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 1 ぬくもりとわたしとあなた
 冷たい雨が身体を打ち、私は必死にドアを開けた。
 見なれた屋敷の、見なれた玄関の巨大なドア。それを開けて、私は中に転がり込む。心臓が、あり得ないほど強く打ち、息が切れている。
 がくがくと震える膝を叱咤して、私は広い廊下に敷かれたふかふかの絨毯を踏みしめ、自室を目指した。

 屋敷の中は、恐ろしいほど静かだった。

 自分の心臓の音だけが耳元に張り付いて離れない。うるさい。窓を打つ暴風雨の音が異様で、私はしゃがみこんで泣きたくなるのを我慢した。

(どうしてこんなことに・・・・・)

 不安が喉元まで競り上がり、絶叫したくなる。無音の屋敷など恐ろしい。どうして誰も居ないんだろうか。

(あんな事があったんだもの・・・・・)
 誰かが居る方がおかしい。

 つい先ほどまで晴天だった空は、今では真黒な雲に覆われて、稲光が空をばらばらにしようと、あちこちで閃いている。
 真白いそれに、先ほど見た白刃を思い出して、私は戦慄で足が凍りつくのを感じた。

(動いて・・・・・早く!取り返しがつかなくなる前に、部屋に戻るのよ!!)

 立ちすくみ、雷鳴に満ち満ちた空間を、ただひたすらに己の部屋を目指して走る。
 夢の中で走るように、足は動かず、歩いたほうが早いのではないかと思うほど、遅々として進まない。

 それでも私は必死になって自室を目指した。

 ここだって、自分の家ではない。
 ただ、厄介になっているお屋敷なだけなのだ。
 それでも、自分の空間と言うのは一応はある。

 元は他人のものでも、今は、自分の空間だ。

 そこが絶対に安全とは言えないが、私はただ、自室に戻ることだけを考え続けた。


 転びそうになりながら階段を駆け上がり、廊下をふらふらとすすむ。ぐっしょりと濡れたスカートから雫が落ち、前髪を伝って頬を零れるそれは、雨なのか、涙なのか、汗なのか判らない。

(彼が・・・・・あんな・・・・・)
 狂ったように、フラッシュで世界を切り取る稲光に、思い出す白刃。閃いたそれの、描いた軌跡。
 もとから、爽やかさにどこか、ほの暗いものが混じっていた人だった。
 そういう人だと・・・・・判っていたし識っているつもりだった。
 そんな狂気と常識の狭間にある人だけど・・・・・自分には優しい人だと思っていたのだ。

 彼の視線の中にあった、狂気めいた暗色を思い出し、私は震える。
 振りあげられた刃は、明らかに、冗談だとは言い切れない、血に濡れていた。

 この屋敷は大丈夫。
 きっと私を護ってくれる。

 だから。

 長い長い廊下を行き、なのに誰にも会わない事を、私は不思議に思わなかった。それくらい、パニックに陥っていたのだ。
 この屋敷には主を筆頭にたくさんの使用人がいる。優秀で有能な彼らが、今回の事件で出払うなどあり得ない。

 なのに、それが起きていると言うのは、どういう事なのか。

 だが、その時の私は混乱を極めていたのだ。そんな理由を考える余裕もなかった。

 だから。

 不用心にも、己の部屋のドアを開けて、中に転がり込み、鍵を掛けたのだ。



 カーテンの引かれていない自室は、いつもと同じだった。ほっと安心できる空間が広がっている。
 私は慌てて窓辺に駆け寄ると、墨を流したように真っ暗で、何も見えない外を締めだすようにカーテンを閉めた。
 急いで明かりを付ける。
 闇を払われた部屋は、暖かく、いつもの風景で私を出迎えてくれた。

(よかった・・・・・)

 私はぐっしょりと濡れた服のままソファにへたり込む。肩で息をつき、長い髪が首筋にまとわりつくのを払う。
 急に震えが来て、私はがたがたと震える身体を抱きしめた。
 脳裏に、愛しい人の姿を思い浮かべて、どうして助けに来てくれなかったのだろうかと、自棄気味に思う。
 助けてくれると言ったのに。
 八つ当たりのように、泣きそうな気持ちで考えて、私は膝を抱えて蹲った。

 寒い。
 部屋が寒いのか、身体が冷たいのか、心臓を、冷たい手が掴んでいる所為なのか、それとも全部の要因の所為で寒いのか。

 震えは止まらず、胃の腑がひっくりかえりそうなほど、恐怖が身体を覆っている。

(静かだわ・・・・・)
 相変わらずの雷鳴と、暴風雨。なのに、屋敷はひっそりとしていて、私は急に不安になった。
 閉めたはずのドアが気になる。
 ひたひたと、そのドアの向こうから、何かよくないものが近づいてくるような気がするのだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 鍵はかけたわよね。大丈夫、しっかり掛けた。廊下には誰も居なかった。屋敷は静まり返っていて、私は誰にも会わなかった。

 ・・・・・・・・・・何故?

 徐々に冷えてくる脳裏に、見なれたこの屋敷の使用人さんたちや、主の姿が次々に描き出されていく。

 何故、彼らにあわなかった?

 痛いくらいに心臓が強く鳴り響き、私はぞくりと背筋を駆け上った衝撃に後ろを振り返った。

 そこには何もない。
 ただ、クローゼットがある。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 そのクローゼットが、ほんのわずかだけ開いていた。暗い、中がほんの少し・・・・・ほんの少しだけ見える。

 がちがちと、私は奥歯が合わず音を立てるのを、訊いた。
 寒い。寒い。寒い。

 震える手を握りしめて、私はクローゼットから距離を取るようにソファからはじかれたように立ち上がった。

 閉めた筈だ。
 きっちりと。
 だって、そこには主からの贈り物がたくさん詰まっていて、でも自分には必要のないものだと思っていたから、いつも貰っても肥やしよろしく詰め込んで開けることはなかったのだ。

 そのクローゼットが開いている。
 ほんの少し。
 私の恐怖を煽るように。

 喉から、絶叫が漏れそうになる。気が狂いそうだ。思い出すのは、雨の中で微笑んだ彼の顔。



 逃がさないよ?


 そう言って笑った顔は、笑顔、としかいいようのないものだったのに、血に濡れた剣がそれを不気味なほど裏切っていた。心から震えが来る。
 ドアを振り返る。

 ここも安全じゃない?
 安全って・・・・・なんだ?

 私はパニックの寸前で、倒れそうになった。
 ここはどこ!?何が起きるの!?

 眩暈がする。

 その私にトドメをさすように、ノックの音が響いた。

 こんこん、と控えめなそれ。ごくり、と私は唾を飲み込んだ。息を止める。反応してはいけないと、全身が警鐘を鳴らしている。

 こんこん。

 やがてそれは、どんどん、というやや乱暴なものになった。

 大丈夫。鍵は掛けてある。鍵は・・・・・鍵?

 途端、がちゃがちゃがちゃ、とドアノブが揺すられた。


 鍵?鍵はどうした?この部屋の鍵は・・・・・どうなっていたっけ?



 恐怖に目を見開く私が、凝視するドアノブ。その鍵が、不意にゆっくりゆっくり回るのを見た。

 かちん、と鍵が外れる。

 がくがくと私の足が震える。

 やがて酷くゆっくりと、ドアノブが回り、音もなく、ドアが開き




「アリス」
「きゃああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
 持っていた本を、アリスは思いっきり投げつけた。
 部屋に入ってきた相手に、思いっきり。

「!?」

 咄嗟に身をひねって、飛んできた、飛ぶはずの無いものをよけ、片手で受け止める。
 ぱしん、と相当痛そうな音を立てて、それを取った男が、呆れたような表情でアリスを見下ろした。

「なんなんだ、突然」
「あ・・・・・あ・・・・・」
 ふるふると身体を震わせていたアリスは、自室に唐突に表れた恋人だか愛人だか判らない、この屋敷の主を凝視した。

「な・・・・・と・・・・・」
「落ち着け。言葉になっていないぞ?」
 やれやれ、と肩をすくめて男は無造作な足取りでアリスの部屋を横切り、半分腰を浮かした彼女の肩を押さえてソファに座らせた。
「・・・・・・・・・・冷めているぞ、この紅茶」
 明らかにむっとした表情で、ローテーブルの上のカップを見て告げる男に、アリスはようやく我に返った。
「ブ・・・・・ブラッド!!と、唐突に入って来ないでよ!!!!」
 ばくばく言っている心臓をなだめすかし、アリスは震える吐息を付く。
「・・・・・・・・・・また、偉く凄い絶叫だったが・・・・・何かあったのか?」
 冷えた紅茶に機嫌を急降下させていたブラッドは、しかし、胸元に手を当てて、深呼吸を繰り返す彼女を見やり思い直したように手を伸ばした。
 ふわりと、手袋越しの彼の体温が、頬を撫でる。

 温かなぬくもり。

 微かに感じる心配そうな色合いに、普段やる気のない男を知っているだけに、ようやくアリスはほっと息をついた。

「何でもないのよ・・・・・」
 いつの間にか、ブラッドの袖を握りしめているアリスだが、彼女はその甘えるような行為に気付いていない。
 気付いているブラッドは、それを指摘してわざわざ怒らせるような趣味も・・・・・あるにはあるが、今はもったいないので黙っている。
 気をよくして身を寄せる。

「何を震えている?」
 そっと抱き寄せられて、胸一杯に彼の甘い、薔薇の香りを吸い込んだアリスは徐々に恥ずかしくなってきた。

 まさか。
 まさか、ホラー小説にのめり込みすぎて、絶叫してしまった、とは言えない。

(言えば絶対からかわれる・・・・・!!)
 というか、絶妙なタイミングで入ってきたこの男が悪い。
 悪いが・・・・・言いたくない。

「な・・・・・なんでもないの・・・・・ちょ、ちょっと本に夢中になっちゃって」
 というか、レディの部屋に入る時は、ノックするのが常識でしょう!?

 本の内容に触れてもらいたくなくて、アリスは彼の肩に額を押しあてたまま、くぐもった声で告げる。

 それに、くく、とブラッドが喉の奥で笑った。
「まさか・・・・・君が居るとは思わなかったのでね」
「居ても居なくても、ノックぐらいしなさいよ」
「それで、何の本を読んで絶叫するほど怖がっていたのかな?」

 くすり、と意地の悪い笑みを閃かせ、身体を放して見下ろす男に、アリスはうっと言葉に詰まった。

 先ほど投げつけた本は、ブラッドの手の内にある。

「別に・・・・・ちょっとのめり込んでいただけ」
「また君は、こういうホラー小説を・・・・・」

 アリスの頭を胸元に抱き寄せたまま、ブラッドはやれやれといった調子で告げる。片手で開いたそれを、器用にめくり内容を斜めに読む。

 ブラッドの部屋には、たくさんの蔵書が有る。ほとんどのジャンルの本が無造作にそろっているのだが、こういうホラーや非科学的なものは(こんな世界だからかもしれないが)微妙に少ない。
 本当に些細な偏りだが、本人曰く、「現実より恐ろしいものはない」ということだから、こういうのはイミテーションめいて好きではないのだろう。

 だが、アリスはそれとは逆に、現実が奇怪な分、こういうフィクションのイミテーション加減が気に入っていた。
 偽物としての安堵感。
 きっちりと見える結末。
 後味が悪いものもあるが、現実に比べると、それなりに理解出来る部分が気に入っていた。
 ブラッドの部屋に無い新作を(彼はこの系統は新作が出ても気が向かない限り手を出さない)彼女が買い求めてしまうのは、好みの差だ。

 特に否定はしないが、あまりお気に召さないブラッドが、やや呆れた顔でアリスを見るのに、彼女が頬を膨らませた。
「だって好きなんですもの」
「それにしたって・・・・・」
 くだらない、と言いそうになったブラッドが、ふと言葉を切った。
「?」
 目を瞬くアリスに、「いや」と言葉を切ってブラッドが手の中の文庫本をじっと見た。
「君が絶叫するほど熱中するのだから・・・・・ナルホド、興味がわくな」
「べ、別に普通の内容よ?」
 とても貴方の目に敵う物とは思えないわ。

 焦って言い募るアリスに、ブラッドは視線を合わせるとすうっと細くした。にたり、と唇が笑みの形に歪んだ。

「なんだ?随分私に読ませたくないようだな?」
「だ、だって、貴方嫌いじゃない」
 トリックが詰まらないだの、どんでん返しと言うがそうでもないだの、先が読めるだの文句ばっかり・・・・・

 この手の話のからくりをあっさり予見して、おもしろくないと告げるのがこの男だ。
 後味が悪いものも、現実でもっと凄惨な物を見聞きして、あまつさえその渦中に居たりするのだから子供騙しもいいところだろう。
 だから、この手の本に関しての意見交換をアリスはブラッドとしたくないのだ。

 馬鹿にされるのが目に見えているから。

 だが。

「何が君をそこまで惹きつけるのか・・・・・興味が有る」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 うろーっと視線を泳がせるアリスの腰に腕をまわし、本を持ち替える。今にもそれを読みだしそうな男に、アリスは呆れたように溜息をついた。
「私が読んでたんだけど・・・・・」
「なら、一緒に読むか?」
「は?」
「片手ではめくりにくい。君がめくってくれ」
 本はしっかり持っていよう。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ああ、読むスピードは気にしなくていい。君に合わせるよ」
 どうやってよ、という台詞を飲み込み、アリスはブラッドにもたれかかった。

 なんとなく・・・・・こういうのも楽しいかもしれない。

「なんなら、君が読んでくれてもいいぞ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・私、演劇の才能は無いから」
「君が読んでくれたなら、どんな面白くもない書類も官能小説のように甘い響きを持って聞こえそうなのに、残念だ。」
「そんな特殊な耳は貴方にしか装備されてないわよ」
 くすくす笑うブラッドを無視して、アリスは自分が読んでいた所から再開する。

「良いんでしょう?最初からじゃなくて」
「ああ。この前の内容は、後で聞かせてくれ」
 ベッドの中で。

 この男の台詞に、セクハラ、と嫌悪を感じるよりも甘いうずきを感じてしまう辺り、アリスも自分の耳は特殊なんだろう、と赤くなって思ってしまうのだった。







 どれくらい時間が過ぎたのだろうか。ブラッドの身体は温かく、腰にまわされた腕はいつの間にか気にならなくなる。頬に触れている首筋が暖かく、時折溜息を洩らすブラッドに、何故かアリスは眠くなった。
 それでもホラー小説はホラー小説で、アリスの心臓は終始どきどきと脈打っていた。

「ナルホド・・・・・君が気に入るわけだ」
 最後のページをめくり、「了」の文字を確認してブラッドが溜息交じりに答えた。
「そう?」
「姉の結婚を機に家を出た主人公。新たな住処の小さな町。そこで出会う人々と厄介になる屋敷の住人。現れる殺人鬼と、恋人・・・・割と君の境遇に被るな」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 実はそれもアリスが読んでいて気になっていた点だった。
 街の住人は誰もが主人公に優しく、そして、狂気に満ちた殺人鬼は、どこかの迷子をほうふつとさせる。主人公が住んでいる屋敷もここに近く、アリスは全体的に己の生活圏を基盤に脳内にストーリーを描いていた。

「最後の展開も・・・・・まあ、悪くはないな」
「貴方にしてみたら、おもしろくない内容だったんじゃない?」
 やや皮肉を込めて言えば、「何故?」とだるそうな視線を向けられた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 狂気の殺人鬼。彼を狂気に貶めたのは、主人公の恋人だった。だが、その主人公の恋人こそが、主人公を最後に絶望に叩き込んだのだ。
 殺人鬼に殺されそうな主人公は、彼に殺されることで真の絶望を知ることなく救われるのだと知る。それを知ったのは、殺人鬼を恋人が殺した時だった。

 ニガサナイ、と笑う恋人は全てを破壊した。
 彼女の、最愛の姉すらも。

 全てが死に絶えた世界。そこで、恋人は己の命もまた、断つのだ。

 この世界の静寂と命を、貴女に上げようと、そう笑って。


 残された主人公は、やがて、誰も居ない廃墟の街で狂気に飲み込まれていく・・・・・。



「だって・・・・・」
 現実に照らし合わせるのなら、最後にキャラをひっくり返された恋人が、ブラッドと言う事になる。
 ブラッドは確かに破壊衝動がある人間だが、アリスを一人残して静寂と命を捧げる程に狂ってはいない。
 ・・・・・・・・・・と、思う。
 そういう『閉じ込め方』をする人とは・・・・・思えないし、思いたくない。
 そう言おうとして、ブラッドは閉じた本をテーブルの上に置くと綺麗な碧の瞳でアリスを覗きこんだ。
「そうだな。私のポジションとしては、さしあたって屋敷の主か?」
 恋人じゃないんだ。
 ふと、そんな部分に落ち込みそうになる。だが、それを無視して、アリスは意地悪く笑って見せた。
「貴方・・・・・そんなに浮気性なの?」
 主人公が世話になっていた屋敷の主は色狂いで、愛人が15人も屋敷に住んでいたのだ。
 ブラッドは確かにモテる。
 アリスと関係を持ってからは、彼が女性の所に向かう姿は見なくなったが、それでも前はそれなりの頻度であったのだ。
 微かに頬を膨らませるアリスに、ブラッドはにたりと笑みを返した。
「それをいうなら、そんな屋敷に滞在している主人公の君はどうなる?」

 気まぐれに手を出される主人公・・・・・だった。恋人がいるのに、若く、知的で容姿端麗な屋敷の主との行為に溺れていくのだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 思わず見つめ合い、どちらともなく吹き出す。甘ったるい空気の中に、二人の可笑しそうな笑い声だけが響いた。

「そうね。似ていないかも、よく考えたら」
「そうだな・・・・・君がこの屋敷に住んでいたなら、私はまず愛人を全て追い出すだろうな」
「あら、愛人がいる時点で、こんな屋敷のお世話にはならないわよ」
「・・・・・えらく・・・・・良識的な判断じゃないか」
「ええ、私は善良な人間なの」
「善良な人間が、マフィアの本拠地に滞在するのかな?」

 つ、と手が伸びてアリスの細い顎を捉えた。距離が詰まる。挑発するような視線を見かえして、アリスは小さく笑った。

「本当に善良な人間は、何事にも寛容なのよ」

 常識にとらわれて他人を否定するのが、良、というのならば、随分と見識が狭いではないか。
 他人には他人の。その世界にはその世界での「良」が存在する。

「それならば、愛人くらい容認できるのではないのかな、お嬢さん?」
「それとこれとは別」
「矛盾しているぞ?」
「そうね」
 くすくす笑うアリスの唇に、小さく口付けて、柔らかく髪を撫でる。
「でも・・・・・貴方は愛人をたくさん、屋敷に住まわせたりしないんでしょう?」
「・・・・・・・・・・前にも言ったが、この屋敷に囲った女は君が最初で最後、だ」

 君以外の女は面倒だ。

 やや深く口付けられ、甘く、くすぐったくなるような台詞を囁かれる。それに、アリスは目を閉じた。
 このぬくもりは、私のもの、でいいのだろうか。

(姉さん・・・・・)
 柔らかく抱かれて、彼の頬が額に触れている。自然とアリスの手が、ブラッドのシャツを握りしめる。

 前は、こうやってソファで感じていたぬくもりは姉のものだった。
 読んだ本の感想や意見を交換して、お茶の時間を過ごす相手は、ロリーナただ一人だった。
 ロリーナも、ブラッドに負けないくらい本をたくさん読んでいて、恋人は作家だった。

 理想の女性。
 知的で優しくて。

 ふわりと頬を撫でて、笑みを見せてくれたロリーナ。彼女はアリスを大事にしてくれていたし、アリスもまた、ロリーナを愛していた。

 愛していた、けど。

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 深く傷付けた。
 ぼんやりと、胸の奥底に広がる、不安の影。姉さんこそ、幸せになるべき人だったのに、と目の奥が熱く痛くなる。
(って、何故悲しくなるの・・・・・?)
 姉さんはいまでも、向こうの世界で、作家の恋人と楽しく暮らしているはずだ。きっと、自力で幸せを掴める女性だろう。

 なのに・・・・・そう思うにのに、胸を締め付ける、痛み。これは何?



 狂気に狂った殺人鬼は、主人公に刃を向ける。
「君は、この世界から消えた方が楽になれる。ここは狂っているんだよ。だから、逃げ出さなくちゃ。じゃなきゃ君は、永遠に捕らわれ続ける事になる。永遠に・・・・・君が見ようとして、見せてもらえない真実から」


 微かに震えた彼女に気付いて、さまよい出ていた彼女の意識を、ブラッドが引き戻す。腰を抱く腕に力がこもり、それと同時に、アリスがそっと彼の名前を呼んだ。
「ブラッド」
「ん?」
「・・・・・・・・・・溺れてもいい?」
 頬を赤く染めて、俯き加減に言われたアリスの台詞に、ブラッドは微かに目を見張ると、この男にしては珍しく優しく微笑んだ。

 このぬくもりに、縋って溺れていたい。
 ずっとずっとずっと。

 見ようとして、見せてもらえない真実。見せてもらえない、と甘ったるい事を言えるのは、きっとこの男のおかげだ。
 甘やかしてくれる。どこまでも、どこまでも。

 こんな自分をみたら、ロリーナは何と言うだろうか。

「マフィアのボスに、か?」
「駄目?」
 微かに目元が赤いアリスを見下ろして、ブラッドは満足そうに笑った。

「良識ある人間は、それを望まないが・・・・・?」
「駄目なの?」

 いくらか語気を強めて言えば、可笑しそうに男が笑った。

「いいや。と、いうか・・・・・私はマフィアだからな。たとえ君が逃れたいと泣き喚こうがここから出すつもりはないよ。君が・・・・・何かに捕らわれても、な」
 その台詞に、傲慢だとか、物扱いしないでとか、反論が出るより先に、安堵がこみ上げ、アリスは手を伸ばし、ブラッドの首に回した。抱きつくアリスを軽々と抱き上げて、ブラッドは潤んだ瞳の彼女に目を細めた。
 碧の瞳が、深く怪しく光る。
「そんな顔をするな・・・・・無理やり犯したくなる」
「いいの・・・・・抱いていて」

 姉が描く、理想の妹から離れれば離れるだけ、この気持ちは鈍くなる。
 そんな気がする。

 ロリーナからのぬくもりを、拒絶出来るようになる。

「ブラッド・・・・・」
「誰かに重ねられるのは気に入らないが・・・・・そうだな、誰かから奪い取るのは愉しいものだ」

 奪われたいんだろう?
 何もかも。


 こっくりとうなづく彼女を、腕の中に閉じ込めて、ブラッドは深く深く彼女をベッドに沈めた。
 嬌声を上げるごとに、彼女が元の世界から離れていくことを、確認するように。




 このぬくもりは、自分のものだと、アリスもブラッドも互いに思う。


 ホラー小説の終わり。
 最後に描かれるのは、狂気に捕らわれてもなお、恋人に愛を抱く主人公の姿だったのだが、はたしてアリスとブラッドの結末は、どうなるのだろうか。

 知る人は、当事者たる二人以外には居ない。












ホラーの元ネタは「かまいたちの夜」のナイターの帰りの事故編(笑)

(2009/12/13)

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