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 良薬は口に苦いが、劇薬はトンデモナク甘いのだと、彼女は期せずして知るのだった





 会合中、会議に参加するのはクローバーの国での新しいルール。
 それに適応しないアリスはしかし、自分の所属する帽子屋ファミリーの皆が参加するのならと、ブラッド=デュプレ曰く、「意味の無い」会合に参加している。

 内容は本当に意味が無い。

 何せ、これっぽっちも話が進まず、堂々巡りを繰り返すからだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・」
 ナイトメアの長々とした、間違いだらけの口上。
 それを訂正するグレイ。
 何時になったら終わるのか、毎回聞かされる開会の挨拶を聞き流しながら、アリスは欠伸を噛み殺した。

(いけないいけない・・・・・)
 彼女の隣に座る、基本仕様が「ダルイ」男ならいざ知らず、この世界に置いて、一番常識的である、と自負している自分が、こんな公の場で欠伸などしていい筈がない。
 それくらいの分別と認識をアリスは持ち合わせている。

 ぎゅっと膝の上で手を握りしめて、唇を噛みしめる。

 それでも、睡魔と言うのは抗いがたいもので。

(最近、夜でもちゃんと寝てないものね・・・・・)
 枕が変わると寝られなくなる、という性分ではない。そうだったら、この世界に飛ばされた時点で睡眠不足に悩まされている筈だ。

 では何が原因なのかといえば。
 隣の男から借りた本の方に有った。

 先が読めない展開は、アリスの睡眠時間をことごとく奪って行く。

(眠い・・・・・)
 日々の仕事をこなし、合間合間に読書。面白すぎる、と言うのは罪で、アリスは普段の倍の仕事量を、一時間帯に詰め込んで余白を作り、なんとかして本を読み進めていたのだが、会合中はそうはいかない。
 続きが気になるし、この場を離れても構わないとアリスの上司は言うのだが、ルールだからと屋敷のほとんどの人間が参加しているのに、自分だけが不参加だというのは、納得いかない。
 なので、退屈で詰まらない会議に、律儀に参加しているのだが、室内は塔の主の体調を慮ってか、十分すぎるほど暖かく、更にナイトメアの低音が規則正しい機械音のように響くから、アリスの眠気を倍増させていく。
 目蓋がゆっくりと落ちて行き、くっつきそうになる。意識がふわりと漂い出し、アリスの身体が緩やかに傾いだ辺りで、「いい加減にするのじゃ、ナイトメア!!!」という怒りに満ちた女王の声が飛んだ。

 びくり、と背筋を正すアリスは、立ちあがり錫杖を構えるビバルディを対角線上に見遣る。
 終わらない開会のあいさつに、いい加減苛立っているようだ。キングが宥める傍で、エースがけたけた笑っている。他人の振りを決め込んでいるのか、無関心なのか(多分後者だ)あさっての方向を向いているペーターと目が合うのを避けて、アリスは溜息交じりに視線を落とした。

「だから言っただろう?」
 と、ひそやかな、笑いを含んだ声がアリスの耳朶を打ち、ぱっと彼女は顔を上げる。不機嫌と言うより呆れた様な表情の男が斜めにアリスを見下ろしている。
「・・・・・ブラッド」
「最近、碌に私に会いに来てもくれない君が隣に居るのは非常に魅力的だが」
 時間を無駄にするとは、君らしくないと思わないかな?お嬢さん。
 にっこり、というよりにやり、と口の端を上げて笑う男に、彼女は溜息を吐いた。
「それを言うなら貴方だってそうじゃないのかしら」
 意味の無い事はしたくない人でしょう?
 半眼で見上げれば、彼は面白くなさそうに鼻で笑う。
「たとえ無意味でも参加はルールだからな。それに、私達が時間を無駄に過ごす、なんてものはナンセンスだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 まあ、それもそうね、とアリスは小さく呟いた。

 彼らの身体には、心臓の代わりに時計が埋まっている。
 時計が無ければ認識されない存在。
 時間の国に住まう、時間そのもの。

「だが君は違うだろう?」
 その心臓が奏でるのは、まぎれもなく「時」の流れだ。
 見下ろす碧の瞳に、アリスはむくれたように頬を膨らませた。所詮自分は余所者で、どこまでいっても彼らと交われないとそう言われた様な気がする。だからこそ、こうして彼らのルールに則ろうとしているというのに。
「それに」
 そっぽを向こうとするアリスの頬に、ブラッドはそっと手を伸ばした。てっきり、冷たい皮の手袋の感触が触れるかと思ったら、彼のやや冷たい指先が触れて、彼女ははっと目を見張った。

 ふわり、と掌全体で頬を包まれて、アリスは驚きながらブラッドを見上げた。
「君は調子が悪そうだ」
「え?」
「さっきから、船を漕ぐ一歩手前で揺れているだろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 寝不足を指摘され、かあっと彼女の頬が熱くなる。今や両手で頬を包まれ、その碧の瞳が、アリスの翡翠を覗きこんでいる。
「やけに濡れた瞳をしてもいる、な?」
「ちょ・・・・・ブラッド!」
 吐息が肌に触れる程の距離。こんな距離でブラッドと見合った事など数えるくらいしかないアリスは、硬直して動けなくなる。
 しかも、周りには大勢の人間がいるのだ。
「何をしているんですか、帽子屋ブラッド=デュプレ!!!」
 ビバルディに押され、しどろもどろのナイトメアが理由を言い募るのに被って、ペーターの悲壮な声が飛んだ。
「これは宰相閣下。私はあなた程非道ではないのでね。部下とのコミュニケーションは円滑にとりたい方なんだよ」
 にやりと口角を上げて嗤うブラッドに、「えー、ただ単にアリスにセクハラしてるだけなんじゃないの?」とエースがまぜっかえす。
「セクハラ!」
 ペーターの顔が嫌悪に歪み、女王の視線が二人に飛ぶ。
「これ、芋虫!公然と女性に性的嫌がらせを強要する、あの忌々しい犯罪者を議場から叩き出さぬか!」
 お前はこの場の主催者であろう!?
 がたん、と椅子を蹴倒して立ちあがるビバルディの迫力に、ナイトメアが蒼白になった。
「え?わ・・・・・私がか?」
「そうだよねー、アリスが嫌がってるなら、帽子屋さんは裁断されるべきだよね」
「ふざけた事抜かしてんじゃねぇよ、テメェら!」
 ブラッドを馬鹿にすんなら、俺が黙ってねぇ!!

 早くもホルスターから拳銃を抜くエリオットに、「なんだか面白そうだね、兄弟」と双子二人が斧をかざす。

「なになに〜?やるんなら、俺も加勢するけど?」
 ボリスが挙手するのが見えて、アリスは眩暈がした。

「アリス!はっきりするのじゃ!!この場でその男を訴えるか!?」
「そ、それは私の台詞・・・・・」
 蒼白を通り越して真白い顔色のナイトメアが血を吐きそうになるのを横目に、アリスは自分に錫杖を突きつける女王に「へ?」と頬を赤くする。
「性的嫌がらせを受けておるのだろう?」
「えあ・・・・・う・・・・・」
「心外だな、女王陛下。アリスは嫌がってなどいない。なあ?」
 先程よりも、もっと間近で覗きこまれ、アリスは尋常じゃないほど顔に熱が集まってくるのを感じた。

 普段なら「いい加減にして」と怒鳴って突き飛ばすなりなんなり出来るのに。

(あつい・・・・・)
 やいのやいの騒ぎ立てる、一筋縄じゃいかない役持ちの連中に囲まれて、くらくらする。
 おまけに、会議場の空調はアリスにとって暑すぎた。
「・・・・・・・・・・アリス?」
 お嬢さんは私のファミリーの一員だ、と騒ぐ面々に向かって言い放っていたブラッドは、くたり、と自分に倒れ掛る存在にはっと目を見張った。
「ブラッド・・・・・」
 あつい、と音声を伴わず、口の形だけで告げる彼女に、ブラッドはぎょっとした。頬は羞恥の為以上に赤く染まり、翡翠の瞳は潤んで涙が滲んでいる。呼吸が浅いのに、男は素早く彼女を抱き上げた。
「済まないが、退席させてもらおう」
 言い捨てて、ブラッドは早足で会議場を後にする。「待て」だの「帽子屋さん何する気?」だの色んな野次に混じって、剣戟の音やら銃声やら怒鳴り声やらが混じるのを、彼に抱えられたアリスはぼんやりする思考の淵に聞く。
「あに?」
 ほやっと見上げるアリスに、ブラッドは苦笑した。
「・・・・・なに、大した事じゃないよ」






 かちりかちりと、時計の音がこだましている。窓から差し込むのは、柔らかで暖かな午後の日差し。
 廊下を漂う埃が、その窓からの日差しに斜めに切り取られて輝く先で、美しい容姿の姉が、一人の男と話をしていた。
 男が何かを言う。
 すると、姉はくすりと楽しそうに笑う。それから、持っていた本を差し出して、やや伏し目がちに話をする。

(何・・・・・)

 何の話かは判らない。かちりかちりと響く、時計の音だけが静かな午後を満たしていて、彼らの声は聞こえない。

 そっと手渡された本を大事そうに受け取り、男は笑った。アリスが見た事の無い、笑みだった。

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 かちこちかちこちかちこちかちこち。

 時を刻む音が響き、アリスは言い知れない脱力感に見舞われていく。
 彼は確かに、アリスに微笑んでくれる事はあった。ふわりと優しく、とても大人っぽく。けれど、あんな風に嬉しそうに、楽しそうに笑ってくれた事など無かった。

 たぶんきっと、絶対。

(彼は姉さんが・・・・・)
 好きなんだ。

 手足がしびれ、苦いものがこみ上げてくる。実際に舌先が苦い。踵を返して逃げ出す事も、声を上げて呼び掛ける事も、アリスには出来なかった。
 心臓がこんなにも早駆しているのに、動く事もままならない。

 何を言えばいいのか。

 言葉を探しているうちに、「ぽっぽー ぽっぽー ぽっぽー」とどこかで鳩が三回鳴いた。
 被るように「りんごん りんごん りんごん」と鐘が鳴る。

 三時。
 三時のお茶会が始まる。

 姉がふと、その音に顔を上げ、廊下の端に居るアリスに気付いた。動けずにいるアリスに、彼女はふわりと微笑んだ。





「・・・・・か。で・・・・・ああ、そうか・・・・・他には?」
「他は問題ないかと思いますわ。ですが・・・・・そうですね」
 ふふ、と低く甘く笑う声がする。緩やかに意識を覚醒させたアリスは、ぼうっと重たい頭を動かすようにして視線を動かした。
 戸口に二人の人間が立っている。

 一人は特徴的な帽子を被った男。
 そしてもう一人は黒い鞄を手に提げた女性だった。

(・・・・・・・・・・)

 頭が上手く動かない。こちらからは二人の横顔だけが見える。
 すっと、金髪の彼女が手を上げて男の頬に指先が触れる。

「あなたも少し、休息した方がよろしいかと」
 酷い顔色ですわ、珍しく。
 くすくす笑う女性の仕草が、親しみを込めた物のようで、アリスは目を見張った。

 熱で潤んだ瞳には、その光景はぼんやりとしか映らないが、それでも胸が酷く痛むのを感じた。
 ずきりと、何かが突き刺さる様な、そんな嫌な感触。

「・・・・・・・・・・」
 微かに笑う様な気配を感じ、アリスは再び胸が痛むのを感じる。
(いたい)
 ずきんずきん、と心臓が痛みを伴って動くのに、彼女はぎゅっと目を閉じた。視界から彼らの光景を追い出すと、途端に不安がじわりじわりと胸を侵していく。

 時を刻む時計の音。人気の少ない廊下。日差し。その先に居た二人の男女。

 目蓋が震えて、目頭が熱くなる。吐き出す吐息が熱く、唇から漏れた瞬間、ひやりとした掌が額に触れた。

「アリス?」
 低い声が落ちてきて、彼女は重たい目蓋を押し上げた。弾みで、ほろり、と目尻を涙が滑り落ち、滲んだ視界の中で、男が酷く驚いたように目を見張るのが判った。
「・・・・・・・・・・嫌な夢でも見たか?」
 それとも、辛いのか?

 指先がややためらいがちに、アリスの目尻に触れた。そのまま柔らかく拭われて、アリスはまた胸が痛むのを感じる。
 やや伏せられた彼の碧の眼差し。
 そこには、普段見る様なからかいも、堂々とした振る舞いも、強い威嚇するような光も無い。
 ただ、困ったような、心配するような色合いしか見て取れなかったから、アリスはまた泣きたくなった。

(あんな風に姉さんと話してたくせに・・・・・なんで私に優しくするの?)
 彼はブラッドで、先生ではない。
 判っている。
 判っているが、熱で混乱しているアリスの頭は、理不尽な想像を掻き立てる。
(あんな風に・・・・・親しくしてる女性がいるのに・・・・・なんで?)

 からかってるだけの癖に。
 ただの暇つぶしの癖に。
 所有欲でしかない癖に。

 なんで私に優しくするの?

 みるみるうちに溜まる涙に、ブラッドはぎょっとする。止めるつもりもない涙は、ぽろぽろと頬を伝い落ち、枕を濡らす。

「苦しいのか?それとも、どこか痛いのか?」
(痛い)

 痛い。胸が痛い。心臓が痛い。

 くすん、と鼻を鳴らし、アリスは口をへの字に歪めたまま、唇を噛んだ。

「言ってくれないか?」
 溢れる涙を止めようとするように、ブラッドの大きな手が頬を包みこみ、涙をぬぐう。
「君の為なら、何でもしよう」
 だから、ただ黙って泣かないでくれ。

 寝台に横になる彼女に、ブラッドが覆いかぶさる。そのまま、両腕でぎゅっと抱きしめられて、彼から漂う薔薇の香りが色濃く、アリスを包みこんだ。
 頬に触れる、ブラッドの肌が冷たくて気持ち良い。熱くて混乱している頭には、それは気持ちのいい熱量だった。
「アリス・・・・・」
 唇が、アリスの首筋に触れる。軽い口付けが肌を浚い、アリスは徐々に重くなる目蓋を落とした。
 頬を滑る、涙の感触。
 重たい腕を動かして、アリスは彼の上着の袖を力なく握りしめた。
「好きじゃなかったんなら、なんで優しくしたの?」
 覇気のない、やや幼い声がアリスの口から零れ落ちる。そっと身体を持ちあげれば、シーツに沈んだ彼女が、涙の滲んだ眼差しにブラッドを映していた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ほんとは・・・・・ね・・・・・さんがすきだったんでしょう?」
 熱に浮いた声は、理性的ではない。
 いつものアリスとは違う物言い。
「なんで・・・・・やさしくしたの?・・・・・いってくれれば・・・・・よかったのに・・・・・」

 振ってくれれば良かったのに。

 勇気を総動員して告白して。
 浮かれて有頂天で。
 毎日がきらきらしてて。

 そんなもの、何の意味も無かった。
 それなら、最初から期待なんか持たせなければよかったのに。

「なんで・・・・・わたしなんか・・・・・すきでもなんでもなかったって・・・・・いえばよかったのに」
 本気じゃなかった。
 遊びだった。

 それならそれで、滅茶苦茶にしてくれればよかったのに。
 どうしてどこまでも優しく私を騙したのか。

「うかれて・・・・・ばかみたいなわたしをみて・・・・・たのしかったんでしょうね」
 そんなことない。
 知ってる。
 彼はただ、純粋に「優しかった」だけだ。
 残酷なくらい、「優しかった」だけだ。

 例え何を巻き起こそうとも、人を傷つける事だけはしたくない・・・・・そんな「優しい」人だっただけだ。

「私はそこまで愚かでも、優しくも無いつもりだ」
 しゃくりあげるアリスに、酷く低い感情の籠っていない声が落ちてくる。それに、はっとアリスが目蓋を持ち上げる。
 ゆらゆらと、海の上を漂う様な眩暈は続いているが、濡れた視界に男の姿が焦点を結ぶ。
「君をからかって遊んだつもりも、手酷く裏切ったつもりもない」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 じゃあ、あれは何なのだ。

 先程、戸口で話していた女性は誰なのだ。
 親しくしていたではないか。

「・・・・・・・・・・これから裏切るかもしれないじゃない」
 ふっと視線をそらせば、苛立ったような呆れた様な溜息を返された。
「馬鹿な事を言うな」
 ただでさえ、胸の悪くなる様な台詞を君の口から聞いたばかりだと言うのに。
 低い声で告げる男に、アリスの胸がずきりと痛む。

 あれのどこか胸の悪くなる様な台詞だと言うのだろうか。

「貴方が何を怒ってるのか知らないけど・・・・・私はむやみやたらと優しくなんかして欲しくなかったって言ってるのよ」
「それは私ではなくて、君の元家庭教師の話だろう?一緒にするな」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 はっと息を飲み、アリスは枕を見詰めていた視線を男に戻した。

 不機嫌、とでかでかと書かれた顔が間近にある。彼女の枕元に両手を着いて、身を寄せて覗きこむ男は「不愉快だ」とはっきりと言い切った。

「・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい」

 唇を噛んで項垂れるアリスに、ブラッドはしばらく息を詰めていたが、ややあって呆れたように吐き出した。

「君が見ていた夢の内容は、大体予想が付いた」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「それから、眼が覚めて不機嫌な理由も」
 これから裏切るかもしれない、なんてどうして思ったんだ?

 更に身を寄せた男が、視線を合わせないアリスの頬にキスを落とす。触れた唇の感触に、びくりとアリスの身体が震える。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だって」
 オンナノヒトと親しそうにしてたから。
 決して視線を合わせようとせず、不貞腐れたように告げるアリスに、ブラッドは内心少しだけ驚いた。

 彼女は素直じゃない。心に思っている事を簡単に吐き出すタイプでもない。意地を張って、回り道をして、面倒事を起こすようなタイプだ。
 慎重故に、道を誤る、おかしなタイプ。

 その彼女が、ストレートに不満を伸べる姿に、ブラッドは緩く、口元に笑みを漂わせた。

「私が他の女と親しくしていたら、君は困るのか?」
 頬から耳元へ。唇を移動し、甘く噛みながら囁けば、熱に浮いた彼女の身体が小さく震えた。
「こまるわ・・・・・」
 困惑している頭は、色めき立って桜色に染まっていく。
「何故?」
「・・・・・だって・・・・・」
「だって?」
「・・・・・・・・・・・・・・・また・・・・・くないもの」

 小さく囁かれた台詞は、ブラッドが聞きとるよりも早く掠れて消えてしまう。

「何?」
 もう一度聞きかえすブラッドが、身体を離す。潤んだ瞳に、彼が映っている。彼女は口をへの字に曲げて、そして視線をうろつかせた後、ふいっと逸らしてしまった。
「知らない」
「・・・・・・・・・・・・・・・アリス」
「知らない。知らないー。知りませんーっ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 熱でイカれている頭は、正常な判断を下せない。くるくる回る視界を閉ざせば、柔らかな闇が目蓋の裏に広がって、アリスはただ口を開く。
 何を言っているのか、自分でも判らなくなりながら。

「知らない・・・・・ブラッドが・・・・・私に飽きたら・・・・・困るもの・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「そうよ・・・・・困るわ・・・・・だって・・・・・また・・・・・」

 また失恋したくないもの。

 不確かな声音で言われた台詞に、ブラッドがはっと息を呑んだ。それから、目許を赤く染めて力尽きたように身体をシーツに沈めるアリスをじっと見つめる。
 思わず口元を手で隠して視線を逸らし、自分の表情を隠してくれる帽子に、今ほど感謝した事は無かった。

「全く・・・・・」
 熱でも出していないと、こんな事を告げてくれない女に、良い様に振り回されている。
 でも、そんな面倒な事態が、今はどうしても嬉しくて。

「飽きたりしないし・・・・・失恋させるつもりもない」
 小さく笑い、ブラッドは上着を脱ぐと、帽子をとり、ネクタイを緩めて彼女の隣に滑りこむ。

 会合はまだ続いている。だが、混乱している筈だから、ブラッドが戻らなくても問題はないだろう。
 ペナルティなど怖くも無い。

 それよりもよっぽど。

「君を一人にしておく方が怖い、な・・・・・」
 甘えるように、ブラッドに寄りそうアリスを抱きしめて、彼はそっと目蓋を落とした。





 緩やかに覚醒し、ぼうっと眼を開けたアリスが見たのは、肌蹴たシャツ。
「?」
 薬が効いているのか、頭がはっきりしない。じっとダークレッドのシャツと、そこから覗く首筋を眺めていたアリスは、不意に笑う声に、視線を更に上げた。
「おはよう、お嬢さん」
「・・・・・・・・・・ブラッド」
 覇気のない声が告げる。乾いた唇にキスが落ちてきて、アリスは微かに目を見張った。やや温い水が喉を滑り落ちていく。
「っ」
 ただそれだけじゃない。
 苦い。
「んっ」
「食前、でよかったかな?」
「ええ。後は栄養のあるものをとっていただいて、体力の回復に勤めてくだされば問題ありませんわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・?」
 薬を飲まされたのだと気付き、それからブラッドの声とは違う声を耳にして、アリスはぼんやりと視線を巡らせる。

 ベッドの端に、金髪の巻き毛が美しい、すらりとした美女が立っていた。

 ぼうっと眺めていると、後ろから腕が伸びてきて、ぎゅっと胸元に抱き込まれる。

「大分、熱は下がったな」
「ですが、恐らく薬による一時的な物ですわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・あの?」
「ふむ・・・・・無理はさせるな、と?」
「お嬢さまに必要なのは、十分な休息です」
 きっぱりと告げる女性を見上げ、渋面で溜息を吐くブラッドに視線をやる。
 交互に見た後、「反応が鈍いな、アリス」と男が可笑しそうに笑った。

「!?」

 そこで彼女はようやく気付いた。

 寝室のベッドで、男に抱かれていると言う、この、何とも言い難い状況に、第三者がいる。

 唐突に顔を赤くし、逃れようと身を捩る彼女をベッドに押し倒して、ブラッドは間近から彼女の翡翠を覗きこんだ。

「おや・・・・・正気に戻ってしまった」
「ボス」
 重い手足を動かして、必死に逃れようとするアリス。その彼女を組み敷いて、恐ろしく艶やかな笑顔を向けるブラッドに、女性が溜息交じりに口を挟んだ。

「安静にしてるようにと、申し上げたばかりですが?」
「こんなに可愛いお嬢さんが腕の中で熱を上げていると言うのに、応えるなと?」
「我が組織のボスは、古き良きマフィアの時代の掟を尊重なさっている方とお見受けしておりましたが、間違いでしょうか」
「私は女性に優しいが?」
「ですが、ゴーカンなさいそうな勢いですわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・同意、が欲しいな、アリス」
 アリスの身体は、熱が引いたとはいえ、まだまだ平熱には遠い。熱く震える身体を抱く腕に、変な色が籠っていく。
 背筋を撫でる手つきに息を飲み、アリスは「同意なんか出来っこないでしょう!?」と悲鳴の様な声を上げた。

「つれないな」
「あたりま・・・・・あっ」
 噛みつくようなキスが、アリスの桜色に染まった首筋に落ち、震える吐息が喉から漏れる。甘やかなそれに、ブラッドは溜息を吐いた。
「それで、ドクター。名医である君の意見を尊重し、彼女に無体を強いるのは別の機会に回すとして・・・・・その機会は何時訪れるのかな?」
 彼の不埒な手は、アリスの身体を撫でていく。
「んっ」
 まろみを帯びた彼女の柔らかな胸に、柔らかく指を埋め、熱で身体の自由が利かない彼女の耳朶を嬲る。

 これのどこが無体を強いるのをやめました、という男の台詞だと言うのか。
 元気が有れば罵りたいアリスは、「お嬢さまが可哀そうですよ」と呆れた様な女性の声に視線をやる。

(この人・・・・・)
 先程、ブラッドが「ドクター」と呼んだ彼女は、どうやら帽子屋ファミリーの息が掛った医者らしい。
 夢に落ちる前に見た、ブラッドと話をしていた人物。それが彼女だろう。

 憐れむ様な視線を感じ、アリスは「助けてください」と乾いた唇を開こうとする。それに、女医はちょっとだけ目を見開くと、ふうっと溜息を吐いた。
 彼女の視線は、懇願するような、憐れな仔ウサギなアリスを認め、それから、それを捕食しようとしている碧の瞳の狼へと向けられる。

 邪 魔 を す る な 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 所詮、自分は役なしで、彼のカリスマに惹かれ、一度喰らわれた身だ。
 喰われた故の近さと、元より彼につかえている身の信頼から助言は出来るが、絶対的な存在に逆らうなど、出来る筈もない。

 威圧するような、狼の鋭い視線に、彼女の背筋が本能に従って粟立つ。

 可哀そうなお嬢さま。

「二度も三度も強いられませんように」
「・・・・・・・・・・了解した」
「!!!!!」

 一度なら良いと、そういうのか!?

「せ、センセ・・・・・」
 思わず彼女を呼ぶアリスは、その呼称が誰かの逆鱗に触れるのを、今更ながらに思い知る。
「先生?・・・・・誰がだ、アリス」
「ち、ちが・・・・・あ、あの、お医者さまに私はっ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「あっ」


 シーツに沈みこんでいく。熱が上がる。潤んだ眼差しに、苦笑し背を向ける女性を認め、アリスは手を伸ばした。
 だがその手は。

「誰に、助けを求めているのかな?」
 直ぐに別の温度に絡め取られ、口づけられ、舌先で嬲られて、喰らわれていく。
「アリス・・・・・」

 耳元で吹き込まれた低音は、彼女のなけなしの抵抗力を、根こそぎ奪って行った。





 それからしばらく。

 微熱が下がらないアリスは、チョコレートケーキに砂糖をまぶして、たっぷり蜂蜜を掛けた様な、どろどろに甘ったるい看病を受け、その看病の代償とばかりに、良い様に喰らわれて、結局通常よりも倍以上の時間を掛けて体調を元に戻す羽目になったのである。
























 GWリクエスト企画より、nobiさまから

「『ブラアリで看病ネタ。』
どちらが病人でも構いませんが、甘々でお願いします。」

 と頂きましたので、「弱アリス」キター!と張り切ったのですが、何をどう間違えたのか、一切ブラッドが看病しないネタになってますね(土下座)
 し、してますよ!看病!!

 きっと、汗をかいてぼんやりしてるアリスを、ちゃんと乾いたタオルで拭いて、また着せて寝かせてたりとかしてるはず。
 ・・・・・・・・・・・・・・・なんで汗かいたんだ?て言う所は突っ込まないでください☆
 寝てたからです。
 寝てて、熱のせいで、汗をかいたんです・・・・・多分☆


 と、こんな感じですが、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです><

 ありがとうございましたv



(2011/03/14)

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