Alice In WWW

 無意味な時間の浸食を容認するのが恋




 重症だと思う時がある。
 例えば、完全に欲望のはけ口として腕に抱いているだけの女に、妙に優しくしてしまったりした時に。
 香水の甘い香りがする手紙を受け取って、それが「彼女」からのものだったらどんなに嬉しいだろうかと、ぼんやり考えてしまったりした時に。

(重症過ぎるな・・・・・)

 苦笑が漏れ、皮肉気に口の端を引きあげながら、巨大な屋敷の主はふかふかの絨毯を踏みしめて歩いていた。
 窓の外は普段のものよりもずっと透明度が増した濃紺の空が広がり、普段は見る事のない星座が普段の倍くらいの輝きを放っていた。
 メイドや使用人が頭を下げ、恭しくドアを開ける。肌を撫でる空気はひんやりと冷たく、鳥肌が立ちそうだ。

 エイプリルシーズン到来に伴い、各領地にはそれぞれ季節が振り当てられた。
 ここ、帽子屋屋敷が存在する、彼の領土もまた例外なく普段の気候とは違う空気に満ちていた。

 秋。

「・・・・・・・・・・」
 虫の声と、昼には夏の名残りの香りを、夜には冬の到来を告げる冷たさを思わせるその季節は、変化の無い世界に訪れた驚くべき変化だろう。
 だが、変化は過去を際立たせ、波風の無い生活に憧れを覚えさせる。
 誰の意志で、この季節が訪れるのか。ルールとは何なのか。
 重々しく溜息を吐いた所で、ふと自分の屋敷に滞在している「余所者」の事を思い出し、彼はふっと柔らかく微笑んだ。

 こんな風に、彼女を思い出しては心のどこかが温かくなる事こそ、「重症」だろう。
 手にしていたステッキをくるっと回し、気だるげな視線を男は後ろの聳える屋敷に注いだ。

 これから向かう先のパーティーは自分が関わっている「事業」にとって非常に有益な物だ。計算高い部分は、そこに参加し、相手の出方を伺い、こちらの立場を明確化させてやるのは必要な事柄だと判っている。
 その為に、何人もの幹部が彼を待って庭に待機しているのだし。だが、彼の中の「面白さ」を追求しようとする部分は「だるい」を連発している。
 機知にとんだ駆け引きも、交渉も、嫌いではないし、スリルは必ずある。
 だが、今はそれよりももっと・・・・・。

「やはり・・・・・私は毒されているようだ」
 くっく、と肩を震わせて笑うマフィアのボスに、側に控えていた幹部が眉間にしわを寄せた。
「ボス?」
「いや・・・・・」
 行きたくなくても行かなくては。
 行きたくなければ行かない、と見せかけているだけのブラッド=デュプレは優雅に一歩を踏み出し、さっさと交渉を終わらせて帰りつくこと、とこっそり頭の中にメモを取った。






 シーツにその金髪を散らし、肌を赤く染めて喘ぐ女に、ふとブラッドは視線を落した。一糸まとわぬ相手と違い、自分は上着を脱いだだけで、ベストのボタンすら外していない。
 喘ぐだけ喘がせ、啼かせるだけ啼かせて、身体を震わせる女を丹念に見詰める。
 求めるように腕を差し伸べる女が、薄らと真っ赤な唇に笑みを浮かべるのを見て、ブラッドは考えた。

 涙に濡れた眼差しで、睨みつけてくる女。腕を伸ばすのは懇願では無く、拒絶を意味する為。隙あらば脚を振り上げてマフィアのボスを蹴落とそうとする女。それでも、肌も頬も薔薇色で、それを指摘するのが楽しくて仕方ない相手。

 実際に見た事のない姿を、こうもありありと想像できる自分に、ブラッドは多少なりとも驚いた。
 そういう「欲求」を特定の相手に抱くことすらまれだ。ましてや、想像するなど。
(本当に重症だな・・・・・)
「ブラッドさま・・・・・」
 懇願するように縋りつく女の身体に手を滑らせて、脚の付け根に乱暴に指を這わせる。悲鳴を上げて身を捩る彼女を更に追いこみ、動けなくなるまでにさせると、彼はさっさとベッドから立ち上がった。
 早く帰る事、とメモを取っていたのに、これか。

 荒い呼吸を聴きながら、彼はカーテンを引き開けて窓の外を眺めた。まだ夜は深く濃く透明に広がっている。
 くるりとベッドに背を向けて、不可解そうな女の視線を凍りつかせるような笑みを見せて、男はゆっくりと部屋を後にした。






「本当に昼夜逆転してるのよね・・・・・」
 たまには日の光りを浴びないと病気になる。ナイトメアみたいに。
 思うに、ナイトメアは生活自体が不健康なんだろう。もっと健康的に朝早く起き、ちゃんと朝食を採って、九時から五時まで仕事をして、人並みな生活を送れば元気になる様な気がする。
「って、ナイトメアの事はどうだっていいのよ」
 仕事を終えて食堂に行けば、今日もブラッドは居なかった。とある企業のパーティーに参加しなくてはならないからと、外出しているそうだ。
 毎回こう。
 昼間出掛けるのなら文句はないが、昼はほとんど寝ているし。
 アリスが寝ようとする頃に出掛けるのだから、そう言った意味では規則正しい生活と言えなくもないが、やっぱり生き物はお日様が無ければ正しい生活など出来っこないだろう、というのが彼女の信条だった。

 食後のデザートに出されたブラウニーを包んで、暖かいレモネードを作って貰ったアリスは、今日もどうせ自分の上司は帰って来ないだろうと庭に出ていた。
 ブランケットを身体に巻いて、ランタンを散らばる落ち葉の上に置く。お気に入りの木の根もとに腰を降ろすと、彼女は持ってきた本の表紙を開いた。
 時間帯は気ままに、ころころと変わる。今続いている夜がいつまで続くか判らないが、今回の夜を「睡眠」に当てるのをアリスは止めた。変わりに秋の夜長に読書をしようと決めたのだ。
 部屋で読んでもいいのだが、たまには趣向を変えるのも面白いだろう、とうきうきしながら腰を降ろして、アリスはふと、「面白い事」を信条としている上司を思い出して苦笑した。

 自分も随分とこの屋敷に・・・・・ひいてはブラッドに毒されてしまったものだ。

「我儘で自分勝手で傲慢で・・・・・」
 良い所なんて一つも無い気がするけど、そうじゃない。
 随分と長い事彼と一緒に居るが、思っている程怠惰な上司で無い事を、アリスはもう知っていた。だから気になる。
 人に隠れて努力する姿を知れてしまうほど近くに居る事を、何となく意識してしまう。

 それくらい近くに居る事を喜ぶべきなのか、それとも離れるべきなのか。

 半分ほど読み進めた本をいきなり閉じて、アリスは目を閉じた。全然集中出来ていない。身体を幹に預けてブランケットを引っ張り上げる。時折風が吹き、冷たく肌を撫でていくがそれ以外は温かく心地良い秋の宵が広がっていた。

 私はブラッドの何なのだろう。
 一応屋敷のメイドとして働いているから、部下だろうか。
 上司と部下。
 確かにそうだけど・・・・・。

 くるくると、この世界にやってきた時から今までの情景が断片的に目蓋の裏を掠めて行き、アリスはその一つ一つを追う事に夢中になった。出会い方は最悪。その先は、まるでジェットコースターに乗ってるような変化の日々だった。
 最初は怖いと感じていたブラッドが、今では、もしかしたら誰よりも傍に居る人になっているかもしれない。
 距離を置いていた筈なのに、それでは納得できなくなって。
 もっと知りたいと思って・・・・・。

 身体が眠りを求めて力が抜け、かくん、と身体が傾ぎ、アリスは慌てて手を着いた。と、触れたのは枯れ葉よりももっと固くて、でも温かいもので、アリスははっと身体を強張らせる。
 そういえば、背中に触れているのも固い木の幹とは違うような・・・・・。
 秋の冷たい、冬の空気が混じった香りに、甘く官能的な香りが漂ってくる。
 肩からずり落ちたブランケットをそっと持ち上げられて、アリスは寝ぼけ眼で自分を抱える相手を振り仰いだ。

「ブラッド」
「おはよう、お嬢さん」
 ランタンが闇を切り取った、丸い光の中に、可笑しそうに碧の瞳を煌めかせた男が居る。
 相変わらずおかしなシルクハットに、黒のスーツを着た彼は、気だるそうにアリスを見下ろしていた。
「こんな所で就寝とは・・・・・物騒じゃないか」
 手袋をはめていない手が、ふわりと持ちあがりアリスの頬に伸びてくる。思わず目を丸くする彼女の、柔らかな頬をと首筋を掠めて、彼の手は彼女の肩に落ちていた枯れ葉を摘み上げた。
「物騒な人の屋敷で、更にどんな物騒な事が起きるのかしら」
 思わず騒いだ心臓を必死に宥めながら、アリスは挑戦的に目を細めた。翡翠色の彼女の瞳が、ちらと楽しそうに輝くのを見て、ブラッドは眉を上げる。
「物騒な屋敷に起きる、更に物騒な事とは、物騒な屋敷を作り上げた物騒な男が可憐に眠っているお嬢さんに不埒な真似をすることだ」
「・・・・・・・・・・不埒な真似をするつもりだったの?」
 軽く睨みつけて低く尋ねれば、「とんでもない」とブラッドは肩をすくめて見せた。
「確かに私は物騒な屋敷を作った男だが、物騒な男では無い」
「へぇ?」
 どの口がそう言うのかと、更に翡翠の瞳を細めれば、彼はにやりと、悪党よろしく笑って見せた。
「生憎、寝ている女を襲うのは私の趣味じゃないんでね」
 どうせなら、起きている方が良い。抵抗してもらった方が面白いと言う物だ。
「最低」
 温かな彼の身体から離れるのは嫌だが、こんな事をすらすらと告げる事が出来る男と一緒に居る訳に行かないからと、アリスは彼の胸を押して身を離そうとする。
「そう、こんな風に抵抗されると、堪らなくなるな」
「ヘンタイ!」
 もがく彼女を押さえ込む様に更に腕をまわし、ブラッドはアリスを抱きすくめた。
「変態とは心外な。寝ている君に肩を貸して、寒くない様に毛布の代わりをして上げた紳士的な私に、そんな風に言うとは」
 ショックのあまり眩暈がしそうだ。
「ちょ」
 そのまま柔らかな枯れ葉の上に押し倒されて、思わずアリスはこの間夏祭りに参加して起きた出来事を思い出した。

 もう少しでキスされる所だった。
 唇が触れる一歩手前だった。どちらも、そのままキスしても可笑しくない雰囲気だった。

 枝を広げた木の、あまり葉の残っていないそこに月の光が見えた。逆光でブラッドの顔が見え辛い。彼の瞳を覗き込もうとした途端、男はアリスの髪に顔を埋めた。
 ぎゅっと抱きしめられて、アリスの息が詰まる。
 甘やかな薔薇の香りと、抱きしめる腕の温かさに、窒息死しそう。
 くらくらする頭をなんとか整理しようと目を閉じ、震える指先でぎゅっとブラッドの背中に縋りつく。
「君は・・・・・」
 くぐもった声が身体に響き、アリスは微かに身体をこわばらせた。その後に続く言葉を待ったが、彼はただ、アリスを抱きしめるばかりで、その先の台詞は出てこない。吐息が首筋と耳朶を掠めて、アリスの身体が跳ねた。
 彼女の背中の下で、かさりと枯れ葉が音を立てて、ブラッドはようやく顔を上げた。名残惜しそうに腕を解いて行く。
 このまま彼女を抱きしめていたい。
 彼女を貫いて、思う存分、味わってみたい。

 ただ、今日はそれを止めておいた方がいいと、彼は殊勝にも考えた。
 彼が持っているなかで、最も下らなく、意味がない「時間」を彼女を抱く為にはもっともっとアリスの為に裂く必要があると、思ったからだ。

 もうこれ以上ない程、ブラッドの「時間」はアリスの浸食を許している。
 それでも。今では無い。

「この時間帯は、少し・・・・・」
 別の女に裂きすぎた、という台詞を飲み込み、ブラッドはゆっくりとアリスの顔を見下ろした。怪訝な表情で自分を見上げている彼女の頬が、ほんのりと紅い。意識せず、手が、彼女の頬を包みこみ、目を見開く彼女の額に、己の額を押しつける。
「ブラッド!?」

 動揺が、掠れた彼女の声に滲んでいて、彼は小さく笑った。

「アリス」
「な・・・・・なに?」
 指先が頬を撫で、その感触がアリスの身体を焦がしていく。震えそうになるのを懸命に我慢し、彼女は平静さを保つように彼を睨みつけた。
 口元で、ブラッドが囁く。
「次の夜に、また出掛けないか?」
 なんでどうしていまここで?

 そんな疑問が一瞬で大きく膨らむが、アリスは何も考えずにこくりと頷いた。

「良いわよ」

 その台詞に、ブラッドは一瞬だけ無防備な笑みを晒すと、柔らかな身体をぎゅっと抱きしめた。
 彼女の身体から力が抜け、くったりと身を預け。やがて沈黙に心地良い眠気が広がって、彼女の微かな寝息が聞こえてくるまで。
 少しも放すことなく。


 彼女の「時間」を浸食するのは自分だけ。
 そして、自分の「時間」にアクセスする事が出来るのは彼女だけ。

 最も下らないものを分けあえる唯一の存在に、彼は妙に安堵し、「誰も忍び込む事が出来ないように」しっかりと腕に閉じ込めた。








(2011/10/31)

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