踏み台にしてきた夢広げて部屋にしきつめた
1
その手を離さないで、お願いだから、私を貴方の隣に居させて。
風の吹き荒れる、アチラとコチラの狭間で、アリスは佇む愛しい人にしがみ付く。
ふわり、と身体が横に流れ、髪が後ろに攫われる。
前方にぽかりと開いた光りの穴に、引きずり出される。
必死に、指が真っ白になるほど強く、男の腕を掴んでいたアリスは、霞んだ視界に柔らかく笑うその人を見つけて胸が一杯になった。
「アリス」
「どうして!?今まで、そんな風に呼んでくれたこと、なかった癖に!」
風の音に負けないように、痛んだ目の奥に負けないように、アリスは喚いた。
子供のように、ひたむきに、強く。
「なんで今なのよ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・君をこれ以上、ここには置いておけない」
静かに、男は言うと、その手袋をはめた手でゆっくりとアリスの指を引きはがしていく。
泣きそうに歪む、アリスの顔。
それを覗き込む碧の瞳は、今まで見たこともないくらい優しくて、柔らかかった。
溶けそうなほど甘い、優しい笑顔で男は言う。
「君は、賢い子だ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「例えはぐれても、ちゃんと私を待っていられるだろう?」
アリスの手を握り、風に攫われそうな彼女に男はそっと唇を寄せた。
触れるだけのキス。
それが切なくて、もっともっと深くして欲しいと掴む手に力を込めれば、離れた男はふわりとその手を離した。
「っ」
離さないって言った。
はぐれるなって、言った。
なのにどうして!?
「決着を」
風は強いのに、何故かスローモーションで光りの穴に吸い込まれながら、アリスは佇むマフィアのボスが、にいっと冷たく笑うのが見えた。
「付けなくてはな。そうしたら迎えに行く。だから君は大人しく待っていなさい」
「信じない!!!!」
それに、アリスは大声で叫んでいた。
涙があふれて止まらない。
「信じないわ!!ブラッド=デュプレ!!!私は貴方を一生恨んでやる!!」
声が枯れそうになる。
喉が引きつれる。
それでも構わず、アリスは叫んだ。
「大嘘つき!!大っ嫌い!!!!死んじゃえばいいのよ!!!!!」
「最上級のほめ言葉をありがとう、アリス」
緩やかに引き離されていく。涙が止まらない。嗚咽も止まらない。
それを止められるのはブラッドだけなのに。
「ブラッドのっ・・・・・馬鹿・・・・・嫌いよ・・・・・」
しゃくりあげるアリスに、ブラッドは真剣な顔で告げた。
「愛してる」
「っ」
「だから・・・・・君はそこに居ればいい」
「忘れてやる!!!!!」
待たない。
貴方が手を離したのなら、私は好き勝手にするわ。
「構わない」
ブラッドはそう言って、くるっとアリスに背を向けた。不敵に笑う彼の顔は見えない。だが、雰囲気で分かった。
「君が誰のものか・・・・・どこに居ても、誰と居ても、何をしても・・・・・必ず思い出させてあげよう」
横暴だわ、とアリスは泣きながら思った。
ひっかきまわすだけひっかきまわし、騙してこんなところまで連れてきて、そして突き放す。
愛していると言うのなら、何故突き放すのだ。
ゆらゆらとブラッドの姿が揺れて、アリスは泣きながら手を伸ばす。
お願いだから、振り返って。
その手を取って。
どうして私を置いて行くの・・・・・
「ブラッド!!!!」
叫んだ声は、風に攫われて光りに溶け、とうとうアリスは真っ白な世界に放り出されてしまうのだった。
待っていたのは現実。
目をそむけていた事実。
そして、選択する時。
アリスはその長かった髪を、ばっさりと切り落とし、顔を上げて現実に目を開けた。
見据えて、選び、家を出て新しく生活をスタートさせる。
出版の仕事は忙しく、朝から晩まで、それこそ馬車馬のように働いた。
帰ってきて、ベッドに沈み、泥のように眠れば夢も見ない。
全神経を酷使して、アリスは夢も希望も甘い感情も存在しない現実に、ひたすらに立ち向かった。
雨が雪に変わり、石畳を埋めていく。
コートの襟を立て、顎まで埋まったアリスは、顎までの、ちょっとウエーブを掛けた栗色の髪をマフラーに包んで鞄を抱えて歩いていた。
クリスマス休暇。
ここ数年とっていなかったそれを、どうして取る気になったのか、アリスには判らない。
ただ、何となくのんびりしたいな、と思っただけだ。
だから、手にした鞄には、次の企画の原稿とレイアウトが入っているし、雑誌で特集するための記事の取材メモも入っている。
(・・・・・・・・・・いつからこんな仕事の鬼になったんだっけ)
夕暮れの街は、灰色にけぶり、あちこちで上がる水蒸気で足元が真っ白になっている。
久々に、「実家」に帰るアリスは、赤くなった耳をちょっと押えて苦笑した。
何かに追われるようにして、働いてきた。
そうしなくてはならないと、何かに脅迫されるように。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
自分に厳しいアリスは、アリスが、アリスで居るのを許してはくれない。
それを許してくれるはずだった存在を、アリスは傷つけて追い詰めて撃ち殺してしまったから。
邪魔だと。
思いだしかける何かを、必死に振り払うように首を振り、近くに有った花屋の扉を開ける。
赤々と暖炉の燃える中は、外とは比べ物にならないくらい温かく、湿っている。みずみずしく咲く、冬に見ることの叶わない色とりどりの花を、あれこれ選んで花束にし、アリスは腕に抱えた。
姉の為に、買った。
お会計を済ませて店を出ようとして、アリスはその足をとめた。
綺麗な薔薇が、バケツ一杯に飾られている。
ビロードのような、厚みのある花弁。
そっと顔を寄せて香りをかいで、アリスは眉を寄せた。
反射的に「違う」という単語が現れて、何が違うのかと首をかしげる。
薔薇にアリスはそんなに興味はなかった筈だ。
香りの違いに気付けるわけがない。
無いのだが、それは確かに、アリスの知っている薔薇とは違うようだった。
「お客さま?」
首をかしげながら言われて、アリスははっと我に返る。なんでもない、と小さく告げて、アリスは外に出た。
びゅうっと冷たい風がアリスの頬を撫で、足元に薄く積もった雪を巻きあげる。
渦を巻いて、天に駆け昇っていく風に目を細め、アリスは曇天を見上げた。
雲の切れ間から、夜空とぶちまけられた星が見えた。
そこを昇って行く雪の欠片に、アリスはどきりとした。
一掴みの薔薇の花弁が混じっているように見えたのだ。
くるくると渦をまく、真っ赤な花弁。アリスの足元から天に向かって行く。
どきりと心臓が跳ねて、アリスは首を振ると急ぎ足で夜の街を通り抜けた。
リデルの屋敷はひっそりとしていた。
姉が不在のその屋敷は、主こそ居るものの、閑散としてさびれている。
ドアを開けたメイドの露骨に驚いた顔から視線を逸らし、アリスは早口に来訪と滞在、主の所在を尋ねる。
子供のころからずっと住んでいたはずなのに、廊下は気味が悪いほどアリスの肌になじまなかった。
あの、日曜の午後。
あの午後が壊れて、アリスが髪を切って家を出た瞬間から、ここは他人の家になった。
まざまざと思い知らされる気がして、アリスは唇をかむ。
靴音すら立ててはいけない気がして、ひっそりと廊下を行き、書斎の扉を叩く。
返事はない。
だが、メイドの話ではアリスの父である、この屋敷の主は部屋に居るはずだった。
誰からの来訪も拒む、分厚い扉。
アリスはそこに背を向けて、自分の部屋に向かった。
自分の家なのに、アリスは疎外感を感じて、なんで休暇を取ってここに来ようと思ったのか首をかしげる。
ここはもう、アリスの家ではない。
ここでは、アリスは完全に余所者だった。
単なるお客さん。
「ヤキが回ったわね」
溜息をつき、彼女は鞄から企画書を取り出すと、インク壺とペンを出して休暇なのに仕事を始める。
だが、それはあまりはかどらなかった。
いらいらする。
空気が気に入らない。
しんしんと降り積もる雪と、暖炉に赤々と火がともる、自分が帰りたかった筈の家。
だが、そこはアリスを受け入れない。
余所者だからと白い目を向けてくる。
ぽい、とペンを机に投げ捨て、アリスは深い溜息を零した。
苛々する。
苛々するときには紅茶が一番。
椅子を蹴って立ち上がり、アリスは廊下を厨房に向かった。
「姉さん・・・・・」
「イーディス」
台所で湯気を立てるお湯を、こぽこぽとポッドに注いでいたアリスは姿を見せた、現在、この屋敷を切り盛りしている妹の声に顔を上げた。
「珍しいのね。帰ってくるなんて」
そっけない口調で言われて、アリスは肩をすくめた。
「たまには、と思って戻ってきたけれど・・・・・ここに私の居場所はないみたいね」
そっと告げると、イーディスが馬鹿にしたように笑った。
「自分から捨てたくせに、何を今更」
「・・・・・・・・・・そうね」
白い頬を見せて俯くアリスに、イーディスは唇を噛んだ。
違う。
そんな反応を期待して言ったのではない。
「私はここでは余所者だわ」
ふっと目を伏せて言う。白いティーポッドから自分の分と、イーディスの分の紅茶を淹れながら、彼女はおかしそうに笑った。
「余所者は誰からも愛される筈なのに、ね」
「え?」
ここでは完全に嫌われ者ね、と自嘲するアリスの台詞に、イーディスが目を瞬いた。
「そうなの?」
「そうでしょ」
実際に、誰からも好かれたわ。
紅茶をすする姉に、妹は眉間にしわを寄せた。
「出版社で?」
「?」
怪訝な顔をするイーディスに、アリスは目を瞬いた。
「違うわ」
「じゃあ、どこで?」
「どこって・・・・・」
くらり、とアリスの目が回る。慌ててカップをテーブルにおき、アリスはぎゅっと目を閉じた。
どこで?
そうだ。
どこで、愛された?
緩やかに目を開けると、磨かれた台所の床が見える。そして、足元に絡まる物が見えた。
刺を持つ、薔薇の弦。
「っ」
慌てて足を持ち上げた瞬間、それは幻のように消えた。
「姉さん?」
「疲れてるのよ。毎日毎日仕事仕事で」
足を踏み替え、アリスは早口で言った。カップにまだ、半分ほど紅い液体は残っていたが、アリスは風に当たろうと厨房を出た。
不可解な顔をする妹をそこに残して。
雪はやみ、空は白い雲が切れて濃紺の冬空が広がっていた。
吐く息が冷たい。
ロリーナと過ごした庭に、うっすらと雪が積もり、立ち枯れて凍り、茶色くなった芝草は、踏むとぱりぱりと音を立てて崩れた。
しんと、静かな庭。
口元から吐き出される、凍えた白い塊を目で追いながら、アリスは掌を額に押しあてた。
何かがおかしい。
どこかがおかしい。
今日はおかしなことだらけた。
どうして自分は休暇を取った?
どうして自分はここに帰ってきた?
どうして実家で疎外感を感じる?
余所者は誰からも愛される。
それは、誰が言った言葉だったろうか。
夢を見なくなって久しい。
どんな夢も、現実に身が有る限り、悪夢にしかならない。
どんなに幸せな夢でも、それは夢でしかないから、そうしたら、現実主義のアリスには心を蝕まずにはいられないものでしかない。
幸せに、なってはいけない。
先ほどの薔薇を思い出し、アリスは足元を見る。星と、屋敷の明かりで薄ぼんやりと、青白く光る雪の中で、彼女は自分の脚に鎖が絡んでいるのを見た。
一枚、カードが落ちている。
誰かが落としたのだろうか。
それはトランプの・・・・・ジョーカー。
拾う事が出来ず、アリスはそれをじっと見詰めた。
ゲームをしましょう。
トランプを取ってくるわ。
姉の声が鮮明に耳に蘇り、アリスは冷たい雪に凍った芝生の上に落ちているジョーカーが、ずっとずっと以前からそこに有ったような気になった。
トランプを取りに行ったロリーナ。
戻ってきた彼女は、アリスが居ないのに酷く驚いて、手にしていたカードを取り落とす。
ばらばらとカードが庭に散らばり、慌てて回収するロリーナの手から、ジョーカーだけが零れ落ちた。
屋敷に戻り、アリスを探すロリーナ。
拾われなかったジョーカー。
ぶわり、と冷たい風が吹きアリスは慌てて髪を抑える。
かろうじて羽織っていただけのコートの裾が吹きなぶられ、雪が顔に当たる。
冷たくて痛い。
ぎゅっと閉じた目を開けば、足元にカードは無かった。
代わりに落ちているのは、真っ赤な薔薇。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
カードが薔薇になったのかと、ぼうっとする頭で考えながら、アリスはそれを拾い上げた。
柔らかく甘い香り。吸いこんだ空気に混じる、どろっとした甘さの香りが、アリスの身体を侵していく。
ずくん、と身体の奥が熱くなるのを感じて、アリスは驚いた。
その拍子に、薔薇の刺がアリスの指をさし、血の球が人差し指に現れる。
血の赤。薔薇の赤。微かに混じる血の香りと、薔薇の香り。
それが何故か懐かしく、切り裂くように胸が痛むのを感じて、アリスは目を閉じた。
久々に、悪夢を見た。
ここではない、どこか。本の香りがするそこは、見渡す限り、ぐるりと本棚に囲まれている。
立派な執務机が見え、その奥に天蓋のあるベッドが見えた。
血の色をしたソファが置かれている。
そのソファに腰を下ろしたアリスは、白磁のカップを手に、革表紙の分厚い本を読んでいた。
読みながら、誰かを待っている。
この部屋に呼びつけたくせに、不在というふざけた真似をする、いけすかない男を。
誰だっけ。
胸を掠めるのは、酷く困惑するような感情ばかり。
アリスの知らない感情。振り切った想いの筈なのに、それはアリスの心を塞ぐ。
誰を、待っているのだっけ。
(待っていなさいと言われた)
ぺらとめくった本のページ。そこに、挿絵と説明が載っていた。
天井から玩具がつり下がった、冷たい鉄格子が印象的な監獄の絵。
そこを治める看守の話が載っている。
彼らはただ、閉じ込めるだけ。
囚人は自らここにやってくる。
自分の抱える後悔と、罪悪感に耐えられず。
膝を抱えてぐるぐると、堂々巡りを繰り返す。そんな囚人を一時だけ解放するサーカス。
一時の夢。
一時の幻。
お前は許される。この「季節」だけは。
さあ、閉じ込めたものを見せびらかしてやろう。
「君は、どうなの?アリス」
面白がるように言われる。ぞっとするほど愉快な口調。気付き、アリスは後ろを振り返った。
カードを指で弄び、顎にあてた道化がこちらを見ていた。
「入りたいならいつでもどうぞ?君なら大歓迎だ」
アリスがその名を呼ぶ間際、がらがらと何かを引きずるような音がして、はっと彼女は我に返った。