Alice In WWW
- 体温調節
(結婚してから初めて、かもしれないわね・・・・・)
重々しい音を立てて、主の居ない部屋のドアを開ける。控えめな照明が照らす室内は、しんと静まり返り、ここが一応自分の寝室の筈なのに、何となく居心地の悪いものを感じた。
普段、有り余る存在感でこの部屋を一杯に占めている人物は、現在仕事で出ていた。
周囲が生暖かい目で見守る程、アリスの旦那様はアリスを傍に置きたがった。
アリスが何時までも「帰らない」と言わないからだろう・・・・・多分。
相変わらずアリスは、元の世界に未練があったし、無理やり結婚させられた際に、言わなくてはいけない「誓いの言葉」を言っていない。
そう言う形式ばったものに頓着するタイプではないと思っていたし、実際彼は、アリスが言うべき「誓いの言葉」をあっさり自分で告げて、無理やり彼女を妻の座に据えている。
だから、それで良しとするのかと思えば、ブラッド=デュプレはそれほど馬鹿な男ではなかったらしい。
(馬鹿な方が良かったわ・・・・・)
溜息を突き、アリスは夜着姿で彼の寝室であり、自分の寝室でもある部屋をゆっくりと歩く。
背の高い本棚には、沢山の蔵書。
無理やりこの部屋に居を移されて、監禁まがいに閉じ込められた際、口惜しさから彼女は、苦し紛れに「全部読むまで出ないから」と言った事が有る。
余りにも、部屋から出してくれないことへの抗議だったのだが、次の日から大量に蔵書が増えて頭を抱えた。
その本棚を見渡し、気に入った物を数冊ピックアップする。
何冊か抱えてみて、その革表紙のひんやりとした感触にアリスはふるっと背中を震わせた。
振り返る室内には誰もいない。ふかふかの絨毯は、アリスの柔らかな室内履きの立てる音など、簡単に吸収してしまう。
しいん、と静かなそこに、アリスの溜息だけが落ち、跳ね返ることなく落ちて転がっていく。
アリスを置いて仕事に出る事を、渋りに渋ったマフィアのボスが、屋敷を空けてすでに十時間帯は経過していた。
直ぐに帰ってくるという台詞を、キスの合間に告げていなくなった夫に、妻は狂喜した。
結婚してからただの一度も屋敷から出して貰えていなかったのだ。彼が帰ってくる前にと、大急ぎで支度をして、浮かれた足取りでほうぼうの友人を訪ねたのは、今から五時間帯ほど前。あちこちを訪ね、近況を話、それなりに危険な目に遭いながらも、アリスは充実した一時を過ごした。
結婚前の様な自由な時間。
そうして、そろそろ戻って来られたら不味いと、名残惜しく戻ってきてから、五時間帯が経過している。
戻って来ないブラッドに、ほっと息を吐き、屋敷でのんびりと過ごせたのは、最初の二時間帯だけ。
寝所も別にしていたし、一人寝の安らかさに、両手足を伸ばして喜んでいたのに。
(・・・・・・・・・・)
とうとうアリスはブラッドの部屋を訪れてしまっている。訪れる気はさらさらなかったと言うのに、だ。
本を抱えたまま、アリスは件の赤いソファに腰を下ろした。いつもと変わらない柔らかさのクッションを抱いて、脚を引きあげ、本を開く。数ページ読み進めて、彼女は首を捻った。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
くるっと本をひっくり返して表紙を見れば、つい最近読んだばかりの本で、アリスは苦いものを噛んだ様に顔を歪めた。ブラッドに薦められて、寝る間も惜しんで読んだ本を、また再びこの大量の蔵書の中から選び出すとは。
何をやってるんだ、と頭を抱え、アリスは次の本を手に取るが、もう開く気にもなれなかった。
再び溜息を吐いて、彼女はクッションを抱えたままころりとソファに横になる。
随分長い間、見上げる事になり続けた天井がそこにある。ふっと目蓋を落とせば、自分に圧し掛かるブラッドが重なり、彼女はきつくクッションを抱きしめた。
音の無い世界に、自分の鼓動の音だけがこだましている。普通、こう言った屋敷には時計が備え付けられていて、静寂を刻み続けている筈なのに、この世界には、時計塔にしか時計は無い。
自分の心音に耳を傾けながら、アリスは唯一の温もりを持つクッションに顔を埋めて身を丸くした。
肩が剥き出しの、薄い夜着で寝ていた所為か、アリスは酷い悪寒に身を震わせて目を開けた。
「寒い・・・・・」
漏れた声は掠れていて、彼女はソファの上にゆっくりと起き上がると周囲を見渡す。ぼんやりと灯る室内灯はそのまま。部屋には誰かが訪れた形跡はまるでなく、沈黙が長々と寝そべっていた。
「・・・・・・・・・・寒いわ」
再び声に出し、アリスはぎゅっと唇をかむと乱暴に立ち上がった。抱きしめていたクッションを手放せば、更に冷たい空気がアリスを包みこみ、彼女は苛立たしげに部屋を横切った。
そのまま、ここ最近使わなかった寝台によじ登る。
綺麗にベッドメイクされたそこを、かき乱すように毛布を引きあげ、アリスは冷たいシーツの海に身を滑らせた。
「冷たい」
清潔な香りがするリネンは、冷えたアリスの身体に、更に冷たい。かたかたと震えながら、アリスは両腕で自身を抱きしめる。
早く早く。
早く、この毛布が温まればいい。
身を縮こまらせて、目を瞑り、枕に顔を埋める。と、ふわりとブラッドから香る、薔薇の香りがして、アリスはどきりとした。
その香りは、アリスにとって忌々しいものでしかない。
自分を包みこんで、優しい声で酷い事を促す。指先で、柔らかく、労るように触れるその仕草に、アリスはいつだって泣きたくなるのだ。
そんな風にしないで。
受け止めようとしないで。
そんな事をされたら、私は落ちるしかなくなるから。
じわりと目蓋の奥が痛み、視界が揺れる。だんだん暖かくなってきたそこから、アリスは素早く身を起こすと枕をどうにかしようと手に取った。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
落ちてしまえばいい。
必死にしがみ付くアリスに、そう告げる男の体温は酷く熱かった。繋がっている場所から、火傷しそうなほど。
落ちればいい。責任は、私がとる。君はただ・・・・・ここまで落ちてくればいい。
アリスを揺さぶる男は、甘い声でトンデモナク甘い事を言う。何もかも手放して、身を委ねてしまえと謳う。
空気は冷たく、アリスは悪寒に身体を震わせた。どうも熱っぽい気がする。ぞくぞくとした寒気が、背筋を駆け昇っていく。
「寒い・・・・・」
手にした枕をシーツに押し付けて、アリスはのろのろとベッドを這って進み、そっと室内履きに足を下ろした。
両腕で自分を抱きしめて、アリスは彼のクローゼットを引き開けた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
面倒な案件を片付けて、ようやく屋敷に戻ってきた主は、自分の妻が方々を歩き回り、彼女曰く『友人』たちと顔を合わせて楽しく過ごしている、という有り難くない報告を部下から受けて、いつにもまして不機嫌な顔で自室に戻ってきた。
ここに来るまでの廊下で、彼女がこの部屋に居なかったら、さてどうしたものかとイライラしながら考え、靴音高く室内を縦断し、昔は一人で広々と使っていたベッドに、最近入る事を許したたった一人の愛しい人の姿を発見し、柄にもなく安堵の溜息を零した。
枕に顔を埋め、毛布に鼻まで埋まる彼女は、幸せそうな寝息を立てている。
「私がいなくて、さぞ羽を伸ばす事が出来たのだろうな」
苦々しく吐き捨てて、ブラッドはやや乱暴にベッドに乗り上げる。ぎしりと軋んだ音を立てるそこで、彼はもどかしげにタイを緩め、上着を脱ぎ、ベストを放って毛布に手を掛けた。
あっさりと捲れ上がるそこに、滑りこむより先に目に飛び込んできたモノに、ブラッドはぎょっと目を見張った。
しばし、ぽかんとその様子を眺めてしまう。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
それから、その状況に徐々に顔がゆるんでくるのを感じ、ブラッドは他に誰もいないと言うのに、大急ぎで顔を手で押さえた。
シーツの上に横たわる彼女は、いつもの夜着を身につけている。だが、その上に一枚、ブラッドのシャツを羽織っていたるのだ。
手触りの良いそのシャツは、彼女の身体をふんわりと覆い、長い袖口に彼女の手はすっぽりと隠れ、指先しか覗いていない。太腿まで覆う裾を眺め、男は全身に甘やかな物が満たされていくのを感じた。
「まったく・・・・・」
今、自分は多分酷い顔をしている。その自覚があるから、彼は顔半分を掌で覆いながら、ぎこちなく彼女から視線を逸らした。
(私は怒っていたと言うのに・・・・・)
やや呆れたような溜息を吐いて、それからブラッドはゆっくりと身を横たえると、両腕を広げてそっと彼女を抱きしめた。
「寒かったのかな?」
全く起きず、ただ柔らかな寝息を繰り返すアリスに、彼はあり得ないほど優しい声で囁いた。苛立たしかった気持ちが霧散して行く。
まったくもって、自分の奥さんはトンデモナイ。
「それとも・・・・・」
寂しかった、か?
じわじわと満ちていく感情は、多分「幸せ」。普段彼女は口を開けば自分を罵るか、嫌味を言うかだというのに。
こんな可愛い事をされてしまっては、落ちるしかない。
「落すつもりが、落とされているとは・・・・・」
彼女が考えるよりももっと、自分は彼女が必要なのかもしれない。
知らず、縋りつく柔らかな肢体を抱きしめて、ブラッドは目を閉じた。
掠めるのは、暖かく、心地よい香り。知っている温度。何よりも誰よりも安心する、それ。
(・・・・・・・・・・?)
ふと目を開けて、アリスは薄闇の中にぼんやり見えるものに目を瞬いた。
見慣れてしまった胸。馴染んでしまった温度。自分に掛る重みも、良く知っている。
「っ!?」
途端、彼女の翡翠の瞳に光が戻る。一気に緊張する身体に気付き、ブラッドがだるそうに目を開けた。
「おはよう、奥さん」
「・・・・・・・・・・・・・・・おはよう」
間抜けにも返し、アリスはぎしりと固まったまま動けない。
自分の手がしっかりと、ブラッドのシャツを握っているのに気付いたのだ。
その手を振りほどく事も、ゆっくりと引きはがす事も出来ず、ただ、彼の胸元を凝視していれば、酷く上機嫌な声が上から降ってくる。
「寂しい思いをさせて、済まなかったな」
「!?」
耳元に、唇を寄せて囁かれた台詞に、かあっとアリスの頬に熱が宿る。
なんでそうなるのよ、という言葉が、アリスの唇を突いて出るより先に、「だが、シャツに甘えるくらいなら、私にしなさい」と酷く甘ったるい声で示唆されて、彼女は一気に青ざめた。
「っ・・・・・こ、れ・・・・・はっ」
寒くて寒くて、仕方なかった。毛布の中が暖かくなるまで。自身の体温で、ベッドが快適になるまで。
それまでの、ちょっとの間だけ。
そんな気持ちで、アリスはブラッドのシャツを借りて羽織ったのだ。
そこから香る薔薇の香りは、アリスを柔らかく包んでじわりじわりと温めてくれた。手放すのが惜しいほど。
とてつもなく、安心できる強い力。優しく目を覆う様な感触に身をゆだね、アリスは眠りの縁を落ちて行ったのだ。
慌てて起き上がろうとする彼女を、腕の中に閉じ込めて、ブラッドはぎゅっと抱きしめる。
息が止まるほど、強く。実際、彼女はひゅっと吸い込んだそれを、吐き出せず、詰めてしまう。
強張ったままの彼女の背を、あやすように柔らかく撫でながら、ブラッドは額にキスを落とした。
「さ、思う存分甘えてくれ」
こつん、と額を突き合わせて囁かれれば、アリスは涙目で彼を見上げるしか出来なくて。
どんなに自由になりたいと願っても。元の世界に帰りたいと叫んでも。
この人がいないと、こんなにも世界は冷たくて、寂しい。
会いたくて会いたくて仕様がなくなる。
ちくたくと、時を刻む音を耳にしながら、アリスは幸せな吐息をつきながら、彼の首に腕をまわした。
「お帰りなさい・・・・・あなた」
ぎゅうっと抱きつくアリスに、ブラッドはゆっくりと微笑んだ。
「ただいま」
一度はやりたい、シャツネタ><
男物のワイシャツを羽織る女性は萌えですv
(2011/03/25)
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