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 7 うん、だからもう、後戻りはしない



 突然の銃撃戦。アリスは慌てて広場の植え込みの陰に隠れる。大勢の靴音と怒号、悲鳴が聞こえ、アリスはぎゅっと目を閉じた。
 そうやってやり過ごす。
 そう頻繁に銃撃戦に巻き込まれる事はないが、皆無とは言えないのがこの世界だ。

 アリス自身、何度かこう言った場面に遭遇し、辛くも逃れてきている。

 総じて命の軽い世界。

(間違ってるわ、こんなの・・・・・)

 代えが利くからと言って、こんなに簡単に奪ってしまって良いものではない。
 だが、それを友人に言えば、皆揃って複雑な顔をする。仲良しの顔なしのメイドさんもハートの兵士さんも、漏れなく全員だ。

(間違ってる・・・・・)
 アリスにとってはどの人も「その人」で、代えなんか利きっこないのに。彼らは平気で殺されるし殺す。
 物騒な世界。

 ようやく騒動が収まり、耳に痛い銃声も止んでいる。そろっと目を開けて、アリスは通りを慎重に覗いてみた。

(あ・・・・・)

 倒れ伏し、動かぬ人々。石畳を染め上げる鮮血。
 何度見ても悪夢のようなその世界で、白と黒のコントラストを描いて佇むのは、アリスが訪れる屋敷の主だった。

 彼の表情は、その特徴的な帽子の影になって見えない。見えないが、彼の嫌いな昼の光の中で、その所作だけは良く見えた。
 何ともだるそうに、倒れ伏している人間を蹴り上げている。
 ひっくりかえるのは、元・人間だったモノ。
 今は動かず、溢れる血にまみれているが、それは自分のものなのか他者のものなのか判らない。

 と、詰まらなさそうに倒れ伏す男を見詰めていた彼は、無造作に持っていたマシンガンを構えた。

(っ!?)

 銃口が向けられるのはこちら。ようやく見えたその表情は気だるげで、持ち上げられた手にも覇気は感じられない。だが、火を噴く銃口が捕えたのは、アリスの真後ろに居た人間だった。

「――――――っ!!!」

 彼女が壁に引っ込むのと同時に放たれた銃弾は、彼女が膝を付いて身を乗り出していた石畳を掠めていく。耳を塞ぎ目を塞ぎ、声にならない悲鳴を飲み込むアリスの横に、ハチの巣にされた男が赤い血を撒き散らして倒れ込んだ。

 目を開ければ、多分、悪夢のような現実にしか辿りつかない。
 かたかたと震える身体を、より一層小さくして、膝を抱えるようにしていると、不意に血と硝煙の香りが濃くなった。

「こんな所に居ては危険だよ?お嬢さん」
 普段とまるで変わらない声音。おい、と後ろに控えている部下に声を掛け、目を閉じるアリスは、ずるりずるりと石畳の上を、何かを引きずるような音だけを聞いた。
 顔を上げる事が出来ない。

 石畳にへたりこんだままのアリスを見下ろし、男は膝を折るとそっと耳を塞ぐ彼女の手首を掴んだ。

「っ」
 ひゅっと息を吸い込むアリスの身体が、緊張に震える。びくん、と揺れた肩を眺め、男はそっとアリスの目蓋にキスを落とした。
「・・・・・ブラッド」
 掠れた声が喉の奥から漏れる。
「ああ、まだ目は閉じていなさい」
 開こうとする彼女の目蓋に手を置いてから、ブラッドはそっとアリスを抱き上げた。そのまま深く懐に抱きこむ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 咽かえる様な血の匂い。普段のブラッドの香りがしない。

(悪夢だわ・・・・・)

「あとは頼んだ」
 返事をする部下を残し、ブラッドは大事に押し抱いたアリスを連れてゆっくりと歩き出す。
 何も言わないアリスを、ちらと見下ろしてブラッドは低く切り出した。

「さて、お嬢さん」
「・・・・・何?」
「ハートの城まで送ろうか?」
 立って歩けそうもないし?

 くすっと笑いながら言われ、アリスはゆっくりと目を開けた。街のざわめきが遠い。こつこつと石畳を踏むブラッドの足音だけがしている。
 空気が揺れるたびに感じる、鉄のような血の匂い。

 アリスは唇を噛んだ。

「貴方に会いに来たんだもの、まだ帰らないわよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「降ろして」
 歩くから。

 きっと見上げる翡翠の瞳に、ブラッドはやや目を見開く。それから何とも言えない笑みを返した。

「血の匂いはお気に召さないか?」
「当たり前でしょう」

 間髪いれずに答える彼女をおろす。そのまま彼女はブラッドから距離を取るのかと思ったが、そうではなかった。

 微かに白く、震えている指先でブラッドの上着を掴む。
「?」
 引っ張られ、彼女に身を寄せたブラッドは、細く青白い指先が自分の身体を這う様に息を呑んだ。
「・・・・・・・・・・」
「怪我は・・・・・してないわね?」
 ところどころにほつれが有る。滲んでいる朱も。だが、彼自身が怪我をした様子はなく、ようやくアリスは溜息を吐いた。
 ほっと、安堵したようなそれに、ブラッドは更に瞠目した。
「君は・・・・・おかしな子だ」
 思わず、という雰囲気で零されたブラッドの台詞に、アリスはぎゅっと手を握りしめ、しかめっ面でブラッドを見上げた。
「おかしいのは貴方よ」
「・・・・・・・・・・何故?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 平気で人を殺せる事が、だろうか。でもそれは、この世界にしてみればどうという事の無い日常だ。
 ただ、余所者のアリスが受け入れ難いと言うだけで。

「私の持っている常識では・・・・・貴方はおかしい人になるのよ」
 曖昧に濁して言えば、彼の碧の瞳が、楽しそうに歪むのが判った。
「そうか」
「そうよ」
「君も十分おかしいよ」
「・・・・・それは貴方の持っている常識では、でしょう」
「・・・・・普通、あんな場面に出くわしたら、付き合いを考えるのではないのかな?お嬢さん」
 距離を詰め、耳元で囁かれた台詞に、アリスはどきりとする。

 確かに怖いと思った。
 身体が震えるほどの恐怖も感じた。

 だが、それ以上に怖い事が有った。

「そうね・・・・・貴方に近づいたら、ろくでもない事になるって気がするわね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 見詰める碧の瞳から、何も読みとれない。
 いや、読みとろうと思えば読みとれるのだろうが、アリスには高度すぎて無理だった。
 だから、その複雑極まるブラッドの心情など無視して、彼女は一気に言った。

「いつ、貴方が消えてしまうんだろうかって・・・・・気が気じゃないわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 ぎょっとするブラッド、なんて初めて見たかもしれない。
 心底驚く彼を見上げて、アリスは彼の白い上着の裾を引っ張った。

「本当に、怪我してないんでしょうね?」
 上目遣いに、睨みつければ、史上最大に長い沈黙を護っていた男が、「ああ」と掠れた声で応じる。

「なら良いわ」
 言い捨てて、アリスは彼に背を向けて歩きだす。いくらか歩調が荒い。
 こみ上げてくる涙を悟られたくなくて、アリスは乱暴に歩いた。

(末期だわ・・・・・)

 スカートの上から、彼女は自分の大事なガラス瓶を握りしめる。ちゃぷんちゃぷんと、透明な液体が揺れる。
 これが口一杯まで溜まったら、アリスは帰らなくてはならないと言うのに。
 涙が落ちそうなほど、不安だなんて、どうかしている。

「アリス」
 やや遅れて彼女の後ろを歩いていた男が、声を荒げ、彼女の肩を乱暴に掴んだ。

「何?」
 振り返れば、おもむろに男がアリスを抱き上げた。
「ちょ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 そのまま、アリスの歩調よりもさらに早く歩きだす。屋敷に続く小道。木陰に日差しが遮られ、ちらちらと明るい光が差し込む道。
「・・・・・・・・・・君は」
 そのまま屋敷まで黙りとおすのかと思ったブラッドが、ゆっくりと口を開いた。横抱きにされているアリスは、ふと見下ろす顔を見詰めた。
 視線が絡まる。

「私が心配なのか?」
 前にも言われた言葉だ。彼が怪我をした時に。

 血の香りと硝煙の臭い。

 唇を噛み、アリスは視線を逸らす。

「こんな物騒な香りがする人を、心配するなんて馬鹿みたいだけど・・・・・」
 生憎私は、血の匂いも硝煙の匂いも苦手なの。

 知らず、アリスの指先が、ぎゅっとブラッドの上着を握りしめた。

「不安になるのは当たり前でしょう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 やがて屋敷の門が近づき、ブラッドはそっとアリスを下ろす。ゆっくりと門が開き、ブラッドは彼女を中に入るように促し、アリスの頬に手を添える。

「洗い流してくるから、待っていてくれ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 そっと頬を撫で、耳を掠めた指先が顎を捕える。ちゅっと軽いキスをその頬に落とし、ブラッドはくるりとアリスに背を向けた。
 歩いて行く広い背中。それを見送り掛けて、アリスは慌ててその後を追う。
 と、ふわりと甘い香りがして、彼女ははっと立ち止まった。どこからともなく漂うのは薔薇の香り。

「あ・・・・・」
 手を伸ばし、耳元に触れて、そこに咲く一輪の薔薇にアリスは気付いた。髪から引き抜くと、それは更に甘い香りでアリスを満たす。

 酷く心地よく、安心する香り。

「・・・・・・・・・・」
 普段の彼の香り。

 暗いのも、物騒なのも、血の匂いも、苦手。

 何故ならそれは、アリスから大切なものを奪って行くかもしれない危険因子だから。

「ブラッド・・・・・」
 ぎゅっと目を閉じて、アリスは薔薇の花に顔を埋める。甘い香りがアリスを満たしていく。

 いつかは帰らなくてはならない。
 この気持ちに蓋をして。

 でも今だけは、浸って居たい。
 ここに。


 彼から石鹸の香りがする。
 触れる指先が暖かく、いくらか髪が湿っている。
 柔らかく軋んだベッドの上は、普段と変わらない、清潔な匂いと、甘い薔薇の香りがする。
 枕元に散らされた、紅の薔薇。
 ベッドサイドのランプがゆらゆらとオレンジに輝き、見下ろすブラッドのシャツが淡く金色に輝いて見える。
「灯・・・・・」
 消して、と言おうとするアリスの唇を、柔らかく塞いで、「苦手だろう?」とブラッドが楽しそうに笑った。
「暗いのは」
 かあっとアリスの頬が熱くなる。
「それに、君を不安にさせるようなものは何一つないから安心しなさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 そっと伸ばしたアリスの手を、ブラッドがゆっくりと掴んで首に回す。頬に触れる体温が、心地良い。
 柔らかく強く抱きしめられて、アリスは目を閉じた。

「安心したか?」
「・・・・・・・・・・貴方と一緒に居て、安心出来た試しがないわ」
 皮肉で応じれば、彼がくすりと笑った。
「そうかもしれないが・・・・・ここには、君を不安にさせるものは何一つないよ」

 するっと彼の手がスカートの裾を這い、ゆっくりと柔らかく肌を撫でていく。手の甲に触れる、彼女のスカートのポケットとその中身。
 重たく冷たい、壊れそうもない小瓶。

 彼女に気付かれないように、ブラッドはすっと目を細めた。

「不安にさせるものが有れば、全て排除しよう」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 耳元で囁かれた甘い言葉。それの意味を、アリスは取り違えた。

「もう、怪我しない?」
 掠れた彼女の声に、ブラッドはふわりと微笑む。ゆっくり彼女から衣服を取り除きながら、その赤く震える唇に口付けた。
「そうだな・・・・・そういう嗜好はないから、安心しなさい」
「そう言う意味じゃないわよ」
 思わず半眼で言う彼女を乱し、喘がせ、貫きながら、ブラッドは耳元に吹き込んでいく。

「君を悲しませない」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「だから、ここに居なさい」

 甘やかに言われ、アリスは目を閉じたまま、答えない。


 アリスは帰らなくちゃならない。
 ならないのに。

「私は・・・・・」
 言い淀む彼女の台詞を、ブラッドは彼女の唇に人差し指を押しつけてとどめた。
「君が言っていいのは後戻りはしないという誓いだけだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「アリス?」

 覗きこむ、碧の瞳。それに囚われて、アリスは確信する。

 引き返せない。戻れない。深みにはまって堕ちていく自分が判る。

「さあ?」

 汗の浮いた額から、前髪を払う柔らかな手つき。目を閉じ、アリスは泣きそうな思いで答えた。




 苦手なものばかりの世界だから。
 振り返らずに、歩いて行こう。

 アリスの苦手は暗いのと物騒なのと血の匂い。

 それなのに、混濁する。


 姉さん・・・・・ここは苦手なものばかりの世界なの・・・・・

 でも。

 ここにはそこにないものがあるの。

 だから。

「もう、後戻りはしないわ」




 振り返らずに、アリスが置いて行くものは果たして何なのか。



 責任感は小瓶に溜まり、引き留める手は優しい。

 帰りたいと思わないのなら、帰らなければ良い。

 強引な彼の台詞が耳にこだました。









(2010/12/07)

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