Alice In WWW
- 保ち続ける、微妙な距離
- 「あなたを好きになったら、幸せね、きっと。」
「え?」
ぽつりとこぼされた台詞に、人参ケーキを頬張っていたエリオットは目を瞬かせた。向かいに座るアリスが、頬杖をついて、遠く、クローバーの塔辺りを見ていた。
「い・・・・・い、一体どうしたんだよ、アリス」
フォークを咥えたまま、エリオットはどこか困ったような顔で、おろおろとアリスを見る。ただ、彼女はそんなオレンジ色の頭に兎耳の付いた、いかついお兄さんを一瞥して、「そのままの意味」とテーブルに突っ伏した。
「・・・・・・・・・・なにか、あったのか?」
あったか、なかったか、で言えば、あったようななかったような。
あったことはあったが、それは普段の日常の延長のようなもので、大したことじゃない。
なかっことはなかったが、そう言うには彼の不機嫌は尋常じゃなかった気がする。
あったような、ないような。
進んでるようでちっとも進んでいない、後退しているような気さえしてしまう関係。
(判り辛いわ・・・・・)
腕の下からちらと眼を上げれば、しょんぼりと耳を垂らしたエリオットがケーキを前に目を白黒させている。
恐らく、見た感じ落ち込んでいるアリスを慰めようとしてくれているのだろう。
一生懸命、掛けるべき言葉を探してくれるエリオットに、アリスはじんと胸の辺りが熱くなるのを感じた。
今は会合期間中で、クローバーの塔の周りはスーツ姿の人間や、普段通りの奇抜なファッションの人、城の従者や、塔の使用人、宿屋の人間、他勢力の組織の人間などなど、人でにぎわっている。
その一角のオープンカフェに、アリスとエリオットは来ていた。
時間帯は昼で、次の会合は夜。エリオットも何やら陰で色々ブラッドを護るために飛び回っているのだが、どうしても一人にはなりたくなくて、無理やり彼を誘ってしまった。
本当は仕事があるだろうに、と申し訳ないと思いながら、アリスは物思いに沈みそうな気持ちを、エリオットの姿で癒される。
対極だと思う。
自分とブラッドは似ている。色んな物事を斜めから見て、自分なりの理由を何にでも付けたがる。それが間違った価値観によって形成されていると判っても、翻せるほど器用じゃない。
気持ちに理由を付けて、盲信しそうになるのをセーブする。
本当は、誰も信じてはいないんではないかと思えてしまう程だ。
そんなアリスとブラッドを「大好きだ!」と言ってはばからないこのウサギのお兄さんは、まさにそんな二人の対極に位置する。
どんなことも正面から捉えて、理由もなく盲信する。価値観すら、ブラッドに支配されていると言ってもいいんじゃないかと思えるほど、彼は自分の組織のボスを敬愛していた。
彼に、全身全霊で「信じています」と訴えられるとアリスもブラッドも目を逸らして引くしか出来ない。
エリオットと同等の信頼を彼には寄せていないから、だ。
二人そろって後ろ暗い。
だからアリスは羨ましいのだ。
そして、憧れる。
「あのさ・・・・・何があったのか、無かったのか、俺にはわかんねぇけど・・・・・俺に話して辛いのが解消されるんなら、話してくれないか?」
俺、そんな元気のないアリスは見たくねぇよ。
こめかみの辺りを掻きながら言われた彼の台詞に、アリスはふっと自嘲気味に笑った。
「エリオットの恋人は幸せよね」
「え!?」
再び、唐突に、そんな事を言われて、彼は驚いて椅子から立ち上がっていた。フォークを握りしめてうろたえている。
ゆっくりと顔を上げて、アリスは彼をまっすぐに見た。
どうして私は、エリオットを好きじゃないんだろうか。
「・・・・・・・・・・好きよ」
試しに口に出してみる。と、エリオットは更に更に動揺したのか、「な、なな、何言いだすんだ!?」とひっくり返った声で言う。
「好きよ、エリオット」
にっこり笑って言えば、ぽかーんとした彼が、唐突に隣の椅子に座りなおし、瞳をきらきらさせてアリスの手を握りしめた。
「俺もだ・・・・・っ!大好きだっ!!アリスっ!!!!!」
がばあ、と抱きつかれる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
すりすりと頬ずりまでされながら、アリスはどこか遠いところで「この感情は間違いじゃないけど、やっぱり違うのよね」とぼんやり考えた。
恋愛感情とは呼べない。
どっちかっていうと、友情とか、親愛とかそんな感じだ。
エリオットから寄せられる好意は、どこまでも大げさで艶っぽくない。
(気持ちいい・・・・・)
恋愛感情じゃない、彼の愛情は心地いい。どこまでも甘やかしてくれる安心感がある。
好かれているのを素直に受け止めることが出来る。
そして、泣きそうになった。
あったような、なかったような。
(二度とエリオットが好きだなどと言えないようにしてやる)
低く放たれた男の声を思い出して、アリスはエリオットの腕の中で震えた。
後ろ暗いとまでは言わない。言わないが、アリスがブラッドの腕の中で、一体どんな声を上げて、どんなあられもない姿で強請っているのか、そして、それを甘受しているのか、エリオットには知られたくないと思う。
自分とブラッドの関係が、あったようななかったような、微妙なものだと言う事も、知られたくない。
もし今、エリオットが、ブラッドと同じように自分を求めてきたら。
そっと彼の腕を押して、アリスは顔を上げる。
「アリス?」
じっと覗きこんでくる瞳が心配そうで、彼女はふわりと笑って見せた。
きっと、そんな事になったら、私は全力で拒むだろうなとそう思う。
この友情を壊したくないから。
そして、絶対にそんなことにはならないと、そう信じても居る。
ああ、なんて自分はずるいんだろう。
「―――ありがとう、エリオット」
大丈夫よ。
だから、不安定で泣きたくなるブラッドとの関係と比べて安心するのだろう。
そっか、と心底嬉しそうに笑った彼に、ほっとしていると、不意にエリオットは表情を強張らせ、鋭い視線を周囲に向けた。
同じようにそちらを見て、アリスはぎくりと肩を震わせた。
ゆっくりと、カフェの前の通りを、片足の無い男が歩いていく。数名の部下を引き連れているところを見ると、やはり彼はどこかの組織の長なのだろう。
ちらとこちらを見る。
柔和な笑顔。
温厚そうな、良い人のように見える男は、エリオットではなくアリスを一瞥して、立ち去っていく。
背中に冷たい戦慄が走るのを感じ、身震いした。
視線のどこにも殺気など無かった。無かったが、一瞬、アリスは衣服を剥ぎ取られて、その身の全部を曝したような錯覚を覚えたのだ。
暴かれたくないものを、暴いていく存在。
後ろ暗いものに寄り添い、促し、骨までしゃぶる存在。
マフィア。
「あいつ・・・・・自分んとこが目を付けてた場所を俺らにかすめ取られたから気ぃ立ってんだ」
気をつけろよ?
そう言うエリオットに、アリスは「ひょっとして劇場?」とかすれた声で尋ねた。
「ああ。完成までに何事もない・・・・・なんてわけないからな。せいぜい気をまわさねぇと」
ぱしん、と拳を掌に押し当てて彼は気合を入れる。
エリオットの視線も、すでに「悪いお兄さん」だ。
(やっぱり・・・・・私が踏み込めない世界だわ・・・・・)
同時に、こんなエリオットの冷たく、他人を蹴落とす雰囲気の側面を束ね、信頼されてトップにいるブラッドは恐ろしい存在だと想い直す。
行きも戻りも出来ない関係。
(それでいいのかもしれないわ)
そろそろ行かなくちゃ、と片足の男を見送ったエリオットが早口で言う。おそらく、彼が動いたのを見て、次の手のスタートを早めたのだろう。
何の取引か知らないが、なにかあるらしい。
「アリスも、今日は早く戻れよ!夜になっちまったら物騒だから」
釘を刺されてしまう。
大丈夫よ、と笑みを返して、アリスはエリオットと別れた。
一人で考えたい事がある。
(まあ・・・・・いつも一人でうじうじ考えてるんだけどね・・・・・)
溜息をついて塔を目指して歩きながら、アリスは途中で足を止めた。
ベンチが有って思わず座りこむ。
頭の上には綺麗な晴天が広がり、人は楽しそうに忙しそうに物騒に、歩いていく。
そのどの人生にも、自分はなり変われない。
抜け出すのなら、ドアをくぐればいい。
そうすれば、一応「ここ」からは逃れられる。
(私は行きたいのかしら・・・・・)
デーヴァの事を考えると胸が痛み、アリスは溜息をついた。
そうなのかもしれない。
ブラッドに愛されたい。
自分が想っているように、想ってほしい。
(サイアク・・・・・)
エリオットがうらやましい。見返りの無い愛なんて素敵じゃないか。
いいや、エリオットは信頼されている。
きちんとブラッドの為に仕事をして、今だって、慌ただしく出て行ったじゃないか。
きちんと、信頼されているから、ちゃんと返そうとする。信頼する。敬愛できる。
「私はなんなのかしら・・・・・」
愛してはいないと言われた。
メイドの仕事は蔑ろにされる。
エリオットを好きだと言えば、無茶苦茶にされてしまう。
一体何だ?
(玩具・・・・・)
お気に入りの、決して逆らわない、彼の玩具。道具。仕事はせずに、彼の与えてくれたものを着て、食べて、中身のない言葉に「嬉しいわ」と返す、意思のない存在。
(・・・・・を演じてほしいのかしら・・・・・)
間違っても、自分はそんな存在じゃない。
逆らうし、怒鳴るし、泣きだすし、最悪だ。
(そこが面白がられている・・・・・?)
じゃあ、抱かれるのはどうしてだ?執拗に触れてくるのは何故?
不意に、ぱあん、という乾いた音が響き、はっとアリスは顔を上げた。わあ、と人々が逃げ惑うのが見え、唐突に街中で銃撃戦が始まった。
(まずっ)
座りこんでいる場合ではない。どことどこの抗争かは知らないが、撃たれたくない。
足早に、人の波に乗ろうとして、アリスは尚も続く銃声に気を取られた。
振り返る。
ぎくん、と彼女の身体がこわばり、足が止まった。
どことどこの抗争。その、一つがどこなのか、判った。
帽子屋ファミリーだ。
ふるい落とされる斧。ぱっと空に咲く朱。引かなきゃ死ぬよ?と笑顔で叫ぶ血濡れの門番に、応戦する顔なじみの使用人。そして、ディーヴァの手を引くブラッドが居た。
彼女を護るために、ファミリーの皆は真剣に相手と撃ち合っている。ブラッドだけが、いつもとかわらずやる気の無さそうな表情で、無造作に彼女を近くの通路に押し込める。
尚も、顔を出そうとする彼女に何か告げるブラッドが、遠目にもよくわかった。
明らかに不機嫌そうだ。
同じように壁に隠れてそんな様子を見ていたアリスは、唇をかんだ。
あの歌姫は、劇場のメインだ。護るのは当然だろう。それだけの価値がある。
ずきり、と胸が痛んで、アリスはそれ以上ブラッドとディーヴァのやりとりを見て居たくなくて、そっと立ち上がった。
逃げる群衆の波からは取り残されたが、逃げ切れないわけじゃない。
この撃ち合いの場を離れればいいのだ。
(どっちに・・・・・)
周囲を見渡して、一つ高い建物の窓から、ライフルを構える存在をアリスは見てしまった。銃口が捉えているのは・・・・・。
「駄目っ!!!」
瞬間、何も考えずにアリスは壁の陰から叫んでいた。この銃撃の激しい音の中で、ブラッドはアリスの声に気付いた。と、同時に己を狙う銃口にも。
あっという間もなく、ブラッドが何の気概も構えも動揺も見せずに、無造作に傍に居た部下からライフルをもぎ取ると、ぱあん、と一発だけ放った。
重いものが落ちる音がして、アリスは裏路地に立ち尽くす。振り返れば、見たくないものを見ることになるのは、嫌というほどに判った。
踵を返して逃げなくては。
ようやくそれだけ考えて、アリスは路地を出ようとした。次の瞬間、手首を掴まれて引き寄せられる。
立っていた場所の石畳が火花を散らし、ぞっとする間もなく、引きずられるようにして走り出していた。
「まずは礼を言おうか」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
まずは。
俯いたままのアリスは、クローバーの塔のブラッドの部屋に居た。あれから、撃ち合いは沈静化し(ほとんどがディーとダムの活躍による)デーヴァも無事に帰すことが出来た。
ただ、彼女は少し物足りなさそうな、不満そうな顔をしていたが。
(約束でもしてたのだろうか)
ブラッドと。
でも、アリスが居たから、それは不意になったような感じだった。ブラッドは頑としてアリスを塔まで連れ帰ると言って聞かなかったし。
その理由も判らない。
(放っておいても帰れたのに・・・・・)
「で、君はあそこで何をしていたんだ?」
ベッドに座る男が、詰問する。立ったまま、彼の上着を抱えていたアリスは「気晴らしに出てただけよ」とそっけなく答えた。
「一人で?」
上目遣いに睨まれる。嘘を言おうかと、アリスはぎりぎりまで考えた。だが、あのブラッドに忠実で、ブラッドから信頼されているウサギさんは「自分が居ればこんな目に彼女を合わせなかった」などと言いそうだ。
そうなると、更に悲惨な事になる。
「エリオットとお茶を飲んでたわ」
そう言うのと同時に、部屋の温度が下がったのが判った。
びり、と肌に振動まで感じる。
「・・・・・エリオットと・・・・・」
目が合わせられない。抱えている彼の黒い上着だけを見つめ、アリスは否定も肯定もしなかった。微かに硝煙の香りがする。
「君は・・・・・エリオットが好きなんだったな?」
皮肉だ。
そう言えなくしてやると、そう言っていたその口が、確認するように尋ねるのは、皮肉以外の何物でもないだろう。
だから、アリスは震えそうになる声を、どうにか無表情にして「ええ」と短く答えた。
「好きよ」
貴方とは全然違う意味で。
付け足すべき言葉を飲み込み、言い放つ。
ぐ、と腕を取られて、勢いよくベッドに放り出される。倒れ込んだ彼女の両手を、自分の上着で縛り上げて、ブラッドは心底不機嫌そうな眼差しでアリスを射すくめた。
だが、彼女はそんな視線を真っ向から受け止めて、睨みかえした。
「貴方はどうなの?」
「何がだ」
静かに怒鳴られたような心境だ。反論する言葉すら出てこない、胃の腑が震える恐怖。でも、負けじとアリスは言葉を続けた。
「好きなんでしょう?」
あの歌姫が。
精一杯皮肉をこめて笑ってやった。どこまでそれが通用しているかは、判らないが。
だが、ブラッドは意外な事をいわれた、とばかりに目を見開き、自分が組み伏せている女を眺めた。
「私が、彼女を?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
視線を逸らす。
二人で会っていたじゃない、なんて甘ったるすぎて砂を吐きそうな台詞が喉までせりあがるが、アリスはこらえた。
代わりに、自分がどんな顔をしているのか、気付かない。
泣きそうな彼女の表情を、しばらく眺めた後、ブラッドは小さく笑った。
「何が可笑しいのよ」
切り返すと、「ああ、いや」とブラッドは妙に機嫌よさそうに答えた。
さっきまで、殺してやる、とでも言いたげなほどの眼差しで自分をみていたのに、今は愉しくてしょうがない、というような喜色を浮かべてアリスを見下ろしている。
「ナルホド・・・・・君は嫉妬しているのかな?」
「っ」
嫉妬。
そうだ。
嫉妬している。
ディーヴァにはもちろん、エリオットにも。
視線を逸らし続ける彼女の頤に手を掛けて、強引に振り向かせる。悔しそうな彼女の、赤く染まった目元に満足し、ブラッドは唇を寄せた。
「悔しくて、泣いているのか?」
舌先が、目じりに触れる。
「泣いてない」
低く言い放つと、「それは失礼した」と神経を逆なでする口調で言われてしまった。
悔しい。
こんな男の所為で、嫉妬しているなんて、悔しい。
(エリオット・・・・・)
無意識のうちに、彼女はブラッドの2の姿を思い描いていた。彼のようにブラッドを愛せれば。
盲目的に、彼だけを愛して、他の何も取るに足らないと思えたら。
報われなくても、信頼されたい。
「君が嫉妬に狂ってくれるのなら、これほど楽しいことはない」
「勘違いしないで」
首筋に口づける男に、アリスは呻くように言った。
「進む気も、戻る気もないくせに」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「嫉妬じゃないわ、こんなの。喜ぶようなことでもない」
「・・・・・・・・・・・・・・・何がいいたい」
「意味がない」
言い切り、アリスは泣きそうな自分を押し込めた。
「意味が無いわ。無い。全然ない。だって貴方は私を愛してないもの」
言い放ったアリスはしかし、自分の言葉に夢中で、唐突に口づけを止めた男に気付かない。
「ほう?」
掠れた声が耳を打つも、あふれてしまいそうな感情を押さえ込むアリスは、やっぱり気付かない。
代わりに、せせら笑った。
「嫉妬が欲しいなら、他を当たればいいわ。ああ、歌姫さまは勘違いして嫉妬しかかってたわね。」
いい迷惑だわ。私は貴方のそんな存在じゃないのにね。
「でも貴方は愉しいんじゃないかしら」
歌姫さまに嫉妬されて。
すっと、身体の上から重みが引き、アリスははだけた衣服のまま、ベッドの上からブラッドを見上げた。
「・・・・・・・・・・君は」
ちらと彼女を見つめ、ブラッドはしばらく考え込むと、アリスには高度すぎて読み取れない表情で彼女を改めて見た。
「愛されたいのか?」
「――――――」
返す言葉が無い。
固まったアリスに、ゆるやかにブラッドが哂った。完全に優位に立っている。違う、という否定を口にしない間に、ブラッドは「面倒な事だ」と言い放った。
信じられないくらいに、胸が痛んだ。
涙が出そうなほど。
ああ、知ってたのに。
深みにはまったら戻れないと。この森は深くて迷いやすくて、ふらふら踏み込めば捉えられて戻れないと。
茨の茂みに突入して、戻るにも進むにも、傷つかなくちゃならなくて。
「面倒だな」
重ねて言い、ブラッドは彼女の腕の拘束を解くと、甘い甘い口付けを落とした。抱え込んで、口づける。深く浅く。舌を絡めては戯れに唇を噛んで。
アリスがどんどんみじめになるような口付を繰り返す。
やがて彼女を後ろから抱えて横たわったまま、ブラッドは白く細い首に痕を残した。
「アリス」
低く柔らかな声が耳を打つ。
「私は、面倒事は嫌いだ。」
「・・・・・・・・・・」
「だが、それ以上に退屈が嫌いだ」
意味は取れない。取れないが、腹部から胸部に向けて伸ばされた彼の手が、リボンを解き、スカートの裾から侵入するのを感じて、目を閉じた。
愛してほしいと、勘違いした男が、面倒だと言いながら、身体に触れる。
身体に触れられて、愛していると勘違いしたい女が、勘違いを否定して、無償の愛を求めて部下に嫉妬する。
何を求めているのか、まったくわからない。
判らないが、自分たちは恋人同士じゃないということだけは判って、アリスは抱える腕に、反抗しようと爪を立てる。
進めない、微妙な距離を保ったまま時は流れ、止まらない。
(2009/10/31)
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