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 恋人じゃない、私たちは何?






 ※ ちょっと流血表現ありのイタイ感じなのでワンクッション ※









 色んな意味で失敗したと、アリスは固い椅子に座りながら、ぼんやりと考えていた。
 こういう場合、どうしたらいいんだろうか。

 その一。助けを求めて泣き叫ぶ。
 その二。助けてもらうために、敵にすり寄る。
 その三。助けを信じて耐える。
 その四。助けなんか来ないと自害する。

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 どれも似合わない。
 がっくりと頭を垂れて、アリスは自分を椅子にくくりつけている細い麻縄を見た。


 どこで失敗したんだろうか。


 目が覚めるといい天気で、昼の時間帯だった。いつもなら、誰かに見られる前にと大急ぎで支度をするのだが、今日に限ってそんな気にならなかった。
 持ち上げた腕の、手首に握りしめたような痕が残っていたのも原因の一つだし、起き上がって身体に感じる倦怠感も原因の一つだし、会合期間中に与えられている彼の部屋がしんと静まり返っていて、人の気配がなかったことも原因の一つだった。


 壮絶なる自己嫌悪。


 面倒だ、と言われた台詞を思い出し、愛してない、と断言された時よりも胸が痛む。
(ああそうだ・・・・・面倒だって言われたのよね・・・・・)
 面倒だって言われたのに、なんだこの惨状は。

 ひたり、と素足のまま床に降り立ち、誰が畳んだのか考えたくない、テーブルの上の己の衣服を身にまとう。

 辺りを見渡し、アリスは溜息をついた。そのままソファに崩れるように座りこむと膝を抱えてしまった。

 微かに、身体から薔薇の香りがして、いっそ面倒なら乱暴にしてくれればいいのにと、投げやりな気持ちで考える。
 そうしたら、心置きなく憎むことができるのに。気持ちを殺して相手が出来ると言うのに。

 彼は恐ろしいほど優しい。初めての時に、「誰よりも優しくしてやる」と宣言された通り、男はその部分だけは覆さなかった。
 その度にアリスは錯覚し、触れる手に縋り、背中に腕をまわしてしまう。酷く甘い声や台詞に、思考を溶かされて、何もかも投げ出してしまう。


 そして、目覚めるたびに感じるのが自己嫌悪なのだから、どうしようもないだろう。

(面倒なくせに、どうしてあんな風にするんだろう・・・・・)
 件のベッドをじっと見つめて、アリスはぼうっと考えた。
 判らない。
 ブラッドなら、自分を煩わせる面倒事など、いとも簡単に排除するだろう。

 それが、アリスでも。

 なのに、なんだというのだ。

(恋人でもないのに・・・・・)
 可笑しい。絶対可笑しい。何がしたいんだ、あの男は。

 こうやって、人を閉じ込めて思考のループに落とすのが、楽しいのだろうか。
 だとしたら、とアリスは急に腹を立てて立ちあがった。こんな風に、ブラッドについて考えて、ぐるぐるぐるぐる悩む様が、あの男の嗜虐心を愉しませているのだとしたら、冗談じゃない。
「そうよ・・・・・私は・・・・・誰のものでもないし、余所者なのよ」
 余所者。
 じり、と胸の奥が焦げる。唇を噛んで、アリスは靴音高く部屋を出た。

 余所者余所者。他の国から来た異邦人。
 だから、誰にも受け入れられるし、知り合えば知り合うほど好かれるのだと、そう言われた。
 でも、それはしょせん、自分はこの世界の本質とは相いれない存在だと言う事だ。

 どんなに身体の最奥まで貫かれても、変わらない本質。二つの丸みを帯びた肌の奥で、音を刻む心臓が何かに変わることはないのだ。
 役割もない、ルールも通用しない、とんでもなく自由な筈なのに、動けない。進めない。
 きらきらした光が、噴水の水を反射し、花屋の軒先を通過した風に甘い香りが交じる。
 ふわりと己の金に近い栗色の髪をそれに翻して、アリスは歩を止めた。

 見上げた空は美しく、雲がのんびりと泳いでいた。

(ドアを開けて、逃げ出すべきなのかしら・・・・・)
 これ以上、愛していない、面倒だと言われながら、あんなふうに抱かれ続けたら、多分自分は壊れてしまう。

 気持ちの振り幅が大きすぎて、付いていけない。
 そして、期待するたびに裏切られるのも、もう嫌だった。

(期待・・・・・)
 ああ、期待しているのだと、アリスは自嘲気味に笑った。抱かれるたびに期待する。この人の口から、「愛している」と少しでも聞かせられたら、私は安心してこの人に堕ちてみようとそう期待しているのに、それを見透かしているのか知らないが、ブラッドは一言も言わない。
 言わないどころか、言わせようとする。

 死んでもいいたくない。

(・・・・・・・・・・私も最低かもね)
 報われる愛を求めている時点で。でも、それが普通じゃないのだろうか。
 誰もが代償を求めて誰かを愛する。そうじゃないのだろうか?

 愛する人を助けるために、己の命を投げ出すなんて、とんでもなく迷惑だ。その人の為に、自分が消えるなんてもってのほか。
 その人がいてこその、その人から得られるものの為の愛じゃないのか?

(やっぱり・・・・・私が最低か・・・・・)
 姉は違うんだろうなと、ぼんやり考えていると、不意に「あら」と背後から声を掛けられた。
 思わず振り返ると、そこには最近の帽子屋ファミリーの最優先事項でもある人間が立っていた。

 件の歌姫だ。

「こんにちは。昨日はどうもありがとう」
「はあ・・・・・」
 日傘を差した彼女は、白いワンピースのレースをふわりふわりと翻しながら、石畳を歩いてくる。彼女を護衛しているのは、見知った顔の人間だ。
 帽子屋屋敷の使用人とメイド。一様にだるそうな顔をしていた彼らは、アリスを見ると心持テンションが上がったらしく、「お嬢様〜」とにこやかに笑って声を掛けてくれた。
「歌姫さまの護衛?」
「そうなんです〜。ボスからこちらの方が出かける時は護衛をしろと〜言われまして〜」
 メイドの一人がちらっと冷めた視線を歌姫に送るが、彼女は気付いていないし、アリスも気付かない。
「最近物騒ですから〜」
「そうね・・・・・昨日も、大変そうだったし」

 ブラッドの腕にしがみついていたディーヴァの姿を思い出して、アリスはずきりと胸が痛むのを感じたが、素知らぬふりをした。

「劇場のことと関係ありなんでしょう?」
 誰に言うでもなく告げれば、ディーヴァが一つの組織の名前を上げた。
「そことブラッドさまの間には因縁がおありみたいで」
 ほう、と溜息をつく彼女に変わって、使用人が「例の男です〜」と顔をしかめて見せた。
「・・・・・ああ」
 昨日、投げられた視線を思い出す。ぞっとするような、心臓を掴まれたような、そんな気分。
「足を潰された・・・・・んだっけ?」
「はい〜。」
 まあそれも〜うちらにつっかかったあっちが悪いんですけどね〜、なんてメイドさんがにこやかに笑った。
 どこか怖い。
(・・・・・やっぱり、マフィアなのよね・・・・・)
 普段、一緒に仕事をしていて感じない、迫力のようなものを感じて、アリスはちょっと引き気味に笑った。

 ああ、やっぱりどれだけ一緒に居ても、私はこの帽子屋屋敷に溶け込めない。

 そんな気がして、アリスは唇を噛んだ。ちらと脳裏にドアがよぎる。
 くぐれば逃げられる。
 こんな思いも、こんな気持ちも、届かない世界に。
(何を馬鹿なこと考えてるのかしら・・・・・)
 それもこれも、全部あの男の所為だ。
「これからブラッドさまにお会いする予定なのですが、ご一緒なさいます?」
 すっかり気持ちが凹んでいたアリスは、続くディーヴァの台詞に、目を見張ることしか出来なかった。
「デート?」
 思わずそう尋ねると、「お嬢様〜」とメイドが非常に嫌そうな顔をした。だが、それにアリスが気付く前に、ディーヴァの「お食事を一緒にしようかなと」という優雅な台詞と笑顔に掻き消されてしまった。

「・・・・・・・・・・・・・・・へぇ」

 間抜けだ。
 どう考えても間抜けな台詞だった。
 でも、アリスにはそれしか言えなかった。

「どうです?」
 にっこり。

 その笑みは、どこか、暗いあの森で見た姉の笑顔に似ていて、アリスは反射的に「私も色々用事があるから」と応えていた。
 どきん、どきん、と心臓が音を立てる。胃を握りつぶされているようで、口にこみ上げる不快感に耐えられない。

 似ている。

「そう・・・・・残念だわ」
 肩を落とす姿に、重ねたくないのにロリーナの姿が重なり、アリスは喉が渇くのを感じた。
「また今度、ご一緒してくださいね?」
 ふっと両手を取られて、ぎゅっと握りしめられる。残念そうに下がる目じり。口元に漂う薄い笑み。その笑みの意味するものが何なのか、アリスには理解できず、顔をもまともに見れないまま、愛想笑いを浮かべるしか出来なかった。

 ちらりと振り返った使用人とメイドが、アリスの様子になにやら顔を寄せ合って話し合う。だが、アリスはまたしてもそれに気付かず、優雅に歩いてく歌姫の後ろ姿を、ただぼうっと見やることしか出来なかった。


「・・・・・・・・・・・・・・・またか」


 そうやって、ディーヴァの背中が見えなくなるまで見送って、ぽつりと漏れた台詞に、アリスは笑いだしそうになった。
 またか。
 まただ。
 またやらかすのか、私は。

「あ〜」

 また失恋するのだ。同じようなシチュエーションで。これが笑わずにいられるか。
 そして今度のはもっと酷い。彼は最低限、「恋人」として範疇を護ってくれていた。好きだと言ってくれたし、可愛らしいキスもしてくれた。
 だが、その恋人と同じ姿の男と、自分は「恋人」のような事をしただろうか。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 答えはノーだ。どんなに身体を重ねても、愛されているとは思えない。愛されていると錯覚しそうになっただけ。
 錯覚。
 全ては、おめでたい自分の脳内が「こうだったらいいのに」と思い描かせようとした結果だ。

 引きずるようにして足を前に出す。そのまま、重たい身体を抱えて、アリスは街の中を歩きだした。

 森に行こうとしていた。
 あのドアの前に立って、とっくりと考えたい。

 今こそ、開けるべきなのじゃないだろうかと。
 望む世界にいくべきなのじゃないだろうかと。

 ドアは可能性だ。違う世界に行けるかもしれない。

 そう考えて、鼻の奥がつんと痛くなる。
(何の可能性が欲しいっていうのよ、私は・・・・・)
 ふらりと、身体がかしいだ。その腕を、誰かに掴まれた。

「え?」
 顔を上げるのと同時に、アリスは自分の二の腕に鋭い痛みを感じて、そのまま意識を手放してしまった。








(そして、この惨状・・・・・)
 薄暗い部屋は石造りで、多分どこかの倉庫とか、塔とか、そんな感じだろう。小さな明かり取の窓が見上げるような高さの位置についている。
 正面にある木の扉は飴色で、撃ち込まれた楔が分厚い事を物語っていた。
 頭が痛い。
 色んな意味で、だ。

 再び腕に視線を落とせば、赤く腫れあがっていて、おそらく何かを注射されたのだろう。なんという巧妙な手口だろうか。こんな風にあっさり打てるのなら、ナイトメアに打ってやって欲しい、とアリスはどこか遠いところでぼんやり考えた。
 そうすれば、あの男の吐血する量は激減するはずだ。

 酷く場違いな事を、薬の所為で、考えてしまう。うまく頭が回っていない証拠だ。
 恐怖心が無いのも、そのせいだろうなとアリスは頭を垂れた。
 鬱陶しい縄など解いて欲しい。こんなもの無くても逃げようとしない。

 その五。自力で脱出する、は早々に諦めているのだ。

 逃げられるのなら、とうに逃げている。何を好き好んで残っているというのだ。

(そう・・・・・脱出するんなら・・・・・)
 不意に目がかすみ、アリスは目の前のドアが、開けて、と囁くのを感じた。

 開けて。
 開けて。
 開けて、中に入ってごらん?

(・・・・・どこでもいいのね・・・・・)
 ていうか、ドアならなんでもいいのか。

 自分がピンチだと言う気がしない。

 アリスはひたすらドアを見つめた。よかった。森までいく手間が省けたわ、と。







 テーブルに出された紅茶を、ブラッドは飲むでもなくただ見つめる。それから、おもむろにカップを持ち上げるとテーブルの上にこぼした。

「!?」
 驚いたように目を見張るのは、正面に腰をおろしている歌姫だった。
「私も、甘く見られたものだ」
 そのまま、ティーカップを持つ手を放す。酷い耳障りな音を立てて、床に落ちたカップが粉々に砕けた。
「ブラッド・・・・・さま?」
 困惑気味に己を見つめる美女に、ブラッドは綺麗な笑みを見せた。完璧すぎて、どこか怖い。レストランの一室の空気が、明らかに凍りついた。
「何を混ぜてくれたのかな?神聖な紅茶に」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 歌姫の時が止まる。息も吸えないほど、固まっている彼女を見下ろし、ブラッドは面白くなさそうに、座ったままテーブルを蹴倒した。
 彼女の前で、凄い音を立てて食器や料理やそのほかもろもろが床にぶちまけられた。
「で?」
 低い声が先を促し、笑みを浮かべた男が悠然と足を組む。びくん、と肩を震わせた女が、かたかたと震えだした。
「どうかしたのか?」
 この部屋は寒かったかな?
 くすり、と哂い、ブラッドはゆっくり立ち上がる。椅子に座ったまま、大急ぎで身を引こうとする歌姫の、その椅子の背を、男は掴んだ。がたり、と椅子が揺れ、見下ろされる女は青ざめた。
「何を、混ぜたのかな?」
「・・・・・・・・・・・・・・・っ」
 威圧感に言葉が出ない。見下ろす彼はどこまでも笑顔で、ただ、細められた瞳にだけ殺気が滲んでいた。
「私は、紅茶はストレートが一番だと思っている」
 相変わらずのだるそうな声。口調は柔らかいが、響きには冷たさしか滲んでいない。
「風味も色も香りも、何にも侵されない、そのままが一番だと、ね?」
 何を、入れた?

 重ねて問うその口調には、どんな反論も許さない強さがあった。圧倒され、血の気の失せた女は「私は」と言い訳を口にしようとした。

 がんっ、といつの間に手にしていた彼のステッキが、床を打つ。

「答えろ」

 吐き捨てられた台詞は短く、それだけにシンプルで、何もかもを揺るがし突き崩し、跡形もなく粉砕する強さをはらんでいた。
 ステッキの先で顎を捉えられて、恐怖に目を見開いた彼女が、その唇を震わせる直前に、部屋を仕切っていたドアが開いた。

「ブラッド!」
 転がり込んできたエリオットが、ぜーはーと肩で息をしながら殺気の滲んだ眼差しで女を見た。
「この女・・・・・」
「何か掴んだのか?」
「この女っ・・・・・連中にアリスを売りやがった!」
「私は私の身が大事なのよ!」

 わめくように言われたエリオットの台詞に、ディーヴァの美しい声が被った。悲痛な叫びだ。

「そうしなければ、連中は私を」
「黙れ」

 朗々と、己の歌を歌いあげようとするカナリアを、血も凍るような一言が圧する。

「やれやれ・・・・・」
 ステッキの先を戻し、ぱしん、と掌に打ちつける。恐怖に歪んだ彼女の瞳に、更に殺気を叩きこんで、ブラッドは忌々しそうに口を開いた。

「君が連中とつるんでいるのは知っていた。そんな君を建設中の劇場の、メインに据えたのは、連中が自分たちの女が帽子屋に深く組み込むのを、これ幸いと馬鹿みたいに喜ぶ姿が見たかったからだ。」
 どうして、と赤い唇から声が漏れる。
 それに、ブラッドは哂った。
「その方が面白いだろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「連中には愉しませてもらったよ。こちらが流した情報が、全部筒抜けになる。愉快すぎてどうにかなるんじゃないかと思ったな。ただ、あんまりうまくいきすぎるんでねぇ・・・・・途中で飽きてしまった」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「劇場建設の関係者が、経営陣ともめ事を起こしている・・・・・どうやら、そこを突けば私の鼻を明かして、劇場の所有権を土地と共に奪い返せるかもしれない・・・・・」
 幼稚な罠だよ。

 ブラッドは徐々に顔色を失っていくディーヴァを嘲笑う。

「連中は行動を起こした。土地を奪いかえし、要となる君を亡き者にしようと奮起する・・・・と、見せかけて、劇場建設の関係者を買収する気だったんだろうな。ディーヴァは殺さない。自分たちが捉えて、何事もなかったように劇場に据える。経営陣が変わり、所有権も土地も奪い返す。そうして、抗争の果てに、唐突に権利を失った帽子屋連中の顔色を見てそれをあざ笑う。・・・・・・・・・・そんなシナリオを書かせてやったんだ、楽しかったろう?」

 だが、それももう、終わりだ。

「君は・・・・・自分が自由になりたいがために、とんでもない事をしてくれたようだな?」
「!?」
 ブラッドの手が、歌姫の喉に掛った。ぎり、と締められて、彼女の身体が酷い熱に浮いたように震えだした。
「殺さない」
 見つめる彼女の瞳を見下ろしながら、ブラッドはにいっと口の端を上げた。
「殺さない。」
 死んだ方がましだと、思わせてやろう。

 そのまま椅子から引きずり降ろし、床に引き倒すと、持っていたステッキの先を、彼女の顔の横に突きたてた。

「言え。」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「彼女はどこだ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 震えて口の利けない女を、ポーズとして、可哀そうな様子で見下ろす。
「・・・・・お前たちの最大の失敗を教えてやろうか?」


 ブラッドは全てのものを支配するような、絶対の笑みを浮かべた。


「私の女に、手を出したことだ。」










 開けて。


(開けて・・・・・)

 開けて、入って。

(開けて・・・・・入って・・・・・)
 入って?
 入ってから、どうしようか。

 逃げるのよ。
 走って走って、ひたすら走って。そうして、曇天の空の元に転がり出る。
 ぽつりと雨が降る。
 そこは、暗い墓地で、うなだれた男性が立っている。かつて、アリスの父だった人だ。
(だった人っていうのは変よね・・・・・)
 今でも父だ。
 ・・・・・向こうは、それを拒否しているから、父だった、になる気もする。

 母のお墓の前に立ち、雨に打たれる男。完結された美。もう二度と見ることのないだろう、美しい光景。

 全身全霊を投げうてる、見返りの無い愛。


 開けて。

 ドアを開けて。

 中に入って。

(そうしたら得られる・・・・・?)


 ばしゃり、と冷たいものを感じて、アリスはのろのろと視線を上げた。上品な笑み。穏やかな物腰。ゆったりと笑う男が、目の前に立っていた。
 手にはコップが握られていて、水滴が付いている。顎から滴る雫に、アリスはようやく、中身が己に掛けられたのだと気付いた。

(雨が降ったみたいだ・・・・・あの日のように・・・・・)
 濡れた感覚に腹は立たず、ただ酷くぼんやりと奇妙な感じを覚えるだけだった。
 そういえば、どれくらい雨に打たれていないのだろうか。

(ルールが破られない限り、雨は降らない・・・・・)
 そんな世界。

「随分と、余裕だな、お嬢さん」
 お嬢さん。

(ブラッドと同じ呼び名なのに、なんか全然違うわね・・・・・)
 聞こえ方が違うなと、アリスは虚ろな眼差しで男を見た。恐怖も歓喜も湧きあがらない。ただの呼称として聞こえる。
 お嬢さん。
 そう呼ばれるには、自分は随分穢れている。

「少しは、泣いたり騒いだりしたらどうなんだ?」
 それとも、流石は帽子屋の女とほめてほしいのかな?

 ちらりと過る、上品さに隠せない薄暗いもの。

 女。

(愛してなくて、面倒で、自分と似た男が所有していたから、という理由だけで手を出される存在)
 自分の事をそう考えて、アリスは哂った。

 女。

 帽子屋、ブラッド・デュプレの女。

「そうね」
 そうだ。
 恋人では、間違ってもない。
 それなら何だと言われたら、それが一番だろう。

 情婦とか、愛人とか。

 感情の伴わない、身体だけが武器のような、そんな関係。

(身体すら、武器になってない気がするけど・・・・・)

 そんな存在が、愛してほしいなんて言い出したら、面倒だろう。
 当然だ。

 ブラッドが私に求めているのは、そんなものじゃない。
 そんなものじゃ。

 涙が出そうになり、アリスは唇を噛んだ。ぼんやりしていた頭が、徐々に覚醒して行く。

 身体に巻かれた麻縄。
 暗く、埃っぽい、石造りの部屋。
 開けてと騒ぐ、重厚なドア。
 その取っ手にぶら下がる、壊れそうもない錠前。
 鍵を持った男が、コップを床に落として手を伸ばす。

「っ」
 乾いた手が、己の頬を撫でる感触が、気持ち悪くて、アリスは顔をゆがめた。そのまま顔をそむける。顎をもつ手に力が入り、砕けるかと思った。
「いい顔をしているな」
 媚びるでもなく、許しを願うでもなく、助けを求めるでもない。
「どこまでも反抗的だ」

 そのまま顔を張られて、痛みに腹が立った。

 どんどん覚醒して行く。

 覚醒するたびに、苛立ちが募り、その苛立ちは、こんなことになった原因へと向けられていく。

 全部、あの男が悪い。

(死んだら呪ってやる)
 本当は、自分の身体を良いようにするあの男を睨んでやりたいのだが、今はいないので、アリスは目の前の片足の男を睨みつけた。

「君は自分の立場が判っているのかね?」
 喉を掴まれ、力を加えられる。張られた所為で口が切れたのか、鉄の味がした。ぐ、と呻くような声が漏れて、アリスは奥歯を噛んだ。

 死んだら絶対化けて出てやる。
 そして、あの男の運とかそういうものを全部悪い方に持って行ってやる。
 絶対に呪ってやる。

(私の墓の前で・・・・・土下座させて・・・・・)

 雨の墓地。
 たたずむ父。
 その父の姿に、別の姿が被った。

 黒いスーツ姿で、なんだか微妙な長さで切られた、無造作な黒髪で、傘もささずに立っていて・・・・・


 あれはブラッド?
 それとも?


 がたん、と音がして、アリスは身体に衝撃を感じた。椅子ごと床に倒されたのだと判る。縄が解かれる。だが、逃げられるとは到底思えなかった。

(サイアク・・・・・)

 胸元が引き裂かれて、肌が露出するのを、アリスは泣きそうな想いで眺めていた。
 どうせ殺されるのなら、いっそひと思いに殺してくれ。
 圧し掛かられて、身体を弄られ、いいようにされてから殺されるなんてあんまりだ。

(ああでも・・・・・)

 これも浮気になるんだろうか?

 足を持ち上げられて、指が這うのを感じながら、アリスは力いっぱい男の顔面をひっかいてやった。

「!?」

 冗談じゃない。

 あの男に、浮気をした挙句に、身体を売る相手を間違えて、機嫌を取り損なって殺された馬鹿な女だなんて思われたくない。
 そんな、見下げ果てた女になりたくない。

「貴様っ」

 ひるんだ男の腕から這い出ようともがく。逆に髪を掴まれて引き戻される。

「やっ」
 悲鳴を上げる。乱暴に、再び顔を殴られアリスは、全身の血が頭に上るのを感じた。怒りで目の前が真っ赤になった。

 冗談じゃない冗談じゃない冗談じゃない!

「あんたなんかに×××されるくらいなら、死んだ方がましよっ!!!!」

 組み敷かれながらも喚き、アリスは床に散っていたガラスの破片を握りしめた。そのまま、己の首筋に突きたてようとして、それが出来なかった。

 刹那、真っ白な光と爆発音がその部屋を染め上げたのだ。






 耳が聞こえない。余りのすさまじい音に、一時的に聴覚がおかしくなったのだ。同時に視界も奪われて、何がなんだかわからない。
 真っ白な空間。
 おそらく、閃光弾かなにかがドアをぶち破り、炸裂したのだろう。
 と、唐突に抱えられて、アリスは驚いて手を突っ張った。
 ちかちかしていた目が、ようやく機能を取り戻し、薄暗い部屋が見えるようになる。
 そんな中、逃れようともがく彼女を、しかし捉えた腕は放さなかった。

 ようやく、アリスは自分を抱いているのが随分と肌になじんだ人間だと気付いた。

「ブラッド・・・・・」
 かすれた声が出た。ただし、アリスの耳にはまだ聞こえない。目に光が沁みて、ぼろぼろと涙をこぼす彼女を、ブラッドは力いっぱい抱きしめた。それから、固く握りしめている彼女の指を柔らかく撫でる。
 一本ずつ引きはがされて、開いた掌から、かちゃんと音を立ててガラスの破片が落ちた。

 血にまみれたそれを一瞥し、ブラッドは何か言う。

 まだ、アリスの耳には届かない。

「ブラッド?」
 男は彼女の涙をぬぐい、手を取って、傷ついた掌に口付ける。ちり、と痛みが走り、傷口を撫でる舌の感触に、アリスはぼうっとなった。
「・・・・・たのか?」
 ようやく、ブラッドの声が耳に届き、アリスは眉を寄せた。きょとんとする彼女に、苛立ったようにブラッドが声を荒げた。
「やられたのか!?」
「や・・・・・やられてないわよ!!!!」
 思わず真っ赤になって怒鳴り返すと、一瞬強張った男が、安堵したように息を吐きだした。
「アリス・・・・・」
 酷く弱った声が耳を打ち、折れそうなくらい強く抱きしめられる。
「君が押し倒されて、喉を突こうとしているのを見て、気が狂うかと思った・・・・・」
 無理強いされて、自害しようとしているように見えた。
「・・・・・・・・・・・・・・・まあ、確かに近かったと言えば、近かったけど・・・・・」
 される前に死んでやろうとしていた。
「殴られたのか?」
「え?」
 つと、頬に指が触れ、アリスは痛みに顔をしかめた。口の端が切れている。思いっきりひっぱたかれたから、熱を持ってひりひりしてきた。
 視線を逸らす彼女を、ブラッドは痛ましいものを見るように、つらそうに眺め、それから抱え上げた。引き裂かれた胸元を見て顔をゆがめる。
 恐ろしいほど冷たい眼差しが床に落とされた。
 エリオットに背中に乗られた男が、手を背中に捻りあげられ、恨めしそうにブラッドを見上げていた。

「帽子屋・・・・・」
 憎しみしかこもっていない名前の呼び方。普段ならぞっとするのに、アリスは倦怠感しか感じなかった。

 彼の復讐は終わる。
 失敗に、終わる。

 ブラッドは何も言わない。言う必要もないのだろう。圧倒的に地位が違いすぎる。
 彼は虫けらを見るような眼で、男を見下ろすと、エリオットを見た。

「連れて行け」
「帽子屋っ!!!貴様を私は」
 がん、と破裂音がして、男の声が悲鳴に変わる。
「殺すな」
「判ってるよ」

 簡潔なブラッドの一言に、エリオットが冷たく応じた。

「ブラッド・・・・・」
 アリスを抱えて歩き出す男に、彼女は疲れたようにもたれかかった。
「なんだ?」
「・・・・・・・・・・どうして判ったの?」
 ここが。

 どうやら、石造りの古い屋敷の地下の一部屋だったらしい。階段を上がり、堂々と正面玄関から連れ出されて、明るい日差しを目にすると、今までの出来事が全部嘘のように思えてくる。

「それに・・・・・」
 ふらっといなくなって、友人の元で過ごすことは多い。浮気だと思われてもしょうがない、なんて普段のこの男の不機嫌を加味しながら思っていると、ブラッドはいとも簡単に答えた。

「君は、私の女だ」
「・・・・・・・・・・」

 恋人じゃない、私たちは何?

「君は」

 明るい陽の光をうんざりと見上げて、ブラッドは顔を寄せると、アリスに口付けた。

「私のものだ」
「・・・・・・・・・・」
「浮気をしようが、誰かに奪われようが、浚われようが、君は私のものだ」
 私のものなら、当然奪い返すし、取り戻すし、私の元に繋ぐだけだ。
「その為になら、忌々しい昼でも、私は手を尽くそう?」
 だから、面倒なまねをするなよ?アリス。


 愛しても居ない。
 面倒だとそういう。

 でも、退屈は嫌いだ。


 なんだか、どうでもいい。


 服は濡れて、引き裂かれ、頬は張られて痛み、口は切れて血の味がする。縛られた腕には痕があり、注射までされて腫れている。

 そして、そんなぼろぼろの自分を抱く腕は温かく、胸の中は気持ちが良く、アリスは目を閉じた。

「アリス・・・・・」
 悪かった、と心からの珍しいブラッドの謝罪を聞いて、アリスはゆっくりと意識を手放した。


 とにかく今は、居心地のいいブラッドの体温だけを感じて居たかった。

 散々な一日を締めだすように。



(2009/11/06)

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