Alice In WWW
- 卑怯な手管
- 「さて」
飲んでいた紅茶のカップを置いて、ブラッドは立ち上がる。向かいに座って同じようにカップを傾けていたアリスは、ちょっと首をかしげて男を見上げた。
「私はこれから出かけてくる」
「珍しいわね」
今は夜で、空にはぶちまけた砂糖のような、細かな星が散っている。月が無いから、それらがよく見えた。
静寂と、ひんやりした空気が好きな、この夜行性の男が出かけるとは、よっぽどの仕事があるのだろう。
かちゃん、とソーサーにカップを戻して、アリスは「行ってらっしゃい」と無感動な声で答えた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
不満そうな雰囲気がひしひしと肌を打ち、だるそうな眼差しで見つめられる。
綺麗に無視して、アリスは盛られているクッキーを一つとった。
「それだけかな、お嬢さん?」
いつの間にか移動したブラッドが、アリスの隣に立ち、テーブルに片手をついてこちらを覗きこんでくる。
「お帰りはいつでしょうか?」
ほぼ棒読みのような口調で言われ、男はやれやれと肩をすくめた。
「仕事に行こうとしているフィアンセに言う台詞じゃないな」
ちらり、とブラッドの視線がアリスの左手の薬指に向かい、そこに薔薇をモチーフにした綺麗な指輪をはめていたアリスは、うっ、と言葉に詰まる。
「それとも・・・・・照れてるのかな?」
にやり、と笑う男にそっと頬に触れられて、アリスはしぶしぶブラッドを見上げた。
ああいやだいやだ。
この男は妙な所で勘が鋭い。
なるべく自分の感情を気取られたくないというのに。
「いってらっしゃい」
今度はいくらか柔らかな声が出る。見つめてくるブラッドを見かえして、アリスは「気をつけてね」とかすれた声で付け加えた。
「ああ」
ちょっと驚いたように目を見張り、それから男は屈むと女の額に軽い口づけを落とした。
ふわりと触れるだけのキス。
何となく物足りない。
瞬間的にそう思って、アリスはげんなりした。
もしも。
もしもここで・・・・・・・・・・
(なんて乙女思考かしらね)
庭の通路の先に、エリオットのオレンジの頭と耳が見え、門番に怒鳴る声が響いてくる。
今回、この三人も屋敷を出る。と言う事は、よっぽど重要な案件なのだろう。
それと比例して、ただの撃ち合いで終わらないことも判った。
アリスは出来る限り彼らの内情に踏み込まないようにしている。
前は、阻害されているような気がして、なんとかして彼らの「仲間」になりたいと思ったが、今ではそれよりももっと重要な位置に自分が居ることに気づいていた。
屋敷の中では単なるメイド見習いという肩書。
けれど、それよりももっと重要な立ち位置に自分は居る。
それが判ったから、甘ったるい思考が首をもたげてくるのだ。
「ブラッド」
「ん?」
柔らかく、彼女の髪に触れていた婚約者相手に、アリスは手を伸ばすと、彼の上着を掴んだ。
「無理も無茶もしないで」
「・・・・・・・・・・君の頼みなら」
軽くいい、弄んでいた彼女の髪を持ち上げて口づけを落とす。
「そして・・・・・」
彼の手を取り、自分の頬に当てると、アリスは上目遣いにブラッドを見上げた。
「早く帰ってきて」
自分の頬が赤いのがわかる。微かに目がうるんでいるのも。熱っぽく見られていると、ブラッドが思ってくれればいい、なんて、アリスは思う。
精一杯、誘ってみたのだ。
何をって。
これから先の「夜」を。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最善の努力をしよう」
沈黙ののち、ブラッドは早口に答えた。アリスが己の言を撤回しないうちにと、やや強引に彼女の顎に手を掛ける。
「なるべく諍いは避ける。なに、大したことはない。ようは今回の取引の要を一瞬でふっ飛ばせばいいんだ」
くどくど回りくどい手段を取って、裏を暴いてやろうかと思ったが気が変わった。
そのまま、深いキスをアリスに贈る。
「連中の理由など知ったことか。殲滅して戻ってこよう。約束する」
トンデモナイ約束だ。
それでも、アリスはこんな子供っぽいとしか言いようのない「誘い方」に乗ってくれる男が嬉しかった。
(最低ね、私・・・・・)
こうやって、自分に応えてくれるブラッドが好きだ。
対立する組織の皆々様には悪いが・・・・・どのみち、マフィアなんて職業に就いた時点で、己の命がどうなるのか、割り切っているだろう。
巻き込まれる一般人がいないだけよしとしなければ。
「なら、賭けて」
手を伸べて、アリスはブラッドの首筋から彼の付けていたスカーフを抜き取った。
する、とアリスの手に落ちたそれをブラッドは眺め、アリスはアリスで、それをきゅっと抱きしめた。
「これから貴方の香りがしなくなったら、私は屋敷を出て友人の所に遊びに行くわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
ふわり、と抱きしめるスカーフからは、ブラッドの香りがする。頭の芯がぼうっとなるような甘い甘い薔薇の香り。微かに、葉巻の風変りな匂いがするそれをアリスはいくらかむくれた顔で見つめていた。
ああ、本当に子供っぽい。
どうしてもっと、妖艶に迫れないのだろうか。
なんというか・・・・・彼の部下にも居る、金髪美女で、やり手のキャリアウーマンっぽい感じで、くすくす笑いながら男を手玉に取るような・・・・・そんなイメージで出来ないものか。
(言ってることは割と色っぽいと思うんだけど・・・・・)
なにせ態度が付いて言っていない。
要修行だろう・・・・・どうやってするのかはわからないけど。
「困ったお嬢さんだ」
そんなアリスを、ブラッドは心底面白そうに眺めると、「いいだろう」とアリスの賭けを受けた。
「それから私の香りがしているうちに帰ってきた場合、君は何をしてくれるのかな?」
「・・・・・・・・・・貴方が望むことを」
こんな約束、絶対後悔するに決まっている。目の前の男がそれはそれは愉しそうに嗤ったのを見て、ぞっと寒気がしたが、でも、構わないとどこかで思う。
この人は私のものだ。
そして、私はこの人のもの。
「すぐに戻ってくるよ、アリス」
「どうかしらね」
「私は優秀な男だ。本気を出せば、弱小組織など、あっさり潰していける」
しないのは、彼らが翻弄される姿を見るのが好きだからだ。
「だが、今日は底力をお見せしよう」
物騒な単語を並べたて、もう一度甘い口づけを落として、ブラッドはテーブルを離れた。
後ろ姿を見送りながら、アリスはスカーフを抱きしめる。
彼はやるといったら、やるだろう。
今夜は驚くほどあっさり片が付くに決まっている。
それはどこか甘美で、暗く、背徳的で・・・・・でも、逃れられない感情。
「私って案外依存するタイプなのかもしれないわ」
そして、思いがけず嫉妬深い。
淡白だと思っていたのに、と一人ごち、アリスはブラッドの部屋へと移動する。
こんな態度を取ったのは。
こんな態度が、彼を己の元に繋いでおける最大の手段だと気付いたからだ。
彼は気まぐれだ。
余所者だからちょっかいを掛けられて、婚約してしまった関係なんて、いつ、どうなるか分からない。
そして、いつどうなるか、物理的にも判らないような仕事をしてもいるのだ。
(惚れた弱みよね・・・・・)
もっと綺麗になりたいと思う。
卑屈に後ろ向きに、彼に似合わない女だと、自分を評するのは終いなのだ。
彼に似合うようになりたい。
・・・・・・・・・・なれなくても、空回りでも、変えられなくても。
(精一杯の愛情表現くらいは・・・・・しなくちゃね)
ああ、可愛くない。
なんだろうか、この手段。
本当はアリスだって言いたかったのだ。
行かないで、なんて、砂を吐きそうな台詞を。
「末期だわ・・・・・」
溜息をついて、アリスはブラッドの部屋のドアを開けた。スカーフを抱えてベッドに倒れ込む。
そして、アリスは賭けは己の負けだと確信した。
ベッドにはブラッドの香りが満ちていて、スカーフの香りが飛んだところで判りはしない。
次に目が覚めた時、彼がいれば彼の勝ちだ。
くすりと小さく笑って、アリスは目を閉じた。
(2009/10/28)
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