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 5 ひかれ者の小唄

 売り言葉に買い言葉。
 可愛くない物言い。返される言葉も皮肉交じりで、どちらも本当の事を言わない。


 最初はお互いに腹も立っていたが、今となってはそんな言葉も、応酬を繰り返せば違った意味になって行って。


 それでも、認めたくないアリス=リデルは今も、ブラッド=デュプレに悪態をつく。


 ここから出て行ってやる、と。



「出して!ここからっ!!今すぐっ!!!」
「ああ、もちろん出してやるさ。私の選んだドレスで、私の選んだ教会で、私と一緒になると誓うその時にはな」
「絶対に言わない!!!」

 死んでも言わない。

 喚くアリスを、強風吹き荒れるあちらとこちらを繋ぐ境目から連れ戻したブラッドは、女の目の前でがちゃりと扉に錠を掛ける。
 ただの鍵なのに、何故かアリスにはそれが開けられない。いくらひねっても、その鍵は回ってくれないのだ。

「君を殺したくはないから、諦めなさい」
 ぞっとするほど冷たい声で言い、ブラッドはアリスに向き直る。くっと口の端を上げて嗤えば、怯んだのか、アリスが半歩後ずさった。
「私は帰るのよ」
「もう帰れない筈だが?」

 それは嘘だった。アリスが望めば、彼女はあっさりとこの部屋から消える事が出来る筈だ。

 この世界のルールは、彼女に適応されない。彼女は誰よりも自由で、自由だからこそ、選びとる事が出来る。
 選ばないものを捨てて、身軽にどこにでも行けるはずなのだ。

 その彼女が、消えずにここにいて、ブラッドの手によって掛けられて鍵を外せないと言う事は、彼女はそれを望んでいないと言う事になる。
 ひいては、ブラッドの事を嫌ってはいないという事に置き換えられるのだ。

「ああでも、本当に帰りたいと言うのなら、帰ればいい」
 そこのドアを開けて、屋敷から出ていければな。

 挑発するように言うと、途端に目の前の女の顔がゆがんだ。それが無理だった事を、彼女は知っているのだ。

「君が本当に出て行きたいのなら、出ていける。そういうルールで、そこの鍵は掛っている」
 くっと楽しそうに笑うブラッドに、アリスは更に半歩下がった。目尻に涙が溜まっている。

「また、ルール」
「君にはルールは適応されない。」
 開けて出ていける筈だよ、お嬢さん。

 にっこり微笑んで見せれば、彼女の顔色がますます青ざめた。

 弱いものをいたぶるのは好きじゃない。
 ブラッドは、己と同等の力を持つ者を翻弄するのが好きだった。簡単に屈しない者を、跪かせるのが楽しいのに、何が悲しくて、簡単に潰れてしまいそうなモノを壊さなくてはならないのだ。

 だから、今、ブラッドは愉しくて仕方ないのだ。

 決して自分の物になろうとしない、女。
 あれだけ甘くここに残る事を促してやったと言うのに、この女はブラッドの腕をすり抜けて、帰ろうとした。

 それが腹立たしくもあり、愉快でもある。

 実に退屈しない。

「さあ、どうぞ」
 道を開けてやる。震えて、泣きそうなのに、彼女は気丈に顔を上げるとつかつかと部屋を横切り、ブラッドの横をすり抜けるとドアノブに手を掛けた。

 鍵をまわそうとする。だが、それは開いてはくれない。

「開けてちょうだい」
「君が、心から望めば開くぞ?」
「望んでるわ!!」

 大声を上げて告げ、アリスはきっとブラッドを睨みつけた。

「何かしたんでしょう!?」
「さっきから言っている。君が望めばドアは開くとな」
 馬鹿にしたように肩をすくめて見せ、ブラッドは優雅な足取りで部屋の奥に歩いていく。ソファに腰をおろし、だるそうにタイを外すと上着を脱いだ。
「さあ、アリス。ドアを開けてくれ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 唇を噛み、真っ白になるほど手を握りしめた彼女が、渾身の力を込めて、鍵を回す。

 開かない。


「なんで開かないのよ」
「君が望んでいないからだ」
「ふざけないで!私は帰りたいの!!こんなところに一秒だって居たくない!」
「・・・・・・・・・・・・・・・嘘だな」
「っ」

 かっとアリスの頭に血が上る。

「帰ってどうする?君は何をするつもりなんだ?」
「・・・・・責任を全うしたいだけ」
「何の責任?誰への責任?誰が君の帰りを待っているんだ?」

 その一言は、アリスの身に染みた。痛いくらいに、彼女の心の柔らかい部分を切り刻む。

 アリスから、全てを捨てて、一人で生きて行こうとしていたのに。
 帰ってくる事を望まれていて欲しいなんて、トンデモナイ願望をまざまざと突きつけられたような気がした。

 一人青くなるアリスに小さく哂い、ブラッドは静かに切り出す。
「私は、君が必要だ。結婚するなら君しかいない」
 だが、私は寛大な男だからな。君がどうしても帰りたいと言うのなら、止めはしない。
「・・・・・・・・・・引きずって連れ戻したくせに、よく言うわ」
 弱々しく告げるアリスに、ブラッドは冷たい視線を投げると、ちらと笑った。
「だから、選ばせてやる。ドアを開けて出て行けばいい」
 それだけで、君は己の責任とやらを全うすることが出来るんだぞ?

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 逡巡する彼女を眺めて、ブラッドは静かに紅茶をすすった。ふわりと香るのはアールグレイ。楽しそうに、余裕でソファに沈む男に、アリスは泣きたくなった。

 どうして開いてくれないのだろう。
 こんなにも帰りたいと思っているのに。
 どうして。

 ―――答えは簡単だ。


 本当は、望んでなどいない。

(そんなわけない・・・・そんな・・・・・無責任な事・・・・・)

 何が無責任なのだろうか。
 アリスは一人で生きて行こうとしていなかっただろうか。
 家から出たいと思っていて、そして、それを姉に告げたのではなかったか。

 なら、それはどこででも出来る事じゃないのだろうか。

 あちらの世界じゃなくて、ここででも。
 アリスは一人しかいないのだから。


「・・・・・・・・・・開かないわ」
「そうだな」
「・・・・・・・・・・どうして開かないの」
「望んでいないからだ」
「そんなの・・・・・認められない」
「どうして?」
「・・・・・・・・・・」
「罰が欲しいのなら、くれてやる」
「!?」

 はっと振り返ると、相変わらずソファに沈んだままの男が、背もたれに身体を預けてこちらを振り返っていた。

「往生際の悪い君に、とどめを刺してやると言ってるんだ」
 くく、と喉の奥で嗤い、ブラッドはゆっくり立ち上がった。圧倒的な力の差を感じる。彼の纏う力は強く、アリスを絡め取って離さない。腰が砕けそうなほどの威圧感を感じて、アリスは己の脚が凍りついて動かないのを感じた。

 甘やかに笑った男が近づいてくる。

「罰してやろう。君が欲しいのは許しだろう?だが、許してくれる存在はもう居ない。だから君は罰を求める。自分なんか一人でいいと・・・・・壊れたものを惜しんで、閉じ込めて、進もうとしない。」
「・・・・・何を言ってるの?」

 アリスの声が掠れた。ブラッドはそのアリスの喉に手を伸ばした。

「壊してしまった事を悔いて、君は泣けないでいる。泣く事が間違いだとそう思っている。違うか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 イーディスの言葉が不意に耳を打ち、アリスは怯えたような眼差しでブラッドを見上げた。

 彼の手が、アリスの首を優しく撫でた。少しでも力がこもれば締まってしまうような触り方だ。
 恐怖にぞくりと肌が粟立つ。
 なのに、見下ろす男から視線が離れない。

「許されることはないぞ、アリス。君を許せる人間は居ないのだから」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「そうだろう?」

 居ない?
 そうだ。
 喧嘩をした姉はここに居ない。酷い事を言って傷つけた姉はここに居ない。
 だから、アリスは許されない。

「なら、罰を受ければいい」
「っ」
 喉を撫でていた手が離れ、代わりに唇が這う。ちりと痛みが走り、アリスは顔をしかめた。
 そんな彼女に構わず、ブラッドはアリスの腰を抱いて引き寄せ、愉しそうに女の瞳の中を覗き込んだ。
 アリスの目の前に、碧の瞳がある。それはしかし、微かに色を変え、強い決意が滲むと仄紅く霞むようにも見えた。
 喉が渇く。声が干上がる。
「罰って・・・・・」
 にやりと、ブラッドが嗤った。
「なに・・・・・簡単な事だ。幸せになればいい」

 ぽかんとするアリスに、ブラッドはマフィアのボスに相応しい笑みを唇に浮かべたまま、アリスに顔を寄せた。
 触れる温度。あ、と思った時には深く深く口付けられていて、アリスは眩暈を覚えた。

「罪悪感など捨てて、全てを私に捧げろ。それこそ、とんでもない罰だろう?」
 抱かれて、身体から力が抜ける。アリスの手が、縋るようにブラッドのジャケットを握りしめた。
「責任感の強い君には耐えられない。これほどの罰はない。・・・・・違うか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・最低よ」

 罵るアリスの頬は、赤く染まっていて、それだけでブラッドは満足そうに笑った。

「君は甘やかされるのを嫌う。少しも私を頼ってはくれない。なら私は君を奪い取るしか方法が無くなる。」
 そして、君はそれを更に嫌がるだろう?

「私のものになれ、アリス。全てを捨てて、な」

 触れる手が熱く、アリスは震えた。これ以上ないほど甘美な台詞。まざまざと思い知らされる。
 この男から逃れるすべはないのだと。

 あの暴風の中、アリスは彼を振りほどけなかった。今だってそうだ。鍵は開かない。ドアは閉ざされたまま。
 どうしようもなくて、手を伸ばせばそれは、目の前の男に絡め取られる。

「君の、何よりも大切な物を捨てて、私を選べ」
 それが、君の罰だ。
「んっ」

 身体に触れる掌は、酷く優しく、アリスは目に涙が浮かぶのを感じた。

「・・・・・嫌よ」
「・・・・・残念ながら、嫌いな男に抱かれるのも、罰だ」
 好いた男と一緒になれないなんて、可哀そうだな、アリス。

 嗤われて、アリスはどうしようもなくなる。

 全て奪われる。

 帰ろうと言う決意も。こんな場所に居たくないと言う思いも。この男が嫌いだと言う理由も。

 全部を「罰」だと言われたら、アリスは受け入れるしかないではないか。

 欲しいのは「罰」だから。
 永遠に許されないと心のどこかが知っているから。

 何故なら、アリスを許せる人は、「もういない」から。

(・・・・・・・・・・もう居ない?)

「さあ、アリス。楽しもうじゃないか」
「あ」
 胸元のボタンが外されて、鎖骨に口付けられる。きつく吸い上げられて、赤い華が咲く。
「ブラッド」
「結婚するからには、幸せにしてやる」
 君は望まないだろうが、な。

 抱きあげられて、部屋の奥へと連れて行かれる。押し倒されたベッドには、ブラッドの香りが満ちていて、アリスは逃れられない。

「こんなの、罰にならないわ」
 逃げようとする彼女の衣服を徐々に脱がし、柔らかな塊の先端に口付ける。ひゃん、と喉を逸らすアリスを閉じ込めて、ブラッドは「嫌じゃないのなら、罰にはならないな」とゆっくりと告げた。

「嫌なんだろ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「違うのか、アリス?」

 見下ろす瞳が、口惜しい。奥歯を噛みしめて、アリスは力一杯ブラッドを睨んだ。

「さっさとして」
「・・・・・それが望みなら、私は反対を行こう」

 望み通りにしたら、罰にならないからな。

「っ!?」

「優しくしてやる・・・・・君の恋しい人間の面影など消すほど。時間を掛けて。悦がらせてやるぞ?」
「やめ」
「やめたら罰にはならない」
「あ」


 あふれた涙が頬を濡らすが、それも全てブラッドの唇に受け止められて、アリスは目を閉じた。


「・・・・・・・・・・・・・・・嫌いよ」


 嗚咽が漏れて、アリスは男の背中に手をまわし、力一杯爪を立てた。


 ああ、嫌いだ。
 嫌い嫌い嫌い。大っ嫌い。



 なんだってこんなに優しくするのだろう。
 こんな事を言われたら、アリスはそれでいいのかもしれないと思ってしまうではないか。
 ブラッドに愛されて、嬉しいと思ってしまうではないか。

 そんな事を思う資格はないはずなのに。

 ブラッドは酷い人。
 酷い人なのに、頭が良くて。
 罰が欲しいアリスを甘やかす。
 とことん甘やかす。


 これは罰だから、幸せになっても構わないのだと。


「ブラッドっ・・・・・」
 泣き声で名前を呼べば、酷く柔らかく口付けられた。涙が止まらない。
「なんだ?」
 低い声が、アリスの身体を溶かしていく。
「私は・・・・・卑怯者だわ・・・・・」

 大事な人すら利用して、言い訳にしようとしている。
 帰らない為の。
 捨ててしまう為の。

 そう告げようとするアリスの唇に手を当てて、ブラッドは優しく笑んだ。

「マフィアのボスの妻だ。それくらい当然だろう?」
「・・・・・・・・・・馬鹿」
「何とでもいえ」

 手放さないからな。


 身体を開かされ、アリスは繋がる熱に目を閉じた。嫌だと言えば言うほど甘くなる。
 拒絶するたびに、求められる。
 罵れば罵るだけ、男の拘束は強くなる。
 愛しくなればなるほど、アリスは帰れなくなる。


 帰りたい、という強がりは、ブラッドの甘い甘い酷い台詞と行為に、溶かされて流されていくのだ。

「いつでも帰ればいい。そう願えば帰れるのだから」
 揺さぶられ、甘い台詞に頭がくらくらする。嬌声を上げる、赤く色づいた唇を塞いで、ブラッドはアリスを抱きしめた。
「だが、願う事は許さない。帰れたら、それは罰にはならないだろう?」


 だから、帰らせない。


「とどめだ、アリス」
「ブラ・・・・・ッド・・・・・」
 目蓋の裏がちかちかする。
 赤く染まる。

 声を上げる彼女に、ブラッドはにたりと笑った。


「愛してる」


 それこそが、最後の一撃。

「愛してやる。力一杯、な」


 震える意識の果てで、なんて甘美な罪状だろうかと、アリスぼんやり考えて、夢中で手を伸ばすしか出来なかった。

 全てを捨てて、愛される。この人に。

 堕ちて行く。

 二度と這いあがれない世界に、アリスは別れを告げるしか出来なかった。

「―――私は貴方なんか嫌いよ」

 会心の笑みを浮かべる男に、アリスは支配されるしか、ない。

「引かれ者の小唄だな」
「・・・・・・・・・・・・・・・何とでも言って」

 連れ去られるアリスが、言える精一杯の強がり。

 愛さない。
 ブラッドを愛さない。

 絶対に。


 それこそが、アリスの愛であると知る男は、逃がさないとばかりに、彼女を離さなかった。

 離せば、終わりだと知っているかのように。

















(2010/01/29)

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