Alice In WWW
- 気付かれたら、もう戻れない
- 指一本触れないなんて、ないがしろにしていたとしか言いようがない。
愛情があったなら、君を抱いたはずだ。
(なら何だっていうのよ・・・・・)
最新の注意を払って、アリスはベッドから抜け出す。正確に言えば、己をとらえている男の腕から、だ。
(愛情が無いのに抱けるこの男はなんなのだ)
アリスの元恋人を四の五の言える立場にはないではないか。
最低。
本当に最低な男だ。
(まあ・・・・・マフィアのボスなんだから、最低なのも正しいんだろうけど)
もっと最低なのは、そんな彼に傾いている自分の方だった。
手に手を取って、見つめあって、愛を語りあう。
想い想われ、愛の確認の為に身体を繋ぐ正しい恋人の姿に、アリスだって憧れるものがある。
これでも一応「女」なのだ。
それなのに、そんな、「身体を許すのはこういう場合」という常識と言うか、自分のルールをあっさり踏み越えて、更には、最低だと思っていた「身体だけの関係」に甘んじようとしている自分に腹が立つ。
いや、身体だけの関係じゃない、とアリスはベッドに沈む、マフィアのボスに剥ぎ取られた衣服を身にまといながら、重い思考の内に考える。
身体すら目当てにされていないだろう。
当然だ。
胸が有るわけでもないし、肌がきれいな訳でもない。経験なんかブラッド以外に無いし、ろくな反応も返せない。相手を喜ばせる技術など、逆立ちしたって出てこないのだ。
そんな女を、「身体目当て」で抱く男がどこに居る。
大体、放っておいたってこの男はモテるのだ。アリスに・・・・・というか、屋敷のメイドに手を出すほど困っては居ないはずなのだ。
(なのになんで・・・・・)
自分の胸元に散っている赤い華。よく見れば腕にも腹にも、首をひねれば腰にも見える。おそらく、足のトンデモナイ場所にも有りそうで、アリスは目を瞑ると、深い溜息をついて服を着ていく。
単なる暇つぶし。珍しい余所者だから。自分に似ている恋人を、アリスがいつまでも想っているから。
そんな彼女の甘い甘い記憶を粉砕してやろう。
(最低だわ・・・・・)
マフィアのボスらしいと、アリスは心から思った。人をおもちゃにして、人の気持ちを踏みにじる。
誰かを大切に思い、彼に対して操を守る女を、踏みにじって蹂躙する。
ああ、それこそ悪人に相応しいではないか。
そんな風にブラッドが退屈しのぎに考えてアリスに手を出しているのだと、そう思う。
だがしかし、アリスはそんな男の思考に水を差しているのだ。
(だって・・・・・私は・・・・・)
先生に抱かれたかった。確かな愛の証拠が欲しかった。それが身体を繋ぐことなのかと言われたら違うが、それでも、こうやって蹂躙するだけの男の方に「求められている」と「唯一」を感じてしまうのだから、そうなのかもしれない。
それが腹立たしい。
腹立たしい上に、哀しい。
結局、自分は許しているのだろう。
こんな風に、ただ「暇つぶしの為」に抱かれることを。
それが、その他大勢の彼の女と同じでも。
それでもいいと思うほど、アリスはブラッドを・・・・・
「どこに行く?」
おぞましい単語を認定しそうになったアリスに、ぞっとするほど冷たい声が掛った。その、冷たい声にすら救われた、と思いながらアリスは振り返った。
「帰るのよ」
自分の部屋に。
小さな声で答え、アリスは下着姿の自分を隠すように、夜色のドレスを胸元に抱きこんだ。
「まだ夜だ」
「そのうち変わるわ」
「・・・・・・・・・・砂時計」
漏らされた、酷く愉しそうな声に、アリスははっと顔を上げた。ドレスのポケットを探すが、唯一アリスの味方で有るはずの魔法道具は見つからない。
大儀そうに腕を動かした男が、ベッドサイドから、小さな砂時計を持ち上げた。
「・・・・・・・・・・・・・・・返して」
低い声でいえば、男が愉しそうに喉で笑った。
「嫌だと言ったら?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「奪い返してみるか?」
君になら出来るかもしれないぞ?
にいっと口の端をゆがめて哂う。
言い返そうとして、アリスは黙った。
ブラッドはベッドの中で、自分との距離は結構ある。ドレスをかぶって、ドアから飛び出せば逃げおおせる事が出来るだろう。
砂時計は惜しいが、またどこかで拾えばいいし、誰かとゲームをしてもらえばいい。
とにかく、ここには居たくない。
溜息をついて、さっさと部屋から出ていこうとするアリスの腕を、ブラッドが掴んだ。
全てが気だるく、退屈そうな男にしては、迷いのない動きで、アリスは驚いて顔を上げた。
「夜の間は、傍に居る約束じゃなかったか?」
約束。
それは、昨夜、会合に行くのを渋った彼を無理やり部屋から追い出すために言った台詞だった。
次の夜には傍に居るから、今は会合に出て。
この世界のルールを全うさせるために、そう言った台詞を、男は持ち出し、緑の瞳にアリスを映す。
哂う男を睨みつけ、諦めたように彼女は深い溜息をついた。そのままベッドに引きずり込もうとする自分の主人の肩を、アリスは押した。
「嫌」
「どうして?」
さんざん弄ばれたのだ。もうしたくない。出来れば戻って寝てしまいたい。
下半身は重く、身体は鉛を飲んだよう。
「だるい」
ブラッドの口調を真似て言えば、覇気のない彼女の眼差しに気付いたのか、男が顎に手を当てて考え込んだ。
「そうか・・・・・なら」
このまま寝かせてほしい。
心の中で訴える彼女を、しかし男はあっさり無視した。
「出かけるか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
目が点になっている彼女は、気づいたら胸元の赤い華を気にしながらとある店のソファに座りこんでいた。
隣にいる男が店員に何か注文している。落とされた照明と、ピアノの艶のある音が空間を満たしている。二階席に通され、アリスは落ち着かなく辺りを見渡した後、タバコを咥える男をまじまじとみた。
黒のスーツには、トランプマーク。薔薇と羽の散った風変り・・・・・というか、変な帽子。それでも、足を組んでソファにもたれて座る男は絵になった。
とんでもなく悪そうで、普段の彼女なら、絶対にお近づきになりたくない人種にちゃんと見える。
なんでこんな男の隣に居るんだろう・・・・・
己のポジションの、明らかにおかしな事に眩暈がした。
一言でいえば似合っていない。
移り行く夜の空を体現したようなドレスは、シックな感じだが、こういう雰囲気の店には不似合いなくらいひらひらしている。髪を結えているリボンもしかりだ。
店員が再び現れ、二人の前にグラスを置いた。綺麗なピンクのグラデーションを描くカクテルが自分の前に有って、彼女は奇妙な顔でそれとブラッドを比べた。
多分強いお酒。それをロックで飲んでいる男が「どうかしたか?」と柔らかく微笑んだ。
(いかんいかん・・・・・)
騙される。勘違いする。自分はこれっっっっっっっぽっちもこの男の隣もこの店にも馴染んでいないのだ。
笑みを向けられても、その意味を勘違いしてはいけない。
「別に」
そっけなく答えようとしたら、出来た。ブラッド程ではないが、なんとか、彼に憧れたような惹かれたような気持ちになっていたのを隠した。
勢いでカクテルをあおると、甘くておいしい。
かぱかぱ呑みそうなアリスの様子に、男が小さく笑った。
「口当たりは良いが、結構キツイ。」
「そう」
それでも、グラスに口を付ける。
飲まなくちゃやってられない。
(ああ、こういう気分を言うのね・・・・・)
と、今まで静かに流れていたピアノの音が止み、ブラッドの視線がアリスから外れた。顔を上げる彼女は、彼にならった下の階に視線を落とした。
「最高の誉れ高い歌姫だよ」
中央のステージ。グランドピアノの隣に現れたのは、純白のドレスをまとい、金糸の髪を高く結い上げた女性だった。手足が長く、スリットから覗く太ももが艶めかしかった。
彼女はゆるりと客席を見渡した。
顔なし。
役なし。
なのに彼女は辺りの空気を飲み込んでいく。時間を引き寄せる。
顔なしで、特徴が無いはずなのに、綺麗なのが良くわかった。
「・・・・・彼女は役なしよね?」
目が合い、にっこり微笑まれてアリスは戸惑いがちに隣の男に声を掛けた。
「面白いだろう?」
ふと、普段とは違う声を聞いて、アリスはどきりとした。歌姫の視線がブラッドと交わる。彼女が浮かべたのは普通の笑みだったろう。
だが、アリスは肌で感じた。
見下ろすブラッドの目が優しいのにも気づく。
ああ、ナルホド。
ずきり、と心臓が痛む。だが、アリスは気付かないふりをした。数回深呼吸をして跳ね上がった鼓動を抑え込む。
別に大したことじゃない。
彼女が、ブラッドの興味を引く、退屈しない対象。
唯一になりうる存在。
(いや、多分唯一なのかも・・・・・)
彼女は綺麗でスタイルもいい。並んで立ったらさぞ似合うだろう。
こんな大人な空気が漂う場所にも、普通に馴染むだろうし、屋敷の人間も帽子屋ファミリーの構成員も彼女ならと納得するだろう。
(へー・・・・・)
ゆるりと辺りを見渡した彼女が、低く歌いだした。
低く、静かに。地を這う低音。
そこから、徐々に歌は盛り上がり、つぼみが膨らみ、華が咲くように、音が開けてはじけていく。
雨が降るようだ。
音の粒が、雨になって落ちてくる。
時折光り、しずくに映る世界が反転する。
静かな水面をさざ波立たせ、世界を無音にする音。声。言葉。
アリス。
不意に姉の声を聞いた気がして、アリスはぎくりとした。
「アリス?」
ふと気付くと、辺りには雨音がこだましていた。この世界に雨は無い。我に返ったアリスは、それが拍手の音だと気付いた。
「え?あ・・・・・」
息を吸うのを忘れていた。慌てて深呼吸し、ぎこちなく拍手を送る。いつ終ったのかも気付かなかった。
どれだけ長い間彼女が歌っていたのかも忘れている。
「彼女は・・・・・」
喉が枯れてうまく言えない。
時を操れるのだろうか。
一瞬を永遠に引き延ばしたような、そんな気になる。
役なしなのに。
「・・・・・・・・・・貴方が気にいるのが良くわかったわ」
心の底からそういうと、微かに眉を上げたブラッドが手を伸ばした。隣に座るアリスの頬に手を添えた。
「?」
そのまま彼の指の背が目じりを拭い、黒の手袋に浮かぶ水滴に彼女は眼を瞬いた。
ぽろっと、残っていた涙の粒がこぼれた。
「あ・・・・・」
それにつられたように、ぽろぽろと涙がこぼれて、アリスは慌てる。
ブラッドは何も言わない。
ただ、アリスを引き寄せて腕の中に閉じ込めた。
「ちょっと」
特別席とはいえ、一応、屋敷の部屋や塔の一室ではない。周囲には部下が控えても居るのだ。
「泣くほど良かったのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・貴方が言うと卑猥に聞こえるわ」
「ああ、君はそっちで啼かされるほうがお好みか」
「誰も言ってないわよっ!」
押しのけようとすると、不意に彼の纏う空気が刺すような不機嫌なものに変わるのに気付いた。不本意ながらブラッドと肌を重ねている身分なので、彼の機嫌の良し悪しは何となく判る。
ちらと後ろの通路を振り返ると、支配人と思しき黒服が立っていた。
「ブラッドさま」
彼は、挨拶がしたい人が居ると、ひそやかに告げた。再び彼の空気が変わる。
「誰だ?」
視線を向けた相手を射殺しそうな、鋭い眼差し。立ち尽くしそうになる、凄味を帯びた声。絶対零度のそれに、支配人は一歩引いた。代わりに姿を現したのは。
(あ・・・・・)
どくん、と心臓がはねて、アリスは慌てて彼を押しやった。ソファに座りなおし、グラスに視線を注ぐ。
彼の口からこぼれた、相手の名前に、アリスは耳をふさぎたくなった。
塞ぎたくなって、そして、みじめになる。
これは違う。
こんなのは違う。
平静を装うように、ブラッドに気付かれないように深呼吸し、ブラッドの向かいに腰を下ろしたディーヴァに視線を向けた。
彼女はブラッドだけを見ている。
ブラッドも彼女だけを。
(・・・・・・・・・・・・・・・)
二人の空気。肌に感じる空気。
平静でいなくては。
私はブラッドの部下なんだから。
「お久しぶりね?」
そう言って笑う彼女を見つめながら、アリスはただの小娘でしかない自分が、恐れ多くもブラッドに抱きそうになっている感情に気付かれないようにと祈った。
気付かれた瞬間、戻れなくなる。
どこに?
「いい歌だったよ?」
微笑むブラッドを見ないように意識しながら、アリスは息を殺し、自分がただの「顔なし」になることを切実に祈り続けた。
(2009/10/09)
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