Alice In WWW

 無自覚なうちに課したルールと「でも」という曖昧な境目
 会わない日が続けば寂しいし、会えれば嬉しい。

 それは何がどうしてそうなった感情なのか、アリスには判らない。
 使用人として当然の感情だと、同僚たちがごく普通に言うのに、アリスも納得し、そう思ったからこそ、ブラッドとたまに一緒にいる時間があってもいいんじゃないだろうかと思ったのだ。

 それが、何がどうしてそうなった結果、恐ろしいほど美しい月を見上げて、その下にある碧の瞳がやけに優しく自分を見下ろしている、長い長い夜を共に過ごす事になったのか、やっぱりアリスには判らない。

(あれも一種の気まぐれだったのかしら・・・・・)

 今日のアリスの持ち場は、屋敷の左翼、3階の客室清掃だった。黙々と清掃をこなし、最後の一つの部屋のベッドメイクをしながら、彼女はその割には、どうして自分の中に落ち込んだような感情がないのだろうかと首を捻る。

 いくら恋愛事はごめんだと思っていたとしても、アリスも女だ。単なる気まぐれであんな事になったのだとしたら、例え上司で、恐れられているマフィアのボスだとしても、アリスはブラッドに対してどす黒い感情を抱いただろう。
 立場を利用して、メイドに手を出すなんてありえない、と。
 だが、現在アリスにはそう言った暗い感情はなかった。
 なかったどころか、会えないかな、とどこかで思っていたりもする。

(・・・・・それもこれも・・・・・)
 ブラッド=デュプレは理解しにくい人間だ。
 自分を悪く見せたくて、わざと非道な行動に出たりするような人間なのだ。本当に酷薄な面も、残虐な面も持ち合わせているのを、アリスは十分に理解している。そんな中でも、自分を悪く見せることを忘れていない。
 その程度にはアリスはブラッドを理解している。だからこそ、迫られ、触れていく手に嫌悪を覚える事が出来なかったのだ。

 少なくとも、自分を見下ろしていた眼差しは真摯で、終始優しかったから。

(いっそ、乱暴にされた方が判り易かったわよね・・・・・)
 そうすれば、退屈しのぎに手を出されたのだと、泣きたい気分で思っただろう。
 でも、そうじゃない。

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 長い長い夜の事を思い出して、アリスは一人真っ赤になった。耳まで火照って熱くなる。思わずその場にしゃがみこみ、アリスは頭を抱えた。

 あの夜。アリスはあれが初めてだったのだ。前に付き合っていた人は居たが、アリスに手を出すような事はなかった。ないままに終わってしまっていた。
 それが悲しくて、自分に何の魅力もなかったのだと認めるのが嫌で、そういう事を求められることがあったならば、その人の事を心から愛そう、なんて柄にもなく思ったりもしていたものだ。
 だが、実際は愛するどころか、どうしてそこまで踏み込むことになったのか判らないような相手に、自分を差し出してしまっていた。

 困惑して、頭がぼうっとして、何も考えられない彼女に、ブラッドは本当に優しかった。
 不安げにすれば、なだめるように一々キスをし、少しでも身体に力が入れば、甘く甘く耳元に声を吹き込む。触れる手は慎重で、アリスはまるで、自分が貴重な壊れやすい、氷細工になったような気さえしたのだ。

 考えられないくらい時間をかけて、柔らかく扱われて。
 そんなブラッドに、アリスはこんな相手では十分満足出来なかったんじゃないだろうかと、頭を抱えたまま考え込んでいた。

 こちらは手いっぱいで、相手のことなど判らなかった。ただ、うっとりと気持ちが良くていつの間にか縋りついていた事だけは覚えている。

(我慢するの嫌いなくせに・・・・・)

 ほー、と長い溜息をついて、アリスはのろのろと立ち上がった。身体に残った違和感と倦怠感。それを思い出し、最終的には触れていた温度が肌に蘇るのに、頭の中がピンクになる。

(って、何を流されているのよ私はっ!)

 掃除は終了、とばかりに道具を片付けて、アリスはワゴンに押し込むとそそくさとその場を立ち去ろうとする。
 ドアを閉めて預けられた鍵を締めれば完了。そのまま彼女は中央館へと歩き出した。

 窓から差し込む光は柔らかく廊下に落ち、きらきらとした明るさに満ちていた。
 目を細め、秋の紅葉が風に舞うのを立ち止まって眺める。

「やっぱり・・・・・おかしいわよね」
 上司と部下。
 そういう関係から、ちょっと進んで、前のような友達みたいな関係になれたような気がしていた。
 そこから、どうしてああなったのか。
 何がどう作用したのか。

 思わず溜息が洩れると、不意に廊下の奥から、「アリス」と声を掛けられた。
 何故か、どうしても甘く聞こえてしまう声。
 大急ぎで振り返ると、この屋敷の主が、珍しく書類を抱えてこちらを見ていた。

「丁度いい。掃除は後回しで手を貸してくれないか。」

 あの夜以来、アリスはブラッドに会っていなかった。
 彼はサンクスギビングディにこそ働くべきだ、と勝手に忙しく仕事をしていた。
 元から忙しかったのに、部下たちに順番に連休を与え、その仕事を割り振って自分の分を多くし、更にアリスと出かける為に、無理やりスケジュール調整をしたせいで、彼は押し寄せる仕事をさばくのに、ここ何時間帯も外出と書類整理と決済、仮眠を繰り返していた。

 再びすれ違いを重ねる事になり、アリスはどことなくほっとしたような気持ちと、残念な気持ちで日々を過ごしていたのだ。

 そのブラッドが、珍しく屋敷に居る。

「今日は出かけていたんじゃないの?」
 大股に廊下を突っ切るブラッドを慌てて追いかけ、階段わきに掃除のワゴンを押し込むと、アリスは開け放たれたままの、彼が現在仕事で使用している部屋に踏み込んだ。
 中央館3階の、更に中央にあるその部屋は、資料が棚の上から下まで詰まっている。ブラッドは持っていたそれを机に放り、アリスには応接用のソファに座るように指示を出した。

「そうだったが、前回の案件の事後処理がうまくなくてね。ちょっと揉めてしまったから、手を打とうと戻ってきた」
 ほとんどやる気の感じられない声で、だるだると言われアリスは眉を寄せた。
「それって・・・・・大変なんじゃない?」
「ああ。先方が我々の関与を疑ってきてね・・・・・まあ、関与したのは事実なんだが、切り抜ける材料が欲しいんだよ・・・・・」
 言いながらも、ブラッドはすでに資料室のあちこちのファイルを引っ張り出しては床に投げ捨てている。
「君はそこの書類を内容別にファイリングしてくれ」
「はい」

 口調に似合わず、てきぱきと動くブラッドにつられ、アリスも仕事モードで応じると、机の上に置かれたひと山の書類を慌ててテーブルに移動した。






 与えられたのは、敵対組織の基本データから、取引先、経営会社、企業、それから社員の基本情報、構成員の滞在場所までおおよそ、全てが網羅された書類の整理だった。
 内容はなるべく忘れるようにして、アリスはただ事務的に書類を分けていく。それでも数が多く、ブラッドが使いやすいようにしなければ、と考えて作った為に、時間が掛ってしまった。
 ブラッドはと言えば、手に入るだけの情報を頭に叩き込もうと、当たりと見られるファイルを見つける度に、眉間にしわを寄せて書類を読みふけっている。

 資料室は作業を始めてから、二時間帯後に来た夕方まで、ずっと沈黙に包まれていた。

 じっと、文面を追っているブラッドに、アリスは声を掛けようかどうしようか迷った。
 渡された書類の山は綺麗に分類され、ブラッドが放り捨てた「必要」と見られるファイルから資料を抜き出し、添付してある。
 アリスの作業はこれで終わりだ。
 ただ、ブラッドは椅子ではなく、机に半分腰を下ろしたまま、じっと書類に目をやっている。

 真剣な横顔に、アリスは不意にどきりとした。

(似てない・・・・・)

 目つきは鋭く、表情の抜け落ちた横顔は酷く冷酷で綺麗で、この世に生存しているものとは思えなかった。
 よく言えば彫像のような、そんな感じ。

 オレンジの光が高窓から差し込み、微かに舞っている埃に反射して、光の筋を描いている。

 息を止めて、アリスはその中にいるブラッドを見詰めた。
 視線が、縫いとめられてしまって動けない。

(全然似ていないわ・・・・・)

 アリスが昔付き合っていた人。
 家庭教師の先生。
 優しくて、頭が良くて、本当に好きだった。自分からなんとか認めてもらおうと、先生に似合いの女の子を目指して一生懸命努力した。
 やっと叶った時は本当に嬉しくて、思い返せば、一人で空回りしていた。

 先生とどこに行こうかな、とか。こういうことをしたら楽しいかな、とか。先生の為にケーキを作ろうかなとか。

(よく考えたら好意の押し売りだったような気もしないでもないわね・・・・・)

 苦い思いを抱えたまま、アリスは、そんな先生に「そっくり」なマフィアのボスを見つめ続ける。

 どきりと胸が高鳴り、頬が熱くなる。ファイルの背表紙を支えるブラッドの指の長さとしなやかさに、急に月夜の事を思い出して、アリスは眩暈がした。
 このまま見詰めていたら倒れてしまう・・・・・そんな事をぼんやり考えていると、不意にブラッドがぱたん、とファイルを閉じるとアリスの方に視線を寄こした。

「・・・・・・・・・・どうかしたのか?」
「え?」
 少し驚いたように目を見張るブラッドに、彼女はようやく我に返った。飛んでいた意識を慌てて引き戻す。
「顔が赤いが・・・・・」
 かつん、と靴の音が一つ響いて、男が一歩前に出る。間髪要れずに、アリスは「夕陽の所為よ」とべたべたな台詞を返していた。
「そう・・・・・か?」
 斜め上の窓を見上げるブラッドの首筋や、そこを撫でる手の仕草に心拍数は収まることを知らない。

 思い出して恥ずかしくなるなんて、自分も大概終わっている。

(平常心平常心・・・・・)
 吸い込んだ吐息が震えるが、構わずアリスは「書類、整理できました」と何気なく答えた。

「ん?ああ、すまない」
 距離が詰まり、目の前で立ち止まった男が、ローテーブルの上にきちんと並べられた書類を手に取った。
 ざっと目を通す間、立ち上がったアリスはエプロンの裾を握りしめたまま緊張した。

 間違って・・・・・無いはずだけど・・・・・。

 今度は別の意味で心拍数が上昇する。一通り目を通したブラッドが、口の端を上げて、笑った。
 マフィアのボスらしい、笑い方だ。

「上出来だ。やはり君に頼んで正解だったな」
 エリオットだとこうは出来ない。

 まとまったそれを手に、ブラッドが大股で部屋を横切る。すり抜ける自分の上司から、甘い薔薇の香りがして、アリスはずきりと胸が痛むのを感じた。
 甘く、しびれるような胸の痛みだ。

(あ・・・・・)
 自分に背を向けるブラッドの、広い背中を見送った彼女が感じたのは、寂しさだった。

(・・・・・・・・・・・・・・・し、使用人なら、当然・・・・・よね?)

 きゅ、と痛んだ胸を誤魔化すように、胸元を握りしめアリスは、距離の開く存在に目を伏せた。

「行ってくる」
 ドアノブに手を伸ばし、そう告げるブラッド。
「いってらっしゃいませ、ボス」
 それに、アリスは自然とそう答えていた。叩きこまれたお辞儀をする。
 慌ただしく部屋を出ていこうとしていたブラッドが、その時ふと、ドアノブに手を伸ばしたまま立ち止まった。
 それから、ゆっくりと手を引っ込めると後ろを振り返る。

 アリスは、礼をした後、部屋のファイルを並べ替えなくては、と彼が放り投げたファイルの山を見詰めていた。

「アリス」
「はい」
 名前を呼ばれて、そちらに意識を戻せば、ドアから手を放した男が、つかつかとアリスに歩み寄り、両手を伸ばして彼女を抱きこんだ。

「!?」

 突然の接触に、アリスが動揺する。まわされた腕の感じに、嫌でも夜の事を重ねてしまう。
 そんな、硬直するアリスの背中をゆっくりと撫でながら、ブラッドは彼女の耳元に唇を寄せた。

「この埋め合わせは必ずする」
「・・・・・え?」

 埋め合わせ?何の?

 アリスはブラッドの部下だから、仕事をするのは当たり前だ。そう言おうとして、それより先にブラッドが可笑しそうにアリスの瞳を覗きこんだ。

「三時間帯も一緒に居て、何もできなかった」
「っ」
 間近で、綺麗な顔が笑っている。言葉に詰まるアリスの唇に、ちゅっと軽いキスを落とし、ブラッドはにたりと笑った。

「君と・・・・・一緒に居たのに・・・・・勿体ないだろう?」
 ちゅ、ちゅ、と落とされる軽いキスの合間に言われて、彼女は更に、耳まで赤くなった。
「な、にがっ」
「君に構わず、寂しい思いをさえたのではないかと、ね?」

 確かに、今寂しいと思った。
 でも、仕事とプライベートは違う。どんな関係でもそうだろう。そして、今、二人は上司と部下なのだ。

「べ、別に寂しくなんかなかったわ」
 これは本当。
 たぶん本当。
 ・・・・・・・・・・・・・・・本当、よね?

「そうか?」
 くすりと小さく笑って、ブラッドは腕に彼女を抱いたまま持ち上げた手で柔らかく彼女の後頭部を撫でた。ぞくり、と背筋が震え、それに気をよくした男が彼女の翡翠色の瞳を覗きこんだ。

「とにかく、女性を放っておくなど私の主義に反する。」
 ひそっと囁かれて、アリスの頬が熱くなる。夕陽の所為よ、夕陽の所為、となんとか睨みあげるようにブラッドを見上げる。通じているかどうかは、判らないが。
「次の夜は、私の部屋で待っていなさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」

 意味が取れず、間抜けに訊き返すアリスに、もう一度、今度はやや深く口付けると、マフィアのボスでアリスの上司はするり、と彼女から手を解いた。

「いいね?」
 頬に触れる手が、手袋越しでも暖かい。視線に絡め取られて動けない。
「はい」
 こっくりと頷いてそう言えば、ブラッドは名残惜しそうに彼女から手を放して踵を返した。
「では」
「・・・・・・・・・・はい。」

 そこに居るのはもう、自分に見せたような甘い姿ではなく。

(わっ・・・・・・・・・・)

 微かに見た、冷徹な笑みと自信に満ちた歩き方。纏う雰囲気は気だるいままなのに、空気が一瞬で凍りつく。
 にじみ出る威圧感にへたり込みそうになりながら、アリスは立ち去るブラッドに不覚にも見惚れてしまった。

(カッコいいのよね・・・・・口惜しい事に・・・・・)

 マフィアのボス。そのブラッド=デュプレがモテる理由をアリスは理解した。
 理解して、やっぱりつきん、と胸が痛くなるのだった。






 この世界では時間はあまり意味を持たない。出鱈目に夜やら朝やら昼やらがやってくる。
 それなりに忙しく立ち働き、アリスはふと開いた時間に空を見上げる。澄み切った秋の空がどこまでも続いていて、眠くなるような気持ちのいい陽気だ。
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 彼が出てからまた、3時間帯は過ぎていた。夕方が二回と昼が一回。4時間帯目の今は昼で、夜が来ない。
 こみ上げてくるのは、どういう感情なのだろうか。

(私・・・・・ブラッドに会いたいって思ってる?)
 まさかそんな。どうして?

 確かに、ブラッドと一緒に居ると心地がいい。マフィアのボスと一緒に居て心休まるなんて、そんな事があるのだろうかと思うのだが、実際あるのだから仕方がない。
 アリスとブラッドは性質が似ている所為か、波長が合うのだ。水と油のように交わらない所もある。生きてきた世界が違うから、それは仕様がないだろう。だが、それ以上に共鳴できる部分があるから、気にならない。
(いや・・・・・気にした方が良いんでしょうけど・・・・・)

 現在アリスは厨房で、ブラッドから無理やり押し付けられた紅茶を使ったお菓子のレシピと格闘していた。
 彼が帰ってくるまでに、せめてシフォンケーキくらいは焼き上げたい。
(部屋で待ってるだけ、なんてなんか・・・・・あれだしね)

 顔が熱い。今日は随分自分の平熱が上がっている気がすると、アリスはぱたぱたと己の顔を仰ぎながら温めたオーブンにケーキ型を押し込んだ。

 後は焼きあがるのを待つだけ。

(こういうの、嫌いな人じゃないとは思うんだけど・・・・・)
 レシピを渡して「作ってくれ」と言ったくらいだ。手作りのものが嫌いな人ではないだろう。それとも、それはアリスに限った事なんだろうか、と不意に彼の私室の机に積みあがっていた贈り物の山を思い出す。

 必要な物・・・・・そう、たとえば領土内の店舗から贈られたものや、融資している企業からの貢物、なんかは開封したりしている。だが、女性から贈られたと思われる物を、ブラッドが開けているのを見たことがない。

 たくさん届けられて、夜に出かけて帰って来ない事もあった。何かの拍子に、彼が女性と出歩いているのを見たこともある。もちろん、夜にだ。その時、アリスも遊園地の帰りだったから大慌てで彼から距離を取ったのだが、思えば、そういう女性が何人も居たっておかしくないのだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 テーブルに着いたまま、焼きあがるまでぼーっと色々考える。
 上司と部下だった時(今もだが)は気にしなかったことが、どういうわけか一々気になってくる。

「やっぱりおかしいわよ」
 ぽつりと呟きが漏れて、アリスは目を伏せた。

 何がおかしいんだろうか。ブラッドがおかしかったから自分もおかしくなった。みんなみんなおかしいのだと、そう結論付けたが納得はいかない。
 そもそも、彼が誰から贈り物をもらおうと関係なかったはずだ。それを開封しないことに、ちょっと優越感を覚えるのだって、意味がない。
 ましてや、自分だけに、何かを作ってくれ、と頼まれたなんてことで、嬉しく思うのはもっと意味がない。
 彼がどんな女性とつきあおうと関係ないはずだ。
 そう、こんな風にもやもやした気持ちになるのは意味がない。

 意味がない。
 意味が・・・・・。


「ん?」

 そこでアリスはふと自分の思考のおかしなことに気付いた。
「あれ?」
 私・・・・・もしかしなくても・・・・・嫉妬してる?
「っ!?」

 その拍子に、アリスは動揺して勢いよく立ちあがり、がん、と膝がしらをテーブルにぶつけてしまう。
「っ〜〜〜〜〜」
 両手を握りしめて、涙目になりながら我慢する。自分で思い当たった事実に、更に更に動揺して、アリスは己の頬を抑えたまま、行き場の無い気持ちを弄ぶようにうろうろと厨房を歩き回った。

 恋愛なんてごめんだと、思っている。
 傷つくことしか、知らなかったからだ。

 求められているとも思えなかったし、求めるものに、応えてもらった覚えもなかった。

 それなら、今度は自分が求められるような恋をしたいと思っていた。
 なのに、なのに。

(また・・・・・これじゃ・・・・・)

 ブラッドに求めてしまいそうな自分を見出し、アリスは愕然としてその場に立ち尽くした。
 彼には、恋愛事など似合いそうもない。非常に面倒なことだと、アリス自身思っているから、そんな面倒事に飛び込んでいくようなエネルギーが、ブラッドにあるとは思えない。
 自覚した瞬間に失恋したような気になり、アリスはがっくりと椅子に腰を下ろした。

(いそいそとケーキなんか焼いて・・・・・馬鹿みたいかな・・・・・)
 じいっとオーブンを見詰めて、それから、思わせぶりなブラッドの態度を思い出す。
 それと同時に、月夜に見た彼の真摯な眼差しも。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 遊びなのだろうか。飽きたら捨てられるとか、そういう感じの?



 君と一緒にいたのに、勿体ないだろう?


 不意に耳元で言われた台詞を思い出し、アリスはぎゅっと手を握りしめた。彼は、求めてくれている。少なくとも、今は、アリスを。

(・・・・・期限付きかもしれないけれど)

 アリスはふるっと首を振ると、目の前で焼きあがるのを待っているシフォンケーキを見詰めた。
 これを上げたら、ブラッドは喜ぶだろうか。
 喜んでくれるだろうか。
「判らないわ・・・・・」

 彼は言うほど気まぐれじゃないかもしれないが、本当に気まぐれなのだ。面白ければそれでいい。
 退屈しのぎに大勢の女性と付き合う事もある、と前に漏らしていたのを思い出して、アリスは深い溜息をついた。

 その中の一人、ということで良いのだろうか。

(判らない・・・・・)
 ゲームのように、誰にもばれないように、たくさんの女性をあしらって、彼女達が自分を求め、ブラッドの一番が自分だと思い込んで縋ってくる。それを哂う男。
 最低なゲームだと思う。その手のうちで踊っている女性は、その事実を知っていながらも、彼に惹かれ、彼の一番だと思うのだろうか。他の女とは違う、と。

 そう考えて、アリスは自分にそんなゲームの勝者になるべき素養が微塵もないのに気付き、調理台の上に突っ伏した。
 特に綺麗な顔立ちでもないし、体つきが艶めかしくもない。膨らみもそこそこ、減り方も微妙。その上。

(つまんなかったんじゃないのかしら・・・・・)
 そんな台詞が浮かぶくらいには、アリスも一応色事に関しての知識はある・・・・・つもりだ。満足できたかどうか推し量るには経験値は皆無だが。
(面倒だったんじゃないのかな・・・・・)

 ほら、よく言うじゃない。処女は面倒だとかなんだとかって・・・・・

 思考があらぬ方向に落ちていき、やっぱり自分は本当に気まぐれに手を出されたのではないだろうかと考えだす。
 なのに、「でも」と逆接の言葉を継いでしまうのは、彼が見せた素振りが紳士的だったから、だ。

「う〜〜〜〜〜〜〜」

 割り切るには、彼の態度が気になるし。愛されていると思うには、自分に魅力が足りない。
 一人うんうん唸っていると、遠慮がちに同僚の声が掛り、がばっとアリスはとび起きた。

「あの〜〜、お嬢様〜〜」
「!?」
「焦げ臭いんですけど〜大丈夫ですか〜?」
「!?!?!?」

 大丈夫じゃない。

 転げ落ちるように椅子から降りたアリスは、もつれる足でオーブンへと飛びついた。







「・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 散々迷った。と、いうか、捨てる予定だった。だが、「せっかくボスの為におつくりになったんですから〜」というわけのわからない理由で押し切られて、戻ってきたブラッドを部屋で出迎えたアリスは、焦げたシフォンケーキを彼に披露する羽目になった。
「取り敢えず、見たわよね?」
「は?」
 ぼうっとその焦げたシフォンケーキ(らしきもの)を見詰めていたブラッドに、アリスが溜息交じりで切り出す。意味が取れなかったブラッドの視線がアリスに向く。彼女は明らかにしょげかえった様子で、でもどこかきっぱりとした態度で皿を持ち上げた。
「じゃあ。」
「ちょっと待ちなさいお嬢さん!?」
 持ち上げたそれを、さっさと捨てようとするアリスに、ブラッドが慌てて止めに入った。
「何をする気だ?」
「何って・・・・・捨てるんだけど」
 余りの羞恥プレイっぷりに、恥ずかしいを通り過ぎて泣きそうだ。
(女性としてあるまじき、だわ)
 こう見えてもアリスは、ロリーナに「淑女とはなんたるか」を色々教え込まれてきたのだ。そんな理想の女性像と、自分の本質がかけ離れているのを、ロリーナの仕草を見て、自分の仕草を彼女に窘められるたびに思い知らされて、自分が「そういう女性にはなれない」と知っていることは知っている。

 だが、一応、曲がりなりにも、女性としての矜持だって持っていたりするのだ。

「どうして?」
 とにかく、ブラッドの目にこれ以上曝したくなくて、もういいだろう、と捨てたいのだが、アリスの手をつかんだ男は酷く柔らかい声でそう言った。
(い、言わせる気!?)
 かあ、と頬に血が上る。ぎゅっと唇を噛んだまま、アリスはブラッドから視線を逸らした。
「どう見ても食べ物には思えないでしょ」
「そうか?」
「はあ!?」
 頭が湧いているとしか思えない、お世辞だとはっきり判る物の言われ方に、アリスが急いでブラッドを見た。
 そういう態度が、自分の神経を逆なですると判っていてやってるのだろうか。
「どう見たって、食べられそうもないでしょう!?」
 失敗作なの、失敗!

 ああもう、恥ずかしい。なんだってこんな事を言わせるんだ、この男は!

 喚き、やっぱりそれを捨てようとするアリスの手から、ブラッドは器用に皿を奪い取ると、置かれていたナイフでケーキを割った。
 がり、とあり得ない音を立てて表皮が崩れ、断面からふわりとした生地が顔を出す。
「・・・・・・・・・・」
 器用に真ん中だけ切り分けて、ブラッドが口に放り込むのを、アリスは唖然として眺めた。
 ふむ、と天井を見上げ、租借していたブラッドはにっこり笑ってアリスを見た。
「外見はともかく、中は美味いな」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 開いた口がふさがらない。

 目を丸くし、口をぱくぱくさせるアリスに、ブラッドはだるそうにソファに腰を下ろすと彼女が淹れようとしていた紅茶のポットを持ち上げた。
「まあ?確かに焦げくさくて、紅茶の香りはしないが」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「これはこれで美味いぞ、アリス」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 酸素を吸い込んで、吐きだす。長く長く。そうしてから、アリスはのろのろと足を引きずるように歩き、彼の隣に腰を下ろした。

「貴方って・・・・・ほんと・・・・・おかしな人ね」
 ちらと、皿の上で分解されているケーキを見詰める。耳が熱いのはどうしてだろう。ああ、平熱じゃないからか。
(私・・・・・季節の変化に付いていけなくて熱があるんじゃないかしら・・・・・)
 頭がぼうっとするのもその所為か。

 昼間色々考えていたことが、ぼんやりと脳裏をよぎる。

「本当は呆れてるんでしょう」
 思い出した贈り物の山と、女性の影。「淑女」とはいかないかもしれないが、色っぽい大人っぽい女性がブラッドには似合う。彼女達はきっと、料理も得意だったりするんじゃないだろうか。
「どうしてだ?」
 紅茶を一口飲んで、ブラッドがちらりと横目でアリスを見る。彼女はその視線に気づかず、じっと自分の膝の上の両手を見つめていた。
「私自身が呆れてるから」
「どうして?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 そっと、アリスの頬に指が触れて、彼女はようやくブラッドを見た。彼は柔らかく微笑んでアリスを見ている。
「どうしてって・・・・・これくらい出来ない自分が情けなくて、呆れるしかないからよ」
 そんな風に見ないで欲しい。

 からかわれているとは思えない、まっすぐな眼差し。裏があるのではないかと、とてもじゃないが思えない。
 本当に、自分が彼の大事な者になったような、そんな気がしてしまう眼差し。

「別に私は君が料理ベタでも構わないぞ」
「・・・・・・・・・・」
「私は、料理が得意な女性が好きだと、一言でも言ったかな?」
「でも、普通、男の人はそういうのが出来る女性に魅力を感じたりするんじゃないの?」
 ややムキになってそう言えば、ブラッドはにやりと笑った。
「なら、私は普通じゃなくて良かったよ」
 君が落ち込むのは、君が自身に課したルールに縛られているからだろう?
 くすくすと笑うブラッドの言葉に、アリスは目を瞬いた。
「ルール?」
「女性とはこうあるべきだ、というルールだ」
「・・・・・・・・・・」
「私の中のルールには、そんな条件は含まれていない」
 もちろん、シフォンケーキの定義も色々だ。
 歌うように言われて、アリスは「なによそれ」と思わず吹き出してしまった。
「ここでは私がルールだ、アリス」
 君は、十分に魅力的だよ。

 吐息が掛る位置で言われて、この距離はまずいと離れようとする。だが、いつの間にか背中に回ったブラッドの手に、囲われてしまう。

「ブラッド・・・・・あの・・・・・」
「ん?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 こんなのおかしくない?
 私たちは上司と部下なのに。

 そんな台詞が、アリスの喉でつっかえる。

 言おうとするのに、どうしてか出てこない。

「・・・・・・・・・・お嬢さんは、嫌かな?」
「っ」
「君が自分に課しているルールに、これは違反する、か?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 判らない。
 判らないことだらけだ。
 でも、自分は嫉妬したのだ。
 あの贈り物の山の相手に。彼に自分が一番愛されているのだと、思っているであろう女性たちに。

 私こそが一番だと言いたい。
 彼は、認めてくれないのかもしれないが。


「アリス・・・・・」
 唇を塞がれて、アリスはゆっくりと目を閉じた。身体が震える。思い出す、月夜の晩の、感触を。
 望んでしまう自分に、くらくらしながら、アリスはそっと手を伸ばして彼のシャツを握りしめた。
「埋め合わせを、させてくれ」
 ああ、それとも、褒美、かな?

 くすくす笑うブラッドの低い声。甘い甘い空気に犯されて思考が鈍くなっていく。

(ご褒美・・・・・)

 ああ、そうかもしれない。
 だって私は、どういうわけか、この男に望んでしまっているのだから。

(一番・・・・・愛してくれなさそうな人にこんな思いを抱くなんて・・・・・)
 私も大概、学ばない。

 でも、でも、でも。

(でも、ばっかり・・・・・)
 口付けが深くなる。唇をこじ開けられ、なだれ込んでくる舌に、蹂躙される。押しかえせない。抵抗できない。

「ブラ・・・・・ッド・・・・・」
 かすれた声で名前を呼んで、小さく笑った男に、アリスは抱きあげられるのを感じた。

 溺れていく。
 彼と、身体を繋ぐのがどうしてこんなに心地良いんだろうかと、ぼんやりと夢うつつの気分で考える。

 これは間違い?と首をひねる自分に、彼女は言い訳のように繰り返した。

 でも、これは彼が優しいからけないのだと。




















 なんとなくアリスシリーズは長い無意味なタイトルを付けたくなるという、中二病(笑)

(2009/12/06)

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