましく眺めたりするような少女でもあった。世渡りは下手ではないので、それなりに友人と付き合う事も出来るが、恋人を持とうという情念には欠けていた。
 その彼女が、最近ちょっとだけ変わってきていた。
 彼女には兄と姉がいる。
 大人気作家で、その端麗な容姿から女性ファンが異常に多く、公私ともにモテる兄、ブラッドと、若いながらもセンス抜群。我儘気まま、自由奔放なのに、その魅力から働き蜂が絶えない、大手下着メーカー社長の姉、ビバルディ。
 自分とはどこにも似たような性質が無い、この兄と姉は、少し歳の離れたアリスを溺愛していた。
 特にブラッドの愛し方は尋常じゃない。この間もアリスは、自分の携帯のアドレス帳を全削除されたばかりだ。頭に来て、不満をビバルディにぶちまけたのだが、その際「お前の設定した暗証番号を奴に推理された時点でお前の負けだよ」とにやにや笑いながら言われてしまった。
 確かに、メモリーの暗証番号を大好きな人の誕生日にしたのは、間違いだった。
(・・・・・・・・・・・・・・・)
 大好きな、兄の、誕生日を番号に。
 うあああああ、と頭を抱えて、アリスはソファに蹲る。
 彼女は現在、バイト先のゴットシャルク邸で、我儘放題の雇い主に薬を飲ませて仮眠を強いたばかりだ。彼をベッドに文字通り拘束してから、彼女の足首がずきずきと痛みだす。着地に失敗して捻挫してしまったのだ。だが、それを言ってはナイトメアと、彼を護ろうとした白猫に悪い気がして(何故か彼は動物に慕われるのだ)今の今まで我慢していたのだが、一人になって痛み始めた。
 病弱すぎるナイトメアの為に、薬の類は山ほどある。だが、寝たままがデフォルトの彼のお陰で、湿布や絆創膏、包帯の類はほとんどない。痛む足を抑えながら、アリスは湿布を買いに行こうかどうしようか悩み、取り敢えず家に連絡をしようと携帯を取り出して、ブラッドに削除されたメモリーの事を思い出したのだ。
(いい加減・・・・・兄離れをしようと思ったんだけど・・・・・)
 赤くなった頬を、手で煽ぎながら、アリスは深い溜息を洩らした。
 アリスは兄、ブラッドが好きだった。
彼に干渉されるのを心底鬱陶しく思いながらも、その度に、兄に大事にされていると錯覚する程度には彼に好意をもっている。だが、その想いが「兄」への親愛なのだとしても、どこの世界に兄に干渉されて喜ぶ妹がいると言うのだろうか。特にアリスのように冷めて現実的な少女は、そういう兄に嫌悪を抱くのが普通だろう。
 だが、彼に見詰められたり、触れられたりしても、嫌悪などわかないし、反対に胸が痛くなったりする。
 どういう事なのか。
 考えた結果、アリスが弾き出した答えは「心のどこかで兄を頼っている自分の弱さの所為だ」というものだった。
 だから。
 一人でも生きていけるように、大好きな兄に迷惑をかけないように。自立した、姉のような女になるために、彼女はバイトを始めたのだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 バイトはそれなりに楽しい。兄から紹介された働き口だが、駄目駄目な主を引っ張ってきりきり立ち働くのは性に合っていると思う。
 それに。
 響いたチャイムの音に、アリスははっと立ち上がった。ひょこひょこと右足を庇いながらインターフォンを取り上げる。モニターに焦った表情の男が一人、映っていた。
 冷たい雪に覆われていた大地が、春の日を受けて緩み、徐々に暖かくなって花を咲かせるように、アリスの心に訪れる小さな変化。
嬉しさにどきりと鳴る心臓を隠して、アリスはドアを開けた。
「すまないアリス、遅くなった」
「え?」
 グレイ=リングマーク。
 ナイトメアの担当で、仕事の打ち合わせや原稿を受け取りにやってくる彼とは、駄目駄目なナイトメアを原稿用紙に向かわせる為にタッグを組んでいたりする。もともと病弱すぎてどうしようもないナイトメアの世話を焼いていたのが、このグレイで、彼の仕事の負担を減らす役割をアリスが担っている。だから、必然的に二人が協力することが多くなり、アリスは、彼がいない時のナイトメアの世話を任せられているのだ。
 その彼が遅れた所で、問題はない。グレイが居ない時の要員がアリスなのだから。その彼に、開口一番に謝られて、アリスはきょとんとした。そんな風にして立ち尽くすアリスの足首を、しゃがんだグレイがじっと見詰めた。
「っ!?」
 かあ、と頬を赤くするアリスに気付かず、グレイは呻くように声を洩らした。
「ああ・・・・・腫れているな。ナイトメア様から連絡を貰って、取り敢えず湿布と包帯を買って来たんだが・・・・・大丈夫か?」
「え?」
 下から見上げられて、アリスは狼狽した。
「だ、大丈夫・・・・・ちょっと捻っただけで・・・・・」
「折れてはいないようだな」
 赤くはれ上がっている足首を見詰め、立ち上がったグレイがアリスの腕を掴んだ。
「!?」
「体重を掛けて、ゆっくり歩くと良い・・・・・本当に済まなかった」
 謝るグレイに、ナイトメアが自分の怪我を看破していた事に感心していたアリスは、視線を逸らした。
「別に、グレイが謝る事じゃないわ。私が悪いの」
「しかし・・・・・ナイトメア様の我儘にも困ったものだ」
 先ほどまで座っていたソファに連れて来られ、座らされる。掴まれた腕が熱い。
「触っても・・・・・いいか?」
「へ?」
 膝を付いて、持っていたビニール袋から湿布と包帯を取りだすグレイが、少し困ったように笑ってアリスを見上げる。
「あ、いい!じ、自分でやるから」
「・・・・・・・・・・」
 足首に触れる位置で揺れる、グレイの掌に気付いて、アリスが慌てて身を乗り出す。グレイに足なんか触られたら、恥ずかしくて気絶しそうだ。頬を真っ赤にして、慌てふためくアリスに、男はちょっと困ったように笑うと「そう・・・・・だな」と苦々しく告げた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「済まない。俺の方が上手くできると思ったものだから・・・・・」
「え?」
 自分の足を抱え込み、ソファに置かれた湿布に手を伸ばしたアリスは、視線を逸らすグレイに、目を瞬く。そう言えば、昔は相当悪かったと、ナイトメアから聞いた事が有った。
「・・・・・・・・・・しょっちゅう怪我とかした?」
 恐る恐る尋ねると、ちらりとこちらに視線を投げた男が、肩をすくめて見せる。
「まあ、それなりには・・・・・」
 間の悪そうなグレイの顔に、アリスは目を見開くとくすりと小さく笑った。そのまま、可笑しそうに肩をゆすって笑う。
 どんな風な「昔」が彼に有ったのか、アリスは知らない。だが、今、こんな小娘に戸惑う彼が嫌いになれなかった。
(・・・・・・・・・・いい人だな)
 手に持った湿布を見詰めて、アリスは、じんわりした、温かな春の日差しのような思いを抱える。
 誰かを好きになるって、こういう気持ちの先に有るんだろうか。
 グレイだったら、良いかもしれない。
 ナイトメア様は寝てらっしゃるのか?と咳払いをして尋ねるグレイに、アリスは顔を上げると頷き、手にしていた湿布を差し出した。
「やっぱり・・・・・グレイにお願いする」
「え?」
「よく考えたら私、包帯の巻き方とかよく判らないの。それに」
 得意な人がいるのなら、任せた方が良いでしょう?
 赤くなった頬を隠すようにして笑うアリスに、グレイは目を瞬くと「その方が効率的だ」と笑顔で頷いて見せた。